第6話

 冬枯れた樹木の立ち並ぶ歩道の上を羽毛服やコートに身を包み、肩をすぼめて歩く人たちが行き交い、車道ではタクシーや商用のトラック、商談に向かうビジネスマンを乗せたクルマが先を急いでいた。見慣れた光景だが、師走の街では特に慌ただしく目に映った。

 一二月も下旬になると、どこでもクリスマスの装いで商店街は賑やかになった。クリスマス・キャロルを聴きながら、街の中を歩いていると、子どもの頃はクリスマスから正月を迎えるこの時期が、一年中でもっともワクワクしていたのを思い出した。

 菖蒲にクリスマス・プレゼントを手渡すために、大阪に出て百貨店に出向いた。天井に届きそうな大きなクリスマス・ツリーに、数えきれないオーナメントが装飾され、トパーズやルビーや、エメラルドの色に点滅する電飾が、ここに来る客の足を止めさせていた。

 店内を見て回りながら、菖蒲が喜びそうな商品を探した。金に糸目をつけたくなかったが、高価なものを手渡しても、菖蒲が戸惑いそうな気がした。プレゼント候補は、カシミヤのマフラー、ブランド物のポーチ、トパーズのネックレス、ブリザーブド・フラワーなど、次々と見ているうちに目移りした。どれも魅力的に見え始め、菖蒲が手にすると似合いそうな気がした。カシミヤのマフラーにしようと決めたものの、何種類ものデザインのどれが菖蒲にピッタリなのか想像しているうちに、迷って時間を費やした。

――奇抜なものは、似合わないし失望させてしまう――と考えて、無難にタータン・チェック柄のマフラーを選び、ラッピングしてもらった。

 クリスマス前の休みに、菖蒲を呼び出してプレゼントを手渡した。菖蒲は私の渡したプレゼントの包みを開ける前に、喜んでくれた。普段よりも一層、笑顔が大きくなった。宴会の時に、ふと……、弓削部長が「うちの嫁さんは、ちゃっかりしているで。この前の誕生日にイヤリングをプレゼントしたら、あんたは趣味が悪いから、お店に返してきて……言うのや。ありえないやろ? おまけに、次からのプレゼントは、百貨店の商品券にするようにして――と、偉そうに俺に指図する。色気もなにもない」と、こぼしていたのを思い出した。

 高層ビルのレストランから夜景を見ながら、シャンパンで乾杯していると菖蒲は、そわそわして見えた。

「お返し……何にしようかな。ねえ、慎吾君は、何かほしいものある?」

「別にいいよ。俺は、人からもらうプレゼントに難癖をつけないし、リクエストもしない主義や。強いて言えば、原稿用紙かな。あと……、三菱鉛筆のハイユニの2Bの鉛筆がええな」

「今どき? 普通はパソコンかワープロで原稿書くでしょ。長編書いたら、指が痛くなるし、効率が悪い。慎吾君、悪筆やから、見る人も困るやろと思うわ」

「悪筆? よくご存じで……。俺は古風やから、執筆スタイルを崩したらあかん。それだけで、書けなくなりそうや」

 私は、シャンパンのグラスを重ねて酔いが回っていた。すでに、一端の小説家になって、恋人に自慢している気分になり、すべてが心地よかった。私は年下の菖蒲に対して、甘えたい心境になっていた。

「菖蒲ちゃんは、誰かにうまく甘えられるか? というか……、最近は、誰かに甘えているか?」

「なんで、そんな話をするの?」

「ちょっと、気になったものやからな」

「意味が分からない」

「人は、孤独に生きていけない存在やからな」

「なんか、キザやね」

「そうかも知れないけど、なんかあったら相談してな」

「分かった。そうするわ」

「菖蒲ちゃんを……、好きになってもええかな」

「ええよ。けど……、今さらなんで聞くの?」

「なんかなあ。菖蒲ちゃんと一緒にいると落ち着くねん。大げさに言うとな――人生が充実しているなあ――と、思えてくる」

 私が、正直な今の気持ちを伝えると、菖蒲は「ちょっと……」と、私に声をかけて左の肩に頭をのせた。

「こうしていると、私も……、気持ちが落ち着くから、動かないでね」

 私は、手持ち無沙汰になり、じっとしてはいられない心境になった。反面、目を閉じて私の肩の上に頭をのせている菖蒲の姿がいじらしくなり、そっとしておいた。菖蒲は、私と共にいる安心を肌で、感じようとしている――と、思った。菖蒲は二〇分も、頭をのせていた。

