寒鴉宮《かんあきゅう》の月

吾妻栄子

寒鴉宮《かんあきゅう》の月

「姫様、お茶が入りました」

「ありがとう」

 “沈まぬ太陽”と讃えられる東の帝国の広大な宮殿の中にある、一際ひときわ華やかに造られた一棟。

 琴を弾く白くあえかな手を留め、濃く長い睫毛に縁取られた切れの長い瞳で葉がすっかり緋色に染まったかえでの木に囲まれた池に紅葉が落ちては漂う様を見守っていた十六歳の皇女は微笑んで女官の差し出す茶碗を受け取った。

――ドン!

 城壁の向こうの秋晴れの空に狼煙のろしが上がる。

「あれは……」

 茶碗を手にした皇女は灰黒色の煙が薄まりながら立ち上っていく辺りを眺めて呟く。

 女官の一人が答えた。

越安えつあんの船が着いたのですわ」

 海を越えた向こうにある南の小国の名である。

「到着はもう少し先ではなかったかしら」

 皇女は澄んだ、しかし、どこかに幼さの残る声で尋ねた。

「船ですから風向き次第で早まることもあるんですよ」

 影のように傍らに控えていた既に髪に白い物の目立つ乳母が答える。

「嫌だわ、南の猿たちがこの城に住むなんて」

 まだ年若い女官の一人が苦々しい声で吐き捨てた。 

寒鴉宮かんあきゅうからこの栄耀殿えいようでんまでは離れてるから大丈夫よ」

 朋輩らしいこれも若い女官が宥めはするものの、こちらも嫌悪を潜めた面持ちで続けた。

「あの辺りはにわとりを放し飼いしたみたいに喧しくなるでしょうけど」

「今は幽霊屋敷みたいに気味悪いとこだわ」

 元は“韓亜宮かんあきゅう”と名付けられていた宮殿のその一角は陽当たりが悪く日暮れになるとどこからともなく鴉が集まってくることから今では宮中の人々からは“寒鴉宮”と忌まれている。

