第3話

 私は、社内の提案制度を使い「賃貸部のコミッション制移行への試案」と題して、本社に提出する考えを固めた。同期入社の沖田は「提案制度は、あくまでも建前主義や。無難な案件だけ提出しろ。弓削部長の頭越しに、そんな試案を提出したら、中岡……なんぼお前でも潰されるぞ。ほんまに、考え直した方が、ええぞ」と、忠告してくれた。

 私の提案は、弓削部長の頭越しではなく、自らが目を通し、本社に稟議書を出してくれた。稟議が通過するまで時間がかかり、提案の趣旨を伝えるために本社に呼び出された。

 阪神電車に乗り「大阪梅田駅」で、地下鉄御堂筋線に乗り換え「本町駅」で下車する。駅から七分歩くと、大阪本社ビルに着いた。

 本社の第五会議室には、私と弓削部長のほかに常務がいた。

「君が、この提案を思いついた経緯を簡単に説明してくれ」弓削部長が私を促した。

「営業成果と社員の収入が直結しない現況では、モチベーションが上がりません。しかし、逆に社員の退職により、定着率が低下するような過酷な就労環境にしたいとも考えていません。それで、職制の一部を変更し、完全歩合制ではなく固定給に歩合を加味する提案をしました。能力考課にして、営業成果による収益性が向上すれば、人件費の削減を目的とした人員整理の将来的な必要性が低下すると考えました」

 私は、改善提案が認められるように、熱弁を振るった。

「それは、中岡の提案書に書いてある内容を裏付けている。これを叩き台にして、実現可能かどうか、少し考えさせてほしい」常務は肯定的に受け止め、私の立場と状況を支持してくれた。

 説明に時間がかかり、時刻は定時の午後五時三〇分を過ぎ、七時になっていた。

「この後、予定がなければ……。どうや、食事にしないか」

 常務に誘われて、三人でテーブルに着いた。

 中華料理店に入ると、ターンテーブルの前に座った。テーブルには「麻婆豆腐」「回鍋肉」「青椒肉絲」「えびのチリソース煮」「五目焼きそば」が並び、各席の前に取り皿が置かれた。

「中岡は、酒は飲める方か? 一杯どうや? 弓削とは、仕事帰りに飲みに行くのやろ?」

 気まずいムードになった。弓削部長は、事務所までクルマで通勤しているので、宴会以外では、今まで同じ酒の席に着いてはいなかった。

「弓削は、家にはクルマで帰るのか?」

「いや、今日は中岡とここに来るのが、分かっていたから違う。駅からは、歩いて帰るわ」

「そうか、それなら酒も飲めるな」

 弓削部長は、上司に当たる常務に会社では敬語を使っていたが、外に出てから馴れ馴れしい口調で話し続けた。

「紹興酒を頼もうと思ったのでな。どうや、中岡は、中国の酒は飲んだ経験があるか?」

「ええ、まあ大学時代に一度だけですが……」

「紹興酒は、アルコール度数が高くてな。と言っても……、たいした話ではない。一五度前後や。ストレートで飲もう」

 私は、ふだん口にするリキュールの三倍は度数の高い紹興酒を何度もグラスに注がれるうちに、酔いが回り、ぼんやりとした気分になっていた。

 常務も弓削も、上機嫌で饒舌に話し続けた。私は二人が気心を理解しているので、職務や上司の不満を言える仲なのが分かった。私は、事務所にいる時の腹の探り合いではなく、本音の会話ができる関係を羨ましく感じた。本音めかした嘘や、露悪趣味ではない、虚心坦懐な言葉のやりとりに安堵した。

 翌日、尼崎ビルの事務所に出社し、本社での出来事を沖田に伝えると意外な答えが返ってきた。

「今の弓削部長の前任者は酷い男でな。改善提案を全部もみ消していた。自分へのあてこすりやと思うてたのやろな。前任の部長は、退職時は、六五歳やった。年寄りやで……。そんな先の見込みのない男でも、会社を良くする情熱よりも、最後まで自己保身に走っていたのや。弓削部長にしても、常務にしても――同じ穴の狢――や、と思う。弓削部長は、若い分だけ、あとが怖いで……、中岡も、提案なんか……、ほどほどに、しときや」

