雪ひらがその屋敷の門を叩いたのは、暑い夏のさなかであった。老人と話をしてから五日後である。

 屋敷はかつての武家町があったあたりにあると教えられ、雪ひらは手書きの地図と往診用の風呂敷包みを片手に向かった。界隈は確かにいかめしい造りの屋敷がつらなり、どの家も固く戸を閉じている。

 誰も通らぬ道は真昼の暑さに白茶け、眺めていると眼前が紫と黒のまだらになった。四方から降る蝉しぐれがじわじわと両肩にのしかかり、雪ひらは熱い息を吐いて立ち止まる。腰に挿した手拭いで噴き出した汗をこすり、怨めしく道の果てを見やった。


――このあたりのはずなんだが。


 されども一帯の家々はどれも似たような邸宅に見え、目当ての屋敷を探し出せずにいる。いい加減喉が渇き、茹だった頭が苛々とし始めていた。


――しかし、探さねばどうしようもない。


 まず依頼人の元までたどり着けねばここで干からびるだけである。

 雪ひらは手拭いを腰に戻し、ふたたび炎天下を歩き始めた。幾度か同じ界隈を行き戻りし、ひとつずつ門前を覗いてはこれではないと首をふる。

 そうして頭が朦朧としかけてきたころ、そのみちの存在に気づいた。

 とある屋敷の塀と塀の合間に、人がひとり通れるほどの細い道が続いている。両側に建つ塀瓦から落ちるわずかな影が暗がりとなり、いままで気づかなかったらしい。

 小径の先には、まだ屋敷の建つ気配がある。雪ひらは寸の間目を細め、それからその小径へと踏み入った。

 わずかな暗がりでも、灼熱にさらされてきた躰では幾分か涼しく感じる。雪ひらはほっと着物の襟をゆるめながら小径を通った。そう長くもない距離を歩くとどん詰まりとなり、パッと道が開ける。そこで目をみはった。

 これまでのどの家よりも大きな黒門がそびえている。塀は長々と左右に広がり、曲がり角ははるか先に霞んでいた。おそらく奥ゆきも相当なものだろう。

 そして威風堂々たるその黒門の前には、ひとりの女中らしき人物が立っていた。雪ひらよりいくつか年上のような若さだが、生気のない表情のせいで老けて見える。女は雪ひらを認めてゆっくりと頭を下げた。


「雪ひら様でいらっしゃいますね。《いざな屋》様より伺って、お待ち申し上げておりました」


 《いざな屋》はあの老人の屋号である。あちらがあらかじめ気を回していたようだ。

 雪ひらは頷き、老人から受け取った紹介状を差し出した。女中はそれを確かめてきびすを返す。


「ご案内いたします」


 門の脇にあるくぐり戸を抜けると、広大な庭園であった。ゆったりとした芝生があり、その小径から繋がる先に太鼓橋のかかる池と築山がある。遠くに東屋や竹林やなにかの花園らしきものも見える。

 およそ個人の邸宅にはあるまじき広さに雪ひらはたじろいだ。されども女中は慣れた足取りでさっさと歩き、北の鬱蒼とした竹林のほうへ進んでゆく。

 雪ひらは小走りでその後を追い、ひやりとした風の吹き抜ける緑陰に入った。目の前が黒く沈み、竹がザザザと妖しく鳴る。雪ひらはつかの間喉の渇きを忘れた。

 竹林を抜けた先も、じめついた木立であった。緑樹が茂り、地には十薬どくだみ羊歯しだや苔じみた雑草などがはびこる。その奥にぽつりと忘れられたかのごとき蔵がたたずんでいた。

 女中は襟元から首にかけていた鍵を取り出し、その蔵の錠前を開ける。かちん、という音がいやに高々と響いた。


「診ていただきたいのは、お嬢様でございます」


 女中がわずかにふり向き、それだけ説いて扉を開いた。

 雪ひらは〈こちらにいる〉というその言に疑問を差し挟む前に闇の中へ放り込まれる。かび臭さと屎尿の臭いがまず鼻をつき、そう思うと同時に隣でふっと光の珠が広がった。女中が手燭に灯をともしたのだ。それで蔵のうちの様子が知れた。

 十帖か十二帖か、それほどはある土間の入り口寄りに衝立がなされている。その向こうは畳敷きになっているらしく、そちらから細い女の声がした。


「ちよ。どうしたの?」


 いままで眠ってでもいたのか、声は夢うつつのごとく頼りない。女中がさっと衝立の向こうへ上がり、小声でなにかを説明した。女の答える声がする。


「ああ、そう。そうね、そろそろ急いだほうがよいものね」

「旦那様と奥様の許可は下りております。あとはお医者様のお許し次第」

「そこに、先生がいらっしゃるのね」


 顔は見えぬが、こちらにまなざしが向けられたのを感じる。雪ひらは女の声に導かれるようにして、ゆっくりと足を踏み出した。衝立の先を覗き込む。

 女中が膝をついた脇で、湿ってへたったような布団に横たわる女がいた。その容貌は醜いというしかなかった。手燭の明かりに照らされた顔は痘痕だらけで、その赤黒いおうとつが鬼の実のような陰影をつくりだしている。

 雪ひらは医者としてのならいで疱瘡だなと冷ややかに判じたが、尋常な人間であれば顔をしかめるだろう見目だった。

 女の瞳が、手燭の光を宿してやわらかく雪ひらに向けられる。容貌の凄さに反して、そのまなざしは清流のように澄んだものだった。女が手招くようにほほ笑む。雪ひらは草履を脱ぎ、畳へ座した。


「季節医の、雪ひらと申します。《いざな屋》様よりご紹介賜りました」

「ゆき、と申します。わたしたち名前が似ているのね」


 女はそれがさも嬉しいことのように、ころころと笑い声を立てる。なぜそのようなことで笑えるのかと雪ひらは眉を上げた。見たところ女は貧しく、虐げられた暮らしをしている。そうであるのに、この女は少し頭が足りぬのではないかと思った。

 女中は雪ひらの様子など気にも留めず、膝に手をそろえて淡々と説明する。


「雪ひら様に診ていただきたいのは、こちらのゆきお嬢様のお躰です。お嬢様の御胎が使なるかどうか、ご診断いただきたく」

「お輿入れ前の検診、ということでしょうか」


 娘を嫁へやる前に、丈夫な子を産める躰かどうか診てほしいという依頼はときたまある。この女の場合は違うだろうと予期していたものの、雪ひらはあえてとぼけるようにそう訊ねた。そうである、と答えてくれれば、雪ひらの負担は少なくて済む。

 されども、女中は冷淡に首をふった。


「いいえ。お嬢様の、御胎が、使いものになると証していただければよいのです」

「わたしの胎を、妹にあげたいからよ」


 女が女中のことばを引き継ぐようにぽつりと言った。そのことばは波紋のごとく静かに広がり、雪ひらの膝元へ寄せてくる。雪ひらは、やはりそういうことかと肩の重みが増すのを感じた。

 女はゆるやかにまばたきし、無邪気ともいえるまなざしで雪ひらを見上げてくる。


「ねえ、若せんせい。わたしの胎、ちゃんと子をせるか診てくださる?」


 喚くことも狂うこともない女の目が、雪ひらのこめかみに軽いめまいを呼び起こした。


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