第10話 愛した報い

「春風さん、何やってるの、逃げなきゃ――」


 綾斗のささやきにも、若菜は耳を貸さなかった。


「逃げたきゃ逃げて。わたし、これ以上ここを壊されるのが我慢ならないの」

「何言ってるの、バカじゃないの⁉」


 バカなことを言っていると、自分でも思う。

 自分は目の前の奴らより土地勘があるのだから、わざわざこうして姿を現さなければうまく逃げられたかもしれない。だが、奴らが自分を探して屋敷じゅうを荒らしまくるのがどうしても許せなかった。


 ここは、彼とわたしの城。

 だれにも壊されたくない。荒らされたくない。


「お願い。ここから出て行って。そしたら言うこと聞くから」

「えー? 外でヤろってこと? 春風って意外とそういうのいけんだな」

「言ったじゃん、そいつビッチだって」


 下から葛西アコの声が響く。


「男からエロい目で見られんのが好きな根っからのビッチだよ。人の男に手ぇ出してさ」

「そりゃおまえが悪ぃよ。春風のほうがエロいもん」

「はあ……?」

「じゃあついてこいよ春風。外でもいいぜ別に。いいのが録れたら俺はそれで満足だからさ」


 若菜は下唇を噛み、左腕を掴んでいた右手の先にぎゅっと力を込めた。


 ――これでいい。


 これでいいんだ。

 わたしが言うことをきけば、彼の城は壊されない。

 でも、事が済んだらきっとわたし、死ぬんだろうな。死なずにいられない。

 汚されたからだを彼に触られたくないし、そもそも近づくことすら拒否されるかもしれない。そんなの絶対、耐えられない。


 若菜がそろそろと足を踏み出す。その眼に宿った暗い決意は、綾斗が若菜に心を奪われたあの夜の、凛とした空気を纏わせていた。





 一方綾斗は、その場から一歩も動けなかった。

 南雲たちから与えられた痛みと屈辱と恐怖、そして、若菜を彼らに売ってしまった負い目が枷となり、綾斗の全身を押さえつけていた。


「ちんたら歩いてんなよクソ女」


 下から葛西アコの苛ついた声が鋭く響く。


「クソビッチのくせに、喜んでほいほいついて来いっての」

「まあまあ、そうキンキンすんなよ」南雲が肩をすくめる。「焦んなくても、録画さえできたらおまえは復讐できるし俺らは儲かるし? お互いこれからいいことしかないんだからさ」


 南雲と若菜の足音が離れていき、階段を降りていく。綾斗は自分の両肩を掴みながらぶるぶると震えていた。


 若菜はこのあと、屋敷の外で奴らに汚される。その映像が録画され、動画サイトで販売されれば、若菜は体のみならず存在までもが汚され、世界中の見知らぬ奴らの慰み者にされてしまう。永遠に。


 自分が、若菜に付きまとっていたせいで。

 彼女の写真を勝手に撮っていたせいで。

 彼女の居場所を、吐いてしまったせいで。


「怪物……怪物さん……さま……」綾斗は震えながら無意識のうちに懇願していた。


「僕を罰して……僕のせいです……僕のせいで、春風さんが……どうか、あのひとたちから守ってください。お願いです。あなたの大事な春風さんが、めちゃくちゃにされてしまう」


