黒羊

守屋丹桂

幸運の象徴

白銀に鮮血が映える。

大陸の北部の刺すような冷風が呆然とたたずむ青年の漆黒の髪を揺らす。

小柄な青年の頬に付いた赤黒い手形は、雪原に倒れる男の最後の抵抗の跡。ポケットから純白のハンカチを取り、血のりを丁寧に拭き取ると、青白い顔と目を閉じる男の顔に被せた。

愛用のナイフの手入れをして、懐にしまい込むと男の前に跪き、胸の前に両手を握り、掲げる。信じてもいない神の、いかにも死をいたんでいますというような、虫唾が走る祈り。

「アーメン」

この男に情などない。面識はないが恨みだけはある。

ただ、『魂は一人一つ』だから。その死を、魂を、かえすことを祈ることはできるから。

建前だけで祈りが通じるとは思わないが、オヤジのためだ。

「貴方に、死の救済を――」

青年は目を伏せ、嘆息たんそくした。


   ◆◆◆


大陸の南西、リトスの町はどの国にも属さない無国籍者の集団コミュニティ。社会的に弱者である彼らが生き残り、他国から侵略されない理由はただ一つ。彼らが凄腕の殺し屋だから。

攻撃力、防御力、隠密能力等、高い能力を持った彼らには他国からの依頼が絶えない。

しかし、リトスはある問題に当たってしまった。リトスの民の平均年齢の上昇と町民の減少、それによる古参の引退。無国籍故の新参の教育不足。殺し屋としての質の低下による依頼の減少。苦悩する中、ボスはとある赤子を拾ったらしい――


組織リトスの町の東、ボスの屋敷の隣に位置する小さな教会。そこには優しそうな微笑をたたえた牧師と小さな男の子が暮らしていた。町民たちに慕われる牧師もこの町では無論殺し屋。

ハウライトの名を冠するこの親子はリトスの中でも指折りの殺し屋だった。

何せリトスのアンダーボスと幸運のひつじなのだから。

ある日、偶然拾ったらしい赤子をボスは信頼するアンダーボスに預けた。その後、経営不振の時に現れた〈幸運の象徴ひつじ〉と名付けられた赤子は牧師であり、アンダーボスである養父ようふによって英才教育を施された。

よう=ハウライト。異端者の名である。


   ◆◆◆


「オヤジ! 見てくれよこの鶏! 夕飯に食おうぜ!」

オヤジと呼ばれた梁珂やなかは、大事そうに鶏を抱えるように駆け寄り思わず語気を強めてしまった。

「羊! 危ないから一人で狩りへ行くなと言っているだろう?」

「大丈夫だって! 動物の動きなんてたかが知れているし、森の奥には行ってないから」

「そうは言ってもだな!」

「オヤジが心配しているのは『ボク』じゃなくて『幸運の象徴』だろ?」

狩りの成果を褒める前に叱ったのがいけなかったのか。初めての息子に養父オヤジはタジタジだ。

幼い頃から幸運の羊としてもてはやされていた羊は成長するにつれ、ひねくれた態度をとるようになった。ただの小さな子供なのに勝手に神格化している周りの大人のせいで、羊は子供らしく甘えることもできない。

そこで気づいた。羊は狩りでは主に木を利用した空中戦闘を好むのに、上半身に滅多につかない泥汚れがついているのを。何かから逃げてきたような、焦った時の汚れ。転びかけて受け身を利き手で取るときのような泥汚れも右のてのひらについている。

「羊、何か言われたのか」

「森の近くの原っぱで花瓶に飾る新しい花を摘んでたんだ。綺麗だったからオヤジにも見せたくて。そこで偶々会ったおばさんに『貴方はリトスを導く人なんですよ。遊んでいないで勉強しなさい』って。だからボク言ったんだ。『おばさん誰。おばさんはボクの何を知っているの。ボクはリトスのボスじゃないよ』って」

「子供に遊ぶなってどんな奴だ」

「たしかアパタイトって言ってたような……? それと『みんな貴方じゃなく幸運の象徴を見てる。貴方が遊んでいるとアンダーボスの評判にも傷がつく』って」

「アパタイトォォ!? あいつかぁぁぁぁ!!」

「どうしたのオヤジ」

「羊、あいつの言うことは気にすんな。いいな」

「わ、わかった」

感情が高ぶったのか、隠していた口調が崩れた梁珂の言うことに、とりあえずの返事をする。梁珂は心底嫌そうな顔をして通り名を叫ぶ。

アパタイトとはリトスの民の苗字であり、他国での通り名だ。由来は宝石。羊はハウライトの名を冠している。仕事で使う為、リストの民にとっては名前よりも苗字で呼ぶ方が一般的だ。

