第11話 あなたの気持ち
*
綾斗は見ていた。慌てて逃げ込んだ二階の端、バルコニーへ続く壊れた扉の前の柵から、階下で起こった惨劇を。
初めに甲高い悲鳴がほとばしった。暗闇のはずの階下に血だまりがじわじわと広がっていくのがはっきりと見える。それは南雲の連れて来た取り巻きのひとりのものだった。血だまりのなかにべしゃりと倒れ込み、四方に赤いしぶきが飛び散った。
血だまりのなかのそれは、あるはずの両手と両足が見えなかった。
あまりに一瞬で、何が起こったのかだれも理解できなかった。ただ綾斗だけは、頭上高くに吹きだまった重々しい闇の靄のなかから、ぞっとするようなどす黒い視線を感じていた。
「きゃあああああ!」
次に叫んだのは葛西だった。倒れたものが見知ったクラスメイトの体だと認識するやいなや、慌てて玄関の扉に飛びつく。しかしびくともしない。
「なによ、なんで!」がちゃがちゃとドアノブを揺らしながら叫ぶ。「このクソビッチ! そこにいるでしょ⁉ いるなら開けてよ、開けてってば――」
その直後、天井から肉の触手が綾斗の視界を横切り、目にも留まらぬ速さで葛西の口に巻きつくと強引に扉から引きはがした。引きずられた靴のかかとが血だまりをずるずると塗り広げ、どさりと乱雑に瓦礫の山へ放り投げられる。
誰もが、不可思議な何かの力を感じ取った。南雲の目が素早く天井に向けられる。
「なにか、いる……」
彼のつぶやきが足もとに落ちた瞬間、天井の闇に潜んでいたおぞましい怪異の全身から無数の触手がほとばしった。その一つ一つが槍の切っ先のように鋭く尖り、逃げ惑う南雲たちに一斉に襲い掛かる。
足音と悲鳴が散り散りに遠ざかっていく。だが悲鳴の尾は次々と不自然に途切れ、ドス、と肉に何かが突き刺さる鈍い音が響く。ひとり、またひとり……ここからでは姿が見えないのに、まるで目の前で行われているかのように惨劇の様子が感じ取れる。
綾斗の足は縫いつけられたように動かなくなっていた。怪異の本体はすぐ頭上にいるのに、徐々に消えていく悲鳴を耳にしながら、無様に逃げる選択肢すらとることができなかった。
めらめらと肌を焦がしそうなほどの強烈な怒りがそこにある。一歩でも動けば、あの槍に背中を貫かれそうだった。
「た、たすけて、たすけてえっ!」
必死に懇願する甲高い声に、葛西のものかと階下を見下ろす。だが、そこには地に這いつくばる南雲の姿があった。背中に空いた穴からおびただしい赤いものがあふれ出て、彼の這いずった道筋をくっきりと塗り広げている。
「き、木村……! 木村あああ!」彼が片手を上げて必死に空を掻く。「春風! なあ、いるんだろ……? 全部冗談で……なあ、だから……っ」
綾斗が一度瞬きするあいだに、天井から無数の槍が降りそそぎ、彼の最後の声を容赦なく封じた。
「あ、あ、……あ」か細い声が階下から聞こえる。見れば、葛西が必死の形相で瓦礫の山にしがみついていた。
怪異に放り投げられてから動けずにいたらしい。そのときかなり嫌な音がしたので、どこかが折れたのかもしれない。不思議なことに、暗いはずのホールでも、彼女のスカートの下から黒々とした染みが広がっているのが見えた。
「お、お願い、ゆるして……ゆるしてよお……」瓦礫にしがみつきながら、槍の降ってきた天井を振りあおぐ。果たして、彼女の目にはアレが見えているのだろうか。
――いや。きっと見えていない。
もしアレが視認できたなら、言葉さえ発することもできないはずだ。あの激しい憎悪と怒りの塊は、まるで黒い太陽のようにホール中を焼き尽くさんと燃えているのだから。
「あ、あたしはただ、誘われただけで……! 悪いことなんて何も……!」葛西は何を思ったのか、突然ぺらぺらとしゃべり始めた。「そ、そりゃ、ちょっと悪ふざけがすぎたかもって……でもあたしまだ高校生だし、間違って当然だし、今回のことだって、春風と仲良くしたくてそれで……っ!」
どすっ。
どすっ。
どすっ……
赤黒い槍が虫ピンのように葛西の手足を刺し貫き、瓦礫の山に固定する。
悲鳴は、上がらなかった。人は想定以上の痛みに襲われたとき、悲鳴さえあげられないのかもしれない。最後に一閃、槍の切っ先が葛西の喉笛を貫いた。
怪異の怒りが次に自分に向けられるかもしれないと、綾斗はようやく我に返った。だが、得体のしれないものの力から逃げおおせるわけなどないことは目に見えている。
「……僕は、この場所をこんな状況にした原因です。春風さんに付きまとって、こいつらをここに呼んでしまいました」
若菜がこぼしたように、綾斗も無意識に吐露していた。だが天井の怪異は動かない。いつまで経っても槍の降りそそぐ気配がない。
じりじりと天井を見つめていた綾斗の鼻腔に、ふいにはっきりと焦げ臭い煙のにおいが差し込んだ。
「……え」
綾斗は恐ろしい天井から目を逸らし、バルコニーの外に視線を移した。
屋敷の西側から、ゆらゆらと黒い煙がたちのぼっている。橙色の火のゆらめきが建物の裏手から見えていた。
火だ。庭が燃えている。――火事だ!