「そんなに、酷かったのか?」

「そりゃあ、酷いよ。――長いものに巻かれろ――言うよなあ。あれは、ほんまやと思うわ」

「俺は、そうは思えないのや。本社では、常務も弓削部長も、俺に好意的でな。二人で俺を励ましてくれたのやで」

「敵もさるものや。俺の予想では、お前が丸め込まれたのやろ」

 沖田は、私の愚行を戒めた。あくまでも、慎重派の沖田と違い、私は社内改革派の立場を貫いた。――改革派は組織の保守勢力の弾圧を受けて、偉業を達成する前に潰される――と、沖田は指摘する。それが歴史の事実だと……。私には、少なくとも、自分の職場では看過できない理不尽に思えた。

 私が提案していたノルマ制が認められると、事務所内では顧客の争奪戦が勃発した。中には、私が取得した顧客シートに手を伸ばし、横取りして後日、営業をしかけるあくどい者も存在した。八年先輩の田沼は、ガタイが大きく見るからに威圧感がある。私がルール違反を指摘すると、拳骨でデスクを叩きドスの効いた声で脅した。

「少しは、先輩の顔を立てたらどうや」

 私は、勢いに押されて絶句した。

 田沼は傍に、弓削部長の姿があると「どうや、中岡、この客、お前に譲るから営業したらええ」と、顧客シートを私に手渡した。

 私が田沼から受け取るシートの大半は、一目で見込みがないと分かる顧客のものばかりだ。

 ノルマ制が開始してから、同僚たちは本性を出し始め競争が熾烈なものになった。トップだった私の営業成績は落ち始め、先輩たちはクレーム処理などの面倒な仕事ばかり私に押し付けた。

 沖田は「だから、波風立てるなと言ったやろ。企業で成功するかどうかなんか、広い世の中から見たら、たいした話やないで……。少しは立場をわきまえろ」と、クールに批判した。沖田の予言した通り、事務所内の私の立場は悪くなった。

 私は、休みの日を利用して顧客用に「引っ越しマニュアル」を作成した。引っ越し前後の諸手続きや、引っ越し先の公共機関を調べて作成したものを自宅でコピーをとり、ホッチキス止めした小冊子だ。従来は引っ越し後に入居者に手渡していたものを私なりにアレンジして、営業ツールとして焼き直したものである。

 当初、周囲の連中は「今や、インターネットで検索できる時代や。作る手間が無駄なだけや。どうせ、お前のマニュアルは、インターネット情報のカンニングやろ」と、批判し見向きもしなかった。

 田沼は「中岡のやることは、過剰サービスや。時間と金がかかる割に、見返りの少ないアホなやり方やな」と周囲に意見を吹聴し、弓削部長には「一ヵ月やってみて、効果がなかったらあいつに、無駄をしないよう言うてください。コピー一枚にも会社の金がかかっているのをお忘れですか」と告げ口した。

 しかしながら、田沼の意に反して、私の戦術は奏功し一ヵ月間の努力の成果が出て、再び営業成績がトップに返り咲いた。同僚たちは我慢していたが、田沼はだしぬけに怒り出し、私を傲慢だと罵った。田沼は、いつでも急にいきり立つが、波のように、すぐに静まった。

 典型的な瞬間湯沸かし器タイプで、沸騰している間は激しく罵るが、冷めると何事もなかったかのごとく平然としている。

 私は――正々の旗、堂々の陣――で臨んだが、同僚たちは姦計を巡らしてきた。「食うか食われるかだ」と告げると、田沼は自分で非難していた私のやり方を露骨に横取りした。「あっ、中岡の資料やけど、パクらせてもろうたで……」と、田沼は嘯くと「引っ越しマニュアル」のコピーを手に持ち見せつけた。

