第2話
休みの日の小説の創作では、頭の切り替えを必要とした。ところが、原稿用紙に向き合っても、仕事の途中で会う――午後五時の女――のイメージが心の中を占領していた。
原稿用紙に向かいマス目を文字で埋めるのに、私は2Bの鉛筆を使った。2Bの鉛筆だと筆圧が弱くても、さらさらと書けるので、頭に浮かんだ内容を記しやすい。ただし、手が汗ばんでいると、擦れて紙が黒くなる難点があった。それを補うために、コピー用紙でカバーしながら書き続けた。
私の創作仲間は「そろそろ、ワープロを使えばどうや」とか「パソコンのワープロ機能を使った方が便利や」と指摘したが、それでも手書きにこだわっていた。私には、鉛筆で原稿用紙に文を綴る方が、小説家らしく思えていたのも理由の一つだ。
私は、大学時代から同人誌への小説や詩や随筆の投稿を継続していた。毎日、ノートに見つけたネタを書き込み、小説のプロットを考える。さらに、一日に最低一枚は、投稿できるものを原稿用紙に書き溜めるのを習慣にして来た。
同人たちは、お互いの作品を容赦なく批判し合い、腕に磨きをかけていた。私の小説にも「読後に、余韻が残る工夫が必要だ」「主人公の考えに、深みをもたせろ」と指摘が飛ぶ。私も、仕返しのつもりで「物語の脈絡がない」「だらだらと長い文章なので読みにくい」と、他人の作品の批評を書き込んだ。批判は有り難い内容のものもあったが、実際の役に立たないものが散見された。
同人誌の私のライバルたちの作風は様々だった。抽象言語を操り観念的な独特な小説を書く者、サラリーマン生活を身辺雑記風に描く者、自然の暮らしへの憧憬を語り続ける者など、世界観も筆致も人によって随分、違っていた。私は、外貌からはうかがい知れない彼らの内面にある想像力や、考えに触れて楽しんでいた。
私は――午後五時の女――の容姿や雰囲気を感じ取り、あの女性こそ謎めいた存在であり、小説のテーマに最適だと考えた。恋愛ほど人を夢中にさせ、我を忘れさせるものはないが、私の恋愛の形は相思相愛ではなく、片恋という切なく、胸の痛むものだった。原稿用紙に向き合っても、リアルなイメージを想起できず、少しも先に進まなかった。
私は、いずれ――文学の香気漂う作品――や、――油絵の具の匂い立つような作品――と、形容される純文学の秀作を仕上げたい――と、野心を抱いていたが、道程の遠さを実感した。
私は周囲の厳しい要求と、それに伴う精神的な負担が大きい賃貸部の仕事に嫌気がさしていた。胸の内では――このまま、悩みながら仕事を続けずに退職するか、同人誌の会員から脱会し小説の創作を断念するか――二者の間の葛藤が生じていた。
私は鉛筆をとり、「麗しい女神」のタイトルで小説を書き始めた――女は眉目秀麗で誰もが、存在に憧れを抱いた。夕べのひととき、物憂げな表情でバルコニーに立つと、男なら魅了されずにはいられなかった。女の表情や醸し出す雰囲気は、サンドロ・ボッティチェリが描いた「美しきシモネッタ」の肖像画を思わせた。他人から見ると、女は高い知性と美意識とプライドを持ち、満ち足りた暮らしを送っていた。夕刻になりバルコニーに立つと、愛しい人を案じて、心配事のために気が塞ぐ――と、書いたもののそこから後は、何も思い浮かばなくなった。
私が小説の中で――午後五時の女――とイメージで結び付けていた「美しきシモネッタの肖像」は、一五世紀にフィレンツェで描かれたものだ。中学二年生の夏休みに、父の書斎の本棚からボッティチェリの画集を見つけて開いた時に、最も魅力を感じた図版だった。私には、隠微な女の裸体の蠱惑的な姿態よりも、ずっと強く心の内に印象を残した。
絵の中の女性は、気品のある横顔で、どこか物憂げな表情の先に何かを見つめていた。記憶の中のシモネッタは、赤いビロードのショールを肩に巻き付け、宝石のついたネックレスを首にかけていた。
画集の説明では――絵のモデルのシモネッタ・ヴェスプッチは、メディチ家の当主ロレンツォ・ディ・メディチ主催の「大騎馬試合」で、美の女王に選ばれており、多くの画家や詩人を魅了した――と書かれていた。――美の女神ヴィーナス――にも、譬えられたシモネッタは、二〇代半ばで肺結核に罹り、この世を去っていた。類まれな肖像画は、私の目をくぎ付けにし、心の奥深くに錨を下ろした。
