第7話 鎖と罰


 三十八度。

 若菜は体温計を覗き込み、がくりと腕を下ろした。朝から熱が出てしまい、ベッドで横になっていたのだが、いつの間にか昼の三時になっている。


 ――今日は、あそこに行けそうにないな。


 咳や鼻の異常はなく、かすかな悪寒があるだけだ。明日には治るだろうが、あの幽霊が心配しているんじゃないか、寂しがっているんじゃないかと思うと気が気でなかった。


 彼にとって、自分は若菜じゃない。エマなのだ。その自覚をもっと持っておくべきだった……


 やるせない気持ちで背中からベッドに倒れこむ。数秒後、玄関からがちゃがちゃと鍵を開ける音がした。

 若菜は弾けるように起き上がった。――ママだ! と思った直後、首をぶんぶん横に振る。


 帰ってこなくてよかったのに。


 もう長いこと家に帰らないでいたくせに、突然帰って来た勝手な母親を睨みつけてやろうと、若菜はベッドから降りて扉を開け、首だけ出して玄関を覗き込んだ。


「あら、若菜。学校はどうしたの?」


 母がいる。その後ろに、母より少し背の高い、中年の男が立っていた。


「だめじゃない。ママがいないからって学校さぼったりしちゃ」

「こらこら藍佳あいかさん、たまにはサボりたい日もありますって。ねえ若菜ちゃん」


 男が浮ついた笑みを浮かべる。若菜は乾いた喉に唾を無理やり押し込んだ。


「あの……そちらは……」

「初めまして、若菜ちゃん。僕は藍佳さんの恋人です」

「もう、やめてよ。まだ許してないわよ」

「失礼、じゃあ恋人候補ってことで」


 若菜は口をぽかんと開けて、目の前のやり取りを見つめていた。


「ママ、また恋人が変わったの?」と、口にできたらどんなにいいだろう。

 だが、それだけは許されないことを、若菜はよく知っている。


 母の恋人を名乗る男は、母に「ユタカさん」と呼ばれていた。彼がこの家にいるあいだだけ覚えておこうと若菜は思った。


 彼は母の愛人で、話しを聞く限りヒモのような存在だ。家に来てほしくなかった。母の寝室は若菜の寝室の向かい側にある。音が丸聞こえだ。


 ああ、今すぐ家を出られたらどんなにいいだろう。

 某アニメの、どこへでも行ける扉があったら、すぐにあの屋敷へ逃げ込めるのに。

 

 家に知らない男の人がいるという状況で、母は「風呂に入れ」と言う。熱があると説明しても聞き入れられなかった。熱は「気のせい」だと言われた。

 昔はそれも素直に信じられただろうが、今はもう騙されない。母は頭がおかしいのだと理解している。


 シャワーを止め、ドアを開けて手を伸ばす。タオル掛けからバスタオルを取った瞬間、ぞわりと嫌な感じがして若菜は首を振り向けた。


 洗面所の戸口が、小さく隙間を開けている。その向こうに、男の眼があった。心臓がびくりと跳ね上がり、若菜は慌てて風呂場に引っ込んだ。


 母の「愛人」は、本当に愛人なのだろうか?


 全身の水滴をタオルでぬぐっても、肌から吹き出したぬるい汗が止まらない。息をつめ、音をたてないようにそっとドアを開けると、あの眼はもうどこにもなく、扉はぴたりと閉じていた。




 自室に鍵がかけられないことを、これほど嘆いたことはない。

 夜の十一時。熱は相変わらず三十八度前後をうろうろしている。できるだけ台所に行かなくて済むように、スポーツドリンクや水を部屋に置いている。それでも不安はぬぐえない。


 枕元にあの布の包みを置いている。汚らしいボロ布だが、中には錆びた懐中時計が入っている。あの屋敷に行けない今、自分と〝彼〟をつなぐものはこの時計しかなかった。


 部屋の明かりを消したはいいものの、目を閉じることなどできなかった。風呂場を覗いていたあの眼がまた現れるかもしれない。若菜は部屋の扉のドアノブを懸命に凝視していたが、熱に浮かされた体はもう限界だった。


 見張っていなければいけないのに。

 この部屋に鍵はかけられないのに。

 あの男は今晩、この家に泊まると言っていたのに。

 疲労と熱を食べた睡魔は、若菜を眠らせるのにさほど労力をかけなかった。




 若菜は突如、全身にのしかかる重みで目が覚めた。あの屋敷の〝闇〟とは違う、物理的な圧迫感――男だ。悲鳴を上げかけた口を湿った手で押さえつけられた。


「若菜ちゃん……」


 ユタカさん、と呼ばれた男の生臭い息を鼻で吸い込んでしまい、若菜は思わず咳き込みかけたが手でふさがれている。生理的な涙が目じりに滲んだ。


「写真で見たのよりかわいいね……本当に高校生? 背が高くて胸もお尻も大きくて、まるで大人の女性みたいだよ」


 どうして。

 母は? 今何をしている?

 自分の恋人が娘に襲い掛かっているというのに何も気づかないのか?