「田沼さん、あざとすぎですわ。いい加減にしてくれませんか」

「お前の作った資料でも、皆で共有するのはあたりまえやろ。独占排他的いうのは、会社組織で働く者のルールに反するのや」

 私が抗議しても、田沼は鋭い目つきで反論した。

 他の社員たちも、田沼と同様に私のやり方を真似て営業成績を向上させていた。相対的に、私の成績は目立たなくなった。

 ノルマ制以前には、無能に見えていた社員たちが、爪と牙の存在を露わにして、襲いかかってきた。彼らは販売部から異動してきた新参者で、活躍ぶりの目立つ私を目の敵にして、力で押さえつけようとした。

 私が新しい販売手法を実行したり、何か提案しようとしたりすると、巧妙に妨害工作を仕掛けてきた。職場では、相手の権力が小さなものであっても容易には抗えず、正義が勝利するとは限らなかった。

「世の中はなあ。俺のような……、厚かましい者の勝ちや。――憎まれっ子、世に憚る――言うやろ。ほんまに、うまい事できているわ」田沼は、自分の力を見せつけるために公言した。

 私は――鉄面皮――という言葉を思い浮かべ、田沼の面の皮一枚の向こう側にどんな怪物が潜んでいるのかと想像した。

 賃貸部の営業時間は、九時から一九時までだが閉店後の残業で、夜遅くなるケースがあった。閉店時間のギリギリの一九時前に顧客が来た時は、接客にかかる時間だけ帰りが遅くなった。不動産賃貸は、カウンター営業のみで外回りが不要の為、本来なら営業時間外に長く働く必要性はない。

 しかし、顧客志向の方針で例えば「今から行くので、一九時ごろになる」と告げられて、実際に顧客が二〇時に来ても、対応していた。閉店後は、営業日誌の記帳と接客チェックシートの記入、顧客リストの整理をしてから帰宅した。

 多忙が原因で、帰宅後にぼんやりとする時間が増えた。文芸同人誌に投稿する書きかけの小説は、四百字詰め一枚を仕上げるのに手こずる日が続いた。月に一度、休日に集まる会合にも足が遠のいた。小説を書いて切磋琢磨し合ってきた仲間たちは「志を捨てるな」「君の書く小説をまた読みたい」と、メールを送信してきた。

 私が大学在学中に出版した詩集は、詩の賞の最終選考で敗れ、販売部数も些少だったが、根強いファンたちは次作の発表を期待した。それに反して、私はポエティックなものより、ノベルの世界観の広がりに魅力を感じていた。最近では、同人誌には小説を発表していた。一部の同人は、私の描く小説を「女を理想化し過ぎている」と批判し「色事に愛情は邪魔になるし、情熱が空回りしている」と嘲笑した。

 図星を突かれて、私は傷ついた。私は――女の持つ柔らかな感触や、肉体の猥褻なムードよりも、現実離れしたイメージ――を愛していた。甘い空想の延長線上で、共にいる時間を宝のように思った。他者から見ると、自己欺瞞で、子どもじみた感傷に映るのに気づいた。

       ※

 私は心の空隙を埋めて、孤独から逃れる状況を渇望していた。休み明けに来客が少ない日があり、珍しくも、私と菖蒲の退社時刻が同じタイミングになり、一階の出口までエレベーターで一緒に下りた。外に出ると、菖蒲は速足になり、私の先へ先へと歩き出した。

「君は、随分と足が速いけど、陸上競技の選手かなんかなのか?」

「何それ? どういう意味?」

「今、計ってみたら新幹線並みに、足が早いのが分かったけど、来年一月の大阪国際女子マラソンにエントリーしているのやろ? 君の足の速さには、俺でも勝てそうもないわ」

 私は、神妙な表情をしている菖蒲を笑わせたくなった。

「私、そんなに足早くないし……」

「いや、絶対早いよ。俺のお墨付きやで……。短距離でも、全盛期のウサイン・ボルトに圧勝できるよ。菖蒲ちゃんは……、多分、足にロケット・エンジンを搭載しているサイボーグなのやろ? 俺には、すぐに分かった。ピンときたわ。ほんまは、未来から俺を救うためにやってきたのやろ?」

