屋敷での暮らしは至れり尽くせりである。

 一日三食、それも白米と御菜と汁物がきちんと並べられ、綿の入った布団で眠れる。茶が飲みたいと言えばたちまち女中が運んでくるし、初日など酒肴の膳すらも饗された。

 雪ひらは酒が飲めぬので断ったが、さすれば今度は茶菓子が出てくる。湯浴みも煙草も望むだけでき、賓客にでもなったかのごとき扱いだった。

 ただ、決して寝起きする離れからは外に出られない。

 出ようとすれば控える下男にやんわり止められ、厠や風呂の中にまで付き添ってくる。書物を読むことは許されたが、文字を書くことはできない。自前の矢立はいつの間にか奪われていた。刃物や箸など、得物になりそうなものも用事が済めば取り上げられる。

 客とは客とは名ばかりのことで、実体は立派な軟禁であった。


――だが、師は気がつかぬだろう。


 否、気づいていても気づかぬふりをするかもしれない。

 季節医としての師はあまたの門弟を抱えて忙しい。のみならず、はみ出し者の雪ひらをもてあましている気ぶりもあった。雪ひらがいずこかで客死しても、かえって安堵するくらいなのではないかと思われる。


――死ぬ気はない。が、ただして報酬をもらえるだけとも思わないほうがいいだろうな。


 他言はせぬと誓ったとて、それがどこまで通じるかどうか。

 雪ひらは大の字に寝転がってそう嘆息した。そのとき、障子の向こうに人影が現れる。


「雪ひら様。恐れながら、さよお嬢様のお支度が整いましてございます」


 いつもこの離れを見張っている下男の声である。雪ひらは返事をして立ち上がった。襟を整えながら障子を開けると、沼のごとく沈んだ目をした下男が膝をついている。雪ひらに会釈し、ご案内しますと立ち上がった。

 離れを出、母屋の長い廊下を渡っていずことも知れぬ室の前まで連れてゆかれる。客間のようだが、それほどの貴人を通すわけでもないといった中どころらしき部屋であった。

 下男がその内に声をかけると、侍女らしき張りのある女の声でいらえがある。下男が音もなく襖を開いた。

 入って右手の奥に床の間があり、それを背にして小柄な娘が座している。栗色のやわらかそうな髪に、総花柄の明るい青色の振袖がよく映えていた。深い那智黒の瞳が、仔犬のような無心さを宿して雪ひらを見る。

 娘の脇に控える侍女が、傲岸に顎を上げつつ言った。


「貴君が雪ひら殿ですね。お入りなさい」


 路傍に転がる石でも蹴りつけるような声音である。

 機嫌を損ねれば厄介そうな女だと感じ、雪ひらは慇懃に頭を下げてにじり入った。こうべを垂れたまま娘と侍女の前まで近づき、下知を待つ家人のごとく畳のうえに拳をつく。侍女が命じた。


「どうぞ、頭をお上げなさい」

「はい」


 顔を上げても、娘は置物かなにかのようにちんまりと座しているだけである。脇にいる侍女が黒子で、それに操られる文楽人形のようでもあった。

 そうした印象を抱きつつ、雪ひらは丁寧にふたりの女へ礼をする。


「季節医の、雪ひらと申します。《いざな屋》様のご紹介に与り参りました」

「話は聞いています。こちらのさよお嬢様の御ために、どうぞ力を尽くしてください」


 頼む口ぶりであるものの、まったく頼まれている気はしない言い方だった。いけ好かない女だが、とはいえ雪ひらの役目はここでのを果たすことである。それが金に化けるのであれば好こうが好くまいが関わりなかった。