 禅僧のごとく――肩を揺らすと、警策で打ち据えられるのを覚悟し、動かずにいた。退屈になった私は、頭の中で菖蒲との思い出を数えていた。

 数日後、会社を出ようとしたときに、菖蒲に呼び止められ紙袋を手渡された。帰宅後、中を開けて見ると、手編みのミトンの手袋と、2Bの鉛筆1ダース、原稿用紙五〇枚が入っていた。クリスマス・カードには「この間は、楽しかったわ。お陰様で、お料理もお酒も美味しくて素敵な時間を過ごせました。ありがとう」と、記入されていた。

 いつも、二人でいる時は、関西弁で会話しているので、随分よそよそしい表現にも思えた。

       ※

 年の瀬の大晦日から三が日は引っ越し業者も休みなので、必然的に事務所も年末年始の休暇に入る。慌ただしい一二月でも、賃貸物件の入退出は予想以上に多かった。急な転勤など、やむを得ない事情で賃貸物件を探す顧客は、気が立っていて扱いにくいケースもあった。正月を新居で迎えたい――という強い思いが原因で、対応を急かされても、手抜きをするわけにはいかなかった。

 私が電話をとると、相手は話し始めから物凄い剣幕でまくし立ててきた。

「先月、転居した者やけどな。敷金を返してくれる契約やのに、まだ入金してない。どういうこっちゃ。それに、修繕費の請求が高すぎるぞ。お前とこで、紹介してもらって入居したのやから、何とかしてくれ」

「分かりました。事情を確認したいので、お客様のお名前と、先月まで住んでいた家の住所を教えていただけますか? あっ、それと、確認後の連絡先は、今番号表示されている〇〇〇―〇〇〇〇の電話番号で、お間違いございませんでしょうか?」

 大家と元賃借人の間の板挟みになり、困惑して時間を延ばすと、クレームが大きくなるケースだ。電話を切った直後に、大家に確かめた。

 大家は「ちょっと、待ってください」と告げた後は、しばらく無言で事実確認をした。

「えらいすんませんなあ。うちの手違いで、お客さんの敷金……、入金していないようですわ。ほんま申し訳ない。気をつけます」

「今後は、同様のミスがないように、ちゃんと確認してください。頼みますよ」

 同様のトラブルが続くと、気が滅入る日もあった。私が、無理難題を言う契約者をうまく宥めて解決しても、評価は上がらず、徒労感だけが残った。

 私が、クレームに対応して解決に導き「ああ、良かった。ほっとした」と、思わず言葉にしたのを見咎めて、田沼は「それが、できるのがあたりまえのこっちゃ。一服ついている暇はあらへんぞ」と、大きな声で恥をかかせた。

 哲学者のショーペンハウエルは著書の「意思と表象としての世界」で――盲目的な意志は、絶えず欲求を生みだし、人を常に不満足の状態におく――としている。私は、田沼の盲目的意思に阻まれて、実務に支障がでているのを最も、不満足に感じていた。それでいて、解決策を見出せないでいた。

       ※

 忘年会は、本社と合同で行われた。宴会の席の序列は、販売部のメンバーが賃貸部よりも上座に位置付けられた。したがって、私の席は昨年の忘年会よりも、下座に移されていた。百畳敷きの大宴会場では、金屏風の前にマイク・スタンドが立てられて、幹事の二人が司会進行役を兼ねて立っていた。各席の座布団の前には、お膳が置かれていて、私が自席に着いた時には既に数人が座って、入り口の方に視線を向けていた。

 宴会が始まると、社長が皆の前に立ち、一年を振り返り社員たちに労いの言葉をかけた。社長の挨拶が終わると、司会進行役から指名された専務が前に出た。各自隣席の人のグラスにビールを注ぎ合い、専務の「乾杯」の号令で、一斉に各々が近くの席の者とグラスを鉢合わせた。

 若輩者は、宴会の席では座布団を温める暇もなく、上司や先輩のグラスや盃に酒を注いで回れ――と、要求された。私は、賃貸部だけではなく、販売部の上席を回り、酒を注いだ。社長や、専務などの役員席には、いつになく張り切っていて明るい声の田沼が酒を注いで回った。