私は――午後五時の女――の持つ神秘的な雰囲気に「美しきシモネッタの肖像」と、同じ匂いを嗅ぎ取っていた。イメージの向くままに、シモネッタに似た女性を小説の中で描こうとして、喘いでいた。
私は、発想が枯れていたにもかかわらず、無理やり原稿用紙のマス目を埋めてみた。
――女は、自分の部屋の姿見に、美しい裸身を映した。柔らかな胸や、しなやかな腰のライン、隠微な女陰まで露わにすると、フィアンセの魔法のように身体の上を滑り行く、手指の動きと感触を思い出し、快感に酔いしれた。女はバルコニーに立ち、フィアンセが訪れる日を待ち続けた。フィアンセの優しい視線や、素晴らしい夜を思うと、待ち焦がれずにはいられなかった――私は、書きかけの小説の続きを綴ったものの満足できずに、原稿をビリビリと破り捨てた。
卑猥な言葉を羅列したので、女性を蹂躙した気分になり、自分が情けなくなった。私は午後五時の女に、情欲を感じた経験がなかった。それでも、創作の世界では、それとは裏腹に淫猥な妄想を膨らませ、甘美な世界を描こうとしていた。私は、自己矛盾に苦しんでいた。
神戸市の公民館の会議室で、催される月に一度の文芸同人誌の会合に出席した。かつては、文芸サロンとして広く知られ、大勢の会員に支えられた同人誌だが……「今や、インターネットでなんでも発表できる時代や。会員数が減って、紙面も全盛期の勢いがなくなっている。中岡さんのような若い人に頑張ってほしい」と、編集長は私に期待をかけてくれた。
会合に参加したメンバー二三人の内訳は、私のような二〇歳代が三人、三〇歳代、四〇歳代が一人ずつ、五〇歳代が三人で、あとの一五人は六〇歳以上の高齢者だ。ちなみに編集長は八五歳で、最高齢者は九八歳だ。
編集長の話では――若手の中では、数多くの作品を投稿していた私への期待は高い――という。一方で、会合が始まると誰の書いたものであろうと、容赦なく批判し合った。
編集長は創作に関しては、サディスティックなまでに鋭い批判が飛び交うのを喜び、誰かが痛罵を浴びせると「盛り上がってきたな。ええ調子や」と明るい表情で称賛した。
「そもそも、文学の何たるかを理解していない者が多い。あんたたちは、洋書を何冊、原文で読んだの? 私は、英文の書籍は千冊、仏文の書籍は三百冊読んでいます。だから、発言権があるのよ」
年輩の女性が、自作を批判されて言い返した。
「その通りや。皆、訳本ばかり読んでも作者の正確な考えが伝わらん。他人の小説も、真剣に読む心構えが素晴らしいな」と、編集長は年輩女性の立場を支持した。
各人の小説を批判し合うので、思わぬ創作のヒントや技巧に関する気づきもあったが、議論のための不毛な議論につき合わされて、神経を消耗するケースもあった。
私は、文芸同人誌の会合で受けたアドバイスを参考にして、小説の続きを書いた。――女の暮らしは、唯一フィアンセと会えない日があるのを除けば、あらゆる面で満ち足りていた。毎日、紅茶を飲み、マドレーヌをつまんで上品な口に入れると、恋愛の持つ甘美な喜びを想起せずにはいられない――私は、自分が描くロマンスを信じられない気がした。人間本来の持つどす黒さや、愚かさよりも、一人の美しい女性への憧憬の念を描き尽くしたくて、うまくできなかった。
毒々しいまでの痴態を描くと、私の精神は僅かながらも傷つき、もっともらしく描くと真実味を損なった。私の心の中では――午後五時の女――の本質を洞察できない苛立ちと困惑で満たされ、目で見た現実に相応する文章を紡ぎだせないでいた。私は、虚構と現実の間を行き来しつつも、日常生活をつつがなく過ごす必要性を感じて、自分に突き付けていた。
公民館の開いた窓から外を見ると、空一面に黒い雲が集まり、しばらくしてザァーッと雨が降り始めた。ひんやりとした空気が、会議室の中に入ってきた。窓側の席にいた私は立ち上がると、一つ一つ窓を閉めた。
会合で議長を務めていた編集長は「皆、傘は持ってきているか?」と、問いかけた。参加者のうち、カバンに傘を忍ばせていたのは私だけだった。「晴れ間が見えていたし、雨の心配はしていなかった。天気予報が、外れたのやね」
