揺蕩うあぶくたち(1)
どうしようもなく寒い夜には、誰かのぬくもりが欲しくなる。男だろうが女だろうが構わないから、隣に誰か眠っていてほしい。
そう思うのに、いつも俺はひとりだ。
今週に入って何本目になるかわからない煙草に火をつける。煙草に火が点く瞬間、毎回「かなしい」と思う。いつか終わることが分かってる関係によく似ているからだ。
『あなたには血が流れてないみたい。私のことも、見てるふりして、見てない』
――ごめん。
そう口にすることさえ彼女を傷つける気がして何も言えなかった。俺は加害者で、彼女は被害者だった。どんな言葉を尽くそうが、反対に何も言わずにいようが――罪は軽減されず、重石みたいに俺の上に
冴えた冬の夜は風もなく、ただキンとした冷たい空気の層だけ湛えて、まるで水の底みたいだ。空に浮かぶ月が細く欠けて尖っているのを見、俺はスマホを取り出して、好い感じの写真を撮って、きわめつけにSNSをひらき、画像を添付して、こう打ち込む。
『月がきれいですね(月)』
すぐさまレスがついた。
『なに? 桃うさぎさん、漱石?』
若いフォロワーのひとりだ。名前はアッキー。アイコンは犬の写真。おそらく中学生くらい。びっくりするくらい熱心に俺の巻くくだを聞いていてくれる。
『よくわかったね(笑)さすがアッキー』
『わかりますよ、有名だし。月、俺のところからも見えます』
アッキーはすぐさま写真を添付して寄越した。きっと急いで撮ったにちがいない、電線の映り込んだ空に三日月が浮かんでいる。
『超きれいじゃん!』
意外にもレスはすぐつかなかった。俺はスマホをポケットに放り込み、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けた。
「桃うさぎ」でいることは、窮屈な現実から逃げ出す一つの方策だった。出勤謝罪比較比較比較比較コスパコスパ改善改善謝罪謝罪反省退勤。そんなくそみたいな八時間と夜を交互に過ごす中で、俺が見出した唯一の活路だった。笑いたい奴は笑えばいいと思うし、けなしたい奴はけなせばいい。ただ俺にダメージは一切入らない。昔は痛かったのかもしれないけど、今は全然痛くない。こういうのを無敵というのかもしれない。
二十代後半にもなった俺が二十代の女に成りすましてSNSをやったところで誰が困るでもない。傷つくのは俺の擦り切れきった雑巾みたいなカスのプライドだけだ。傷が一つ増えたところでどうなるものでもない。
スマホが震えた。
『月、きれいですね』
『そうだね(月)』
青々しい少年の感性が突き刺さってくる。かつての自分はこんな風にまぶしかっただろうか。好きな女に『月、きれいですね』と囁けるだけの気力とか勢いとかがあっただろうか。多分無かった。
『過去は振り返りたくないけど、足首掴んで離してくれないんだよね。影みたい』
――いいね。
『誰にも分かってもらえなくてもいいから、自分だけは自分のこと分かってあげたい』
――いいね。
『そばにいてほしい人に限って側にいない』
――。
アッキーはいいねを押さなかった。その代わり、リプがついていた。
『行ってもいいなら、行く』
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