「違うし……、用事があって急いでいるの」と、説明しながら、菖蒲は私の顔を見て笑い出した。

「前から、思っていたのやけど、笑顔が可愛いね。今の笑顔だと、並み居る美女どもにも勝てるよ。菖蒲ちゃんの魅力には降参やろな。美人女優でも……皆、白旗上げるよ」

 菖蒲の笑顔が大きくなり、声を立てて面白がった。

 私は、気持ちが塞ぎそうになると、軽薄に振舞う構えで、神経を回復しようと図ってきた。日中、菖蒲が些細なミスを田沼に咎められて、落ち込んでいるのを知っていた。私は、自分の気持ちを宥めて、あやすのと同じ方法で――ワザとらしい口調で、鈍感かつ剽軽に振舞う奇策――で、菖蒲を楽しませた。表現を誤ると、まずく展開しかねないので、明るくアプローチした。

 私は、中世ヨーロッパでは、宮廷道化師が愚か者のごとく振舞う所作で、王侯貴族のご機嫌をとり、愛されていたのを知っていた。当時の道化師たちは、野暮ったさを強調し、剽軽な仕草を意図的に見せる構えで、身分のある者から用いられていた。私は、自分を軽薄な道化に見せる事で、喜ぶ性分の人間をたやすく見抜けた。

 道化師たちは仮面や衣装で演出していたが、私の道化ぶりを際立たせたのは話術だった。私には、それしかなかった。

「歩く速度が、落ちてきたのが分かるけど……、スピードを上げないでも大丈夫? 俺も、世界を代表するランナーなので、菖蒲ちゃんに、ついていけると思うよ。ほんまに急がないでも間に合いそうかな? 今から海外旅行なら、空港に着くのが遅れたら大変やなあ」

「今から、旅行に行く予定ないし……」

「それやったら、なんで急いでいたの?」

「梅田に出て、大学時代の友達と会って、これから食事する予定……」

「偶然やなあ、俺も、ウメチカで大学時代の友達と会って、食事をする予定。同じ友達やったりしてなあ」

「そんなわけないでしょ。笑わさんといてよ」

「冗談は別として……、いつも、明るくサポートしてくれて有難う。これからも、頼むな」

 私なりの拙劣なやり方で、菖蒲を精一杯に励ました。駅に着き、別れて見送る時に、例えようもない寂寥感を感じた。

 道化師としての私は、菖蒲のお気に入りになった。

 私は菖蒲と休日も街に出歩くようになり、映画・演劇・コンサートに出向き、テーマ・パークでは二匹の子犬のようにじゃれあった。けれども、私は菖蒲に――午後五時の女――のような神秘性を見つけられず、不満に思っていた。菖蒲は、中堅クラスの大学を卒業した入社二年目の社員で、帰宅後にはテレビ・ドラマを見て、人気アイドルを応援し、読書の中心は少女漫画という典型的なOLに過ぎなかった。私は、菖蒲の俗物志向に軽侮の念を感じながらも、笑顔で向き合っていた。

 菖蒲は、私より一歳だけ年下なのに中高生のような童顔で、大人の妖艶さではなく、少女の可憐さが魅力的な風貌だ。カジュアルな装いが、若さを際立たせていて、菖蒲の持つ純情な雰囲気を引き立てている。本人もそれを自覚しているのか、服装も、メイクも、ヘアスタイルも、私が憧れる――午後五時の女――とは好対照だ。

