第3話 ひとりにしないで

 燕尾服は、常に懐中時計を持っている。

 燕尾服は、よく見ると裾がすり切れている。

 燕尾服なのに、若菜という客人の扱いが雑だ。

 燕尾服以外に、衣服はなさそうだ。

 燕尾服しか見えないけれど、実際に触れると肩や腕、胸にがっしりとした厚みがある。

 燕尾服ということは、誰かに仕えるひとだったのだろうか。


 燕尾服を着るのは、現代ならばオーケストラのマエストロ、あるいは公の場に出る偉いひとくらいしか思い浮かばないが、偉いひとが誰かの食事を世話したり風呂に入れるはずはないので、これはお仕着せに違いない。つまり使用人だ。執事バトラー従僕フットマンか、他に何かあっただろうか。


 そんなことを考えながら、若菜は今、素裸になって体を洗われていた。石畳に足を投げ出して座っているだけで、彼は隅々まで洗ってくれる。――訂正。女性の部分だけは絶対ふれない。彼はとても貞節ある使用人なのだ。


 とはいえこの浴室は野外同然で、しばらく肌を晒していると寒い。だがそれが、かえってありがたかった。


「寒い」


 そうひとこと言えば、彼は後ろから腕を回して、そっと抱きしめてくれる。できるだけ若菜のいろんな場所に触れないよう、細心の注意を払いながら、優しく。

 寒くなれ。もっと寒くなれ。そしたら「もっと強くして。凍えちゃう」って言えるから。


 ――このひとは、わたしを誰と間違えているんだろう。


 そんな考えがときどき頭をよぎる。

 なるべく考えまいと努めるが、ふとした拍子に考えてしまう。


 もし、そのだれかと自分が別人だと気づいたら。今度こそ襲われて殺されたりするのだろうか?

 それが恐ろしくて、若菜はあまり口を開けなかった。ただ、彼のもてなしに身を任せて、幸せになっていたかった。


 食事と入浴がすんだ。そのあとの流れは初見だ。若菜は燕尾服に元通りゴスロリを着せられ、手に手を取られて廊下を歩む。不思議なことに、若菜の眼は暗い屋敷内のほとんどのものを見渡せていた。ぼんやりとではあるが、少なくとも瓦礫につまずくことはもうないし、壁と扉の見分けもつく。べっとりと黒く塗り込められたように見えた窓でさえ、月明かりを透過してぼんやりと青白い光を帯びている。


 若菜が次に案内されたのは、玄関のすぐ横にある広々とした部屋だった。すり切れてぼろぼろの布きれがところどころ敷かれているが、かろうじて赤い絨毯だとわかる。部屋の中央に何か大きなものが置かれているが、窓辺から差し込む青白い光に目をこらし、若菜はやっとその正体に気づいた。


 ピアノだ。足首が一本だけ折れて傾いているけれど、間違いなくグランドピアノだ。


 燕尾服はピアノに近づき、蓋を持ち上げる。ぎぎぎ、と耳障りな音を立てて鍵盤が姿を現した。上からぱっと見ただけでもひどい有様だ。白鍵も黒鍵もところどころ抜け落ち、奥に見える部品も錆びついてひしゃげて、とても弾ける状態ではなかった。


 燕尾服がピアノの椅子を後ろへ引く。そしてこちらへ向けて、どうぞ、と促した。若菜はどうすればいいかわからなかった。ピアノなんて習っていない。人前で弾いた経験もない。ましてこんな、ぼろぼろに朽ち果てたピアノなんて――


 動かない若菜を、目の前の霊もまた、じっと動かずに見つめている、ように見える。動かなければ逆に不審がられるかもしれない。せめて弾けるふりをしようか。そもそも鍵盤が崩壊しているのだから、弾けたとしてもどうしようもないのだ。


 若菜はおそるおそるピアノ椅子に腰かけた。お尻をのせると不安になるような軋み音をたてたがそれきりで、幸い壊れる気配はなかった。


 若菜は歯抜けの鍵盤を見下ろし、ごくりと唾をのむ。幽霊の期待に満ちた気配を背中に感じ、もうどうにでもなれ、と両手を持ち上げた。


 ふふふんふんふん、ふふふんふんふん……


 ネコを踏んだというだけの単純で可哀そうな曲を、小学生の時に音楽室で遊んでいた記憶だけで奏でてみる。幸いというべきか、かろうじて残っている鍵盤を押しても音は鳴らなかった。何度押してもびくともしないものもある。だから、もはやピアノを弾いているとすら言えない。パントマイムに近い行為だ。


 それなのに、背中で、視界の端で、ピアノの向こうで、彼のそわそわと動く気配がする。若菜の弾く〝姿〟に喜んでいるのだろうか。


 ネコを踏む曲が終わると、ぱさぱさと袖の打ちつけられる音が響いた。燕尾服の彼は、若菜の〝演奏〟にひどく感動してくれたのだ。


 これ以上、ピアノ演奏を求められてはかなわない。若菜は椅子に座ったまま、彼に告げた。


「わたし、疲れた。眠たいの」


 すると彼は瞬時に居住まいを正し、若菜へ向かって優雅に袖の先を差し伸べた。若菜の手を取り、彼は足取りも軽やかに廊下を導く。玄関ホールに戻り、真正面にそびえる二つの階段のうち、右側をのぼっていく。風化し、もはや見る影もなくへばりついているだけの赤い絨毯を踏みながら、若菜は危うく真ん中に空いた大きな穴に足をつっこみそうになった。


