第9話 鼓動を止めたいだけなのに


 洗ったばかりの体に、やわらかな部屋着をまとって。

 洗ったばかりの髪を、やわらかなタオルに押し包まれて。

 彼に髪をくしけずってもらえる時間がとても好き。


 見上げた先に、ガラスの抜け落ちた窓がある。ここは寝室。この部屋は以前、闇につつまれていた気がするけれど、そんなことはもう忘れてしまった。


 かわいらしいサーモンピンクの壁と、部屋をぐるりと取り囲むドールたち。

 髪を梳かれたあとは、ふかふかのベッドで足を伸ばす。


「来て。一緒に月を見てたいの」


 そう言って手を伸ばせば、彼はすぐに来てくれる。

 相変わらずベッドに上がり込むのに少し抵抗があるようだけど、お願いしたら来てくれる。

 わたしはエマ。彼の主人、の娘。

 彼はエマを愛している。

 わたしを愛している。


 彼の膝に乗せられて後ろから抱きすくめられると、心臓が止まりそうなほど冷たくて、全身が凍りつきそうになる。でも、心臓がどきどきと高鳴ってすぐにあたたかくなる。


「月がきれい」


 そうつぶやくと、彼の手がわたしの手を包み込んだ。

 彼の手は、わたしの目には見えない。

 前はそれが少し寂しかったけれど、今はもういい。


「わたしも透明になりたいな」


 世界のだれからも見えなくなりたい。

 ただ、あなただけに、この存在を認められればいい。


「もしも今、わたしが死んだら……ここに残れると思う?」


 あなたみたいな透明に、なれるかな。

 美しいゴシックロリィタだけが浮遊してみえるようになれないかな。

 後ろで彼が身をよじったので、首を横に振ったのだとわかった。


「残れない? わたしは、あなたみたいになれない?」


 彼は答えない。戸惑っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。幽霊はみんな生者を道連れにしようとするものだと思っていた。

 それとも彼は、自分が死んだことに気づいているのだろうか。


「わたしも道連れにしてくれていいのに」


 わたしの手を押し包んで撫でていた彼の手が、ぴたりと止まる。

 わたしは振り返って、彼の首を見上げた。本気だと伝えたくて、せめて彼の眼がありそうな場所をじっと見つめてみる。

 瞳がかわいてもがまんして、じっと目をそらさずに見つめつづける。

 お願い、伝わって。

 わたしがこの世にいたくないって気持ちをわかって。

 この世にいたら、どんどん汚れていくの。

 もうすでに体のあちこちが腐ってどろどろになってる。まだ無事なのは、たぶん心臓だけ。

 だから、綺麗なうちに鼓動を止めてほしい。

 そして、永遠にあなたのそばにいさせて。

 

 どれほど見つめていただろう。

 冷たい手が突如わたしの両肩をつかみ、ベッドに押し倒す。

 燕尾服の襟元が、目線のすぐ下にある。――顔が、近い。

 頬や唇にあたるかすかな冷気は、彼の息遣いだろうか。


 それでもじっと目をそらさずにいると、やがて首にひたひたと冷たい指がまとわりついていくのがわかった。

 現実にいたときは、絞め殺されるなんて一番苦しそうで醜くて、いやだと思っていたのに。


 今はこの状況がとても幸せに思える。

 彼に見つめられながら、彼を見つめて死ねるなんて……

 じわじわと息ができなくなる。でも、体からできるだけ力を抜いたままにする。

 苦しい顔なんて見せたくない。せめて、かわいい顔を見てもらいたいから。


 ――約束して。

 ――死んだ体から抜けたわたしの魂をつかまえて、ずーっとここに閉じ込めておくって。


 あなたのものにしてくれるって、約束して。


 指先が、足の先が、頭のなかが、どんどん冷たくなっていく。もう感覚がない。視界がじわじわと闇にそまっていく。

 世界一心地いい、あなたの闇にそまっていく。

 

 わたしの、最後の息吹が唇から出ていく。


 まさにその瞬間だった。


「春風さん、逃げて!」


 どこかで聞いた声がわたしの全身を貫き、世界が逆転した。






 綾斗の決死の叫び声は、怪異の触手に絡めとられ首を絞めつけられていた若菜を解放した。

 暗い部屋の隅から濃い闇がぞわぞわと広がり、怪異はその中へ溶け入るように消えていく。


 亀裂が入り今にも壊れそうなベッドの上で、若菜は息を吹き返したように咳き込みながら上体を起こした。


「春風さん!」


 綾斗は急いで駆け寄り手を伸ばしたが、思い切りはねのけられる。


「どう、して」


 げほげほと咽ながら、涙をたたえた眼で睨みつけられる。


「どうして……邪魔をするの!」

「え」


 綾斗は何を言われたのか理解できず、目線をさまよわせる。


「あの、僕、君が死ぬんじゃないかと思って……」

「それはわたしが、自分で望んだの」


 若菜は悲しげに両手で顔を覆い、肩を震わせた。


「……自分で、望んだ?」


 綾斗は呆然と目を瞬く。――あの怪異に、殺してほしいと自ら願ったのか?