焦る綾斗の脳裏に若菜の顔が浮かんだ。彼女は庭に追い出されたままだ。もう逃げただろうか? いや、屋敷内から次々に上がる悲鳴に驚き、足がすくんでいるかもしれない。火災に巻き込まれたら、彼女は無事ではすまない……
次の瞬間、綾斗は天井の暗闇に背を向け、脱兎のごとく駆けだした。壊れた扉の枠を肩で押しのけ、柵の抜け落ちたバルコニーから下へと飛び降りた。
*
若菜の視界の端で、どすん、と何かが落ちてきた。音のしたほうを振り返ると、がさがさと植え込みの茂みが揺れ動き、中から綾斗の顔がぬっと突き出した。
「うわっ」
「あ、春風さん……まだそこにいたの」
綾斗は慌てて這い出てきて、痛そうに腰をさすりながらも屋敷の西側を指した。
「火が出てる。すぐに逃げたほうがいい。そうだ、消防車を呼ばないと……」
綾斗がポケットからスマホを取り出し通報するあいだも、若菜は呆然とそこに突っ立っていた。だがやがてはっと体を震わせ、玄関の扉に飛びついた。
「春風さん⁉ なにやってるの!」
「離して! 火を……火を消さないと」若菜は自分の腕を引く綾斗の手を、力づくで振りほどく。
「彼の城をこれ以上壊したくない! お願いだから離して……!」
「無茶だ! もうすぐ消防車が来る。プロに任せたらいいじゃないか。春風さん一人で何をどうするっていうんだよ」
「なにもせずにここで黙って見てろっていうの? 彼の屋敷が壊れていくのを、じっと見ていろって……?」
「しょうがないでしょ! ほかに何があるんだよ! 君がみすみす傷つくのを彼が赦すと思うの⁉」
彼、と口にした瞬間、若菜のもがく手が止まった。
「……彼は、もう……わたしとは無関係だから」
「え?」
「わたしは、彼を騙してた。彼の大切なひとの振りをして……愛されようとした。それももうバレたから、わたしはもう、彼のなんでもないの」
「あのさあ」
綾斗は呆れ半分でスマホを操作する。アルバムを開き、ふと我に返った。
そうだ。すっかり忘れて開いてしまったが、あの写真たちはすべて消されているのだ。
だが、開かれたアルバムを目にして綾斗は固まった。我が目を疑い、アプリを閉じてもう一度開く。
「……春風さんと彼のあいだに何があったのか、僕は詳しく知らない。でも、さすがにわかるでしょ。その人が彼にとって本当に大切なひとなら、目の前の春風さんが別人だってことくらい」
「……」
「彼はさ、騙されたふりをしたんじゃないかな。それほどまでに……春風さんが存在を偽ってでもそばにいようとしたことが、嬉しかったんじゃないかな」
綾斗はスマホの画面を若菜に見せた。それは以前スクショした、暗闇のなかの赤外線写真。若菜が肉塊に抱き包まれ、幸福の笑みを浮かべながら眠りについている姿だった。
「そ、れは」
若菜は口元を覆い、みるみる瞳をうるませる。
「そういえば、木村くん、わたしのストーカー……だったんだっけ」
「……はい。ごめんなさい」
「全部、覗いてたの?」
「……はい。カメラをその、設置して……」
「あっそう。最っ低」
「でも、その、春風さんの裸が見たいとかそういうんじゃなくて……ゴスロリがあまりに似合ってて気になって……最初はそういう気持ちだったんだけど、いつの間にか、彼と君の幸せそうな姿を見るのが生きがいになってしまって」
若菜はしばしのあいだ、口を開かなかった。綾斗はぐっと唇を噛み、彼女の侮蔑の言葉を覚悟した。
「写真、全部くれない?」
「――えっ」
「いいから、全部ちょうだい。それで今までのことは赦してあげる」
綾斗はこわごわと顔を上げ、スマホを見、若菜を見、もう一度スマホを見下ろした。
「写真……だけで、いいの?」
「大切な思い出が残ってて、すごく嬉しいから」
「わかった。すぐ送る。ID教えて。あとでアルバム作って、一括で送るから」
「うん」
若菜は綾斗のスマホ画面を覗き込みながら、感慨深げにため息をついた。
「木村くん、最初驚かなかった? その……彼の見た目とか、その彼と戯れてるわたしとかに」
「ああ……そりゃ、まあ……」
肉塊と少女の戯れの異常さに興奮したなんて、綾斗はとても言えなかった。
「わたしもね、初めは彼がすごく怖かった。当然だけどね。首も手も見えない、透明人間の彼に突然屋敷に引きずり込まれて、泥の塊みたいなのを食べさせられそうになって――」