「およしなさい」

 十六歳の皇女は今度は静かだが確かな声で制した。

「生まれた国を離れてこちらに来る人たちを蔑む振る舞いはいけません」

 若い女官たちは畏れ入った体で一斉に目を伏せる。

 その内の一人が声を潜めて答えた。

「越安人が島に流れ着いた我が国の漁民たちを残忍になぶり殺したと聞いてから恐ろしいのです」

「その和睦のためにあちらの王子がこちらに来たのですよ」

 人質ひとじちとして、とはあるじの皇女が口にしなくても皆が知っている。

 若い女官たちの中のいま一人が聞きつけられるのを憚る風に返した。

「越安人は真っ黒な猿のような醜い顔つきで鳥のように喧しく話すと言いますわ」

 その言葉を耳にすると、皇女の玉じみた滑らかに白い面がまるで自らが誹りを受けたかのように曇った。

「生まれついての姿かたちを嘲るのは悲しいこと」

 シンと静まり返った華やかな装いの女たちをよそに池にはそよ風に乗ってあかい葉がまた一枚、舞い落ちていく。


*****

ぞうだ!」

「さすがに大きいな」

 帝都の公道脇に集まった人々は帝国のそれとはどこか異なる笛太鼓や銅鑼どらを鳴らしながら歩いてくる異国の使節の行列に口々に驚きの声を上げた。

 しかし、遠目に巨大な南国のけものを認めて感嘆を口にした人々はいざ間近に迫ると今度は声にならない叫びと共に見入った。

 白の勝った灰色の象の上にしつらえた、鮮やかなだいだい色の天蓋が付いた玉座。

 そこには仏塔じみた金の冠を付け、男性としてはやや華奢な体に朱色の絹の衣を纒った十七歳の越安の王子が腰掛けている。

 列を成して歩く臣下たちより幾分薄い褐色の滑らかな肌、どこか青みを含んだ漆黒の髪、黒玉じみた大きく円な瞳。

 背筋を真っ直ぐ伸ばし、行く手に待ち構える帝国の宮殿を見据える眼差しにはどこか哀しい気配が漂っているようであった。

 南の島国から来た異人たちを見ようと集まった沿道の人々は我知らず手を合わせて象の上の貴人を見送った。


*****

越安国えつあんこくより参りました太子の黎朔れいさくと申します」

 宮殿の大広間。

 平伏する越安の臣下たちの先頭に座した王子は初めて耳にする側が驚くほど訛りのない帝国の言葉で挨拶した。

「楽にいたせ」

 祭壇じみた黄金の屏風を背ににしきを掛けた玉座から髪の半ば白くなった皇帝は鷹揚な声を発する。

「そなたはここにいる姮嬉 《こうき》 と変わらぬ年だ」

 父から名を呼ばれた皇女は、しかし、その声がまるで耳に入らぬかのように玉座の隣に設えられた御簾みすの奥から異邦の王子の姿を見詰める目を移さない。

「何も恐れることはないのだ」

 大国のみかどの声は言葉に反して冷厳に響いた。


*****

――カア、カア……。

 日暮れ時を迎えて鴉が屋根の上で鳴く古びた宮殿の一角。

 全体は薄暗いもののまるで目印のように赤や朱の地に影絵を描いた南国のランタンがともされていた。

「そなたたちもここまでの道のりで疲れておろう」

 儀式用の金の冠と絹の衣から常の結い上げた黒髪と質素な装いに戻った南国の王子は自分よりも年嵩の臣下たちに向かって労う風に頷いた。

「もう引き取って各々おのおの休むが良い」

 南国の家来たちは一斉に拝礼した。


*****

新月チャンノンも今日は頑張ってくれたね」

 寂れた庭園に急ごしらえで設けた囲いの中にひっそりと蹲っている象に王子はまるで友か兄弟に対するかのように温かな声で語り掛ける。

「ここの方が南の我がの庭より広かろう」

 冷えた風の吹く中、東の空に浮き出た象牙色の丸い月を眺める十七歳の王子の声がかすかに震えた。

故国くにを出た時と同じ丸い月が出ている」

「太子様」

 不意に現れた侍従の一人が呼び掛ける。

「皇女殿下から使いが来ました」

――バサバサッ。

 屋根を飛び立つ鴉の羽音が辺りに響き渡った。


*****

「こちらでは明月めいげつの晩には皆でお祝いをします」

 女官たちに菓子を持たせ、自らは緋に色付いた楓の枝を手にした十六歳の皇女は微笑むと柔らかに澄んだ声で続ける。

「よろしければご一緒にうたげはいかがでしょう」

 優美、端麗を誇る帝国の女官たちの中にあってすら、中央に立つ芳紀ほうき正に十六歳の姫君は白く滑らかな肌は光を発するかのようであり、豊かな黒髪は濡らした鴉羽からすばのように色鮮やかな燈籠の光に照り映えた。

 だが、南国からはるばる渡ってきた人々は讃嘆よりはむしろ化け物でも目にしたような恐怖を淡く滲ませて見入る。

 こちらも臣下たちの奥に座している王子だけがどこか寂しい笑いを浮かべた眼差しを華やかに装った異邦の女たちに注いだ。

「我らで良ければご相伴しょうばんあずかります」


*****

 丸い月が東に浮かんだ夜空の下、南国の臣下たちが奏でる調べに合わせて東方の宮女たちが舞い踊る。

「これは……」

 湯気立つ茶碗を手にした姫君は長い睫毛の奥の黒目勝ちな目を見張った。そんな風に表情に色が付くと、素のままだと端整ゆえにどこか冷たい面立ちにあどけなさが浮かび上がる。

