第2話 汚してほしい

***


「■ね」と言われた回数、二〇〇回。


「ビッ■」と言われた回数、一二〇回。


「ク■女」と言われた回数、五一〇回。


「下品女」七〇回。


「エ■女」一五〇回。


「男好き」「泥棒」「サイテー女」「パパ活女」「穴」「ブス」……回数は実際に数えたわけじゃないので体感だが、これくらい言われていてもおかしくない人生を送ってきた。だがぜんぶ嘘っぱちだ。醜い嫉妬と勘違いと、日本人特有の「出る杭は打たねば」という集団心理のせいだ。


 中学生の頃にはすでに身長一六七センチを超え、バストサイズはEになり、白い肌と伏し目がちな眼、目元や口元の小さなほくろ、高い臍とすかっと伸びた長い脚を持つせいで、若菜は黙っていてもよく目立った。親戚に会えば「モデルやってる?」と訊かれ、繁華街に出れば怪しいスカウトマンに名刺を渡された。制服や普通の服装で橋の近くに立っているだけで、くたびれたスーツのおじさんに「いくら?」と訊かれるので、スマホをいじる以外は極力立ち止まらないようにしている。


 これでもオシャレするのは好きで、中学のときは地雷系ファッションを好んでいた。が、その姿を見た女子たちから「ぶりっこ」「ビ■チ」「パパ活女」と散々悪口を言われ、男子たちから盗撮されたり不良に捕まってされそうになったので、服も靴も髪飾りも全部捨てた。メイクもやめた。ただ、フリルやレースやリボンといった、かわいいものが好きなだけだったのに。


 ――それならいっそ、極端に「カワイく」振り切ってしまえばいいのでは?


 という発想から、若菜のゴスロリ趣味は始まったのである。地雷系は変な男が寄ってくるのに、ゴスロリはなぜか誰も近寄らない。完璧にメイクして黒髪のバンスクリップでツインテールにすれば、同級生が見かけても中身が若菜だと気づかない。ゴスロリは鎧だ。こんなにかわいいのに、すべての敵から若菜を守ってくれる。


 学校は、戦場だ。できるだけ弾に当たらないよう、派手な鎧を脱ぎ捨てなくてはならない。喋らず、誰とも関わらず、地味に、平凡に、息をするだけの背景にならなければならなかった。


 それなのに、高校に入ってからもなぜか男子に五回は告白され、十回は女子に肩パンされ、二十回くらいは故意に足で蹴飛ばされ、トイレに入ると水をかけられ、ランニングウェアをはさみで切られ、裏掲示板に「一回五百円♡」という書き込みとともに盗撮された写真を載せられた。


 いっそ不登校になってしまいたいが、高校を退学させられると困るのだ。母が学費を一括で支払ったあと、


「もし高校やめたら、学費全部返してもらうからね」


 と言われてしまった。それこそパパ活でもしなければそんなの不可能だ。


 母の学費という呪縛のために、若菜は今日も学校へ行く。朝から椅子を蹴られ、花瓶の水を頭からかけられ、透けてしまったブラウスを男子に見られて盗撮されるのだ。




「前から言ってたけど、転入生が来たから紹介するね」


 朝のホームルームで、担任の女教師が見知らぬ男子生徒を連れてきた。ふわふわ猫っ毛とほんのり猫背気味な感じから、いかにも覇気のない人畜無害そうな印象を受けた。


「木村綾斗です」

「席はあそこね」


 教師の指す指先を、若菜も目で追った。一番後ろの列、若菜の隣の歯抜けのスペースに、いつの間にか座席が置かれている。若菜はまったく気づいていなかった。若菜の頭はそれどころではなかったからだ。

 綾斗が席につく。そして若菜をちらりと見た。


「あの……よろしく」


 彼の言葉もろくに耳に入らなかった。

 若菜はの頭のなかは今朝起きたときからずっと、昨晩出会ったあの透明人間に支配されていたのだ。



 昨晩、あの廃墟からどうやって帰ったか、実のところ記憶が曖昧だった。深夜の二時ごろでよかったと思う。ゴスロリを来た少女が泥まみれの素足で自転車を漕いでいる光景は、あまり見られたものじゃない。