 田沼は、取締役販売部長の席の前で振り返り、私に向かってちょいちょいと指を曲げると、手で道筋を示すように、自分の方に来るように示した。指図された通りに、宴会場の真ん中を進むと、田沼は露骨に「あほか、お前は……、上席の後ろから回ってこいや」と大きな声で非難した。

「はい、すみません」私は表面的には、従順を装っていたものの、内心では――公衆の面前で恥をかかせる田沼の配慮のなさ――に対して、怒りと失望を感じていた。

 販売部長の席に着くと「中岡は、こんな頼りない男ですわ。まあ、賃貸部では私が、面倒見ていますから、心配しないでください」と、田沼は嘯いた。

 社員のうち、課長以下の社員は宴会芸を披露すべく、この日のために準備と練習をしてきた珍芸を全員の前で熱演した。私は、沖田と組んで漫才を演じた。台本は私が書いて、ツッコミを沖田が担当し、難しいボケ役をやった。

 素人のヘタな芸でも、忘年会では一つの演目が終わるたびに、拍手喝さいと声援を浴びた。

 菖蒲は、白馬の王子役で、姫様役も同僚のOLが演じた。私は、舞台に目を向けながらも貸衣装代に出費がどれだけかかったのか――芝居と無関係な瑣事を考えて、物語の流れが途中で分からなくなった。

 田沼は、安来節の民謡に合わせて、数人のグループで「どじょうすくい」の演目をやり始めた。笊で鰌を掬い、腰にぶら下げた籠に入れる男踊りを剽軽に演じていた。絣の着物を身にまとい、手ぬぐいを頭に巻き、股引を履いた田沼は、鼻あての一文銭をつけていた。私は、姿かたちが滑稽に見えて、腹を抱えて笑った。

 宴席では他のメンバーも、笑い高じていたが……、田沼は、私の席にどじょうすくいのいでたちのまま近づき、ドスの効いた声で「馬鹿にするな。覚えて置けよ」と、恫喝した。そこまでの和やかな雰囲気が、私にはおぞましいものに変化していた。

 弓削部長は販売部長の向こうにいて、監査役と親しそうに話していた。忘年会の会場の料亭を出ると、外では牡丹雪が降っていた。首筋に夜風を感じて、心細い心境になった。

 二次会は、参加者が複数のグループに分かれた。私は賃貸部のグループに田沼が残っているのに気づき、販売二課の元同僚の十数人と行動を共にした。ウメチカを歩き、カラオケ店を見つけて入った。本社でも、賃貸部の属する尼崎事業所でも、二次会はカラオケが定番になっていた。

 販売二課には、カラオケ狂と呼ばれるほどの強者がいて、何曲も歌い続けてマイクを独占する大学の一年後輩がいた。といって、歌が上手いわけではなく、かなり音痴だ。後輩がたどたどしく歌い始めると、周囲は皆、大笑いした。すると毎回、後輩は笑われたのに気を良くして何曲も歌い続け、周りが辟易していた。

 私も本社勤務のころに、カラオケ店で二度ほど同席した経験があった。毎回、同じパターンで二次会は終わる。賃貸部に比べると、本社の販売部は――平和な人たちばかりだなあ――と、実感していた。賃貸部はノルマ制の導入後も、競争原理がうまく作用していなかった。田沼は、幼稚な足の引っ張り合いを曲解して「足の引っ張り合いこそが、競争社会の長所や」と主張して、自分に有利に導こうとした。

 一方で、ノルマ制の導入以来、田沼が所属長を務める賃貸部賃貸一課は、全体の底上げにつながり、業績を伸ばしていた。皮肉にも、同じ課に属している私だけが、異動した当初に比較して営業成績が低迷していた。