 映画館を出た後で、夕食を楽しんだ。菖蒲との会話は、彼女の嗜好性に合わせるため、明るい男を自己演出し続けていた。

 予め下調べしておいた鰻の美味しい店に寄り、人気メニューのおひつまぶしを二人で食べた。肝吸を口に含み、鰻を一切れ食べ終わったところで、菖蒲と様々な会話を交わした。

「菖蒲ちゃんは、目が澄んでいる。それに輝いている。俺の見立てでは、心が美しい人なのやろな。子どもの頃から、ピュアやったのかな?」

「それはないよ。コンタクトレンズしているし……。それに、子どもの頃にピュアじゃない人っているのかなあ」

「菖蒲ちゃんの言うのも、一理あるわ。そやけど、俺も暇つぶしのために――ひつまぶし――を食べているわけやないし……。コンタクトしていても、目が澄んでいるのが、君の良さを表しているよ」

「そんなものなのかなあ」

「うん、俺はそう思う。さっきの話に戻るけど、菖蒲ちゃんはピュアな子どもやったかな? 小さい頃の思い出で、心に残っている楽しい出来事は……、どんなのやろ?」

「小学生の時に、家族旅行でグァム島に行ったときかな。海ってこんなにも、水が澄んでいて、広々としていて、綺麗なんやなあ……と、素直に感動した。それが、一番の思い出かな」

「俺も、そこに一緒にいたかったな。砂浜に寝そべって景色見たり、そこら中を走り回ったりして、同じ時間を過ごしたかった」

私にとっては、幸福な時間とは――苦行に取り組む行者のような何かを得られないで飢えと渇きのために過ごす時間ではなかった。逆に――たとえ小さくとも、満足できるものを探して、見つけている時間だった。

 賃貸部では、土日が休めずローテーションで、週に平日二日の休日が割り当てられた。菖蒲と私の休日は、たいていの週は、二日のうち一日は同じ曜日になったが、私が月・火の二日、菖蒲が水・木の二日という具合にずれるケースが月に何度もある。すれ違いが多いと、私のイライラは高じた。

 休日、二人で歩いているときに、ロゴマークの入った社用車が横を通ると私は誰が運転席にいるのか確認した。たいていは、営業所の見知らぬメンバーがハンドルを握っていたので、社内で菖蒲との交際を冷やかされる展開にはならなかった。

 菖蒲との最初のキスは、ときめきの時間の長さに比べて、あっという間に終わった。私は人の気配の少ない裏道を歩き、立ち止まると「菖蒲ちゃん」と声をかけ、彼女が振り向いたタイミングに合わせて、虚をついて頬に口づけした。菖蒲が戸惑って、顔を俯けているのを見て、今度は彼女の唇にそっと、自分の唇を押しつけた。菖蒲の唇のふんわりとした弾力を感じた。

 新鮮な果実の味わいではなく、唇に柔らかな感触だけが残った。キスを交わすのが習慣になると、特別なものではなくなり、味気ない行為の持つ俗悪さに失望を感じた。それでいて、菖蒲の唇なしには、物足りなくなり、休日に会うたびに物陰でキスをした。人目につかない場所を探して交わすキスは、私の心に後ろめたい印象を残した。

 菖蒲は時折――あなたは、ほんまに初めて会った日から好きやったの?――と、陳腐な質問を繰り返した。私は、その都度――ああ、そうや――と、答えた。正直なところ、私にとっては、どうでも良かった。

 事務所では顧客が来訪しないときは、暇な時間があった。弓削部長は、バルコニーに立つ女性の過去について「あの午後五時の女やけどな。以前は、喫茶店を経営していて、家族と同居していたのや。それがな、いつの日やったか、公園の掃除に執心し、一度掃き清めたところを何度も掃いているので奇妙に思った」と、情景を想起しながら説明した。

 弓削部長は、咥えていた電子タバコを唇から離し、指の股に挟んで赤い光を見ると私の反応を見た。私は、相槌だけを打ち次の言葉を待った。

 弓削は「一時期は、カメラ片手に道路を走行している白い車を狙って、写真を撮影していたな。その頃は皆『子どもが交通事故で死んだショックで、ああしているのやろ』言うてたわ」と続けた。