 若菜の脳内を見透かしたように、男は鼻で笑った。


「ママは来ないよ。ママはお金を払ってくれた。これで利子分はちゃらだ。ママが僕にお金を返し終わるまで、君は僕のものだよ……若菜ちゃん」


 生あたたかい大きな手で胸を鷲づかまれた瞬間、目の前の男と女子生徒たちの下卑た嗤いが重なった。


『死ねクソビッチ!』『人の男うばいやがって、ふざけんなよ』


 怒号の幻影が男の吐息と入り混じって、耳元を覆いつくしていく。


 ――どうぞ、殺してください。

 ――もう、どうでもいいです。

 あのときはそう言った。今も言いたいが、何かの布を口に噛まされて喋れない。

 何もかも諦めて自衛することさえ許されない。


 お願い、殺して。殺してよ。

 今すぐ死なせて。全部おわりにして。

 もう幸せなんて望まないから。

 舌を噛み切らせてくれたらそれでいいから。

 


 ――あのとき、嘘をついたせいだ。

 幽霊さんに、わたしはエマだと偽って、怒りを鎮めてしまった。

 あのまま怒り狂った彼に呪い殺されたほうが百倍マシな人生の締めくくりになれたのに。

 

 ごめんなさい、幽霊さん。

 私は、若菜といいます。

 エマお嬢さまじゃありません。お金持ちでもありません。ただの高校生です。

 あなたに抱きしめてもらえなくなるのが怖くて、嘘をついてしまいました。

 だからどうか、呪い殺してください。

 あなたにされるなら、どんな罰でも受け入れます。

 

 男の湿った手の感触が、胸から下に這いおりる。

 キーンと耳障りな音が耳の奥で響いている。あの気持ち悪い息遣いは聞こえない。凪のような静けさのせいで、若菜は目の前で起こっていることに気がつかなかった。


 若菜にまたがり膝立ちをしたまま男がもがいている。両手で自分の首を押さえて激しく身をよじっている。何が起こっているのかわからず、若菜は上体を裸に剥かれたまま、呆然と目を見開いていた。

 この人は何に苦しんでいるのだろう。


 部屋の豆電球のオレンジ色の光が若菜の瞳を開く。男の首に、きらりと巻きつく細い鎖が見えた。

 あれは……懐中時計の……


 耳鳴りがキーンとうるさく響く。男の開いた口からほとばしっているであろう醜い悲鳴も聞こえない。鎖はぎりぎりと巻きついて、男の口端から汚い泡が滲みでる。


「やめて」


 若菜は思わず口走っていた。


「もういいの、やめて、死んじゃう」


 だが、ピンと張った鎖は緩む気配を見せない。若菜は咄嗟に手を伸ばし、鎖の先で揺れる懐中時計を掴んだ。


「お願い。この汚い人の体を、私に倒れこませないで」


 時計から伸びた鎖から、ふっと力が抜ける感触がした。ざらざら、鎖が男の首から床へ落ちる。瞬きのあいだに、鎖はもとの長さに戻っていた。


 男はげほげほと咳き込みながらベッドから転がり落ちた。口から汚い涎をまき散らしているのが気持ち悪かった。

 床に這いつくばる男の背を、若菜はベッドの上から思い切り踏みつけた。

 ウぅ、とくぐもった声をあげて男がつぶれる。その上から何度も何度も踵を叩きつけ、力いっぱいに蹴り上げる。


「もう――二度と――わたしに――近よらないで!」


 おそるおそる上げた声は、最後には金切り声になっていた。


 鎖に襲われ死にかけたためか、男は抵抗することもなく、虫のように背を丸めてうずくまっている。若菜は男の背や尻を蹴り上げながら戸口まで追い立て、扉を開けて部屋の外へ締め出した。


 耳鳴りの向こうで、男が何か言っている。恐怖の叫びか、小娘にしてやられた怒りか、「ママの借金がどうなってもいいのか」という脅しかもしれない。

 鼓膜がびりびりと震える。若菜は両耳を押さえ、戸口に背を向けて告げた。


「もう、どうでもいいです」


 卓上時計の蛍光針が一秒一秒刻むのを眺めるうちに、張り詰めたような耳鳴りは徐々に遠ざかっていった。扉に耳をつけてみるが、外に人の気配はないように思えた。


 机の引き出しからガムテープを取り出し、扉と壁をつなぐようにべたべたと貼りつけていく。ちょっとやそっとの力では開けられないように、入念に幾重にも分厚く隙間を埋め、扉と壁の見分けがつかなくなったころには、新品同然だったガムテープは半分ほどになっていた。


 すう、と息を吸い込み、そっと長く吐き出す。それからベッドにどさりと倒れこんだ。

 うすく開いた瞼のすぐそばに、錆びついた懐中時計がある。


「ねえ……あなたなの?」


 いるのだろうか。彼が、ここに。

 この時計に憑りついたままついてきてくれたのだろうか。

 〝エマ〟をたすけてくれたのだろうか。


「もう……味方は、あなただけなの」


 両手に時計を包み込み、胸に強く押し抱く。


「会いたい……」


 涙が枕に転がり落ちて、染みを広げていく。


「会いたい。会ったらもう、離れたくない」


 ――わたしを〝エマ〟にして。


 泥を喉に詰まらせて、泥に溺れて死にたい。

 あなたの世話で死にたい。

 呪ってもいい。憑りついていい。

 あなたのそばで死にたい。

 そしたら、あなたと一緒に生きられる。

 ふたりで永遠の夜を生きられる。



 昨晩も、屋敷に春風若菜の姿がなかった。

 綾斗は肩を落としてとぼとぼと校門を潜り抜けた。


 彼女は熱を出しているらしい。やはりあの廃墟での無理がたたっているのだ。早く元気になってくれなければ、あの素晴らしい動画が見られないのに。


 教室の扉を開けると、後ろのほうで男子たちが床に座り込み、スマホをいじりながら談笑していた。綾斗は「おはよう」と当たり障りのない笑みを浮かべて席につく。


「なあ、木村」


 突如呼ばれ、綾斗は振り返る。

 男子グループのリーダー各、南雲堅斗がスマホから目を上げ、にたりと笑った。


「おまえ、前の学校で女子のストーカーしてたってマジ?」


 全身の血が凍りつく。

 綾斗は鞄に手をかけた格好のまま、南雲の顔を見つめて固まっていた。

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