第8話 すべての報い

 昔から人形遊びが好きだった。

 といっても、女児が人形を使って安っぽいホームドラマを演じるようなごっこ遊びをしていたわけではなく、ただ、人形にドレスを着せて眺めるのが好きだったのだ。


 人形のドレスは、この世にはびこる世俗的な安っぽい服と違い、レースが大胆に使われていて、ふわふわしていてかわいらしく、幻想的だった。現実ではだれもこんな服を着てくれない。でも、それでよかった。似合う人間が存在するとは思えなかったからだ。


 人形遊びに興じる綾斗を仲間に入れようとする友人はだれもいなかった。綾斗は正真正銘の〝ぼっち〟だったが、いじめられるのは嫌なので、嫌われず、憎まれず、当たり障りのない受けごたえをするのが得意になった。現実を惰性でやりすごし、家に帰って人形に自作の服を着せてやりたかった。


 中学生になったとき、周囲の女子の服装が変化した。「流行」という名のダサい服装のままの女子と、見た目だけに全振りしたフリルたっぷりのきらきらした女子に分かれたのだ。


 ピンクと黒、ハート型ストーンのピン、厚底の靴……地雷系ファッションの存在を知った綾斗は一気に現実に惹かれた。この世のどこかに、似合う人間がいるのではないかと思ったのだ。

 そして実際、存在していた。高校一年生の教室の窓際に、彼女はいた。


 その頃になると、綾斗は髪型やメイクだけで相手の普段の服装の種類がなんとなくわかるようになっていた。彼女からは間違いなく地雷系のにおいがした。だから休日、彼女の家の近くに張り込み、普段着の彼女が家から出てくるのを待ったのだ。


 綾斗の勘は正しかった。彼女はお手本のような地雷系ファッションに身を包み、スマホで誰かと話しながら駅の方角へ歩いていく。綾斗は後ろからつかず離れず後を追った。彼女はその服装しか似合わないのではないかというほどぴたりとはまって美しかった。


 この世に、人形は存在していた!

 綾斗の心に革命が起こった瞬間だった。




「おいストーカー野郎、聞いてんの?」


 南雲堅斗の靴底が、綾斗の頬にぐりぐりと押しつけられる。


「転校してきたときから、なーんか根暗そうでキモいなーとは思ってたけど、ストーカー野郎だったって聞いてマジで納得したわ。おまえキモいよ。なあ、聞こえてる?」


 ――どうして、そのことが知られているんだろう。


「俺のさー、中学のときの同級生がおまえの元いた高校にいんだよ。で、女子にストーカーした挙句、転校して逃げたクソ野郎がいたって聞いて、写真見せられたんだよな」


 床に這いつくばる綾斗の眼前に南雲がしゃがみこみ、スマホの画面を見せてくる。誰かから送られてきたであろう、クラスの集合写真の隅を彼は指先で拡大した。


「な、これおまえだろ?」

「うーわキモっ。ありえねー」


 周囲の男子たちも口々にはやし立てる。降り注ぐ嘲笑の中、綾斗は諦めたように目を閉じた。


 一度犯した罪は、生きる場所を変えてもついて回る。

 引っ越しを決めたのは父だった。母が近所づきあいに困ってしまい、ふさぎ込んで家から出なくなったからだ。問答無用の転校は綾斗にとってもありがたかった。

 もう二度としないと、心に決めた。つもりだった。


「なあ、おまえちょいちょい春風のこと見てるけど、もしかして次のストーキング相手?」


 心臓が嫌な音を立て、綾斗は思わず目を見開いた。


「やっば、マジ? その反応マジ?」

「キッモ、ないわー、マジないわ」


 その瞬間、綾斗のわき腹にドスッと痛みの圧が襲いかかり、体が仰向けに転がされる。誰かの靴の先で蹴り上げられたのだ。


「おいふざけんなよ、このゴミ俺んとこに寄せんじゃねえ」


 反対側のわき腹を蹴りつけられ、綾斗はサッカーボールのごとく男子たちの足から足へ、ごろごろと跳ねながら転がされた。降り注ぐ嘲笑と硬い靴の痛みに綾斗の意識は朦朧とばらけていく。