 たどり着いたのは吹き抜けの二階。ところどころ邪魔をする瓦礫を乗り越えながら、回廊をぐるりと歩き、窓がずらりと並ぶ突き当りの扉の前でぴたりと止まった。


 燕尾服が扉を開ける。ぎぎい、とひどい音がして、若菜の視界を濃い暗闇が覆いつくした。


 そう、異常なほどの漆黒だった。窓はあるのに、ガラスが破られてさえいるのに、月の青白い光を帯びているのが見えるのに、部屋の様子はろくに見えない。ここだけ何か特別なのだ。


 部屋の入り口に立ちつくし、入るのを躊躇う若菜を、燕尾服は不思議そうに見下ろしている、ような気がする。


「ごめんなさい。真っ暗で……何も見えなくて」


 正直にそう答えると、彼は納得してくれたのか、再び手を差し伸べてくれる。若菜は手に手をとられるまま、おそるおそる足を踏み出した。みしり、古い木床が湿っぽい音を立て、若菜にささやく。この先はいかないほうがいいと。


 ――どうして?


 一歩、また一歩と足を踏み出しながら、若菜は自問する。

 この先に、何があるというのだろう。

 この部屋が、いったいなんだというのだろう。


 やがて燕尾服が立ち止まる。若菜の眼は暗闇に閉ざされたままだ。彼は両手を持ち上げ、若菜の肩にそっと触れる。

 そのまま、とん、と押され、若菜は背中からまっすぐ後ろへ倒れこんだ。直後、ぼふんと柔らかな感触に全身を受け止められる。まるで、上質なマットレスでも敷かれているように。


 だがおかしい。ここは廃墟だ。何十年も前から建っていて、とっくに風化しているはずの。

 マットレスの敷かれた綺麗なベッドなんて、どこにもあるはずがないのに。


 幽霊の冷たい手に足を持ち上げられ、若菜はベッドに寝かされる格好になった。彼は優雅に一礼してくるりと背を向ける。


「ま、待って」


 若菜は思わず手を伸ばしていた。


「ひとりにしないで」


 燕尾服の背中がぴたりと歩みを止める。ややあって、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「お願い……わたしが寝つくまでここにいてほしい。だめ……かな」


 抱きしめてほしい。

 それがだめなら添い寝だけ。

 それもだめなら、せめてベッドのそばで、背中をさすっていてほしい。

 だってそのために、もう一度ここに来たのだから。


 幽霊はしばしのあいだ、まるで戸惑うようにその場にたたずんでいた。やがてこちらにまっすぐやってきて、ベッドのそばにしゃがみこむ。


 冷たい手が、若菜の肩を、背を、ゆっくりと撫でる。心臓がびっくりするくらいの冷たさなのに、不思議と心地よくて、心の緊張が緩まるのを感じる。


 ほんとうは抱きしめてほしかったけど、今はこれでいい。


 彼の手の、冷たい優しさを感じながら、若菜は静かに目を閉じる。

 次の日の学校なんて、どうでもいい。

 小テストがあった気がするけど、それもどうでもいい。

 ほしいものは全部、ここにあるから。





 翌日、若菜はベッドの上で目が覚めた。

 視界を牛耳る白い天井は、廃墟のものじゃない。自宅の自分の部屋だ。


 若菜は慌てて飛び起きた。きょろきょろと何度も何度も部屋のなかを見回し、昨夜の記憶を掘り起こす。


 ――どうして?

 ――昨日は、確かに廃墟に行って……あの幽霊に寝つかせてもらったはずなのに。どうして家に戻されてるの?


 布団の上で頭を抱え、必死に記憶を掘り起こそうとしたが無駄だった。寝ているあいだに瞬間移動でもしなければありえない。


 昨日は廃墟でゴスロリを着たまま眠ったはずだ。だが今はピンクのふわふわ部屋着を着ている。泥水にまみれていたはずの体は綺麗に洗われていて、髪からはトリートメントとヘアミストのにおいがした。下着も変わっている。若菜はおそるおそるベッドを抜け出し、洗面所を覗き込んだ。


 風呂場にたらいが置かれ、張られた水の中にブラウスが沈められている。記憶にないだけで自分の足で家に帰ってきたのか? 廃墟で眠る夢を見ていたのではなく、どうやってか意識のないまま自宅へ帰ってきて風呂に入り、ブラウスを洗剤でつけ起きして自室のベッドに入ったというのか?


 自宅に監視カメラでもあればよかったのに。昨夜のあいだに何があったのか、まったくわからないのが恐ろしい。


 キッチンで食パンを焼き、立ったままもそもそと食べながらぼんやりとスマホをいじっていると、唐突に若菜は思い出した。


 そういえば以前、ダイエットのためにカロリー管理アプリを入れていた。それはGPSで過去三日間の歩いたルートを記録してくれる機能もついていて、物珍しさで入れたものの、すぐに飽きて開かなくなってしまったのだ。


 若菜はどきどきしながらアプリを開いた。まっさらな今日のデータ画面をスワイプして、昨日のデータを呼び出す。


 付近のマップが現れ、赤い矢印が自宅から学校、学校から自宅、自宅から北の山へと伸びていく。途中で〈計測不能〉の文字が現れた。自転車を使ったためだろう。だが赤い点は山奥でとどまり、再び自宅まで戻ってきたのだ。


〈計測不能〉の文字を目の当たりにして、若菜は確信した。これも幽霊の不思議な力のせいだろうか。廃墟で眠った若菜は、なぜか無意識に起き上がり、自転車に乗って帰宅し、入浴と洗濯をすませてベッドに入ったのだ。


 若菜はスマホを抱きしめ、ほっと胸を撫でおろした。

 ――よかった。廃墟の思い出が、夢じゃなくて。

 あれは現実だったのだ。それが何より嬉しかった。

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