       ※

「お前は、おとなしそうに見えるのに、正義感が強すぎるから、あかんのとちゃうか」

「俺が……おとなしそうに見えるか? ほんまに、そんな理由で見くびられると、思っているのか?」

「そやなあ、人は、見た目で判断するからな。内面がどうかやなんて、深く考える者はあんまりおらん。静かに事を荒立てない方がお前の為やで……」

「田沼は音無の構えで、倒せる相手とは違うやろ? 少しは、抗弁しとかないと、ええ気になって、皆が迷惑する」

「それも分かるけどなあ……、中岡の見た目や話し方には、威圧感がないから、見くびられるのは仕方がないな。お前に不良社員と同じトンがり方が、できるとは思われへんわ」

 さすがの田沼でも、普段からトンがっている社員や、何かと小うるさい社員には、強い態度を示していなかった。

 私の見た目は、中肉中背なので、小柄な沖田の隣に立つと、かなり大きく見えた。それでいて、風貌は沖田に比べても押しが弱く、優男に見られた。私は、鏡や写真で自分の姿かたちを客観視しても、飛び切りのナイスガイではないのを自覚していた。

 何故なのか判然としないが、私は子どもの頃から、同級生の女子に告白されたり、遊びに誘われたりしてきた。小学生の時は、校庭や帰宅途中の道で「私、中岡君が、好きやねん」と告げられ、中学生の時は毎日のように「一緒に帰ろう」と話しかけられ、高校生の時は携帯電話の番号の記されたメモを手渡され「電話してきてね」と、催促された。

 意中の女性が、自分の後ろを歩いているときに、私の尻の辺りに視線を向けているのを感じたり、薄着の女性が半そでシャツの裾を引っ張ると胸の膨らみが誇張されたり、私と話している時に唇を頻繁に舐めたりする……、女性たちの立ち居振る舞いが気になっても、自分から声をかける勇気がなかった。

 女性に対して内気だった私は、滅多には誘いにのらなかったので、大学生になるまで交際相手はいなかった。私は、長い間、周囲の同年代の男は皆、自分と同じように女性から告白され、誘われているものと考えていたが、社会人になってから違うのに気づいた。

 私の思う、モテない――は、特定の恋人を持てない――の意味だったが、大半の男が口にする、モテない――は、異性に見向きもされない――を意味していた。

 本社の同僚と恋愛談議になった時に、話がまったく噛み合わず、私の経験談を過不足なく伝えると、何故か厭味ったらしく、受け止められた。私の印象では、女性は大胆かつ繊細で気まぐれな存在だった。

 私の見た目に対する同性の評価は、高いものではなかった。

「経理部の女の子に、お前との仲を取り持ってほしいと、言われたのや。前にも、他の子に頼まれた。どう見ても、中岡は平凡な顔立ちや。お前の容貌で、お前がモテる理由が分からん。秘訣があれば教えろや」

「特に……、何もしていないし、秘訣があれば自分が教えてほしいぐらいや」

「うそつけ。隠し立てするな。何かあるやろ。そやないと、俺でもおかしいと思うわ」

 私は、関西では難関とされる私立大学を出ていたものの、社内では自慢できるほど珍しくはなかった。逆に、もっと上位の学歴の社員が、何人も在社していた。女性たちは、私が由比正子に憧れたように、何か自分の実態以外のものに思いを寄せている――と、想像した。

 おとなしそうな見た目と、実体の伴わない女子社員からの高評価、身分不相応な正義感が重なれば、私でなくても、迫害されるのが――漠然とだが……、イメージはできた。

 私は、とうとう田沼課長の暴虐に対して、堪忍袋の緒が切れた。本社のコンプライアンスを担当する法務部に「賃貸部内のパワハラ問題に対する考察と提言」と題して、申し立てをする準備を進めた。

 沖田は「長い物には巻かれろ――言うやろ? お前は、処世術言うものを知らんのか? 下手な出方をしたら、この先の出世を望めなくなるやろな。俺は、反対やな。武装蜂起は一人でするものやないで……。といっても、俺や……数人の社員を味方につけても、たいして変わらんやろ? どや、労働組合の委員長に相談してみたらええのとちゃうか」

 私は、思想的に労働組合とは相容れないと考えていたが、背に腹は代えられなかった。連絡先を聞くと、昼休みに労働組合の窓口をしている書記長に電話した。書記長は、私が一通り、状況を説明するのを黙って聞いていた。

「中岡さんの置かれている状況は分かりました。そやけど、まずは決死の覚悟であんたの言う――賃貸部内のパワハラ問題に対する考察と提言――を法務部に自分で提出してから、反応を見て、どうするか決めましょうや。組合は、残業手当の未払いへの抗議や労働時間の短縮には対応できるけど、管理職のパワハラいうものは、簡単には扱えませんのや」

