第8話
尼崎事務所の賃貸部では、最終日になり弓削部長に挨拶に出向いた。私は、自分の予想に反して、不動産販売部・販売二課の課長に昇格していた理由を再確認した。社内では異例の出世だった。左遷されると考えて、気分を害していた者が栄転する――私は、理解が難しい展開に疑問を抱かざるを得なかった。
弓削部長は、普段よりも明るい声で私の質問に答えた。
「俺はお寺の三男坊や。おじいちゃんは、周りから名僧や――と、言われたぐらいの人やで。そやから俺も、生まれつき人間ができているのや。俺が放った社内の女スパイや、管理人に聞いて、俺の悪口を言う者に気づいても、能力のある人間やったら、評価しているぐらいや。俺の判断やと……君は、能力があるだけやない。誠実な人間やと思う。むしろ、お人よしで損をしているのが分かった」
「具体的に言うと、どんな話でしょう?」
「偽善者は糾弾すべし、善者は称賛すべしが……、俺の方針や」
「正直に言うと、今の弓削部長の話は……、少し、分かりにくいです」
「すまんな。まあ、よう聞いてえな」
「分かりました。よく聞くようにしますので、お願いします」
「君は、賃貸部で新しい営業手法を浸透させた。さらに、ノルマ制を導入し、全体の底上げをしてくれた。本来やったら、中岡を俺の後任部長になるまで育てたかったが、田沼とは相性が悪いのか、あいつが邪魔するやろ。君がどう思うか知らんけど、田沼も能力のある俺の片腕や。ああいう男も、会社には必要やからな。それで、常務と相談して、君に異動してもらう方向になった。栄転やで……、中岡にこっちで枯れて萎んでもらっても困るのや」
本社の常務は、弓削部長の大学の同窓で同期入社だ。休日にも、ゴルフや釣りに出かけるほど仲が良い。
日差しを目に受けて、私は周辺の状況や自分自身が正確に見えなくなっていた。弓削部長は私の本質を見抜き、周囲の仕掛けた罠に気づき、助けてくれていた。
※
午後五時にバルコニーに姿を現した由比正子は、私が最初に見たときと同様に左側に西日を受けて、黙ってじっと立っていた。立ち姿が美しく、不死の妖精エルフを連想させた。私は最初に出会った日のように――幻影を見ているのか――と、わが目を疑った。
由比正子は、威厳あるもののように背筋を伸ばし、声をふり絞って「小羊によって、第六の封印が解かれた。天変地異が起こり、太陽は黒くなり、月は赤くなる。恐るべき日が来る前に、本物の愛に目覚めるが良い」と、叫んだ。
私は、言葉がヨハネの黙示録の一節であるのに気づいた。通りがかりの人たちは、由比正子の狂気を見て「なんや、あの女」「うるさい、黙っとれ」と、嘲笑うように吐き捨てた。
私は、由比正子の狂気を批判する気はなく、通行人たちの正気を疑いたくなった。それは精神疾患を罹病するものを平気で詰る狂気であり、自分を省みない者に内在する狂気である。
近所のよく見かける老人は「昔と違ってなあ。なんでも、病気にはええ薬がある時代や。あの、別嬪さんも入院して、早う病気が治ったら、ええのやけどなあ」と、嘆息した。それは私の気持ちを代弁していた。
由比正子は、私が連想で結び付けていた一五世紀の名画「美しきシモネッタの肖像」の絵のモデルのシモネッタ・ヴェスプッチのように儚くも美しい存在に見えた。一度は、由比正子の生活を垣間見て幻滅したが、またしても美貌の持つ優艶な力に、私は心を奪われていた。――午後五時の女――は、今も……私の目の前で女神のごとく、君臨していた。
肖像画のシモネッタ・ヴェスプッチは、有名な絵画「ヴィーナスの誕生」のモデルでもある。ヴィーナスはローマ神話に登場する愛と美の女神で、恋心を操る神キューピッドの母親でもある。
私は賃貸部に配属されて、しばらくは女神ヴィーナスの化身・由比正子のミステリアスな魅力に無防備なまでに、夢中になっていた。それにもかかわらず、キューピッドが持つという恋の弓矢は、私と菖蒲を結び付けていた。