「ほんまに、そんな話があったのですか?」

「ああ、ほんまや。交通事故の話は、単なる噂やけどな。えらい、熱心に写真を撮影していたわ」

 私は、女性の気品のある風貌から想像して胸に痛みを感じていた。田沼は「あの女、夜になると、男を招き入れているそうや。相当な男好きやと、聞いているで……」と、馬鹿にした。私は即座に嘘を見抜きつつも、淫らな光景を想像して、頬が熱くなった。

 事務所には――午後五時の女――の狂気を嘲笑う者が大勢いた。

 小説家の芥川龍之介の生母フクは、彼が生後八ヵ月の時に発狂し一〇歳の時に死亡している。芥川は、自分が母親の遺伝で同じ病気を発病しないか――と、将来へのぼんやりとした不安――を抱えていた。精神疾患は、あくまでも病気であり、健常者の害意こそが正真正銘の狂気と言えないか――私は、酷薄な言動に耐えられず、心の中でそう考えた。

 毎週金曜日の午後六時の会議には、賃貸部の営業マン全員の出席が義務付けられていた。各自の営業成績の報告と反省の弁を述べた後で、職場の抱える問題点を一人一人が答えた。大半の社員は、自分の営業成績が目標値に達しなかった理由を述べて、上席のアドバイスを求めた。

 私は、先月までは毎回のごとく、帰宅後の夜間や、休日を利用して考え抜いた改善提案を一つ議題に上げた。それが気に食わないのか、田沼は「それは、ベテランが言う話やで」「金のかかる提案をするな」「そんなに出世したいのか」と、私への露骨な非難をした。

 弓削部長は、田沼の言葉を制止すると「中岡の前向きな意見は評価するし、有難く思っている。皆も、彼を見習って積極的な意見を言うように……」と促した。そんなやりとりが、何度も続いたので、最近では通り一遍な受け答えをするようになっていた。

 会議に出席すると、田沼は臆面もなく私を責め立てた。「中岡は、デタラメな男ですわ。やる気を失って、ダラダラと仕事をしています。私が……何度、注意しても懲りない。中岡は賃貸部のやり方に、不満なのです。ほんまに、呆れます」

 私が顔を上げて「お言葉ですが……、少し説明して良いですか?」弓削の方を向いて尋ねたものの、即座に田沼は「空気を読め、空気を……。空気を読むという言葉の意味ぐらいお前にでも、分かるわな」と、語気を荒げて遮った。

 田沼の言い放つ――空気を読め――は、常に――俺の意に従え――という言外の言葉が含まれていたため、脅迫めいて胸に響いた。

「田沼さんの意見には、思い違いがあるのです」と、一瞬の空隙を突いて、私は声にしたが、田沼は手を上げて制止し、鋭い目で睨みつけた。私には、この時も――厚顔無恥――という言葉が、田沼のために用意されたもののように感じられた。

 そう思う……私自身の内側にも、田沼と同じ厚顔無恥が棲みついているかも知れない――十分な根回しをせず、求められるがまま改善提案をしてきた自分が、実は田沼の同類であるのに気づき、戦慄を感じた。

 善因善果、悪因悪果――と、人は法を説く。

 誰が一体、完全な善人であり、完全な悪人でありえようか……。田沼の行為は、私を貶めるための姦計に他ならないが、それを非難できるだけの力が、自分にはなかった。因果の法則では――善事を行う者は死後に浄土に住み、悪事を働く者は地獄に落ちる――とされている。私は、今まで御伽の物語のようなシンプルな因果律を信じられないでいた。

 反面、目前の状況に打ちのめされた私には、因果律が信じなければならない物事の道理に思えていた。私は、田沼が阿鼻地獄で業火に焼かれ、叫喚地獄で切り刻まれ号泣する有様を想像した。それは、弱者の惨めなまでの力のない抵抗であり、呪詛でもあった。

 会議が終わり、席に戻る途中で意気阻喪している私に対して、沖田は「あんまり気にするな。全員が、田沼さんの意見を信じているわけじゃないやろ。俺も、お前の味方やからな」と、励ましの言葉をかけてくれた。