 雪ひらは息を吐き、腕まくりして侍女に訊ねる。


「まずは、ご息女様の診察をさせていただいても?」

「手首だけなら取ることを許します」


 まるきり深窓の姫君の扱いである。雪ひらは呆れたが、そうしなければ話が進まないであろうことはわかったので黙って従う。会釈をし、やわ雪のように白い娘の手を取った。

 さよという娘は、じっと雪ひらの顔を見つめてくる。肌はあくまで白く細かく、爪先まで磨き抜かれた愛らしい美貌である。

 されども苦労のかけらも見当たらぬそのさまは、むしろ雪ひらの癇に障った。これならば醜女であった姉令嬢のほうがまだ話をしようという気になる。雪ひらは知らず唇を曲げていた。

 診察そのものはつつがなく済み、娘の躰に異常がないことを認める。その旨を侍女に告げると、いくらか安堵した様子で胸を撫で下ろした。


「とはいえ、貴君のなされるわざに危険はないのでしょうな?」


 侍女はじろりとした目で雪ひらを見つめる。雪ひらは当たり前のことを正直に述べた。


「いかに高名なる医術であっても、絶対に失敗せぬということはありません。その恐れをお厭いになるのであれば、いますぐにも私を追い出していただいたほうがよろしいでしょう」


 むろん、滞在に要した費用はお返ししますと頭を下げる。侍女は渋い顔をしたが、そうした屈折を呑み込むように喉元をさすった。


「……お嬢様を危険にさらすわけにはゆきませぬが、この業を為せるのはいまや貴君ただひとりと聞いています。ならば万全の体制にて、貴君が手を尽くしてくれることを望みます」

「ご息女様のご両親も、ご承知のうえでのお話でしょうか」

「ええ。この件についてはわたくしがすべて任されておりますれば」


 侍女は胸を張って頷いた。雪ひらはさも感じ入ったように頷き返しつつ、釘を刺しておく。


「と申しましても、本件はご息女様の一大事。ことを為すにあたってはご両親にもお目通りのうえ、書面でのお約束を取り交わしできたらと思います」

「それはむろんのこと」


 侍女は、雪ひらのように下賤な男との口約束など信用できぬと言わんばかりの表情をした。いちいち臓腑にくる態度をとる女だが、ひとまず言質を取りつけただけでもよしとする。

 雪ひらは引き下がり、ぼんやりとやり取りを聞いていた娘に声をかけた。


「ご息女様も、ご異存はございませんね」


 娘は一拍遅れて、おのれが話しかけられたのかと気づいた様子でまばたきをする。それから幼子のように頷いた。


「わたしは、かまいません。おとうさまとおかあさまと、このに従います」


 すみというのが控えている侍女の名らしい。侍女はその返答に満足げだったが、どうにも意志の感じられぬ娘である。雪ひらはまことに状況がわかっているのか危ぶみ、もう一歩踏み込んだ問いを発してみた。


「こたびの業は、これまでにも前例のほとんどない大手術となります。ご息女様のお躰にも、御胎をくださる御姉君にも命の危険が及ぶやもしれません。その点はよく承知されていますか」


 すると娘は不思議そうに首を傾げ、その可憐な唇から爛れた毒のごときことばを吐いた。


「どうして、おねえさまを心配なさるの? おねえさまは化け物なのに」

「は?」


 雪ひらは眉をひそめて訊き返した。娘はさらに、無垢そのものとしか言いようのないまなざしで雪ひらを見る。


「おねえさまは化け物だから、人として生きてゆかれぬさだめなのですって。だからわたしが胎をもらって、おねえさまの現世このよの罪をとむらってさしあげるのよ」


 さんざんにそう言い聞かされ、教え込まれ、一片たりとも疑ったことのない口ぶりだった。

 雪ひらは思わずめつけるように侍女を見つめる。侍女は唇を横に引いて笑み、生き血をすする妖物のごとき顔をした。


「なにも間違ってはおりませぬ。あの娘は、もはや人の世を外れた憐れな亡霊」


 ほほほ、と侍女が高く笑う。その甲高い叫びは四方にこだまし、雪ひらの掌にじっとりとした汗を呼んだ。


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