由比正子はその日も、絵の中の若い女性シモネッタのように、気品のある表情で、道行く人々に、警世の言葉を告げていた。
それ以降は、午後五時の女・由比正子はバルコニーに姿を見せなくなった。「精神疾患の症状が陰性に転じて引きこもっている」「事故に遭って、死んだのではないか」「親族が引き取ったのではないか」などの憶測がささやかれた。
民生委員の話では、親族が見つかり許可を得たので「由比正子を精神病院に入院させることができて、ほっとした」と、真相を伝えた。
以前の私なら――午後五時の女――が、永遠に自分の前から消えてしまう事実を突きつけられて、無傷ではいられなかった。失望のあまり身震いし、由比正子の不在を別の何かで埋めなければ、平常心ではいられなかった。しかし、今の私は違っていた。
※
文芸同人誌に短編小説を投稿しながら、私は詩作を再開した。詩を発表すると、詩風を好む読者から、複数の手紙が届いた。私の手元に受け取り、内容を確認すると「あなたの書く詩を心の支えにしています」「詩的世界観に共鳴しています」と、若い女性からの励ましの便りだった。私のような者にも、ファンを名乗る人が存在する事実を誇らしく思った。
反して、一部の読者は「中岡の書くクリエーションは、誰かのエピゴーネンに過ぎないと思う」と、揶揄した。読者は、インテリ気取りで外来語を多用する嫌味な男だった。私は、他人の批判を小さな綻びのように感じて嫌っていた。
創作仲間は、私が落ち込むのを見かねたように――根拠のない罵詈雑言は、相手の愚かしさから出ていると考えて無視すればいい。正当な批判は、アドバイスだと捉えて次に活かさないと勿体ない――と、諭した。
同人誌の会合では、自分の好きな小説を持ち寄り、輪読会が催された。私はゲーテの「若きウェルテルの悩み」を選んだ。各自が、音読し意見を求めたい小説を選んで、持参していた。ゲーテのこの小説で、主人公のウェルテルから親友のヴィルヘルムへの数十通の手紙の形で構成し、憧れの女性・シャルロッテへの思いを伝えている。結局、シャルロッテへの思いは叶わず、ウェルテルは絶望のままに自殺してしまう。
私は、ウェルテルと自分を重ね合わせ、悲恋物語の主人公のように夢想し、失望していたのを思い出した。私自身にとっては、残酷なこの物語が、切なくも愛おしくなり、輪読の候補に推薦したのである。
編集長が「現代文学ではなく、幾星霜の年月を経て、今も評価されている国の内外の近代文学の中から選ぼうや」と呼び掛けたので、各自の提案は世界的な名作ぞろいとなった。編集長が、一つ一つタイトルを読み上げて、得票数の少ないものは省かれて行った。私が推した「若きウェルテルの悩み」は、二回戦で早くも敗退した。
最後にメルヴィルの「白鯨」とドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が残ったが、挙手による投票で「カラマーゾフの兄弟」が選ばれた。到底、全文を音読する時間がない長編小説である。
「カラマーゾフの兄弟」は、第一部の途中までを全員で順に朗読した。訳本だが、名作の息遣いや描写の巧みさを学び取る構えで臨んだ。全員が読後感を述べたが「ドストエフスキーの思索の深さが分かる」「構成がしっかりしていないと、こんな風には書けない」「真似が出来そうもない」などの意見が出たものの、誰一人としてドストエフスキーの技巧を再現できるとは思っていない様子だ。
「カラマーゾフの兄弟」には、人間の持つ強欲さや愚かしさが活写されていて、多くの教訓を含んでいる。シンプルな空想譚では得られない重厚な物語が、ズシリと心の奥に響く。私は今更ながら――こんな物語を書きたい――と、切望した。それは、見果てぬ夢にも思えた。