天気予報では、俄雨になる――と予想していたが……、雨は、会合が終わり外に出ようとした時も、振り続けていた。
――上空を積乱雲が通過しようとしているのか――と、私は想像した。
「ゲリラ豪雨や。嫌な雨やね」と、参加者の一人が嘆息すると、編集長は「ここを出て、歩いて五分のところにコンビニがあるやろ。そこへ行って、傘を買って来てくれないか」と、促した。私は、カバンの中の小さな折り畳み傘を伸ばすと、コンビニに向かって歩いた。預かった一万円札で人数分の傘を買い求めた。
レジで支払いを済ませたところ、雨の勢いが増し、外で雷が鳴り始めた。私は、早く戻りたかったが、少し躊躇して立ち止まった。一度目の落雷に比べて、二度目はピカッと光った後のドカンと響く雷鳴の間隔が短くなっていた。――近いな――と私は直感し、背筋が寒くなった。
雨の勢いが衰える様子はなかったので、外へ一歩踏み出そうとすると、ピカッと光ったのと同じタイミングで、ひときわ大きな音がドカン……と、響き渡った。周囲が真っ暗になった。私は、総毛立つほどの心地悪さを感じた。コンビニ店内は、停電していて、非常灯だけが明るく見えた。コンビニが、テナント入店しているビルの避雷針を直撃したのか――と、私は想像した。
「非常時は、予備電源が作動する設定やのに……」と、店員は首を傾げていた。
停電の影響で自動ドアが開閉せず、店員に誘導されて通用口から外へ出た。公民館に戻り、玄関ホールで全員に傘を手渡した。
「中岡さん、ほんま心配したわ。大丈夫か? 敵国に直撃弾を落とされたのかと思ったな。死ぬほど怖かったわ」年輩の男性は、穴が開くほど私を見つめていた。
私の顔を見ると、編集長は――顔面が蒼白になり、唇まで紫色になっている――と、告げて「君は、そこの椅子に腰かけて、落ち着いてから帰った方がええな」と、案じながら歩きだし、戻ってきたときには、手に缶コーヒーを持っていた。「これでも、飲んでいき」と差し出すと、私に笑いかけた。それが、何故なのか判然としないが、自分の失態への慰めのように錯覚し、心の中で恥ずかしくなった。
私はこれまで、何度も落雷に遭遇してきたが、至近距離で経験したケースはなかった。古代人が落雷を神の怒りや、何者かの祟りだと恐れたのを滑稽に思いつつも、禍々しい出来事の予兆のようにイメージし、怯えていた。
※
私が小説家志望であるのは、賃貸部の他のメンバーにも伝わっていた。仄聞したところでは、彼らは――単なる趣味の延長で、アマチュアの域を超えない――と、考えていたようだ。外面的には、職務に悪影響が出ていないので、誰も非難する者はいなかった。
休み明けに仕事に着くと、生々しい現実に向き合った。文豪・芥川龍之介は「創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、 天命にまかせるより仕方はない」と教えているが、私にとっては仕事でも同様の心がけが必要だった。
仕事では、顧客の入居後のトラブルで、思わぬ展開になるケースがあった。賃貸契約書に暴排条項を記し、説明と確認をしていたのにもかかわらず、暴力団員が入居し他の入居者とトラブルになった。
田沼は「中岡、お前の入居者審査に抜かりがあったからやろ」と、難癖をつけてきた。同僚が困惑しているのを横目に見ながら、足を引っ張ろうとする田沼の性悪さに背筋が凍り付いた。
私はデスクトップ上の業務日誌を確認しながら、応接した相手の様子を思い出し、所得証明書や連帯保証人関係の書類を再チェックした。私の案内内容にも、いずれの書類にも不備がなかった。
私が周辺に聞き込み、契約者に確認したところ、無断で転貸しているのが発覚した。明らかに契約違反だ。
弓削部長は「中岡のミスではないが、頑張って対応してくれ」と告げた。
一方で、田沼は「運・不運も実力や。お前の不運も、お前の責任やからな」と吐き捨てた。
「職場の同僚は、敵ではなくて味方でないとあかん。背後から味方に銃撃される危険があると、前方の敵と戦えないやろ。田沼の言うのも分かるが、中岡の援護射撃してやれるのでないとなあ」と、弓削部長は嘆息した。
