翌日、雪ひらは蔵にいる令嬢ゆきを訪ねた。

 例のという女中に案内され、暗く籠もった臭いの闇にふたたび足を踏み入れる。手燭の明かりが、すすけた畳や文机、端に置かれた尿びんといったものの陰鬱な影を照らし出した。

 ゆきはうとうとと眠っていたが、錠前の音に気づいて目を覚ましたらしい。雪ひらを見て知己に対する笑みを浮かべた。


「今日も診察に来てくださったの、若せんせい?」

「そういう約束だから」


 雪ひらは痩せたゆきの手を取り、昨日と同じように脈を診た。

 すべてが雛のごとくこぢんまりとしていた妹と異なり、ゆきの手は白百合のつぼみのようにすらりとしている。脈の響き方も肌の温度も、姉妹であれどもすべてが違った。

 雪ひらはぐっと腕の血管を押し上げるふりをしながら、その掌に小さな紙片を紛れ込ませる。


「食欲や気分に変わりはないだろうか」

「……、」


 ゆきは一瞬、雪ひらの目にまなざしを据えて微笑した。それからやわらかく首をふる。


「ないわ。若せんせいが来てくださって嬉しい気持ちはあるけれど」

「洒落にもならない」


 雪ひらが静かに言い返すと、ゆきは何がおかしいのかくすくす笑った。診察はつつがなく済み、ゆきの躰に異常はないことを認めて終わる。離れへ戻り、数刻を過ごしたところで女中に呼ばれた。


「ゆきお嬢様がお話したいと仰せです」

「参ります」


 雪ひらは頷いて立ち上がった。

 外は午後の陽が伸び、ほのかに夕暮れの迫る気配を感じさせる。蔵の周囲の草々は早くも湿り気を帯びた露が降り、どこからともなく沁み出した水が小さな流れをつくっているところもあった。

 女中とふたり、足を濡らしながら蔵の前にたどりつく。女中が鍵を開きながらふり返った。


「お嬢様より、雪ひら様とふたりでお話をしたいと伺っております」

「はい」

「四半刻までならお待ちします。ので、くれぐれもお気をつけくださいませ」

「承知しました」


 なにかあれば即座に踏み込むつもりなのだろう。だが、ゆきが人払いを命じた時点で雪ひらは半ば勝機を得ている。先刻ゆきに渡した紙片には、そうした主旨の望みをしたためていたからだ。

 女中は相変わらず凍ったような目つきをして、どうぞと雪ひらに手燭を預けた。開いた扉が一瞬蔵の闇を照らし出し、ふたたび闇の中に戻る。

 雪ひらは手燭をともした。衝立の向こうで、ゆきがゆったりと声を上げる。


「若せんせいね?」

「ああ。先ほどは急に悪かった」


 衝立の奥に回り込みながら答えると、ゆきはこちらを見上げて首をふった。


「いいのよ。それで、どういった秘密のお話?」

「この家から抜け出したい。申し訳ないが、おれはこれ以上こちらの家のやり方に付き合えそうもない」


 雪ひらはきっぱりと言い切った。

 この家は歪んでいる。闇医者に頼る患者などそうした輩ばかりではあるが、ここは下手に金も権力も持っているのが厄介だ。取り込まれても撥ねつけても先々の患いになるだろうと思われたので、そうなる前に逃げることにした。

 ゆきは雪ひらの思いを聞き、ふっと薄紙のような息を吐いた。


「……そう。わたしにそのお話をなさったのは、逃げるのを手伝ってほしいから?」

「それだけじゃない。貴女も、ともに逃げないか」


 雪ひらが問いかけると、ゆきはわずかに目を見開いた。眠たげにけぶっていた黒い瞳に、一抹の白い光が宿る。まったく予期していなかったという無防備な表情で、雪ひらをまじまじと見つめた。