編集長は、会合の終わりごろに「後日、正式に決定した内容を伝えるが、同人誌の存続に財政危機が来そうや。ピンチを乗り切るため、会費別に正会員と賛助会員に分けて、紙面への掲載にも序列をつけたい」と、全員の反応を見た。
「私は反対です。紙面を充実させて、会員数を増やすのが先決ですやろ」と、ベテランの女性が声を荒げた。
「今回は皆さんに対して、意見を求めているのや、ないのですわ。巷では、Web投稿サイトが主流になり、紙媒体の同人誌は劣勢になりつつあります。この流れは変わらないものと、認識しているのです。存続のためには、荒療治もやむを得ない……のですわ」
「ベテランにも、誰にも、有無を言わせないのですか?」
「そうです。どうしても、方針に反対の方は退会をお願いするつもりです。悪意はないのです。これも、時代の流れですわ。どうしようもない」
後日、編集長と発行人の連名で――今後の方針について――と題した通信文が届いた。今後の会費は、正会員は月額二万円、賛助会員は月額千円と書かれている。できる限り正会員数を増やしたい意向で、中長編小説の掲載は正会員のみと記載されている。賛助会員は――原稿が不足している場合のみ、短編、掌編小説もしくは詩のみを掲載する――との方針だ。
私にとっては、月二万円の出費は大きかった。懐事情に反して、小説家になるという夢は断念したくなかった。迷いが生じ、編集長に電話した。
「中岡さんは、若いが本格派の書き手だと認識しています。私の希望は、正会員で残ってほしい。無理でしたら、退会してみてはいかがでしょうか? 中岡さんほどの書き手やさかい、退会しても、文学賞にはチャレンジし続けてください」
私には、編集長の真意が測りかねた。高評価なのか、厄介払いなのか――前者なら方針変更を申し訳なく思いつつ励ましてくれていた。後者なら、単なる社交辞令に過ぎなかった。
私の書く詩は、読者から支持されていたものの、詩作だけでは物足りなかった。私の世界観を正しく伝えきれるのは、小説でしかできそうもない。私は、自分の小説を同人誌の会員のような鑑識眼のある第三者の目で見てもらうと、作品に磨きをかけられると信じていた。今更、他の同人誌に鞍替えするのも面倒になっていた。
私は、菖蒲の前で「もう、小説を続けられそうもないねん。ほんま、どうしょうもなくなった」と、弱音を吐いた。
菖蒲は「夢を追い続けている。慎吾君が好き。文芸同人誌を退会しても、応援するから文学賞に応募し続けてほしい。めげずに頑張らないと、男の値打ちないでしょ」と、叱責しつつも励ましてくれた。
「分かった。何とか頑張って、小説家になるよ。ずっと、そばで見ていてくれ」私の伝えたい思いとは逆に、声は弱々しく、勢いのない感じで出ていた。
「あなたが、小説家を目指してダメになりそうやったら、私が働いて養ってあげるから、安心して頑張りなさい。そやないと、慎吾君らしくないやろ」と、口を尖らせて告げる菖蒲の真剣な眼差しを見て、私は彼女の底知れぬ逞しさと、童女的で可憐な容貌のギャップに驚いていた。菖蒲は育ちがいいため、甘やかされて育てられている――と、私は今まで考えていたので、認識との違いに圧倒されてもいた。
私は、長い間――ダイヤモンドは価値の高い宝石だが、年輩女性の薬指にこそ似合い、可愛らしい同年代の菖蒲の指には赤いガーネットが似合う――という事実に目を背けていた。ダイヤモンドと、ガーネットは種類の違う宝石だが、いずれにも価値があり、魅力がある事実に、やっと気づかされた。
今なら、菖蒲の俗物志向を心から理解できる――そう実感した。私は自分自身の俗人ぶりを自覚せず、手の届かないところに存在する高嶺の花を摘み取ろうとしていたのを心底、後悔していた。
