ロマネスク

美池蘭十郎

第1話

 小説家志望の私が、大学を卒業してすぐに企業に就職したのは、社会経験を積むのを目的としていた。両親は、正業に就かずに――小説家になる夢を追い続けたい――と願う、私の希望に猛反対した。私は、考えた挙句、学生課の職員に相談し、大手商社グループの中堅不動産会社の面接を受けた。縁があったのか、そこに内定をもらい卒業の翌月から働いている。

       ※

 私が――女性――に会ったのは、人事異動が告げられた当日、賃貸部門のある尼崎の事務所を訪れた日の出来事だ。午後五時過ぎに、十字路の角の二階建ての民家のバルコニーに立つ、美しい女性の姿を見つけた。左側から西日を受けていて、薄暗い右半身が私の目に焼き付いた。女性は目を伏せて、生気を失った人形のように動かずに佇んでいた。

 信号が青になっても、横断歩道の手前で立ち止まっていると、見知らぬ老人が話しかけてきた。私が、二階のバルコニーを見上げていると

「綺麗やなあ。ほんまに綺麗やわ。あんな別嬪さんが、うちの近所に住んでいるのや。いつも、五時頃にここを通るのが楽しみや。あんたもそう思うやろ?」

 老人は、嬉しそうな表情で「ええなあ。ええ感じや」と、漏らした。

「まるで、西洋の絵に描かれている貴婦人のように見えますわ」

「うまいなあ。ほんまにそんな感じやなあ。目の保養になるわ。美人は、誰が見ても、ええもんや。そりゃあ、そうと……あんたも、この近くで働いている人か?」

「ええ、そうですね。勤め先は……、そこのビルですわ。いつも、この前を通っています」

 老人が立ち去った後も、何人もの通行人が、民家の二階を見上げると、心地よさそうな表情で通り過ぎて行った。

 女性の住む家は、ロマネスク様式の外観で、縦長の窓の上部は半円形になっていた。女性は、窓と隣り合わせにあるせり出したバルコニーに、じっと立っていた。

 雨上がりのアスファルトの路面は鈍く光り、薄く広い雲がのしかかっていた。私の気鬱な心の中に、女性の姿は不可思議な幻影のごとく、映っていた。

 女性の立ち姿はしなやかで、顔立ちは知的で上品に見え、優美さと物悲しさの両面を併せ持っていた。年齢は、佇まいから推して、三〇代半ばではないかと思った。――美しい人だ――と、私は一目見て憧憬の念を抱いた。

 気品のある女性が……、何故黙って同じ場所に立ち続けているのか――、私には理解できなかった。女性は、はっきりとした美人顔で、肩のラインがか細く、腰は絶妙にくびれ、センスの良い洋服を着こなしていた。様子を見る限りでは、通行人の目を意識しているのか、どうかさえ、判然としなかった。

       ※

 私は――小説家の夢に比べれば、凡俗な仕事だ――と感じながらも、退職する決心がつかず、執筆活動と、不動産営業の両方を続けていた。そんな時に、評判の悪い部署への異動が申し渡されていた。

 大学卒業後の二年間は、販売部門で分譲マンションの営業を担当した。賃貸部に異動になってからの一週間は、先輩社員たちによる実務研修を受けた。私が仄聞したところでは、販売部員たちは、皆「魔の賃貸部」と呼び、労多くして収益性の悪い部署だと見做し、異動を恐れていた。

――魔の賃貸部――の所在する尼崎市は、本社ビルのある大阪市の西部、兵庫県の東南部に位置し、関西の大阪、神戸、京都、奈良へのJRや私鉄各社の直行便が出ているなど、交通至便な立地にある。山間僻地とは違い、阪神間の都市部にあり、通勤にも生活にも不便を感じない場所だ。それでいて、本社配属の社員たちは、私を前にすると大阪の本社から尼崎事務所への異動を都落ちのように捉えて、しきりに気の毒がっていた。

 本社の同僚の誰もが、私への処遇に対して――出世コースからスピン・アウトして、思わぬところへ飛ばされた――と、同情していた。しかも、近年は異動後に――自己都合による退職――を申し出る者ばかりだった。

 私は、そこに白羽の矢が立った。私の元上司は「あくまでも、前向きの異動だ。君の能力を活かせる部門だと判断し、賃貸部長の申し出を受け入れたのや。勘違いせんようにな」と、宥められたものの、気休めにしか聞こえなかった。