「オヤジはアパタイトって人が嫌いなのか?」

「嫌いっつうか、苦手なんだよ、あの雰囲気が。胡散臭いカルト教団の代表ですよ~みたいな」

「それ牧師が言っていいの」

「俺は胡散臭くないし」

おどけたように梁珂がウインクする。

「さぁさ、羊が狩ってくれた鶏でタンドリーチキンでも作ろうかね」

「やったー」


   ◆◆◆


教会の庭に空を切る音が響く。漆黒の髪が振り乱しながら白髪の生えた黒髪へ向かって青空に揺れる。木製の長剣を構えた羊が生身の梁珂やなかへ襲い掛かる。

「いいぞー羊。その調子だ」

「嘘つけ。息も切らしてない、じゃん!」

頭上から一気に剣を振り下ろすと梁珂は身体の向きを横にして避ける。チッと舌打ちをして、頭めがけて蹴りを入れる。しかし、肘で受け止められてしまう。

一度引いて態勢と整える。一瞬でも梁珂から視線を逸らさぬよう琥珀色アンバーの瞳を茶色の瞳へ集中させる。

「間合いに入れるようになったじゃないか」

余裕そうな梁珂がタオルと水を渡してくる。休憩中も警戒を解かないのが梁珂との鍛錬での約束だ。

「一発も入れられないんじゃ意味がない。オヤジ、ボクの動き全部わかってるだろ」

「当たり前だ、何回見たと思っている。羊も早く俺の動きがわかるようになるといいな」

「むかつく。オヤジ、もう一戦!」

「おや、休憩はもういいのかい」

「若いからな!」

軽口をたたきながら必死に食らいつく。白髪がちらほらと生えてきたいい大人のくせにこの人は息一つ乱さない。

「お前は体重が軽いから機動力を生かした動きをしたほうがいいぞ。俺を押さえつけようとしたところでお前が吹き飛ばされる」

「わかってるって! じゃあ、これ、は、どうだ!」

剣を横に向け、両手で押さえつける。吹き飛ばされる直前に足を梁珂の肩に掛け、梁珂の背中が反った状態で肩を蹴り、バク転の要領で地面に手をつき右足で梁珂の左足を払う。

梁珂は後ろに倒れるそぶりを見せながらも片手でバク転をして、受け身を取った。それでも多少は効いたらしく、受け身に余裕はなかった。

「驚いたな、良かったぞ、羊」

「マジ?」

「ああ、あの足払いは対処に手間取るだろうな」

「やった!」

「しかし、あの戦い方は危険すぎるぞ。強硬手段というか、何というか。いいか、死にに行くのではないんだぞ。確実に殺せる戦い方をするんだ」

「わかってるって。まだ、得意な戦法がわからないから色々試してるんだよ」

「ならいいが……。羊は小柄で足も速いから重い長剣より軽い短剣の方がいいと、俺は思うんだが」

「そう? でも、大人になったらボクもオヤジみたいなでっかい男になるんじゃないの?」

「さぁ、人の身長はそれぞれだからなぁ。仕事をする年になるまでにぼちぼち探すか。とりあえず今日は終わり」

「はーい」


   ◆◆◆


リトスのボスの屋敷からチラチラと教会を覗く気配。屋敷のエントランスには殺し屋としての経験がまだ浅い青年二人がいた。

「なぁ今の見たか、オパール」

「ああ、ガーネット。確か、ハウライトの養子、だっけか。流石〈幸運の象徴〉だな。あいつの動き、速すぎて追うのがやっとだぞ」

「本来なら喋りながらハウライトと戦える奴なんて限られるのに、あんな子供が……。おれちょっとショックだわ」

「こんなところでコソコソと何をしてるんだい?」

熱烈な視線を梁珂やなかが見落とすはずもない。わざと気配を消して、軽く話しかけると想像以上の良い反応が返ってきた。

「「え? うわぁぁ!! ハウライト!」」

「誰が、誰に、呼び捨てにされなきゃいけないんだい、下っ端ども」

「「す、すみません! アンダーボス!」」

「で、何をしていたんだい」

「訓練、を、見て、いました」

冷や汗をだらだらと垂らす若い衆。母親に叱られ縮こまる子供になり果てた青年たちに梁珂はちょっとした悪戯心が芽生える。というよりも、この先の青年たちの言葉を想像して古参の洗礼を受けさせようと思ったのだ。

「どう思った」

「「……え?」」

「今回の訓練をどう思ったのかと聞いている。なんだ、何も思わなかったのか?」

「い、いえ、そんなことは!」

「なら答えなさい。さぁ早く」

「流石は〈幸運の象徴〉だな、と感じました」

「〈幸運の象徴〉? 君たちは人の名前も知らないのかい」

「い、いえそんなことは。羊=ハウライト……さん、ですよね?」

「知っていて何故呼ばない。何故流石と言える」

「そ、それはあの人はおれたちとは違うから」

「あの子は神でも何でもない、ただの人間の子供だ。才能はあるが、あの子は才能以上に努力している。それを〈幸運の象徴〉と一言で片づけないでくれないか。俺に剣を当てることだってそうだ。俺に剣を当てられたから『流石は〈幸運の象徴〉』って、それじゃ、当てられなかったら『〈幸運の象徴〉なのに』って言われるのか。そしたら、今度は俺を神格化するのか。『〈幸運の象徴〉でも歯が立たないアンダーボスだ』って。いい加減にしなさい。羊を心の拠り所にするんじゃない」