私は、小説を書くのに使っている2Bの鉛筆を手にした。スケッチ・ブックを取り出して、由比正子がもっとも美しく見えた頃の姿かたちを思い出して、ラフ・スケッチしてみた。全身を描き終えた後、菖蒲の現在の姿かたちを想起して、同様にスケッチした。二つの絵を見比べて、今なら菖蒲の容姿や全身から滲み出る雰囲気の方が美しく感じられた。
今の私には、菖蒲が異世界から来た天使のような存在だった。頭上に輝く星は、ベツレヘムの星と同様の聖なる輝きを宿し、私の生活に希望をもたらしてくれた。私は、菖蒲の持つ雰囲気に幻惑されて、胸が熱くなった。
夜になって、外に出ると町中を歩き続けた。酔漢たちが、上機嫌で私の傍らを通り過ぎていく。彼らが……まるで、白雪姫にでてくる七人の小人たちのように、明るくて剽軽な連中に思えてきた。私は、尼崎中央商店街に着くと、立ち止まった。一人で歩いていると仕事の呪縛からも、由比正子の幻影からも、さらに……菖蒲の色香からも、自由だった。胸に溢れんばかりの空気を吸い込むと、再び歩き出した。
私は、商店街にある喫茶店に入り、席に着いた。隣の席の男は、みすぼらしい身なりに似合わぬ英語版の聖書のページを開き、指を走らせながら読んでいた。見栄えのしない男が、興味をもっているのは、神や道徳律や人類の救済だ――と、思いながら様子を見た。男は、よれたジャケットのポケットから、タバコを取り出すと、周囲に遠慮する素振りもなく、ぷかぷかと煙を吐き出しながら、吸い続けた。
顔を上げた男と目が合った。私は、男の英訳聖書を読める優れた知性と、身なりの悪さや、含羞を感じさせない仕草のアンバランスさを奇妙に思った。一人の人間に一つの世界がある――それが、個性だというのなら、私に男の本質が見抜けないのは当然にも思えた。
私はカバンの中から小説を取り出した。これまで、私は創作の参考にするため、東西の古典から現代文学まで読破してきた。何かヒントがつかめないかと、躍起になっていた。天才と凡才の間には、どれほどの差があり、差を埋めるのにどんな努力が必要なのか? 私は試行錯誤を重ねて、苦しみ喘ぎつつも、明確な答えを出せずにいた。
一つの小説を創作して、時間が経過すると――あそこをこう表現すべきだった――と、新しい難点に気づいて向き合うのは、楽しくもあり、同時に苦しくもあった。
※
配置転換で販売部に戻った私は、気持ちに余裕ができたので、休日に新しい小説を書き始めた。私が所属している同人誌では、過去に何人もプロの作家を誕生させていた。退会後もそこで切磋琢磨し合った経験を活かしていくつもりだった。
小説は自分の心の声に耳を傾け、異世界の広がりをリアルに想起する作業だ。長い時間を小説の創作に割いていると、考えが内向して鬱屈とした気分になる。そういう時は、電話の向こうで菖蒲が話し相手になってくれた。私は――人は真の理解者を得たときに大才を開花する――と、思っていた。
「次は、俺がプロとして活躍する順番やと思う。期待してくれ……」菖蒲にだけは、小説の創作に打ち込んでいるのを伝えた。
「期待しているわよ。応援するから、ほんまに頑張ってね」
菖蒲の言葉には、情感がこもっていた。
「ありがとう。ずっと俺を応援してな。俺にとっても、菖蒲ちゃんの応援が一番、力になる」
「慎吾君に、そう言われると、ほんまに嬉しい。ずっと、応援するからね」
菖蒲は嬉しそうな声で話した。私は、神秘的で実体の分からない何者かではなく、目の前にいる現実の女性を愛していた。
肉眼では、逆光の中でも見えるものでも、カメラで撮影すると被写体はシルエットだけが映り、実像を見誤る。これからは、逆光に目を眩まされず、現実を真摯に見つめよう――と、私は考えていた。
ロマネスク 美池蘭十郎 @intel0120977121
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