 私は、芦屋市の実家から電車を利用して三〇分しかかからないに尼崎市内の社宅に住むことにした。賃料は月額二万五千円と破格に安く、2DKで40㎡なので一人暮らしには、充分な広さだった。難点を言えば、社宅なので職場の同僚と日常的に顔を合わせる点だ。単身世帯が主体だが、手狭な3LDKの70㎡に家族六人で住む世帯もあった。

 社宅には、本社の管理職も住んでいるので、そこは鬱陶しかったが、正直なところ、社会人になってから二年間も、親や弟妹と同居する暮らしを疎ましく感じていた。つまり、家族との同居生活よりは、よほど気楽に過ごせるので社宅住まいを選んだ。

 社宅の外観はお洒落な賃貸マンションで、キッチンや、トイレ、浴室、洗面所のサニタリー・スペース、壁紙の模様、フローリングの床材などを見ても満足した。エアコン、食卓テーブル、食器棚、電子レンジ、洗濯機、テレビ、パソコンまで用意されていて、至れり尽くせりだ。

 洋室には、デスクや本棚も配置されていた。本棚を見ると、前の入居者のものと分かる漫画本が十数冊残されていた。漫画本は、私の好みのものはなかったので処分した。

 社宅の向かいには、小学校があるので平日の昼間に部屋の中にいると、五階の我が家に校庭から子どもたちが遊ぶ、楽しそうな声が聞こえてくる。休みの日に寝坊していると、小学生の大きな歓声に叩き起こされた。最寄り駅まで徒歩で五分しかかからず、スーパー・マーケットも、コンビニも、郵便局も、銀行も徒歩で一〇分圏内にあるので、不便を感じなかった。

 マイカーのミニバンは実家から移し、社宅の敷地内の駐車場を借りている。自転車通勤をしているし、尼崎事務所には、社用車もあるので、マイカーには休日しか乗車しなかった。社宅の管理人は不愛想な中年男で、前を通るたびに睨みつけるように人の顔を見て確認していた。

「あの管理人は住み込みやから、何かと小うるさい。俺も三年目になるけど、目をつけられないようにしているのや。トラブルを起こすと、すぐに本社に連絡が行くから、気をつけるのやな」同じ社宅に住んでいる沖田は、私の顔をまじまじと見つめながら忠告した。

「トラブル言うと……、どんな?」

「社宅の玄関ホールで酒に酔って、小便した奴がおるのや。そいつ、すぐに本社に呼び出されて説教されていた。部屋でカラオケ歌合戦したり、ペットを飼ったりするのも厳禁やな。女人禁制ではないけど、女を部屋に連れ込むと、すぐに噂になる。要注意や」

「玄関ホールで、小便した奴がおるのか?」

「ああ、田沼何某さんの……、ことやで」

「田沼さんが、今でもここにおるのか?」

「いや、他にも色々トラブルがあったので、田沼さんは社宅を追い出されているよ」

社宅から賃貸部のある尼崎事務所には、バスで三つ目の停留所にあたり、自転車を利用すると一五分で着く。

       ※

 研修期間中は、自社保有の賃貸マンションを見学するために外に出た。夕方になって、事務所近くの十字路にたどり着くと、いつも女性は何をするともなく、美しい装いで二階のバルコニーに立っていた。

 何度か前を通り過ぎているうちに、女性が姿を現すのが決まって午後五時で、一五分後には家の中に、姿を消しているのが分かった。私は、女性が何人の家族と暮らし、どんな趣味を持ち、何を楽しみにしているのか、想像してみた。

 どう思い描いても、女性には生活臭というものがなく、この世の存在ではないかのように、欲得や打算とは無縁の暮らしをしているかに見えた。

 研修では、社用パソコンの扱い方や、顧客をクルマで送迎する際の注意点、賃貸物件の特徴などを学び、すべてノートをとるように指示された。販売部門に比べると、手間のかかる仕事が多く、顧客層もかなり違っていた。

 不動産業界では、一年中で入退去の多い繁忙期は、一月から三月の期間である。この時期は、引っ越しシーズンの只中で、部屋探しやリフォームの手配で多忙を極める。分譲マンションのように完成後の引き渡しで入居時期をコントロールできるものではないので、賃貸部では猫の手も借りたいといった状況だ。