「拠り所になんて!」

「してないと言い切れるのか。勿論俺にも責任はある。新人教育に心血を注がず隠居していた身だからな」

「で、では、〈幸運の象徴〉を教育している時点で、あ、貴方も同罪なのではないですか、アンダーボス」

「リトスにいる限り殺し屋以外になるという選択肢はないに等しい。そして、羊を他の家庭と同じように育てると、ボスから預かったときに約束した。羊を神格化していることはボスも心を痛めておられる。何かを拠り所にしたいのなら教会へ来て祈りなさい。羊の負担になることをするのは許さない。いいですね?」

「……はい」

「何故自分たちだけ、と不服にされても困るよ。これからボスにこのことを報告しに行くのだから。では」

顔を青白くさせ立ち尽くす青年たちを背に恭しく一礼し、梁珂は屋敷の奥へと歩を進めた。


しま、最近の新人は羊を目の敵にする傾向があるのか?」

屋敷のとある部屋へ入ると、梁珂は、目の前にある大きな椅子に座る男に向けて投げかけた。

「第一声が小言なのは梁珂の悪い癖だな。エントランスにいた奴らのことを言っているのか。人払いはしてあるからいいが、聞かれていたらどうするんだよ……。それもわかっての行動だろうが」

「ああ、羊に嫉妬しているのだろうか」

「あと一〇年もしたらあの子も依頼を受けるようになるだろうから焦っているのかもしれないな」

嘆かわしい、と二人で溜め息を吐く。目の前にいる男は我らがリトスのボスである縞=オブシディアン。縞のことを呼び捨てにできるのは梁珂を含めた三人のリトス創設メンバーとその他友人たちのみだ。

「羊がハウライトになってから度々話題にしてきたが、八年経った今でも〈幸運の象徴〉と呼び続ける者がいるんだ、小言も増える」

「幸運の羊に形容して〈羊〉と名付けたのはわたしだが、まさか神格化するようになるなんて思いもしなかったな。最近では古参の爺どもがうるさくなってきて、あの子が遊んでいるだけでクレームを寄越すんだ」

「羊が花畑で花を摘んでいた際に、アパタイトに咎められたらしい」

「遂に直接言うようになったか。ガーネットやオパールも態度ばかり大きいからな……困ったものだ」

アパタイトは五人いる重鎮の一人でアンダーボスの次に発言力を持っているため、ガーネットやオパールなど配下とりまきも多くいる。

「うーん。オニキスに応援を要請するのは? いっそのことアパタイトを下ろしてそこにオニキスを置くのもいいと思うが」

「アパタイトを止めればガーネットもオパールも大人しくなる。……しかし、オニキスは怪我をして休暇中だろう。できればまだ休ませたいのだが」

「縞の言うこともわかるが、仲間割れの可能性がある以上オニキスもおちおち休めないだろ」

「……要相談だな。これは二人にも報告しておいた方がいいだろう」

二人とは残りの創設メンバーのことだ。一人はオニキスの父親だ。

教会の裏手にある墓地に眠っている友人たちに、相談ができなくなった同業者に、せめてもの報告を。いつ死ぬかわからないことが当たり前のこの町にとって死を悼む者はあまりに少なく、共同墓地の設置と殉死した者の回収を行うことで何とか若者にも死を悼む文化が残っている状況だ。

「石は磨けば最高級の宝石にもなりえるのに、丹精込めても濁るだけ濁って売れ残る低級も混ざるなんてなあ」

「違いない」

梁珂が嘲笑を浮かべると、縞は美味そうに紅茶を啜った。


   ◆◆◆


梁珂やなかの憂鬱から数日、羊は教会内の教室で座学を受けていた。

殺し屋はただ殺せる術を要しているだけではなれない。リトスは他国の依頼を受ける。故に他言語を操るなど様々な教養が必要である。幸い、リトスは無国籍者の集まりでそれぞれの母国語も違う。その為、短期間で複数の言語を習得できるような環境が整っているのである。羊は、普段は梁珂の母国語である極東の言語を話しているが、既にリトスの西に位置する友好国フィオーレと北に位置する軍事国家キーセンベルトの言語をマスターしている。リトスの民は依頼を受けるようになるまでに、最低でも三か国語を習得する。

「いいか、羊。お前には時間がない。よって、短期間で俺の知っている他言語を全て詰め込む。頑張ってついて来いよ」

「時間がない?」

「キーセンベルトの統治者が最近変わったらしく、所謂いわゆる独裁政治なんだとさ。そのうちそいつの暗殺でも依頼されるかな、と思ってね。軍事国家ということもあってか、統治者も軍部のお偉いさんらしいからな、それなりに手練れだろう」