 なあ、おまえらさ、春風といえば――


 だれかが何かを告げると、口々に「おまえサイテー」「マジくそじゃん。賛成」「鬼畜―!」などと盛り上がる。するとふたたび誰かの靴底が綾斗の体を仰向けにさせた。


「おい木村、スマホ出せ」


 どうして、何に使うつもりだ、などと口にする間もなく、別のだれかの手が綾斗のズボンのポケットをまさぐり、スマホをするりと取り出した。


「あっ」


 慌てて手を伸ばしたが、もう遅い。スマホは南雲の手に渡ってしまった。


「パスは?」

「……」

「言えよ。パスは?」

「……」

「はー、つっかえね」


 スマホの画面が綾斗の眼前に向けられ、まもなくロックは解除された。


「手間かけさせんなよなあ」

「ま、待って」


 弾かれたように起き上がり、スマホを取り返そうとしたが背後から乱暴に羽交い絞めにされた。


「待って! 何する気だよ!」

「ああ? 決まってんだろ。おまえ、春風をストーカーしてたんだから、当然写真とかあるんだろ?」

「だ、だめだ」

「なんだあ? さてはなんかやべえ場面でも撮ってんな? だとしたらマジで引くんだけど」


 南雲がスマホの画面を操作している。画面が見えない分、綾斗は一気に血の気が引いていくのを感じた。

 だめだ。やめろ。開くな。そこには、彼女が――彼女と、アレが……


「あ? なんだこれ」


 南雲がふいに眉を寄せ、画面をまじまじと覗きこんだ。


「春風、寝てんじゃん。でもここ、どこだ……? 自分ちじゃねーだろ」

「どれ?」「どしたん」


 周囲の男子たちが南雲の近くによってたかり、スマホの画面を覗き込む。そして皆一様に首をひねった。


「なんだこれ、きたねー部屋……廃墟かなんか?」

「なんでこんなとこで寝てんだ?」


 口々につぶやく彼らの視線をあびつつ、南雲が画面をスワイプする。


「なんか食ってる……なんか……うわっ! きったねぇ、なにこれ」

「なんか黒いんだけど、泥……? 泥食ってる?」

「つか春風も泥まみれじゃね」

「何これ、マジで何してんのこいつ」


 彼らの反応を見るだけで、今画面に表示されているのがカメラロールのどの写真なのかおのずとわかってしまう。だからこそ、綾斗は違和感がぬぐえなかった。


 彼らは若菜のことしか口にしない。だがそこにはもうひとり、いるはずなのだ。それなのに、彼らはまるで見えていないかのように若菜の異常な行動だけを騒ぎ立てている。


「ちょ、マジかよ!」「やばっ!」


 全員が目を剥き、興奮に頬を紅潮させた。瞬間、綾斗は全速力で起き上がり、スマホを持つ南雲の手に掴みかかる。

 だが南雲は綾斗の猛攻をふりほどき、興奮をおさえきれない様子で画面を食い入るように見つめた。


「おいおいマジかよ木村! これやべえよ犯罪だろ!」

「か、返せ! 返せよ!」

「春風のすっぱだか撮るとかまーじできもいんだけど! つか春風もやばくね? なんなん? 何してんのこれ?」


 そう言って南雲が画面をこちらに向けた。

 そこには素裸で泥水を浴びる若菜の背中があった。だが、彼女をカメラから覆うような位置にあの肉塊が写り込んでいる。だから、背中など見えるはずもないし、本来ならば彼女の裸体さえ見えづらいはずなのだ。


 彼らには、アレが見えていないのか……?


 綾斗が驚愕にすばやく目をまたたいたときだった。

 視界のスマホ画面の向こうに映る肉塊が、突如ぐりんと上体をねじり、こちらを見上げるように背を逸らす。

 ガガ、ガガガ、と画面に砂嵐のようなノイズが走り、次の瞬間、画面は真っ白になった。


「あ、あ、……あ」


 綾斗が声にならない声をあげていると、南雲が不審そうにスマホを覗く。


「なにびびってんだよ今さ……ら――」


 彼も言葉を失い、アプリを何度も消したりつけたりを繰り返したが、


「なんだ……? 写真がねえ。どこにも……泥食ってるやつも、寝てるやつもねえ……」


 と言葉をもらした。


「木村てめえ、何したんだ?」

「何も! 何もしてない! 僕の手の届かないところでずっと持ってたじゃないか!」

「うるせえゴミが!」


 南雲の靴先が飛んできて、綾斗の顎を蹴り上げる。

 床に倒れ込み、痛みにもがく綾斗をよそに、彼は何度もカメラアプリを立ち上げ直したが、写真が再び現れることはなかった。


「こーら君たち、席につきなさい」


 いつの間にか担任が教室に入ってきていたらしく、やる気のない声が壇上から聞こえてくる。スマホが飛んできて、綾斗は慌てて胸元で受け止めた。


 席に着いてから綾斗自身も膝上でスマホを確認してみたが、やはり写真は見当たらなかった。廃墟での若菜のカメラ映像をスクショした写真たちはすべて、真っ白に消されていたのだ。