 私が、中途半端な二月に賃貸部に配属されたのも、そんな背景があった。

「ええか……、クルマで案内する時は、粗相のないようにな。賃貸物件は、分譲と違って、客質を選びにくい。低所得層で素性の分からない……、質の悪い客が訪ねてくる。何かあったら、すぐにでもケータイで電話するようにな。くれぐれも、喧嘩したらあかんで」

 私のOJTを担当した沖田宗太郎は、注意を促した。沖田は、私と同い年で同期だが、入社と同時に賃貸部に配属されていた。小柄ですばしっこく、要領の良い男だ。周囲との軋轢を嫌いながらも、私に対しては基本的な事柄でも、遠慮会釈なく忠告した。

 沖田は……、本人の弁によると、関西では二番手クラスの国立大学の四年生の時に、親会社の商社を始めとして一部上場企業を中心に数多くの面接を受けていた。Webテストは高得点で、面接も一次、二次までは通過し、最終面接まで受けた先があったが「何故か分からんけど、不合格やった」と、首を傾げていた。計算が早く、頭の回転も良いので、優秀な社員であるのはすぐに分かった。

 研修後、私には、一ヵ月に五件のノルマが課せられた。加えて、入居者のクレーム窓口を任された。賃貸部長の弓削美智雄は「中岡には、販売部からのお墨付きで異動してもらったのや。幹部候補生やから、それぐらいは頑張らんとあかんな」と、持ち上げた。――人は努力したプロセスを褒められると成長し、能力を褒められると不安が増すのではないか――私は、これまでそう考えていた。

 弓削の励ましは、私には虚しく響き、覚悟を求められているのを辛く思っていた。私は周囲の期待値が大きい割には、賃貸部の仕事の全体を見通せない自分に苛立ち、不安を感じた。不安を解消するには、身体を動かして深刻に考えない生活が一番だった。私は、毎日身を粉にして働いた。人事異動の対象になった屈辱感と、販売部の連中への対抗心が行動に駆り立てていた。

 弓削部長は、取締役賃貸部長なので本社の会議などで、尼崎事務所にいない日もあった。弓削は、小太り体系で、白髪頭を短くしていて、服装は紳士服チェーン店の吊るしのスーツを愛用した。ダンディーとは言い難いが、ネクタイは毎日取り換えて着用していた。柔和な語り口で、宥めるように話しかけるので気が弱そうに見えた。

 事務所では弓削部長が所長を兼務していて、職制上の部長の直属の部下は、評判の悪い田沼陽次課長だった。田沼は、弓削部長とは対照的にブランド物のスーツやネクタイを愛用し、コロンをぷんと匂わせていた。田沼は事務所内では、もっとも背が高く、筋肉質な体形で、見るからに威圧感があり、太く低い声で不機嫌そうに話すので、若手の社員の中には、敬遠する者が何人もいた。

 尼崎事務所のあるビルから、歩いて数分のところの公園に、ソメイヨシノが二十数本も立ち並び、四月に入ると桜の木は黄緑色の楕円形の葉を伸ばし、絢爛たる花を開いた後で、花吹雪を舞い散らせた。仕事の要領を覚えた私は、明るい陽光の中でクルマを走らせ、多くの顧客を物件案内し、成約に結び付けた。

 私は事務所の期待に応え、大勢の顧客を賃貸マンションに案内したため、異動して三ヵ月が経過した五月の連休明けには、営業成績が賃貸部全体のトップに躍り出ていた。

 顧客の中には、連帯保証人が見つからなかったり、源泉徴収票の提出を求めた後で審査に落ちたりして不満をこぼす者も多く、そのたびに気を揉んだ。私は顧客の立場を尊重し、同調しつつも、譲れない部分は丁寧に説明する構えで、難局を乗り切った。

 部内で実力が認められ、気難しそうな顧客が来ると、私に回されたが、なんとか工夫して成約に結び付ける都度、弓削の信頼は厚くなった。

 成約率が高くなると、物件案内、入居者審査、申込書の取得、重要事項説明、契約手続き、引き渡しの一連の手続きにも時間をとられるため多忙を極めた。私は、案内のために外に出て、午後五時にバルコニーに立つ女性の姿を見るのが楽しみになった。タイミングが合わず、女性に会えない日が続くと、悲しい気分になった。