「てことは」

「こちらも手練れを寄越さねばならないな。例えば、俺、とか」

「オヤジが依頼を受けるのとボクの時間がないのと何が違うんだ」

「俺が任務中に死んだらお前は独りになってしまうからな」

「縁起でもないことを言わないでくれよ!」

「殺し屋とはそういうものだ。魂は一人一つだけ、心臓を一突きでもされれば俺も、お前も、パーンッだ」

梁珂は、ニヤリと笑いながら両手を握りしめると勢いよく指を上に広げて、まるで身体が爆発したように表した。

「うへぇ……」

羊は気持ち悪そうにべーと舌を出す。

「これは殺す相手にも言える。殺す相手も人間だ、勿論魂は一つだけ。だからな、殺す人間は選ばなくてはいけない。誰彼構わず殺してはいけない。目的の人物を、その者だけを、逃さぬようによく見ろ。そして、その魂を喰らいなさい」

「……はい」

梁珂の迫真の言葉に羊はただ頷くことしかできなかった。しかし、俯く羊に梁珂はあまり気にしすぎないようにと言っているかのように微笑む。

「同時に、罪を重ねる俺たちは、最低限相手に礼儀を尽くさなければいけないよ」

「礼儀……」

「死なせた者を弔うとか、名を名乗るとか」

「それやれんのオヤジくらいだろ」

「そうか?」

「大体のリトスは任務中にそんなこと出来る余裕なんかないからな」

「昔はそうでもなかったんだがな」

「ボクは余裕持てるかな」

「お前はまだまだ強くなれるから頑張りなさい」

「努力するよ」


   ◆◆◆


七年後、梁珂やなかの冗談は当たってしまった。

「梁珂に指名で依頼が届いた」

羊が一五の誕生日を迎えた年、まともに見たのは初めての、ボスことしまがわざわざ教会に足を運んできて言ったセリフは短かった。

「縞が直接言いに来るとは、嬉しいね」

梁珂は特に驚いた様子もなく、ただにこやかに笑っていた。

「それっていつ出発するんですか、ボス」

「半年後、かな。羊は梁珂のことが心配なのかな」

縞に、梁珂以外にはなかなか呼ばれることのない自分の名前を呼ばれた羊は、ドキッとしてその反応に自分で驚く。

「そ、そんなことは……。オヤジは強いですから」

「もう少し早く依頼が来ると思ったが遅かったな」

「そうだね。それだけキーセンベルトの人々は我慢強いんだろうね」

「もう少し早く依頼が来ていたら俺もまだ現役だったんだがな」

梁珂は羊が一二のときに引退した。理由は腕が衰えたから、と梁珂は言っているがまだまだ現役連中より動ける。それでも、やはり自身の衰えは肌で感じるようで、やや不安そうにしている。勿論引退した以上依頼は寄越さないし、受けないのが筋なのだが、指名で来たということは梁珂でないと完遂できない依頼のようだ。それほど梁珂は強く、信頼も厚い。梁珂よりも強いというなら縞くらいなものだ。

しかし、縞はボスという立場上、リトスから離れることはない。

「では、そろそろわたしは失礼するよ」

縞は梁珂と少し話した後、教会の裏手にあるリトスの墓を訪問して帰っていった。


出発までの間、梁珂は自身を鍛えなおすことにした。今までは羊を鍛えることに集中していたが、絶対に失敗できない且つ死ぬかもしれない依頼で気は抜けない。

「ボク強くなったんだよ、オヤジ。手抜かないでよね」

「ああ、勿論だ」

この数年で羊と梁珂は、お互いに得物を用いて鍛錬をするようになった。羊は小柄のまま成長が止まりつつあり、短剣と体術を得意としている。対して梁珂は長剣と体術を得意としており、羊の体術は梁珂から受け継いだものだ。

「お前、やせ我慢していただろ」

「へ……」

次々と攻撃をする中、梁珂がふと投げかけた。羊は呆気に取られながらも攻撃の手は止めない。

「何のことを言っているんだよ」

「俺が危険な依頼を受けるのが嫌なんだろう」

「何言ってんの、子供じゃあるまいし。殺し屋とはそういうものだって言ったのはオヤジじゃんか」

「一五はまだ子供だ、阿呆」

「いてっ、頭叩くなよ」

「なら避けろよ」

「殺気がなかったから……」

「油断するなよ」

梁珂の攻撃の鋭さが増した。羊はまだ余裕なのかフッと笑って駆ける速度を速めると、梁珂の背後に回り、僅かに殺気を込めて背中に隠した短剣を振る。しかし、手首を掴まれ、短剣が梁珂の背に届くことはない。手首をひねられ短剣が芝生に落ち、刺さる。羊は掴まれた手首を離すために梁珂の背中を蹴る。宙に飛んだ羊は一回転し、着地する。芝生に投げ出された梁珂は、羊が着地したときには態勢を整えていた。