入居者の暴力団員には、私が「建物明け渡し」の交渉に当たったものの、男は始終不機嫌そうにしていた。暴力団員の筋肉質な太い首筋から刺青が見える。
「わしにも、中学校に通う息子がいる。息子だけは、暴力団員にしたくないのや。教育をつけて、社会に送り出そうと思っている。あんたが紹介してくれたから、ここに住んでいるのやで……。どうしてくれる。あんたらこそ、生活権を脅かしているのと違うのか」
暴力団員が正論を主張するので、私は困惑した。
「近頃のガキは、ヤクザのクルマと知っていても、わしのベンツに十円玉で傷をつける。おかしな世の中になったものやなあ。なめられたものや」
私が菓子折りを手にして、何度か通っているうちに暴力団員は折れてくれた。
「あんたの根気には負けたわ。契約で決まっているのなら、わしも他所に行かないとしょうがないわな」
難敵が退散した後で、今度は入居者どうしの騒音トラブルが問題になった。
「一難去って、また一難やな。賃貸マンションの入居者トラブルには、波があるのや。続くときは、何件もトラブル続きになるし、何も問題が生じない時は平穏無事が続く。中岡が大変なのも、今のうちやと思うときや」
「ありがとう。参考にしとくわ。そんなものなんやなあ」
沖田は、自分が不調な時でも私を陥れようとせず、何かとアドバイスしてくれた。
「ほな、案内に行って来るわ。自分一人で抱え込まんと、相談してや」と告げると、沖田は事務所の外に出た。
不動産賃貸物件のトラブルは、引き渡し後は管理会社が対応する。それなのに、入居者は、最初に契約した事務所に来て、対応を求めるケースがあった。通常なら、メンテナンスは、管理会社との橋渡しをして手を引くところだ。相談窓口にはなるが、手配は管理会社が行うのが、一般的な流れだ。
しかし、田沼は「何事も経験になるから、中岡にクレーム対応をさせてみたらどうですか?」と、弓削に進言した。弓削部長は、すんなりと田沼の意見を受け入れて「まあ、中岡も、今のうちの辛抱や。ええ経験になるから、やってみてくれ」と、命じた。
梅雨の時期は、カビが発生し何件もの問い合わせがあった。私が窓口になり、電話でカビ対策について簡単に説明した。それでも、納得しない場合は二四時間対応のコールセンターに相談するように告げた。
騒音トラブルは、入居者どうしの感情的な軋轢につながっていた。被害者側は「あの人は、音に鈍感すぎる。人の迷惑を考えずに、子どもに家の中を走らせるし、物を投げる音まで頭に響く。何度、注意しても改善されない」と批判し、加害者側は「幼い男の子に家の中で動き回るなと注意しても限界があるし、健全なやり方ではない。音に神経質なのは分かるが、病的なまでにクレームをつけられても困る」と、自身の正当性を主張した。
弓削部長に相談したところ「加害者側に『今後、騒音でご迷惑をおかけしないように十分注意します』と、念書に書かせて捺印して貰えばええ。それで、解決や」と指示され、加害者に申し出たところ、猛反発された。
その後も、二者の主張は平行線をたどったため、私の提案で騒音測定を実施した。騒音計で測定したところ、子ども部屋のみ60~80デシベルの高い数値が検出された。何回か試した結果、子ども部屋にコルク・マットを敷き詰めると、問題が解決するのが判明した。
加害者側は「うちが迷惑をかけているのやからしょうがない」と、承諾し自己負担でコルク・マットを敷き詰め、騒音問題は決着がついた。クレーム処理でも、力を抜かず対応したので、顧客の信頼を獲得した。それが、次の紹介と成約にもつながり好循環が形成された。
私は営業マンとしての能力を認められ、自社賃貸物件の案内だけではなく、大家と入居希望者の間を取り持つ、賃貸仲介営業の仕事まで任された。大家は賃貸客に厳しい条件をつけてきた。なかには「独身女性専用のアパートなので、男を連れ込まれると困る。品行方正な女性を紹介してほしい」と要望を聞き、契約条項にも記し温厚そうな女性を仲介したところ、半年後に同棲を始め、他の入居者とトラブルになったケースがあった。
営業とクレーム処理の両方を受け持つと、自分の我を通さずに相手の考えを見抜き、合わせつつも同調しない――複雑微妙なコミュニケーション能力が身に着き、今まで視界が利かなかった他人のデリケートな心の襞の扱い方が分かるようになった。
