冬に降るつめたい雨(1)
桃うさぎさんに会いに、S市に行く。そう決めた。
できれば日帰りがいい。スマホで計算したところ、時間と料金の兼ね合いを考えても往復で2万はかかる。朝一の高速バスに乗って、一番早い新幹線に乗るとなれば到着は午前10時くらい。そしてこの場合のS市発の最終便は午後5時30分になる。ざっくり計算して滞在できるのは7時間だ。その7時間のためだけにぼくは命をかけてもよかった。
母に「朝5時に出かける」ことを伝えると、思った通りツッコミが入った。
「そんな朝早くどこにいくの、この冬に」
「高瀬と出かける」
ぼくはよどみなく嘘を重ねていく。でもやっぱり「S市に」とは言えなかった。
「ちょっと遠出する。で、映画を見に行く。そのまま遊ぶから、何時になるかはわからないけど」
「ひょっとしてデート?」
「……」
茶化すような母の言葉に僕は黙り込んでしまう。
むっつり黙り込んだ僕をなんと思ったか、母はにっこり笑って、僕の両肩を叩いた。
「ま、がんばりなよ」
ともあれ、親に言い訳ができた。
そうして僕は、何年ぶりかに雪寄せをさぼった。雪の重みを感じない朝は、ひどく爽快で、なのに少し寂しくて、変に緊張した。
これから誰にも知られないようにバスに乗って、S市まで行くんだ。彼女に会うんだ。
バスの往復切符を買うのに苦労した。みるみるうちにお札が飲み込まれていく。秒速で消えていく僕のお年玉。そして浮ついて落ち着かない、僕。
こんな辺鄙な田舎に暮らしていると、自分で外に出ようとでも思わない限り、街の外に出ることはない。だからすべてが初めてで、新鮮だった。知った風景が見知らぬ場所に様変わりしていく。
銀色の地平線に朝日がのぞくころ、バスがやってきて、僕を当然のように乗せて、当然のように出発した。雪は吹きすさぶ風に乗って追いかけてくる。だけど僕は暖房のききすぎた車内で上着とマフラーを取るのに必死だ。どこか遠い異世界みたいなところに来てしまったみたいだった。雪寄せをさぼったときからずっと手のひらの上にわだかまっていたものが、じわじわと僕の現実を侵食していく。
電子料金表の点滅。バス車掌の低いアナウンス。高速に乗るギリギリ手前まで、各駅で停まるバス。
だけど僕のほかに客の姿は無い。止まっては動き、止まっては動き……その繰り返しの中、僕は座席を少しだけ倒して、つかの間のまどろみに身をゆだねる。
『駅のステンドグラス前で待ってる』
『見つけて、アッキー』
桃うさぎさんはそれだけ言って、DMをやめてしまった。何時に行けばいいのかも、どんな服装をしているのかもわからないまま、ノーヒントだ。だけど僕には自信があった。一目見ただけできっと彼女だと分かる、そんな自信。
根拠もない自信だった、若さゆえの自信と言い換えてもいいかもしれない。
――人には適切な距離がある。
僕らの距離は、きっとネット越しの、スマホの発する熱くらいがちょうどよかったのだ。スマホを抱えて浅い眠りに落ちる、あの、疲労の果てにあるほのかな幸福くらいが。
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