「そこをどうにか、できませんやろか? 組合では、どうにもなりませんか?」

「まあな、委員長に相談してみるけど、どうにもならんやろな」

 書記長の冷静さが、冷酷な宣言のように聞こえ――私を突き放し、犠牲にして、結果だけを報告させ、何かを掠め取ろうとしているのではないか――と感じて、失望した。

 夕方になってスマホが鳴動したので、出ると労働組合の委員長からの電話だった。

「さっきは、すまなかったなあ。書記長の言うのは、基本的に間違いやないけど……。中岡さんの置かれている状況を確認させてほしいのですわ。あんたの言う、提言書も目を通しておきたい。今晩でも会えませんかね。予定はどうです?」

「午後六時以降なら、何とか都合がつきそうです」

「ほんなら、午後七時に阪神電鉄の『大阪梅田駅』の西口改札横のきっぷ売場の辺りで、待ち合わせしましょうや」

 私は、委員長に誘われるままに、西梅田にあるイタリアンレストランで夕食を共にした。料理は前菜、パスタ、デザートの順で運ばれてくる。委員長は、ワインは値段の割に美味とされるアルゼンチン産のものをオーダーした。

 香りがよくフルーティーなワインの味を堪能しながら、絶品のパスタをフォークに巻き付けて口に入れているときに、堅苦しい会話は無粋だな――と思いながらも、私は今までの経緯を説明した。

「政治的には、自由主義寄りの考え方で、与党政権を支持してきました。そんな自分でも、組合は味方してくれるのやろか? そこが、気になっていました」

「あのな、会社の労働組合は、社員のためにあるのやで……。そやから、政治的な立場は関係なしに応援できる。そこは勘違いせんといて……」

「そんなものなのですかね」

「社長は別として、副社長や常務、それと重役二人が労働組合の役員をやっていた。ここだけの話やけどな。組合員の投票で選ばれるさかい、仕事のできる者が、今まで選ばれてきたのや。そういう意味で、オーナーもようできた人や。無理難題を言わん限りは、従業員全体の実情を考慮してくれるのや。ええ会社やろ」

 私は、労働組合に対しても、実像ではなく虚像を見て、イメージを膨らませていたのを恥じた。

「階級闘争とか、物々しい話ではないのやけどな……。まずは、雇い主と従業員のWin―Winを模索するのから始めなあかん。そこが難しいけど、やりがいがあるわけや」

 委員長は「賃貸部内のパワハラ問題に対する考察と提言」に目を通すと「細かいとこまで、よく書けているな。けどな……、これを今すぐに会社に出すわけにはいかん。本来の手順やったら、パワハラの中止を求める『通知書』の提出から始めるものや」

「詳しく、教えてもらえませんやろか?」

「そやなあ、ほんまやったら、パワハラ訴訟は労働組合が関与する問題と違うのや」

「訴訟……せな、あかんのですか?」

「まあな、そやけど……。ここは、委員長の私に任せてもらえんやろか? あんたの提言はよく読んで考えてみる。今すぐ、ここで結論はでないさかい。また、中岡さんに連絡するから……。心配せんと、待ってほしいのですわ」

「どれぐらい、かかりますか?」

「うーん、そやな……。一週間は、待ってほしいねん。待てないほど、酷い状況では、ないよなあ?」

「分かりました。委員長を信頼して、お任せします。ほんまに……、よろしく頼んます」

「あんたも、そりゃあ、事を荒立てないで、解決したいよな」

 私は、労働組合の委員長を――理論派で偏屈で分からず屋――のイメージで思い浮かべていた。ところが、実際に会って話してみると、随分と好感が持てる――物分かりの良い人物だった。

 私は、約束の一週間が経過したので、委員長に自分から電話した。電話口の委員長は

「すまんなあ、中岡さん。年末は、忙しすぎてなあ。まだ、充分な根回しができていないのや。もう少しだけ、待ってくれへんかな」

「もうじき、年末年始の休みに入ります。年明けに、なりそうですね。ほな、一月に連絡もらえるのを待っています」

「何とかするから、私に任せといてくれますか? 中岡さん、心配しないでも、ええからな」

 委員長の声には張りがあり、自信のほどがうかがえた。私は、やっとまともに仕事ができると思って安堵した。

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