ある日、昼間からアルコールの匂いを漂わせた男がふらつきながら入ってきて、椅子に腰かけた。私は、自分の出番だと思い、率先して応対した。男は呂律の回らない口調で「お前の事務所の前の看板に躓いて、転んでケガをした。どうしてくれるのや」と凄んできた。私は、男を何とか宥めて追い出すのに三〇分かかった。
「俺やったら、あんな奴、五分で追い出すなあ」と、田沼は大きな声で周囲にアピールするように見回していた。
私は、一つ一つの問題を解決していったが、周囲には――スタンドプレーだ――と、見当違いな非難をする者がいた。
「お前は、ちょっと出しゃばりすぎや」と田沼が非難すると、同調者が私の足を引っ張ろうとした。
田沼と仲が良い外大卒の女子社員は、私の前に立ちはだかり英語の難問を言葉にして「まあ、あなたのレベルの頭では、分からへんやろな」と、嫌みな笑い方をした。私は、人を貶める不善のために知識をひけらかす態度に、不気味な戦慄を覚えていた。
女子社員は、田沼が手招きすると、目の前から立ち去った。事務所には、私が良いと言った物事を痛罵し、悪く言った物事を肯定的に支持する者まで出始めた。心が内に向かい自己処罰的な想念や感情を呼び起こし、自分を傷つけたくはなかった。逆に――他人を陥れる言動で失点につなげ、自己評価を高める算段をするのは、器量の小さい悪党のたくらみだ――と考えて、私は自分を宥めるのが精一杯だった。
事務員の菖蒲は「あの子は、自分が見えていないのよ。『触らぬ神に祟りなし』言うでしょ。理由は分からへんけど……、あの子に目を付けられた社員は、皆、会社を辞めていくの。けど……、中岡さんやったら大丈夫やと思う。そやから、あまり気にし過ぎないでね」
菖蒲に慰められて、しばらく自分を情けなく感じていた。しかし、それが、気分を改善するきっかけにもなった。他人のエゴには毒気を含んだものがあり、毒にやられると精神的なダメージにつながる――私は、そう思い直して臨んだ。
菖蒲は、賃貸契約書などの書類に不備がないか、適切にチェックしアドバイスしてくれた。私の誘いには応じてくれるので、昼休みは二人で駅前の飲食街まで出かけて食事をした。私のお気に入りは、味噌ラーメンとミニ・チャーハンのセットや焼きそばの大盛りだが、菖蒲はパスタ店のボロネーゼや、サンドイッチなので意見が対立する日もあった。
大抵は、私の方が折れてパスタ店で、店員に「大盛りでお願いします」と告げた。菖蒲は遠慮なく「ボロネーゼを大盛りにしてもらう人に初めて会った」と、大笑いした。
沖田と三人で昼食すると、菖蒲はよそ行きの話し方をした。私は嫉妬心から、沖田に気があるものと、邪推した。
「今の賃貸部の体制で問題なのは、弓削部長が田沼さんを甘やかしすぎるとこやと思う。おとなしい者には直言するのに、田沼さんに凄まれると、お咎めなしや。あんなものなのかなあ。弱腰すぎるやろ」
「そうね。私も、沖田さんと同じことを思っていました」
「俺も、田沼さんには大分、やりこめられた。きつい人やと思うわ」
「中岡さんが可哀そうです。沖田さんの力で、何とかしてあげられないのですか?」
「あの人は、苦手や。気を緩めていると、俺でもガツンとやられる。被害者は、中岡だけと違うよ」
菖蒲は、沖田が話し出すと身を乗り出し、私が何か言うと目を伏せて赤面した。
沖田の営業成績は、事務所内で上位だったが「一度もトップになっていない」という。悪目立ちしないので、田沼の集中砲火を浴びずにすんでいた。
「もし、ノルマ制を導入したら、どうなると思う?」私は、沖田に率直に質問した。
私は、――接客を嫌い、いつも暇そうにしている社員と、同じ給料なのに不満を感じていた。
「ノルマ制の導入は、うちの会社ではなじまないやろ。親会社の企業イメージがプラスに作用していて、集客力があるからな。業績は、今のままでも、同業他社に比べると悪くはない。誰も、ノルマ制の必要性を感じていないし、相手にしないと思うわ」
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