 あのとき、怪異と若菜の戯れをどうして止めてしまったのか、それさえも綾斗は悔やんでいた。愛する怪異との戯れのなかで死ねたら、彼女は今頃幸せだったかもしれないのに。


「ぼ、僕を、いけにえにしてもいいから……どうか春風さんを助けてください。あんな奴らに触れさせたらだめだ。お願い、お願い……!」


 その言葉は唇から漏れ出て、ついにはっきりと響き渡るほどの大声になった。階下で騒いでいた連中の声がぴたりと止む。


「……今、木村の声がしなかった?」

「マジだ、木村だ。おーい木村ああ!」南雲の恐ろしい声が響き渡る。「どこにいんだよーー、出て来いって! おまえにも礼として、春風の相手をさせてやるからさあああ!」


「い、いらない! そんなのいらない!」


 心臓がどくどくと激しく脈打ち、全身に熱い血が駆け巡る。綾斗は鼓動に急かされるように立ち上がり、柵ごしに階下の男たちを見下ろした。


「は、春風さんを離して……! そのひとは、おまえらとは違う……!」

「ああ?」


 次の瞬間、南雲が苛立ったように若菜を突き飛ばし、大股で階段まで引き返してきた。


「てめえ、もう一回言ってみろ。きっしょいクズのストーカーのくせによお」

「……っ」


 綾斗は我に返り、背をひるがえして駆けだした。つまづきそうになりながらも懸命に瓦礫や壁の残骸を後ろに投げ、道を塞ぐようにして走る。


「おい! てめえ逃げんじゃねえ! ……クソ、ふざけんなよ。今度会ったらマジで半殺しにして、おまえのやったこと全部ネットに流してやるからな!」


 南雲が苛立ち紛れに振り返り、しりもちをついていた若菜の手首を掴んで強引に引き上げる。


「おとなしく来いよ。おら、歩け」

「ちんたらしてんなよゴミ」


 葛西の靴底が若菜の尻を蹴る。衝撃でバランスを崩し、若菜は足元の床の割れ目につまづいた。膝に鋭い痛みが走り、床の尖った部分が皮膚を浅くえぐったのだと悟った。


 じわり、黒ずんだタイルに赤いものが広がっていく。


 ――ああ、わたしも屋敷を汚してしまった。


 葛西に蹴られ、若菜はよろよろと立ち上がる。膝から血のしずくがこぼれ、床に広がる赤い水たまりにぽたりと波紋を広げる。


「ごめんなさい」


 若菜はそっとつぶやいた。静かに、頬へ涙をつたわせながら。


「ごめんなさい。あなたのお城を汚して」

「何言ってんのこいつ。きも」


 葛西の言葉ももはや耳に入らなかった。


「あなたと一緒にいたかった。死なせてほしかった。でも、もうそんな資格はないから……せめて、これから起こることを、どうか見ないで」


 今までどおり屋敷の中にいて、窓の外を見ないでほしい。彼に、自分の醜態をさらしたくない。


「わたし、エマじゃありません。あなたに殺されるのが怖くて、あなたとずっと一緒にいたくて、とっさに嘘をつきました」

 あなたのエマに、なりたかった。


「わたしはあなたと何の関係もありません。それなのに、最初にここに歓迎されて、嬉しかった。抱きしめてもらえて、その冷たいあたたかさが忘れられなくて……あなたのわたしになりたくて……」


 葛西が何か言っている。南雲が肩を強引につかみ、外へ連れ出そうとする。それでも若菜は告白をやめられなかった。


「あなたの愛を利用して、ごめんなさい。せめてこれから起こることを、どうか見ないでください」


 ――あなたを愛して、ごめんなさい。


 最後の淡いつぶやきが、空気に溶け入るように消えていく。


 誰かの手によって、玄関の扉が開かれる。


「うわ、やっぱ庭荒れてんなあ。外でヤんの無理くね?」

「裏のほう、そこそこひらけてなかったっけ」

「あーそうだっけ。俺らが入って来たとこだよな。あっち行くかあ」


 後ろで彼らの声が聞こえる。屋敷に引き返すのかと思い、若菜は玄関の境目で足を止めた。


 だが、次の瞬間、後ろからとんと優しく背中を押される感触がした。


 南雲のものではない。葛西でもない。いったい誰が――慌てて振り返ったとき、「うわ!」という声とともに扉が閉じられ、ガチャリと鍵がかけられた。


 今の声は、奴らのものだ。どうして扉が?

 背中を押した手の正体に思いあたったとき、若菜の鼻腔を焦げ臭い煙のにおいがかすめていった。

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