 尼崎市民は、同じ兵庫県民でも西宮、芦屋、神戸の市民とは異なり――お調子者だが計算高い――とされる大阪人気質に近く、親しみやすいが……、侮れない人たちだ。そうした中で――午後五時の女――は異様なほど、気品のある佇まいを見せていた。私には、女性が異世界の崇高な存在に思えた。

――午後五時の女――は、派手なパフォーマンスをするでもなく、何事かを主張する様子もなく、ただ物憂げな表情で、そこに立っていた。私の恋心は、叶う当てのない儚いものに感じられた。泉の水面に映った自分の姿に恋をしたナルキッソスのように、私は――午後五時の女――に……、自分が投影したイメージに、恋焦がれていた。

 賃貸マンションは、事務所の二階でのカウンター営業なので、来客のタイミングが合わずに、午後五時に憧れの女性の家の前を通らないと、その日は会う機会を失う。そういう日が続くと、もやもやした気分が残り意欲が減退した。

 そんなある日、年輩の女性社員が定年退職した。弓削部長は「中岡の歓迎会を……、まだ賃貸部では、やっていなかったので、早苗さんの送別会と合わせて、来週月曜日に歓送迎会をしようと思う。都合の悪い者はいないか?」と、朝礼の時に問いかけた。周りを見回したが、誰も挙手しなかった。

「おらへんようやな。ほな、くれぐれも、月曜日の夜は、予定作ったらあかんで」弓削は声を大きくして告げた。

 賃貸部は尼崎ビルの事務所を拠点にして、尼崎・大阪エリア、神戸エリアに分かれて、各地に営業所を配置している。歓送迎会は、尼崎・大阪エリアのメンバーの中で事務所勤務の四八名が参加した。

「尼崎フォーティー・エイトのメンバーの早苗さんが抜けることになりました。メンバーでは、センター長を務める、みっちゃん……、つまり……わたくし、弓削美智雄としても残念です。どうか、早苗さん、会社のことは嫌いになっても、わたくしのことは嫌いにならないでください。ほな、頼んだで……、早苗さん」弓削部長が挨拶すると、全員が一斉に幸せそうな表情で笑った。

「中岡のことも、言ってやってくださいよ」と、沖田が声を出した。

「あっ、そうそう。天才とも……、バカボンとも呼ばれてきたほどの……、この、わたくしが、肝心な事柄を忘れるとこやったな。皆さん、ご存じの通り中岡が、二月にこちらに来て、期待以上に活躍してくれています。ほんまに、有難いですわ」

 宴会の席順は、歓送迎会の主役として、私と早苗さんが上座に座らされ、女子事務員では人気ナンバー・ワンの楢崎菖蒲が酒を注いだり、挨拶のときにマイクを手渡したりと、何かと面倒を見てくれた。

 私は日本酒を随分飲んだために、身体が重くなっていた。

 菖蒲は、私の肩に触れて「中岡さん、大丈夫なの?」と、何度も気遣ってくれた。

 宴会は盛り上がり、二次会はカラオケ・ボックスに出向いた。弓削部長は、菖蒲にアメックスのプラチナ・カードを預けると「これで、支払っておいてくれ」と、指示し先に帰った。幸いにも、私に批判的なメンバーは誰も近づいて来なかった。

 宴会に参加した四八名とは、中華料理店の前で解散し、二次会には一七名が参加した。カラオケ・ボックスでは、くじ引きで、九名と八名に部屋が分かれた。別室になった沖田は、途中で顔を出して「どうや、盛り上がっているか?」と、尋ねた。私は気遣いに感謝し「お陰様で楽しんでいるよ」と答えた。

 皆に囃し立てられて、早苗さんと一曲、菖蒲と一曲、早苗さん・菖蒲の両手に花の状態で一曲、デュエット曲をリクエストされ、満足げに歌いきった。私は、心のどこかで違和感を抱きながらも、賃貸部の理想の社員を演じていた。

 歓送迎会でも二次会でも、私のグラスには誰かが酒を注ぎ足して、満たされていた。私の席に来ると「中岡、お前も男やろ。グイ―ッと飲み干せ。ほら、グィーッとや」と、たびたび、一気飲みを促された。

 翌日、いつもより遅く目を覚ました。頭痛や胃のむかつきを感じた。――それは、私が今を生きている事実の証しに他ならなかった。薄ぼんやりとした意識がはっきりしてくるにつれ、漠然とした不安の原因が田沼課長であるのに私は気づかされた。

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