「それより、どうしてあんたがここにいるの」

「ええと……」


 綾斗はたちまち真っ青な顔になった。ぶるりと肩を震わせて立ち上がり、割れた窓辺から屋敷の庭園をこわごわと見下ろす。


「き、来てる」

「……何が」

「春風さん……ごめん。本当にごめんなさい。その……もっとちゃんと時間をとって説明したいんだけど時間がなくて」

「なんなの? 要領を得ない言い回しやめてくれる?」

「は、春風さんを狙ってる連中がいるんだ」

「え――」


「ともかく逃げなきゃ。逃げて、どこかに隠れるんだ。じゃないと春風さんが襲われる」


 そう言うなり綾斗はベッドに腰かけたままの若菜の手首を掴み、強引に引っ張り上げた。


「痛い! 離して! なんなの? さっきから何言ってるのか全然わからないんだけど」

「説明もちゃんとするけどとにかく逃げなきゃ! こんな分かりやすい場所じゃなくて、もっと隠れ場所に適した場所はないの?」

「知るわけないでしょ、隠れ場所なんて……」


 言いながら、若菜ははっとした顔つきになった。


「……心当たり、なくもないけど」

「じゃあそこに行こう。事情は道中で話すから」綾斗は真剣な顔で告げた。「できるだけ走ったほうがいい。もう来てるから」

「だから何が――」

「いいからはやく!」


 綾斗に手首を引っ張られ、若菜は痛みに顔をしかめた。

 ぜんぜん優しくない。彼ならもっと心地のいい力で手をとってくれるのに。


 そのとき、若菜はようやく気付いた。窓から差し込む月明かりに照らされ、綾斗のぼろぼろになった制服のシャツのありさまと、手首や足首や頬に散らばる無数の痣や擦り傷の数々に。

 若菜は綾斗を連れて部屋を出て、回廊のさらに端へと向かった。


「言っとくけど、これといった隠れ場所なんかないからね」

「ないの? こんなに荒れ果ててぼろぼろで、瓦礫だらけなのに」

「だからでしょ。まともに部屋の機能を残した場所は限られてるし、そもそも扉が残っててちゃんと動かせる部屋だって少ないのに」

「じゃあ――」

「さっきの部屋が一番まともなの。あとはサロンとか食堂くらいなもので……でも一階だし、窓をやぶられたらおしまいだし……というかわたし、だれに襲われるの?」

「しっ」


 綾斗は若菜の手をぐいと引いて立ち止まり、じっと耳をすませる。若菜もよくわからないまま目を閉じた。


 遠くから、かすかに物音がする。がらん、ばたん、と瓦礫の山を人為的に崩すような物音が。


 確実にだれかが屋敷内に入ってきている。しかも複数人。物音の立て方からして乱暴で粗野な感じがした。


「来た」


 綾斗は青ざめ、若菜をうながした。


「はやく、どこか隠れ場所に」

「だから無いってば。この廊下の端に階段があるからのぼって、物陰にじっとするしかないよ」

「上なんかだめだ! いざってときに逃げ場所がない」

「じゃあどうしろっていうの? 今から一階に降りろって?」


 そのとき、がらがらと何か崩れるような音がひときわ大きく響き渡り、綾斗も若菜もはっと身を固くした。


「もう、近い……う、上に行くならはやく」


 綾斗の声は気の毒なほどか細く震えていた。


「いったいなんなの? だれが来てるの?」

「……ごめん、春風さん」


 綾斗の、若菜の手首を握る手がみるみる冷えていく。


「来てるの、南雲なんだ」

「……え?」

「葛西さんも来てる」


 若菜の頭に、学校の教室とクラスメイトの顔が浮かんだ。南雲は男子グループのリーダー格で、いつも偉そうにふんぞりかえりながらスマホをぽちぽちしているだけの男だ。


 この春、クラスが変わって慌てて教室に飛び込んだとき、偶然南雲の肩にぶつかってしまった。そのときの若菜を睨みつけた恐ろしい目つきと、若菜の胸や足を見て瞬時に目の色を変えたときの様子をまざまざと思い出してしまう。それ以来、彼からの嫌らしい視線や、近くを通るたびにわざと聞こえよがしな声でセクハラまがいの発言をしてくるのが気持ち悪くてずっと避けていたのだ。


 葛西は、葛西アコ――女子たちを引き連れ、若菜をトイレに連れ込んで暴力を振るい、水を浴びせ、はだけさせた胸に「ビッ〇」とペンででかでかと落書きする女だ。


 葛西と南雲は一応同じテニス部で、存在感こそ似ているが別に仲良くしている様子はなかった。葛西は好きな男が他学年にいるし、「南雲はエロ猿だからあり得ない」とまで堂々と大声で言っていたくらいだ。だから二人が一緒に来ているのは不思議でしょうがなかった。