 昼休み、綾斗は再び男子グループに呼ばれ、隣の空き教室へ強制的に拉致されていた。


「木村ぁ。さっさと吐けよ。鼻血出てんぞ」


 鼻血どころか、切れた口端やすりむいた肘からも血が流れていることは綾斗もよくわかっていた。だが、どうしようもないではないか。羽交い絞めにされて殴られ続けているのだから。


「春風若菜がいたあの場所がどこにあんのかって聞いてんだろ」

「体調不良で休んでるとか嘘だろ? 学校サボってあそこにいんだろ?」


 南雲がつかつかとやってきて、綾斗の髪を上からぐしゃりとつかみ、引っ張り上げた。


「俺らさあ、おもしろいことなくて暇してんだよ。春風と一緒に遊びたいわけ。おまえが居場所を教えてくれねえと、俺ら一生つまんねえ思いをし続けることになるだろ~?」


 彼は女子ウケする顔ににっこりと笑みを浮かべるが、その眼に宿った獰猛な光に綾斗は恐怖した。

 与えられる痛みが怖くて、思わず話してしまいそうになる。だがそれだけはダメだと心が叫んでいた。


 あの場所は、若菜の心の巣だ。あの場所を踏み荒らされてしまったら、彼女はどんなに悲しむだろう。絶望するだろう。


 若菜がどんな環境で生まれ育ち、どんなことに喜び苦悩しているかなど知るよしもない。綾斗ははじめ、抑えきれない己の性癖から来る欲望のために彼女を盗み見ていた。だが、見ているうちに彼女の様々な表情に目がいくようになった。おぞましいものに抱かれ、撫でられ、触れ合う彼女は世界で一番幸せな少女に見えた。


 あんなもの触れ合って幸せそうに笑うなんて、何か、綾斗にはわからない特別な事情があるに違いない。それだけは、なんとなくだが感じられた。


「お願いだから……彼女の邪魔はしないで」


 彼女は今、幸せなんだ。

 そう続けかけた言葉は、腹にめりこんだ南雲の靴先に押し戻された。


「あ? なんだって?」

「……っ」


 床に倒れ、背を丸めて虫のように跳ねる綾斗の姿に、男子たちは腹を抱えて笑った。


「なに正義ぶってんだよストーカーのくせに。キモい奴はキモいことだけ考えてりゃいいんだよ。な? 案内してくれたらおまえも加えてやるからさ。春風と遊ぶメンバーに」

「南雲おまえ優しすぎだろ!」「木村は当然一番あとだぞ。俺らが散々まわしたあとだ」「ありがたく思えよ木村ぁ!」


 口々に続く男子たちの言葉を背に、南雲は冷たい笑みをさらにゆがめた。


「おまえの決心がつかねえなら、いくらでも背中を押してやるよ。おまえ、ストーカーやったせいで転校してきたんだろ? 当然家も引っ越したよな? おまえが今度は春風をストーカーしてるってSNSでばらしてやったらまた居場所を失うなあ~」


 綾斗は腹の痛みを振り払うように顔を上げた。だが南雲の歪みきった真っ黒い笑みに、意思と言葉が飲み込まれていく。


「おまえの罪を陽の目にさらしてやった俺らは正義でしかない。なんの痛手もなくおまえをただ貶められるってわけだ。それが嫌なら……」


 南雲の言葉が耳の中を素通りしていく。

 カメラ越しに覗いていた、若菜の幸福と恍惚に輝く日々の映像が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 ごめんなさい。春風さん。ごめんなさい。

 もう二度と、しないと誓ったのに。

 結局僕は、自分の欲に勝てなかった。

 あなたと怪異の戯れに、邪な気持ちを抱いてしまった。……

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