 若菜は知らなかったが、実は一人、その姿を後ろから思いっきり見ていた者がいる。それは若菜が自宅マンションの裏口前で自転車を降り、辺りを見回しながら扉を抜けていくときだった。パーカーを着た同じ年頃の少年がジュースを飲みながら歩みを止め、素足にゴスロリという奇妙な恰好の若菜をまじまじと見つめていたのだ。


 それから若菜は帰宅後すぐに風呂場へ直行した。たらいにお湯を張り、洗剤をまき散らし、着ていたゴスロリを脱いで中に沈める。白いレースのあしらわれたスカートの裾には泥が跳ね、襟ぐりや袖口には吐瀉物と思われるものがしみついている。若菜は泣きたい気持ちで必死に洗っていた。

 先ほどまで自分が山奥の廃墟にいて、幽霊とおぼしき何かに捕まっていたなんて、夢じゃないかと思うほど信じられない。だが大切な服に染みついた汚れが若菜に現実を突きつけてくる。

 もう、絶対、二度と行かない。廃墟なんかいくもんじゃない。それも夜中を選んで行くなんて、正気の沙汰じゃない……






「だまってんじゃねーよ、なんとか言えや!」


 トイレの壁に肩を思い切りぶつけられ、若菜は下唇をぐっと噛んで耐えた。悲鳴こそ上がらなかったものの、唇から苦い血の味が染み広がる。

 若菜は自分の肩をつかんでいるクラスメイトの少女をじっと見つめ、浅く息を吸い込んだ。


「……ナントカ」

「はあああ!?」


 少女は怒りに全身をわななかせ、もう一方の手をぐっと握りしめる。


「ぶっころすぞクソ女!」

「人の男奪いやがって、マジでふざけんなよクソビッチ!」


 周囲の少女たちからも怒号が飛ぶ。まただ。こういう用件で女子に捕まり暴力を振られるのは、これで何回目だろう。


「……どうぞ、殺してください」


 気づけば、若菜はそう口にしていた。拳を振り上げていた少女は「は?」と戸惑い、だが次の瞬間、拳を力の限りに振り下ろしていた。

 頬に拳がめりこみ、口内に錆びたにおいが広がった。


「イキってんなよ、だれが殺すかよ。もっとみじめな気持ちにさせてやるから」


 少女が指示すると、周囲の少女たちが下卑た笑い声を上げながら次々に手を伸ばし、若菜のブラウスの胸元を乱暴に引っ張った。ボタンがはじけ、下着がむき出しになる。

 少女たちは笑いながらスマホで撮影し始めた。


「これ、ばらまかれたくなかったら土下座しな。人の男を盗って申し訳ございませんでしたって」

「……ばらまけばいい」


 若菜は低い声でぼそりとつぶやいた。


「ああ?」

「どうぞばらまいてください。どうでもいいです」

「おまえ狂ってんの? ばらまかれたらどうなるかわかってんの?」

「Nスタあげてやろうか?」

「どうでもいいです」


 死んだ眼で彼女たちを見上げ、若菜はわずかに口角を上げた。


 どうでもいい。

 だってこれは、仮の姿だ。


 外に出れば、制服を脱げば、メイクして〝正装〟になれば、だれも自分に気づかない。






 家に帰る。

 玄関の扉を開ける。

 かつて母と住んでいたマンション。空っぽのシューズボックス。広いリビング。冷蔵庫の音がうるさいキッチン。


 そのどれもを通り抜け、若菜はおろしてきたばかりの十万円が入った封筒をソファに放り投げた。その場で制服をむしり取るように脱ぎ捨て、くしゃくしゃに丸めて部屋の隅に投げ捨てる。それからすぐに風呂場へ向かった。