「待って」綾斗は思わず話を遮った。「透明人間って?」
「彼のことに決まってるでしょ。ほら、ここに写ってるの、わからない? 首、ないでしょ」
若菜が当然のように画面を指差す。だがそこには、綾斗の目には赤黒くぬめった不気味な肉塊が横たわっているだけだった。
「春風さん……あの……」
「でも、この燕尾服が素敵で……わたし、ゴスロリ好きだから、当然執事服も好きで……ある意味一目ぼれだったかもしれない」
綾斗は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
彼女の視界と自分の視界に差異があったとしても、それを伝えて何になるというのだろう。
そのとき、屋敷の裏からがたんと大きな音が響き渡り、がらがらと何かの崩れ去る音が空気を不気味に震わせた。
「屋敷が崩れてる」若菜が不安げにつぶやく。「消防車、まだなの……?」
「呼んであるから、もう少し待って。それにこんな山道、消防車が来るのも難しいと思うし……」
「彼のお城が……」若菜は我慢できずに玄関へ踏み込んだ。
「待って、春風さん! そろそろ火が回ってくる。もう離れよう。できれば麓に――」
「いや! それだけはできない。彼のお城が壊れていくのに、そばを離れるなんて!」
「だから、君が巻き込まれたら、彼だって悲しむに決まってるだろ!」
綾斗が思わずそう怒鳴った瞬間、キィ、とかすかな音がして、二人は同時に玄関へ首を振り向けた。
扉がゆっくりと開かれていく。その向こうに立っていた〝彼〟の姿に、若菜は泣きそうな顔で駆け寄った。
「ああ、よかった……もう出てきてくれないかと……あ、でも」若菜ははっと我に返り、慌てて彼から飛び退いた。
「その……ごめんなさい、わたし……」
あなたを騙して、と言いかけた言葉は突如途切れた。ぐいと肩を抱き寄せられて、若菜は彼の燕尾服の胸に顔を押しつけられていた。
それだけで、言いかけていたすべての言葉が消え去った。若菜は迷いなく両手を彼の背に回し、力いっぱいに抱きしめる。
「――連れてって」
若菜の微かに漏らした声に、燕尾服の胸が小さく震える。
「このまま、連れて行って」
後ろで綾斗が何か言いかけ、だが唇を引き結んでぐっと耐えているのも、若菜は知る由もない。
お屋敷がなくなったら、彼はどこへ行くのだろう。たとえ地獄の底へでも、ついていきたかった。
ぐ、と肩に冷たい手の感触がして、若菜のからだが少しだけ離される。続いて、戸惑う若菜の肩をぽんと軽く押す感触。
転びかけた若菜のからだを、すんでのところで綾斗が受け止める。だが受け止めきれずにふたりそろって尻もちをついてしまった。
「いっ――」
綾斗が短く呻いた直後、轟音と共に屋敷の裏側が崩れ去り、ぶわりと一気に炎が燃え上がる。
二人の目の前で彼は一歩下がり、靴先を完全に玄関の中へ収めてしまった。ガラガラ、背後で何かが次々と音を立てて崩れ落ちていく。炎の先が夜空を舐めるようにゆらゆらと広がり、眩しいほどの火の光を背に受けながら、彼がすっと背を折り曲げた。
それは、若菜が初めて彼を目にしたときの、あの丁重な一礼そのものだった。
「い、嫌」若菜は慌てて立ち上がろうとするが、手足を抑え込まれていて身動きが取れない。
「ちょっと、離して! 邪魔しないでよ!」
「僕じゃない」
綾斗の目にははっきりと見えていた。屋敷の中に体を引っ込めた怪異の巨体から無数の触手が伸びて、若菜の手足を抑え込んでいる。
彼女を、自分のほうへ来させないようにと。
「彼の気持ちを汲んであげなよ」
それが、綾斗に告げられる精いっぱいの言葉だった。打ちひしがれた若菜の見開かれた眼に透明な涙がたまっていく。
きっと彼女は、涙が頬に伝うたび、〝彼〟に拭われていることにさえ、気づかないのだろう。
押し黙る二人の耳に、やがて甲高いサイレンの音が近づいてくる。〝彼〟は最後まで身を起こさなかった。
***
山奥の廃墟が火災に遭い、その場に居合わせた高校生5人が死亡。残る二人はいずれも軽傷を負っていた。
死亡した5人の高校生たちは二人を廃墟に呼び寄せ、暴力を振るっていた疑い。なお、高校生たちの誰かが捨てた煙草の吸殻が火災の原因となったと見られている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます