第4話 Emma

 制服に着替え、鞄を手に家を出る。自転車に乗って学校へ向かう。だが校門前で茶髪の女生徒たちの集団を見た瞬間、反射的急ブレーキをかけてしまった。


 暴力を振るわれ、服を脱がされ、胸に落書きされても、「どうでもいい」と言えたのに。「好きにしろ」と言えたのに。どうして逃げることがある?


 逃げたらきっと、彼らはますます調子にのるだろう。撮った写真を本当にばらまくかもしれない。ネットで売りつけられたら二度と取り返せなくなる。それなのに、足が竦んで動けない。


「春風さん?」


 後ろで、だれか男子の声がした。

 振り返ると、木村綾斗が立っていた。不思議そうな顔でこちらを見上げている。


「学校、入らないの?」


 は、と低い吐息がもれた。若菜は次の瞬間、自転車のペダルを思い切り踏み込み方向転換していた。

 全身で風を切りながら、自転車でひた走る。気づけば見慣れた道に出ていた。あの山奥へたどり着く道を呼吸も浅く走っていく。


 自転車を草むらに隠し、ふもとから獣道を走り抜ける。何度も行き来したおかげで、若菜にしかわからない小径ができつつあった。草を幾度もかきわけながら、若菜はあの廃墟の前に躍り出た。


 そこは、夜の闇の下で見るときとはずいぶん様子が違っていた。あの湿ったような濃い闇の気配も、ものものしい雰囲気もない。ただ、この建物が思っていたよりひどく傷んで荒廃が進んでいることに驚いてしまった。

 少なくとも、ここに燕尾服を着た幽霊が憑りついているなんて、とてもじゃないが信じられなかった。


 夜の静謐さとは打って変わり、周囲の緑の密集地に住まう生き物の気配がする。ここは昼間に呼吸し、夜になれば死に絶え、死人が目覚める場所なのだ。


 玄関の扉がびくともしないことを思い出し、若菜は裏手に回った。浴室の割れたガラス窓からならば容易に侵入できる。


 思ったとおり、中はひどい有様だった。壁や床はひび割れと腐食がすすみ、ところどころカビか埃かわからない色合いの箇所が点在している。下手に足を踏み出せば床を踏み抜いてしまいそうなほど傷んでいて、若菜はうっと顔をしかめた。


 それでも、進みたい。明るいうちに、館のなかをくまなく見ておきたい。

 燕尾服の彼のこと、彼が生きていたこの館のこと、そして、彼が若菜に重ねているであろうだれかのことを、知りたかった。


 なんでもいい。何か手掛かりはないだろうか。生前の彼をにおわせる何か――たとえば使用人室とか……


 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、いつの間にか玄関ホールまで来てしまった。壁の隙間や窓から薄く陽が差しこむ玄関ホールは、やはり夜に見るのとは表情がまるで違う。あたたかくて真っ白い。だが同時に、なんだか他人の家に勝手に入りこんでしまったような居心地の悪さを感じた。――いや、まさに他人の家に勝手にあがりこんでいるのだが。


 ぐるりと辺りを見渡して、吹き抜けの二階に目を留める。そういえば昨夜、燕尾服に連れていかれたのは二階だった。あのやけに真っ暗だった部屋はなんなのだろう。どうにも気になってしまい、若菜は階段をのぼりはじめた。みしみし、不吉な音を響かせながら階段は若菜の侵入を許した。若菜は二階に上がると、四角い回廊の突きあたりへ進んでいった。


 確か、こっちだったはず……と記憶をたどりながら、突き当りの部屋の前で立ち止まる。あの暗闇といよいよご対面だ。胸に緊張を抱いて、扉を開ける。


 ぎぎぎぎぃ、と耳障りな音をひびかせて、扉の向こうが姿を現す。重たい暗闇を想像していた若菜の視界に、まばゆいほどの日差しが差し込んだ。


 正方形に近い部屋の、ちょうど真正面に窓が並んでいる。どれもガラスが抜け落ちて、外の日差しをそのまま部屋に招き入れていた。


 窓際に、こちらに足を向ける形でベッドの枠がある。当たり前だがマットレスは敷かれていない。だが昨夜、若菜は確かにあるはずのない柔らかな感触を覚えていた。ひび割れ、今にも真っ二つに割れてしまいそうな木がむき出しのベッドなのに。


 だが何より驚いたのは、ベッドの周囲に陶器の欠片が無数にちらばっていたことだった。コップや花瓶を落としたにしては数が多い。あまりに不自然なので、若菜は欠片の海のそばにしゃがみこみ、慎重にそれらをかきわけてみた。


 蜘蛛の巣にまみれた大きな目玉がごろりと転がり出てきて、若菜は叫び声を上げてしりもちをついた。


 ガラスのような真ん丸な目玉が、欠片の海から突如現れたのだ。細い蜘蛛の糸がびっしりとまとわりついているが、よく見れば本当にただのガラス玉だった。人形の眼だ。若菜は改めて、周囲にちらばる欠片の正体に気がついた。


 すべて、くすんではいるが肌の色をしている。頬や腕、お腹だったかもしれない陶器の欠片たち。それらの中に、さらにたくさんの目玉があった。きっとこの部屋にはいくつもの人形が飾られていたに違いない。


 部屋の中を改めて観察する。ほとんど剥がれ落ちてしまっているが、かろうじて残っている壁紙はかわいらしいサーモンピンク色をしていた。ここはもしかして、子ども部屋……あるいは、ご令嬢の寝室だったのではないだろうか?

 もっと隅々まで見てみたくなり、若菜は立ち上がって部屋の左手にある飾り棚へ近づこうとした。


 その途端、突如床がずぼっと抜け落ちた。


 ――え?


 悲鳴を上げる暇もなく、若菜の体は落下していた。ほどなくして尻にぶざまな痛みが走る。


 尻と腰を押さえ、声もなく痛みに耐えながら、這う這うの体で辺りを見回す。そこは正真正銘の真っ暗闇だった。下の階に落ちたにしては着地がはやすぎる。立ち上がろうと身を起こした途端、頭をおもいきり天井にぶつけてしまった。頭をさすりながらポケットからスマホを取り出し、辺りを照らしてみる。


 ここはどうやら床下収納のような場所であるらしい。頭上を照らすと頭のすぐそこに穴が見えた。下の階に落ちたわけではないようで、ほっとする。


 スマホの光を左右に向け、若菜は「わあ」と小さな声を上げてしまった。

 四角い箱、長ぼそい箱、カビだらけの箱、ばらばらになった箱……たくさんの収納箱が積まれ、山の一部が崩れている。崩れた箱からは中身が漏れ出ていた。穴だらけのボロ雑巾、のように見えたが、よく見れば洋服のようだ。若菜は思わず近くに寄って見入ってしまった。若菜はあまり着ないが、クラシカルロリィタと呼ばれる種類のロリィタとデザインが似ている。これは女性向けの古い洋服に違いない。明治、あるいは大正時代に着られていたような。


 若菜は目を輝かせ、他の箱を物色しはじめた。他にも同じようなものがあるかもしれない。レトロやアンティークな装いは大好きだ。正真正銘の本物が見られるなら、箱から虫が出てこようが埃まみれになろうが構わなかった。


「……あれ」


 積まれた箱の山の奥に、比較的傷みの少ない箱があった。木製で、綺麗に塗られたサーモンピンク色がまだ色濃く残っている。両手につかみ、箱の山をばらばらにしてしまったが構わず引っ張り出した。埃をはらっていざ蓋を開けようとするも、びくともしない。


 これほど頑丈に閉められているなんて、いったい何が入っているのだろう。若菜ははやる気持ちで指先にぎりぎりと力を込め、ううう、と声を上げながら思い切り力を込めた。次の瞬間、ぱあん、と脱力したように蓋が開き、若菜は箱を抱えたまま後ろへひっくり返ってしまった。


 中に入っていたものが辺りにばらばらと散らばっていく。それほどたくさんのものは入っていなかった。何かの紙切れ、布の包み、貝殻の詰まったガラス瓶……

 何かを包んだ布は黒く光沢があり、手に取るとずしりと重たかった。そっと解いてみると、中身が手のひらにするりと落ちてくる。


 鈍い真鍮の、懐中時計だった。

 ――これは、あの、燕尾服の……


 彼が世話をしながら時折覗き込む懐中時計に似ている。同じデザインかもしれない。若菜は無意識にそれを制服のポケットに入れ、次に紙切れを手に取った。目の前まで持ち上げ、若菜は目をしばたたく。


 白黒の写真だ。五人の人間が寄せ集まって写っている。頑丈な箱にしまわれていたおかげか、虫食いやカビの被害を受けていない。褪せてはいるものの、写っている人間の顔は比較的しっかりと判別できた。


 全員、肌の白い外国人だった。真ん中のソファに座る人物が主人だろうか、立派な髭を蓄えた中年男性だ。その隣に寄り添うように座るのが婦人だろう、優しそうな笑みを浮かべている。二人の両脇に落ち着いた雰囲気の青年、そして奥に一人、娘がいた。


 若菜は娘の顔を食い入るように見つめた。娘は腰までありそうな長い巻き毛だった。白黒なので確定ではないが、おそらく黒髪か濃い茶髪だ。にっこり笑う頬に小さなえくぼがある。天使のような愛らしさだった。父と母、そして兄たちから死ぬほどかわいがられていただろうことがうかがえる。


 よく見ると、ソファの背に隠れているが、少女は胸に人形を抱いているようだった。人形とわかったのは、美術館で見たビスクドールが被るようなボンネットの上部がちらりと見えているからだ。


 たくさんの人形、虫食いだらけの洋服、サーモンピンクの壁紙……ここは彼女の部屋だったかもしれない。若菜は興奮気味に写真を裏返した。ひどく滲み、ところどころかすれているが、かすかに〝E〟と読み取れる。


「E……mm……a?」若菜は目を細めた。「Emma……?」


 その瞬間、轟音と共に頭上で激しい振動を感じ、若菜はぎょっと天井を見上げた。まるで壁が破壊されたかのようなすさまじい衝撃だった。誰かが入って来たのか? いったい誰が? 若菜の頭に、「廃墟で麻薬取引」「廃墟で遺体発見」というニュースの文字が次々に浮かび上がり、瞬時に血の気が引いていく。


 若菜は精いっぱいに身を縮め、穴から距離を離そうとした。だがただでさえ狭い空間で、周囲は箱だらけだ。ろくに身動きが取れないまま、頭を抱えて息を詰める。


 カツ、カツ、と硬い靴底の音がする。スニーカーやスリッパの類ではない。上等な革靴の音だ。まるで、燕尾服の幽霊のような――


 足音がだんだんとこちらへ近づいてくる。穴の存在に気づかれたらどうしよう。お願い、どうか気づかないで、むしろ床が割れているのだから忌避して離れてほしい。そう願っているのに足音は止まらない。ゆっくり、だが確実にこちらへ近づいてくる。


 カツ、カツ、カツ、――ぴたり。


 頭上に、いる。


 今にも覗き込まれるかもしれない。腕をつかまれて引きずり出されるかもしれない。一秒、二秒、三秒――十秒、何も起きない。


 いつの間にか全身が凍りつくように寒い。まるで最低温度に設定したエアコンの吹き出し口に体を押し当てているかのような、キンと痛い冷たさが全身を押し包んでいる。おそるおそる顔を上げると、辺りはねっとりとした暗闇に塗りこめられていた。


 すぐ近くの箱の山も、頭上の穴も見えない。視界が完全に奪い取られている。凍えそうな冷たさのなか、何が起きているのかわからず若菜は戦慄した。


 不意に見えない暗闇から突然手首をつかまれ、そのまま床に押し倒された。

 きゃああああ! と悲鳴を上げたはずなのに、喉がしまって声が出ない。喉どころか、指先までもがなぜか動かせなかった。


 ――ダ  レ   ダ。


 はっきりと、音が聞こえたわけではない。

 だが、なぜかそう言われた気がした。自分を押し倒し、見えない力で縛りつけている、この暗闇に。


「わ、わら、わら、し……」


 若菜は必死に喉と舌を震わせた。

 この闇が、あの幽霊と同じものだとしたら。

 制服を着ているせいで、わかってもらえないのだとすれば。


 だが何度訴えても、何も通じない。冷たい闇がひたひたと体を這いのぼり、首に巻きついてくる。


 ――ダ レ ダ。


 冷たい手が若菜の首をぎりぎりとしめつけてきた。

 喉が苦しい。全身が痺れてまともに動かせない。でも、なぜだろう。この凍えるような闇と痛みが、あの彼のものだと確信してしまうのは。


 もう一度抱きしめられたくて、頭を撫でられたくて、構ってもらいたくて、ここへ通っていたのに。首をしめられて死んでしまったら、もう、してもらえなくなるかもしれない。


 目じりに涙が浮かぶ。凍りついてしまった体にひとしずくの熱がうまれる。それが若菜に、咄嗟の力を与えた。


「え、ま」喉の力を振り絞り、若菜は唇を震わせた。「え、ま……」


 すると、ぎりぎりとしめつけていた手の力がふっと緩んだ。冷たい空気が喉に一気に流れ込んできて、若菜は喉を押さえてげほげほとむせる。


「エマ、よ」咳き込みながら、若菜は闇に向かって訴えた。「わたし、エマよ」


 エマ、という言葉が、まるで暗闇を照らす光のように若菜の視界を取り戻していく。彼の怒りは鎮まったようだ。若菜はほっと深く安堵の息をはいた。おもいきり息をはくと同時に、瞼が急速に重くなり、若菜は意識を失った。

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