 私の賃貸部の味方は、恋人の菖蒲と、親友の沖田以外には、数人の女子社員だけだ。大半は、乱暴者の田沼のご機嫌をうかがいながら、私には反目した。弓削部長は、明確には私も田沼も非難せず、具体的な指図もなく「まあな、そう目くじらを立てるな。俺も、考えておくから、急かすなよ」と、取り付く島もない返答を繰り返した。

 賃貸部では、社員の間で囁かれる七不思議があった。一つ目の不思議は、弓削部長や本社の上層部の田沼への処遇である。まず、営業成績は本人の態度の大きさとは逆にあまりよくない。加えて、自分本位で周囲の業務の妨害までする悪質さだ。まさに――憎まれっ子、世に憚る――を地で行くありさまだ。田沼に同調する取り巻きも、実情が分からないままに媚びへつらっている。

 二つ目は、尼崎ビル七階に――開かずの部屋――と呼ばれる謎の部屋が存在する状態である。何に使われているのか、誰も知らない。沖田が弓削部長に問い合わせたところ「さあ、何に使われているのかな……。いつも鍵がかかっているし、中を見られない。俺も、よく知らないのや」との返答だ。

 三つ目は、賃貸部では顧客によるクレームが同じタイミングで起きる現象だ。一つ、何かクレームが起きると、当然のごとく弓削部長は訓示を伝え、社員どうしでも注意を呼びかけあう。勿論、システム上の不備が見つかれば改善される。それでも、同じ時期にクレームが頻出し、収束するとまったくどこからもクレームが来なくなる。毎回、同じミス、同じ客層、同じ社員が原因ではないだけに、何か一つでも顧客から苦情を申し立てられると、続くのではないか――と、嫌なムードが広がった。

 四つ目は、不思議どころではなく、私は恐ろしくて鳥肌が立った。大阪市西淀川区の賃貸物件で、午後六時以降に訪ねるといつも、女のすすり泣きが聞こえる現象だ。いかにも悲しそうに、いつまでも泣き続けていて、声を聴くたびに心底怖くなるのである。大家さんの話では――ここに住んでいた男性が、消息不明になったあとで、水死体で発見された。亡くなったのは、逞しい男性なのに女の泣き声が聞こえるのは奇妙だ――と首を傾げていた。

 五つ目は、社内不倫の現場は事務所の誰かが目撃し噂になる――という。賃貸部の管轄の営業所でよく起きる珍現象だ。既婚の営業所長と入社一年目の女子社員が、歓楽街を二人で飲み歩いていたり、営業係長とオールド・ミスがホテルに入るところを目撃されたり、といった話題が何度かささやかれていた。社内風紀の乱れにつながるとの指摘もあったが、勤務時間外の出来事なので大きく問題視されなかった。

 六つ目は、賃貸部の本拠地・尼崎ビルの近くの民家に――午後五時の女――がいて、毎日飽きもせずに定刻になるとバルコニーに立ち続けている事実だ。午後五時の女は、直接的には賃貸部と関係がないが、よく部内で話題に上った。

 最後の七つ目は、弓削部長の奇癖である。弓削部長は、部内の女子社員や清掃会社のパート主婦、ビルの管理人を誘って昼食を共にしていた。賃貸部員たちは「あれは、弓削部長の道楽や」と冷笑していた。何の得にもならない連中をポケットマネーで接待し続ける奇癖を笑ったのである。どういう目的で続けているのか不明なうえ、弓削に尋ねても明確な返答がないので、七つの不思議の一つとされていた。

 七不思議は、噂好きの女子社員が広めていて、たびたび話題になった。七つ目の弓削部長との昼食会について当事者に尋ねると「ねっ、よく分からないでしょ?」と、思わせぶりに言うだけで、何故なのかについては口をつぐんでいた。菖蒲も、たまに昼食会に呼ばれていたが「目的が分からないの」と、首を傾げていた。

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