 鏡は極力見ないようにして真っ先に髪を洗う。だが体を洗うときになって、若菜はふと自分の胸に視線を落とした。


 血管の薄く透けた白い肌に、太いマジックで「クソビッチ」と書かれている。若菜は石鹸を泡立てたスポンジでごしごしと擦った。血が出そうなほどのひりつく痛みのせいだろうか、視界がどんどんぼやけてろくに前が見えなくなっていく。


 スポンジが手の中から飛び出し、ぽとりと落ちる。拾い上げようとしゃがみこんで再び立ち上がろうとしたとき、突如強烈な目眩に襲われた。


 ――立てない。


 どうしてだろう、体に力が入らない。目の前が真っ暗でなんの音もしない。


 両腕に顔をうずめて息を吸い込んでも、まともに吸い込めない。溺れそうな感覚で頭がくらくらする。苦しい。苦しい……


 必死に息を吸おうと抗う若菜の脳裏をはっきりとよぎったのは、得体の知れない地縛霊の冷たい腕の感触だった。


 そういえば、あんなふうに誰かに抱きしめられたのは、いつ以来だろう。


 若菜は父親を知らない。母親の腕の感触はもう忘れた。そういえば誰ともろくに会話していない。


 あの霊はどうして抱きしめてくれたのだろう。嫌がる若菜に無理矢理えげつないものを食べさせておいて、苦しげに吐いたら慌てたように背をさすって、抱きしめて……まるで、心配してくれるみたいに。


 誰かに心配されたことなんて、あっただろうか。


 遠い遠い彼方の記憶で、小さな自分が道路の向こうへ走り出そうとしたときに、母から怒られたような気がする。でも母はここにいない。好きな人と一緒に遠くで仕事をしているから。


 母の存在を思い出すのは、月に一度、生活費が振り込まれる日だけ。 


 若菜はシャワーの栓をひねり、温度を思い切り下げた。たちまち冷たい水がふりそそぎ、若菜は冷える体をぎゅっと両腕で抱きしめた。


 だめだ。どうしても再現できない。あの冷たい腕のあたたかさにもう一度包まれたいだけなのに。

 それさえあれば、また学校に行ける気がするのに。



 若菜は風呂から上がり、ゴスロリに着替えた。髪を整え、バンスクリップでツインテールに。フリルソックスにガーターベルトをつけて、頭にヘッドドレスを装着する。そして、昨夜とは別の厚底シューズを履いて家を出た。


 自転車についた泥を軽くはらって颯爽と乗り込む。夜風が前髪をふわりとなびかせるのが心地よかった。


 もう一度。もう一度、抱きしめてほしい。


 心配してほしい。強引に何かしてほしい。


 泥まみれになっていいから。お腹をこわしてもいいから。お願い。お願い。お願い……




 自転車をどこに隠して、どの道をたどって上ったかなんてまったく覚えていない。


 気づけば若菜は、廃屋敷の扉の鎖を引いていた。思い切り、力いっぱいに引いた鎖は、錆びついたベルを大きく揺らす。


 一秒、二秒、三秒……若菜ははやる気持ちを抑えて待つ。やがて扉が重々しく動き出した。夜の空より暗い闇が視界に広がり、その奥で燕尾服が低頭する。

 幽霊が再び姿勢を正したとき、若菜はおずおずと口を開いた。


「あの、……また、来てしまいました」

 

 逃げ出してごめんなさい。

 怖がってしまってごめんなさい。


 そう言いたかったのに、冷たい手に手を取られた瞬間、すべての言葉が頭から吹き飛んだ。


 きっとまた、あの食堂に通されるに違いない。

 泥カビまみれの浴槽に入れられるかもしれない。


 それでもいい。それでいい。いっそ全部汚してほしい。わたしから消してほしい。わたしの中の、痛くて苦しいものを全部。全部。


 首のない燕尾服に手を引かれ、ゴスロリの少女は廃屋の奥へといざなわれていった。

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