二時間ほど手合わせをした梁珂と羊は教会に戻って休憩をとることにした。

「羊、ピアノを弾いてくれ。お前のピアノは優しい音がするから、聴いていて心地がいい」

「何突然、しんみりしちゃって。オヤジの方がボクと離れるのが寂しいんじゃないの」

「いいだろ少しくらい。いつ帰れるかわからないんだから」

「ピアノなんてみんな同じ音だろ、大体オヤジの方がうまいじゃんか。ボクに教えてくれたんだから」

「お前のが聴きたいんだって」

「……わかったよ」

梁珂の要望に応え、讃美歌を一曲弾いた。最近は練習をおこたったから多少拙つたない指運びに冷や汗を流しつつ集中する。梁珂の反応を見る余裕などなく弾き終えると、耳が痛くなるほどの拍手が返ってきた。

「やっぱりお前のピアノは優しい音がするよ、羊」

「そう? 満足したなら良かったけど」

「ああ、満足満足。このままもう一度体を動かしたい気分だ」

「またぁ?」

「おや、五〇すぎのおっさんに負けてどうする若人わこうどよ」

「うわ、オヤジ臭い」

「オヤジだからな」

「うっせ。久々にピアノ触ったから指が慣れてねぇんだよ」

「そうかそうか。じゃあまた弾いてもらうとしよう」

「ボクの話聞いていた?」

「聞いていたとも。沢山弾いてもらえば指が慣れるだろう?」

「まあ、確かに」

「お前は練習ができる、俺はお前のピアノが聴ける。一石二鳥ってやつだ」

ドヤッと梁珂は笑う。もうすぐいなくなるかもしれないと羊は不安を抱えているのに、梁珂は梁珂のままだ。不安が消えるように梁珂が気遣っているのか将又はたまた特に何も考えていないのか。梁珂の意図は分からないが、羊は梁珂の運命を受け入れる覚悟が決まったのだった。


梁珂はまだみんな寝静まっている早朝に旅立った。教会には縞も見送りに現れた。

「梁珂、死ぬなよ」

「何言ってんだよ。縞がいるのに他の二人みたく置いていくわけないだろ」

「ああ、そうだな。行ってこい」

「オヤジ、行ってらっしゃい」

「いってくる」


   ◆◆◆


梁珂やなかが旅立ってから一か月。依頼を完遂するには十分な期間だ。一週間前の新聞には、『キーセンベルトの独裁者・ルートリッヒ暗殺! 老害が引き起こした独裁社会終幕か!』とでかでかと見出しを飾っている。しかし、梁珂は一向に帰ってくる気配がない。

度重なる会議の結果、キーセンベルトに調査依頼の書簡とリトスから大使に扮して数人で構成された偵察部隊を遣わせることになった。しまは会議を行う前から梁珂の救出を要請していたが、重鎮たちが渋っていたらしい。本来、縞には誰よりも権力があるが、建前でも重鎮の言葉に耳を傾ける必要があるらしく想定以上の時間を要した。

依頼主はルートリッヒにより幽閉されていたキーセンベルト国王だった。その為キーセンベルト側はリトスの味方であり、ルートリッヒの遺体の回収を請け負っている。しかし、味方というには自国のことで手いっぱいでリトスの要望には応えてくれないらしい。経済状況が良くないなりにリトスはいつでも手を切ることができる。さらに、キーセンベルトに秘密裏に偵察部隊も遣わしている。不安定な政治状況を利用することなどリトスのボスである縞には容易いことだ。


会議から一週間後、キーセンベルトからの書簡と独自の調査を行い記録した書類を持った偵察部隊がリトスに帰還した。

『ルートリッヒの死亡は確認済み。ルートリッヒの衣服のポケットから〈Dead by Howlite〉のカードを発見。証明の為、貴公に提供する。しかし、事件現場にてハウライトの遺体はなし。人員不足により、その後の調査は難航すると思われる』

書簡にはそう記されていた。

素早く読み終えた縞はそれを握りつぶし、激昂した。

「ふざけるな! 何が『人員不足』だ! 大国が聞いて呆れる! 使い潰すだけで此方の要望には十分に応えずにフェアな取引だと⁉」

縞に呼ばれ、手渡されたくしゃくしゃの書簡を読んだ羊は隠しきれない怒りで書簡を持つ手元が震えた。

偵察の報告によると、現場には血痕が多く残っており、その中に梁珂の血液もあったという。梁珂はルートリッヒ殺害後、現場から離れ、近場のレンガ調の倉庫に潜みそこで息絶えたそうだ。倉庫までは引き摺った足跡のように血痕が続いており、素人でもわかるほどだったそうだ。梁珂は遺体は回収され、調査された死因は失血死。足の健を切られ、脇腹を切られ、腕を切られていた。