「なんで、あの二人が?」

「……僕のせいだ」

「どうして?」

「僕が、春風さんをストーカーしたから」


 綾斗は泣きそうな顔でうなだれた。


「僕のスマホの写真を見られて、春風さんのこといろいろ知られて……ここに来てるってことを知った南雲が、だれもいない廃墟なのをいいことに春風さんを襲えるって気づいて計画を立てたんだ。それに賛同した奴らも一緒に来てる。そいつらから、葛西さんの取り巻きに話がいって、葛西さんも来たがって……」


「待って、意味が……意味がよく……」

「春風若菜ああーー!」


 階下の奥から声が響き渡り、若菜も綾斗も同時に肩を飛び上がらせた。


「出てこいよーー! どっかにいんだろ?」


 南雲の声だ。足音も複数聞こえる。


「つか最悪ー、どっかで足すったんだけど」

「きったねー廃墟。こんなとこにマジで春風いんの?」

「てか南雲さあ、春風がいたとして、マジでこんなとこでヤれんの?」

「ヤんだよ。くれーし広いし動画録んのにいいじゃんここ」


 がやがやと次第に声が近づいてきて、やがて廊下の瓦礫を乗り越えながら南雲たちが姿を現した。若菜は思わず両手で口をふさぎ、後ずさる。

 綾斗も回廊の柵を両手でつかんだまま、彼らを見下ろす格好で固まっていた。


「てか木村は? あいつどこいったの?」

「なんか悲鳴上げながら急に走ってったよな。マジうけるわ。肝試しとか苦手なんじゃね?」

「でも真っ先にこっちに走ってったから、いるよな絶対。おーい木村あああー!」

「隠れてんじゃねーぞ!」


 彼らに名を叫ばれるたび、綾斗は全身をびくびくと震わせる。彼の体のあちこちに見える痣や擦り傷の正体に若菜はようやく思い至った。


「上に逃げても、逃げられないよ」


 若菜は自嘲気味に笑った。


「逃げて、追いかけられて、追い詰められて……結局彼らに捕まって無様ぶざまにやられるくらいなら、いっそ目の前で死んでやるほうがいい気がしてきた」

「……春風さん?」


「でも、それはだめなの。できない。自殺したら魂は問答無用で地獄行きなんだって。それは困るの、すごく」


 若菜は膝をかかえたまま綾斗を見る。その目じりに浮かぶ涙の粒を、綾斗の瞳が一瞬、とらえた。


「邪魔してほしくなかった。あのとき、わたし、死ねるはずだった。死んだらきっと、永遠にここにいられるのに」

「邪魔って……」


 綾斗の頭におぞましい怪異と、それに首を絞められていた若菜の姿が浮かぶ。


「僕は、ただ、春風さんが危ないと思って……」

「余計なお世話よ。ああ、もう、綺麗に死ねるチャンスは二度とこないかもしれない。あいつらに捕まって、体を好き勝手されるのに耐えかねて、自分で舌を噛んでしまうかもね。そうなったらわたしは地獄に行くことになって、彼と一緒に暮らせなくなる」

「〝彼〟って、あの――」


 そのとき、階下でガラガラ、ガタン、と騒々しい物音が響き渡った。見れば南雲の取り巻きの男子たちが、彼の命令で階段の下に広がる瓦礫を放り投げながら道を作っている。


 瓦礫とはいえ、もとはこの屋敷の一部だ。天井や床だったかもしれない。階段の手すりだったかもしれない。それらが乱暴な音を立てて崩されていくたびに、屋敷が汚いものに荒らされていくような気がして、若菜は我慢できずにその場で立ち上がった。


「は、春風さん」


 綾斗が慌てて若菜のスカートの裾を引くが、その手を振り払い、大きく息を吸い込む。


「やめてよ!」


 高く鋭い声がりんと響き渡り、下の階に広がっていた彼らが一斉に顔を上げた。突然聞こえた声の出どころを探り、目を凝らす。一番はじめに声を上げたのは、広場のど真ん中でポケットに手をつっこみ立っていた南雲だった。


「うっそ、マジでいたわ」


 彼はポケットから手も出さず、薄笑いを浮かべて若菜を見上げる。


「よお、春風ー! そんなとこにいないで、降りて来いよ」

「行くわけないでしょ。馬鹿じゃないの」

「あっそ。じゃいいよ、こっちから行くし」


 南雲は機嫌よく歩き出し、男子たちを押しのけて瓦礫を蹴り、階段に足をかける。


「やめてってば! 乱暴に扱わないで!」

「なんで? この廃墟、おまえのなの?」

「……ちがう、けど、でも――」

「ならいいじゃん。おまえに関係ねーだろ。てか木村見なかった? 俺らと一緒に来てんだけど、あいつビビッてどっかに逃げやがってさー」


 南雲は運動神経がいいのだろう。瓦礫やあちこちに空いた穴を器用に避けながら、あっという間に上までたどり着いてしまう。若菜の後ろに縮こまっていた綾斗は小さく息をのみ、近くに積まれた残骸の裏に急いで這いよった。


 綾斗が必死に息をつめながら隠れているのを、若菜は振り返らずとも感じていた。だが彼のことなどどうでもいい。目の前の男の粗暴が我慢ならなかった。

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