 これは賭けだった。この女が真実狂ったこの家に取り込まれているのであれば、おそらく雪ひらの命はない。大声で助けを呼ばれる見込みも、女の親に密告される恐れもあった。

 だが、この女はそうしないだろうという目算があった。雪ひらはその勘に従い、ことばを重ねる。


「貴女はおのれの顔かたちを嘆いたが、おれは別に気にならない。世の中にはそういう人間もいる。だのにこの狭い蔵の中だけですべてを終わらせて、みずから進んで犠牲になることもないだろう」

「……、」


 ゆきは目を逸らし、茫洋と蔵の天井を仰いだ。数瞬、唇を結んだあとで元のとおりやわらかな笑みを形づくる。


「ありがとう、若せんせい。そんなことを言ってくれる人は、いなかったわ」

「貴女の世界が狭すぎたんだ」

「そうかもしれないわね」


 ふふふ、と薄い唇から綿毛のような笑い声が漏れる。そうしてゆきは首をふった。


「申し出はありがたいけれど、わたしは行かないわ。家を捨てるには、わたしの躰は重すぎる」

「本当に、それが貴女の気持ちなのか」


 置かれたその状況ゆえに、ゆきは自身の生きざまを諦めてきただけではないのか。

 雪ひらは不思議なほど力を込めて、そのように語っていた。動かぬ女など放り置けばよいものを、なぜか念を押している。

 ゆきは口元にほのかな微笑を浮かべ、雪ひらの逸るこころをなだめるように首をふった。


「若せんせい。いいのよ、わたし。わたしの躰が役に立つのなら、それでよいと思っているの」


 細く澄んだその声には、一片の怨みも潜んではいなかった。心底からそう思い、妹の一部になることを悦んでいる口ぶりだった。

 ゆきはふっと息を吐き、疲れたように目をつぶる。生えそろった睫毛の下に、青黒い陰影を宿らせて呟いた。


「この蔵の後ろにある藪をかきわけていくと、家の北東の端に出るわ。建物のしつらえが変わっていなければ、そこに古い小さなくぐり戸があるはず」

「そこから、外に出られるのか」

「わたしがまだ疱瘡にかかる前の記憶だから、もう造り替えられているかもしれないけれど」

「いや。それでも充分だ」


 雪ひらは偽りのない気持ちで返した。ゆきは目をつぶったまま、その清くやわらかな笑みを深める。


「若せんせいを、家のわがままに巻き込んでしまったわね。行くならば、どうぞ行って。わたしと妹のことはどうにでもなるだろうから」

「……そうか」


 ゆきに当てなどないであろうことはわかっていた。

 女の胎を移すわざなど、尋常の医者にできるものではない。いまの日の本で為しているのは雪ひらくらいであろう廃れた業だ。雪ひらが逃亡すれば、ゆきの両親は血眼になってでも雪ひらを探し出し、業を為さしめるのではないか。


――だが、おれが逃げおおせれば、この女は少なくともあと一年は長らえられる。


 それも躰を損なうことなく、ゆきという女の尊厳を保ったままでだ。

 ならばよいのではないかと、雪ひらはおのれを納得させるようにしてそれ以上のことばを呑み込んだ。襟の合わせから小さな紙包みを取り出し、ゆきの前に置く。


「長居をした。これはまっとうな、養生のための薬だ。少ないが飲むといい」

「ありがとう。若せんせいはやさしいわね」

「曲がりなりにも、季節医としての役目を果たしただけだ」

「ふふ、そうよね」


 ゆきは含むように軽く笑った。

 雪ひらはその笑みをまなかいに収めたあと、会釈して立ち上がる。草履を履いて扉の前へ向かったところで、ゆきのおだやかな声が届いた。


「さようなら、若せんせい」

「ああ。左様なら」


 そうして、雪ひらは扉を押す。

 暮れ始めた夏の空が赤黒い日差しを投げかけるその下で、女中がじっと耳を澄ますようにして雪ひらの戻りを待っていた。


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