「キーセンベルトの目は節穴のようだ。今後、一切、キーセンベルトからの依頼は受けない。いいな」

「「「「「はい、ボス」」」」」

「……」

重鎮たちが返事をする中、羊は一人返事ができずにいた。いや、周りの声が聞こえていなかった。絶望が、喪失感が、憤りが。止め処なく溢れて止まらない。涙が出る余裕すらない。ただ、呆然と立ち尽くすだけ。

羊の異変にリトスの民はまだ気づかない。


   ◆◆◆


梁珂やなかの殉死から三年、そして、羊が殺し屋になって三年。羊は一八の誕生日を迎えた。

この三年でリトスは色々な変化があった。新たにとく=オニキスがアンダーボスに就任した。羊は淡々と仕事をするうちに梁珂のように他国に名の知られる殺し屋になった。

羊は仕事の傍ら梁珂の墓の手入れやルートリッヒについての情報を着々と集めていた。キーセンベルトの依頼を受けられなくなった為情報収集は難航したが、リトスには内緒でキーセンベルトに潜入するなどして徐々に情報は集まっていった。ルートリッヒに向けた、行き場のない殺意は、いつの間にか何処かにいるルートリッヒの血縁者に向けられるようになった。殺意を糧に、難航すると言われた依頼を次々に片付け、複数の国の依頼を掛け持ちする羊は、むしろ梁珂を忘れるために仕事に溺れるようになった。

ある日、いつものように梁珂の墓の手入れをしていると、しまが墓参りに訪れた。

「羊」

「お久しぶりです、ボス」

あの日までは健康的な薄く焼けた黄色人種の肌と綺麗にセットされた黒髪と魅入られそうな濃紫の瞳だった紳士が、今では痩せこけた肌と白髪の生えた黒髪、濃くなった隈と虚ろな瞳で明らかに衰弱していた。巷では縞が引退するのではないか、とか下剋上のチャンスだとか囁かれている。実際、他国ではリトスを侵略するいい機会だと言われ、縞を襲撃する事件も発生している。しかし、縞は強い。衰弱していても怪我一つなく、襲撃犯全員を捕縛し牢に放り込んだ。

最近では、自身の屋敷も安心できる場所ではなくなりつつあるらしく、度々教会を訪れる。墓参りのためも含まれていると思うが。

「羊、ピアノを弾いてはくれないかい」

微笑んでできた目尻の皴が優しさを帯びる。

「突然どうしたんですか。いいですけど、オヤジみたいなことを言いますね」

「梁珂から評判は聞いていた。優しい音がする、とね。どんな音なのか気になったのだよ」

「オヤジにもたまに言われていました。でもボクはそうは思いませんね。ボクじゃ優しい音は鳴らせませんよ。ボクなんかは優しさの欠片もないのですから」

復讐心を赤の他人に向けて血を啜って死体を積んでいる羊なんかには。

弾き慣れて話しながらでも指を運べるようになった讃美歌は梁珂が最後に聴いた曲。縞は耳を傾けつつ本題らしい話題を投げかける。

「少し休んだらどうだい、羊」

「何のことですか」

「分かっているだろう。君、働きすぎだよ。雑魚の始末なら他の者に任せればいいのに君は目につく依頼を片っ端から受けるんだから……。指名の依頼も受けているっていうのに、一日に片づける依頼の量が誰よりも多いんだよ。少し自重しなさい。下っ端にもできる仕事は分けてあげなさい」

「ボクにはこれしかないんです。幾ら雑魚の始末でもそこにアイツの情報があるかもしれない」

「そんなことをしても怒りは収まらないだろう。そんなものは幾つも仕事をしても一時忘れるだけで心に燻ぶり続けるだけだ」

「じゃあどうしろっていうんですか!」

曲の途中だが、我慢ができず鍵盤を勢いよく叩く。不協和音が教会に響く。歯を食いしばって必死に耐える羊に、縞は驚きもせず続ける。

「羊に指名で依頼が来た」

嫌な予感がした。直接縞が伝えに来たとき、梁珂はいなくなったのだ。

「ルートリッヒの息子の殺害。キーセンベルトからの依頼だ。受けるかは羊に任せる」

肌が粟立った。よろこびに酷く身体が高揚した。

「! で、でもキーセンベルトからの依頼には応えないんじゃ……」

「ルートリッヒの血縁者を牢に入れる際に逃げられたらしい。また逃げられるのは困ると頼ってきたんだよ。他の依頼は諦めたがこれだけは受けてほしい、とね」

「軍事国家じゃないんですか」

「ルートリッヒの一族は剣術に長けておりキーセンベルトで随一の腕らしい。それでももう少し頑張ってほしいものだ。軍事国家の名ももうすぐ消え去るかもね。大体、最近は戦争も起きていないし軍事力が衰退するのも無理はない。だとしても、わたしの部下を使うのはいただけないけどね」

