夜ふけたころ、雪ひらは厠に行きたいと申し出た。

 いつもの下男が付き添いに立ち、用を足すまで外で見張られる。雪ひらはもたもたと手間取るふりをしながら、一本だけ隠し持っていた細い小刀メスを掌に忍ばせた。

 しっとりと湿気を含んだ夜の風が吹き、ときおり虫のすだく音が響いている。下男が外から声をかけた。


「もし。御腹の具合でもよろしくのうございますか」

「いや、暗いので勝手が違っただけです。もう出ます」

「さようでございますか」


 下男が元の立ち姿に戻る気配がする。雪ひらは一気に扉を押し開けた。すばやく下男の背後を取り、片手で口元を塞いで小刀を首筋に突きつける。


「――!」


 下男はウッと喉の奥で呻き、ふり払おうとする仕草を見せた。雪ひらはその耳元に口を寄せる。


「叫べば、これで喉を突きます」


 刃先をわずかにめり込ませると、下男の息がつまった。素人であっても、そこが命のかなめとなる動脈の上であることが察せられたのだろう。雪ひらは刃を慎重に押し当てたまま続けた。


「この家のこと、他言はしません。おれはただ逃げたいだけだ。だから黙っていていただけますか」

「……、」


 下男は抗うように顎を上げたまま動かない。されども雪ひらがもう一歩刃をめり込ませると、ぐうと唸りながら頷いた。


「ありがとうございます」


 雪ひらはそうささやき、動脈の要所を指で強く押し込んだ。

 一瞬、下男の躰が硬直して崩れ落ちる。雪ひらは下男の着物の帯を解き、それで腕を縛って放り置いた。そのまま蔵のある方角へ走り出す。

 夜露が足をしとどに濡らし、虫の音が四方から迫りくる。次第に重くなる足を蹴り飛ばすようにして駆け続け、蔵の横を通りすぎた。

 寸の間、足を止めようか迷う間に現れた藪へ突っ込む。枯れ草の波が、闇を経糸たていとで貫くようにさらさら光った。手足が切れ、あるいは虫に食われるむずがゆい痛みが走る。

 灌木と蔓と羊歯しだを泳ぐようにかきわけていると、ひやりと堅いものに手が当たった。掌で撫で、それが屋敷の裏塀らしいと感じる。ならばいずこかにくぐり戸があるはずだと、雪ひらは両の手であたりを探った。

 ひたひたと手あたり次第に叩いてゆくうち、腐れた木板の感触に触れる。触る端から粉になりゆくそれが古いくぐり戸の名残だとわかり、雪ひらは眉を開いた。背を伸ばし、息を吸ってその板きれを蹴り上げる。

 幾度か張り倒すように蹴りつけると、あるときふいに真ん中が大きく崩れた。くぐもった音とともに粉塵が散る。雪ひらは袖で口元をかばい、埃が止むのを待った。

 それから崩れ落ちた木片に足をかけ、身を乗り出して外を覗く。その先は荒れ野と森が続き、名家といえども裏側はこんなものかと知れた。


「……、」


 左右を用心深く見渡し、背後から追ってくる気配がないことも確かめる。

 そうして足を踏み出しかけた瞬間、ひゅっと空気を切る音が降ってきた。塀を見上げようと身をひねりかけたとき、耳のうえあたりに地揺れのような激しい衝撃を受ける。

 鼓膜が爆ぜたのではないかというほどの痛みと明滅に眼前が埋め尽くされ、雪ひらの意識はあっさりとそこで途絶えた。


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