 その様を見て取った南国の王子も釣り込まれたように人懐こい笑顔で語った。

「南国の茶です。我が国で取れる果物の実が入っています」

「だからこんな風に甘い香りがしますのね」

 東の皇女は雪白の頬をかすかにあかく染めて答えた。

 南の太子は漆黒の髪を結い上げた頭を深く頷かせる。

「これは暑い時に冷やして飲めば爽やかな気持ちになり、寒い時に温めて飲めば体の中を暖かくしてくれます」

 飽くまで穏やかな声で付け加えた。

「我が亡き母もやまいの床でこれだけは口にすることが出来ました」

 だが縦長の桜色の爪をした白く細い指で茶器を抱えていた姫君はふと痛ましい面持ちになる。

「殿下もお母様を亡くされてますの?」

 お母様、と口にする声には無心な童女の響きがあった。

「ええ」

 皇女より一つ上の太子はむしろ自分が相手を慰める調子で小さく頷いた。

「前々から胸をわずらってせっていたのですが、こちらに発つすぐ前にとうとう逝ってしまいました」

 それだけ言うと、まるで手本を示すように自らの前で微かに湯気を立ち昇らせている茶器を取って口元に運ぶ。

 二人の間を南国の果実を含んだ甘やかな香気が立ち込めた。

「私も母を幼い頃に亡くしました」

 東の姫君は象牙の色をした丸い月を眺めながらぽつりと呟く。

 離れた場所に座して主君と異国の王子を見詰めていた白髪の乳母の顔に痛ましいものが走った。

「乳母がずっといてくれましたけれど」

 ふっと微笑んで振り向いた皇女と釣り込まれて眼差しを向ける太子に老婆は深々と頭を下げる。

「乳母殿にも茶を」

 南国の王子はこちらも影のように控えていた侍従に告げた。

勿体もったいのうございます」

 皇女の乳母は頭を下げたまま答える。

「生みの母の逝ったのがこんな風に月の満ちて輝く晩だったせいか、今は彼処あすこから見守っていてくれる気がします」

 新たに向き直って月明かりを浴びた姫の中高な横顔は透けるように白く、濡烏ぬれがらすの髪は絹さながら滑らかに照り返していた。

卓貴妃たくきひ様ですね」

 南国の王子は相手と変わらぬ流麗な帝国の言葉で答える。

「たいそう見目麗みめうるわしく、また、心映えの優れたかただったとうかがっております」

「ご存じでしたか」

 皇女は再びいとけない驚きの表情になった。

「こちらの皇上とお妃については周辺の諸国にも知れ渡っておりますよ」

 十七歳の太子の方は寂しい笑いに戻って続ける。

「亡き母も私の幼い頃、よく海を越えた向こうに大きな沈まぬ太陽のような国があると教えて聞かせてくれました」

 月明かりは結い上げた王子の髪の漆黒に秘められた青を浮かび上がらせるように照らし出した。

「我が国は沈まぬ太陽の国より遥かに小さく、人も少ない。だからこそ、果物の甘く豊かに実り、密林に象の暮らす、山から輝くあかい玉の採れる地を慈しみ守らなければならないのだと」

 満月より遥かに小さく遠いものの夜空に一点鮮やかにあかく煌めく星を認めると、褐色の肌をした王子は円らな瞳にかすかに揺れる光を宿した。

「我が母もよく私を膝に抱いてこの空の下には星の数より多い人がいてこことは異なる装いをして別の言葉を話す人も沢山いるのだと教えてくれました」

 姫君は静かに澄んだ声で語ると、そっと王子に庭を示す。

「それでも、どの人にも喜びや悲しみを感じる心が等しく備わっているのだと」

 当初は固い面持ちで楽器を奏でていた南国の臣下たちにも踊っていた東方の宮女たちにもどこか寛いだ温かな気配が漂い始めていた。

「ああ」

 太子はそこで初めて気付いた風に互いの家臣たちのさまに目を注ぐ。

 踊り手の中で幾分年嵩としかさの宮女が笛を吹くまだ少年じみた楽士に笑顔で目配せするようにして拍子を合わせており、楽士も安んじた面持ちで澄んだ音色を響かせている。

 かと思うと、まだ少女めいた女官の張り切った動きを父親くらいの楽士が目を細めて見守りながら琵琶を鳴らしている姿も認められた。

「そうですね」

 穏やかな声と共に皇女に向き直った顔には円らな瞳を三日月形に細めた人懐こい笑いが零れている。

「本当にいお茶をいただきました」

 控えめだが確かな声が姫君と王子の二人に届いた。

「この身も若返って長生きできる気がいたします」

 白い髪に深い皺の刻まれた顔を柔らかに微笑ませた乳母はそこだけつやと張りを残した声で語る。

「それは良かった」

 南国の太子は頷くと、再び茶碗に口を付けている東方の皇女に向かって告げた。

「持ってきた甲斐がありました」

 姫君は長い睫毛の目を細めると濡鴉の髪に生じた光沢つやを緩やかに動かすようにして頷いた。

 満ちた月の灯りの下、今度は黙して見詰め合う二人の間を果実を含んだ甘い香りが濃さを増しながらまた立ち込めていく。(了)

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