「文句があるのにどうして依頼を持ってきたんですか」

「羊には悲願があるだろう。それとも持ってこない方が良かったかい」

「いえ、やります。……ありがとう、ございます、ボス」

「……ああ。あとで資料を渡すから屋敷においで」


屋敷に一歩踏み入れると、途端に屋敷の空気は一変した。

「ハウライトだ」

「異端者の黒いブラックシープが何しに来たのかしら」

「ボスに呼び出されたんじゃないか」

「また? 信頼しすぎじゃない?」

「わからんよ、ボスの怒りを買って呼び出されたのかも」

「聞いた? 先月の依頼数。一人で五〇件越えって異常よ!」

「名前は可愛いのに、中身は狂暴よね」

「皮肉な名前だよな、ひつじだぜ羊」

「黒いブラックシープがいると空気が悪くなるよ」

「早く出て行ってほしい」

屋敷のエントランスにいたリトスの民の視線が一斉に注目し、わざとように聞こえるように話をされる。

羊がこの三年で〈幸運の象徴〉としてだけでなく噂されるようになってしまったのは、殺し屋として優秀すぎたから。殺し屋になった途端にリトスの経済状況は異様なまでに回復した。その不気味さにリトスの民たちは羊を『黒いブラックシープ』と呼ぶようになった。

正直、どうでもいいと思っている羊は、眉一つ乱さず屋敷を闊歩かっぽする。

「聞こえてないのか?」

「笑いもしないなんて気持ち悪い……」

「いや、笑うのは無理でしょ、あはは! ――」

「――リトスも治安が悪くなりましたね」

「「「「「‼」」」」」

好き勝手に言わせておいてもいいのだが、一つ訂正があった。しかし、殺気はしまっておいたのに遮っただけで息を呑まれるとは驚いた。

「ボクは黒いブラックシープよりも山羊スケープゴートの方がお似合いだと思いますよ」

妖しく微笑むと、その場にいたものはみな吸い寄せられるように羊の琥珀色アンバーの瞳を見つめ、頬を赤らめる。すぐにハッとして戸惑う面々に滑稽だなと羊は思う。自身の容姿が優れているとわかっての行動だが、先程まで気持ち悪いなどと言っていた人が自身に陶酔する状況は非常に興味深く面白い。

縞の部屋を三回ノックして返事が来る前に部屋に入った。

「ボスはボクのあだ名はどんなのがいいと思います?」

「梁珂に似たな。エントランスで聞いたのか」

「はい」

「『ボス』はどうだ」

「へ……。本気ですか」

「本気だとも。創設メンバーももうわたし一人だけ。そろそろ代変わりの時期だと思っていた」

「ボクはまだ経験が浅いです。他にまだいい人が、とくさんとか」

「篤=オニキスはアンダーボスだ。羊がボスになったら羊のサポートをしてもらう。それに、羊よりボスにふさわしい人はいない」

「……分かりました。でも、今は出来ません。ボクが二〇歳になったら、ボスを引き継ぎます」

「了解した。大事な依頼の前にすまないな。怪我しないように、頑張ってこい」

たまに縞は羊に父親のような温かい言葉をくれる。梁珂を亡くした今、親代わりのように接しているのだろうか。羊は不思議に思いながらも見送りに応じた。


   ◆◆◆


キーセンベルト北部、三年前の血痕も白雪に消え一面を銀世界に囲まれた中、男は立っていた。

「お待ちしていました」

厚手のコートを羽織った男が恭しくお辞儀する。

気配を察知された為、別のプランに移行する。

「へぇ、逃げていた奴が『待っていた』? まさか『ボクに殺されたい』とか言わないよね?」

「そのまさかですよ。羊=ハウライトさん」

「……ボクの名前を知っているのか」

「驚かないんですね」

「ボクはそこそこ有名人なんだ。お前の親父さんのせいでな」

「お互い様ですよ。僕も逃げる羽目になったんですから」

「恨むなら国王を恨めよ。ボクは依頼でお前を殺しに来ただけだ」

「殺気で近付けないじゃないですか。殺気しまって下さいよ、貴方の父親もそのせいで負けたんですから。いや、引き分けか」

「は……?」

空気が揺れた。いや、研ぎ澄ました殺気が緩んだ。隙を狙って攻めてきてもいいのに男は動かない。

「父が近接戦闘しかできないと思っていませんか。父の得意分野は指揮です。貴方の父親は僕が森に潜んで弓を構えていると知らなかったんですよ」

「お前か、オヤジを殺したのは」

「違いますよ。僕は傷つけていません。ただ、貴方の父親と父が丁度離れた位置にいたから矢を放ったら驚いた様子でバランスを崩したのでその隙に父が刺したんです」

カッとなってはいけない。熱くなったら判断が鈍くなる。しかし、なおも男は煽ってくる。

「あ、そうだ。貴方の父親ってどんな人なんですか? 見ると随分と愛情深く育てられたように見えるのですが、本当の父親じゃないんでしょう? 血の繋がりがないのに思いやれるなんて不思議です」

「お前が親父さんのために弓を引くのと同じだよ。神なんて信じてないのに祈りを捧げるような変な親だ、全く以て反吐が出る。でもな、毎日美味しい料理を作ってくれる。根気強く鍛錬に付き合ってくれる。雷に怯える夜は一緒に寝てくれる。ピアノが上手くなくても褒めてくれる。いいところがたくさんあるんだ。それくらいボクにとっては大事な父親だったんだよ‼」

勢いよく地を蹴り一瞬で男の背後に立つ。手首を拘束し白雪の地面にうつ伏せにして押し倒すと、短剣を心臓に突きつける。

「言い残したことは?」

「貴方は父よりも強いですね。僕を殺してくれてありがとうございます、ハウライト」

研ぎ澄まされた短剣が衣服を裂き、肉塊を突き破る。肋骨を避けて刺すと心臓までも突き破った。ずぶずぶと沈む短剣の様子は偉観いかんだった。

苦悶する表情と声音は今まで殺してきた人の中で一番静かで、受け入れているのに本能的に逃れようと乱れる身体を、のしかかる羊は振り落とされないように足を拘束した。

更に全体重でねじ伏せると、羊の頬をあかく生温かい液体と震えるてのひらが伝い、白雪に沈み滲んだ。

心臓を突き刺して数秒――破壊死亡

「ボクは頼まれたから、やっただけだ。悪意も憎悪も、ましてや感謝なんて受け取る資格なんてない。ボクには貴方が抱えていたものも感情も何一つ察せやしないのだから」

羊は自分の身から何かが抜け落ちた感覚がした。しかし、それが何なのかわからない。ただひたすらに嬉しくて、虚しくて、心臓がゾクゾクとしてたまらない気持ちになった。


〈destroyed by Howlite〉


サインを書いたカードをコートに忍ばせる。

名を名乗る為の梁珂から受け継いだせめてもの礼儀。

羊は溜め息を吐きながら、暫く呆然と立ち尽くすのだった。


   ◆◆◆


「もしもし」

『やあカポ、元気にしていた?』

「久しぶりだな、ジーリオ」

羊がルートリッヒの息子と対峙しているとき、しまは自室から窓の外を眺めながら電話の対応をしていた。電話の相手は友好国フィオーレの大統領・ジーリオ。因みにカポはフィオーレの言語でボス。

『あの日から三年経ったね。君、疲れているように聞こえるけれど、ちゃんと休んでいる?』

「すまない、声に乗っていたか」

ジーリオは軽薄なところがあるが、義理堅く気遣い屋な縞と梁珂やなかの数少ない友人の一人であり、リトスと同盟を組んで互いに交易を行っているリトスにとって重要な人物だ。

『縞くん、ぼくはそういうことを言っているんじゃなくって、ハウライトくん、だっけ? 君が目にかけている子。幾ら親友の息子だからって一から一〇〇まで面倒見る必要はないんだからね。ぼくは君の健康が心配なのさ』

「他人の心配ばかりしている場合か。大統領が勤務中にプライベートで電話かけてくるなんて」

『いいや、ぼくには大事なことだよ。フィオーレの経済にはリトスが必要不可欠なんだから。今君に倒れられたらぼくはとっても困るんだよ』

「それなら心配いらない。後継者はもう決まっている」

『え、誰?』

「……また追って沙汰する。今はバタついているのでな。ではな、ジーリオ」

『あ、ちょっ、ま』

なんとなくばつが悪いと感じて通話を切ると、辺りは静寂に包まれる。

ジーリオは鋭いところがある。触れられたくないところまで察するくらいには。

思い出したくない記憶は一人でいると途端に蘇ってくる。視線の先には教会の庭。羊がまだ幼い頃は熱心に鍛錬する姿を口には出せないが視線で励まそうとしていた。気配を消していた為気づかれることはなかったが。

しかし、それも数年前の話。平和だったリトスの町はあるときから変わってしまった。キーセンベルトへの報復を望む者、反対に他国との縁が大事なリトスの構造上キーセンベルトとの穏便な解決を求める者、リトスの統治者の今後に不安を覚える者。

縞は周りの状況に気を取られ、忘れていた。後始末に追われ、一番近くにいた者のケアを怠った。

「羊……」

羊は達観した子だった。いや、そうさせてしまった。悲しくても、悔しくても、怒ってもぶつけられる人を、甘えられる人を、誰よりも信じられる人を失わせてしまった。挙句、復讐をさせて、生きていく意義を指示し導いた気になっていた。

羊の上司で、梁珂の友人で、そして羊の父親という自分の立場を過信していた。

大きな立場に押しつぶされないように距離を取ったというのに結局呼び戻すことになるとは。

視線の先の空は暗い気持ちを吹き飛ばすかのような、将又はたまたその気持ちを嘲るような茜色でただひたすらに眩しくて。

縞は後悔や慨嘆がいたん暗然あんぜんな感情に揺れるまま、梁珂を亡くしたあの日のように呆然と羊の帰りを待っているしかなかった。

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黒羊 守屋丹桂 @moriyanika

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