「ごめんなさい。お父さま、お母さま。わたしが怖がってしまったからよ、それで若せんせいをお逃がししたの」


 ゆきの声が、どこか遠くのほうで響いている。

 それに答える男の声は低く、なにかを小声で叱責していることしかわからない。やがてピシリと人の肌を撲つ音がして、雪ひらはハッと目を開いた。

 途端、腕や肩や後頭部がすさまじく軋んで痛んだ。ウッと身を起こそうとするも手も足も動かない。縛られて布団のうえに転がされているらしいとわかり、ぐるりと目を動かしてあたりを見やった。

 障子越しに、薄青く沈んだ光がぼんやりと差してくる。夜明け方であろうか。

 口には轡代わりの布を噛まされており、叫ぼうとしてもならなかった。喉の奥で埃が絡む。二、三度咳込み、その音が隣の座敷にも伝わったらしい。男の繰り言めいた叱責が止まり、こちらへ近づいてくる気配がした。

 襖が開き、向こう側の光が漏れる。逆光になった男の顔は明らかでなく、ただ冷ややかにこちらを見下ろしてくるまなざしだけを感じた。


「起きられましたか」


 温度も質感もない平坦な声である。雪ひらはまだ目通りをしていなかったが、これがこの家の当主であることはおのずとわかった。

 令嬢ゆきとさよの父親であるはずの男は、後ろをふりむいて命じた。


「解いて差し上げなさい」


 す、と向こう側から細身の女が近づいてくる。顔つきがさよによく似ており、人形めいた覇気のなさもそのままだ。おそらくこちらが当主の奥方なのだろう。

 奥方は幼子が苦心してボタンを外すように、時をかけて雪ひらの縄を解いた。赤くすり切れた手首をさすっていると、当主が促す。


「手荒な真似をして失礼しましたが、話をお聞かせください。の言うことが真実か確かめさせていただきたい」


 これ、と当主は芥を投げ捨てるように顎で後ろを指した。

 雪ひらは一抹の予感を覚え、ちりちりと鳴る鼓膜を抱えて立ち上がる。縛られていた足がよろけ、向こう側の座敷へ倒れ込むようにして踏み入った。

 そちらは古びた客間らしい部屋で、なにも掛けられていない床の間と違い棚があるだけのしつらえである。そこに布団が敷かれ、令嬢ゆきが横たわっていた。くろぐろとした髪が行灯の明かりに照らされ、黒い滝のような艶を帯びている。

 されどもその顔色は血の気を失い、うっすらと冷や汗をかいていた。痘痕に覆われた右頬がさらに赤く膨れ上がり、岩を含んだようになっている。ゆきはそうした顔で笑おうとした。


「……ごめんなさいね、若せんせい。もうわたし、時間がないみたいなの」

「何が、――」


 そう言いかけた雪ひらの脇を当主が行き過ぎ、ゆきの足元の布団をめくった。

 その足首はあらぬ方向に折れ曲がり、周囲に至るまで赤黒く腫れ上がっていた。おそらく骨が折れている。それも自然と折れた傷ではなく、人の手で傷つけられなければこうはならない。そういう容態であった。


――まさか。


 雪ひらは当主を振り仰いだ。当主は冷えた能面のような顔をして告げる。


「これが愚かな真似をしたようなので、躾です。これは妹に胎を譲るのが嫌になって貴方を逃がしたそうですが、間違いありませんか」

「そ、……」


 それは違う、と言いかけたことばが喉の奥で引っかかる。

 もし雪ひらがおのれの意志で逃げたのだと述べれば、おそらくこの当主はゆきに為したのと同じことをするだろう。そして雪ひらのわざをこの家だけのものとして占め、使える限り使い尽くして闇に葬るやもしれない。

 一瞬でそうした想念が頭をよぎり、思わずゆきの顔を見る。ゆきは眉間に苦悶の影を宿しながらも、まなざしだけで雄弁に語った。


――いいのよ。若せんせい。わたしのせいにして頂戴。


「――、」


 この女のこの献身は、いったいどこから来ているのだろう。身内でも恋人でもない、雪ひらひとりのためにここまで我が身を削ろうとする。

 雪ひらは、この女のようにはなれない。そこまでの情も女に対する義理もない。

 そうであるのに、なぜ心の臓が突き刺されたように痛むのか。

 耳の奥で甲高く音が鳴る。頭が痛む。こめかみが激しく脈打ち、掌はじっとりと汗で湿っている。雪ひらは総身を襲う苦痛に唇をきつく噛みしめ、されども目をつぶって頷いた。


「間違い、ありません」

「そうですか。では早急に契約を。そしてをお願いいたします」

「……はい」


 どのみち、ゆきの躰は当人が言うとおりもう長くは保たない。無理に傷つけられた足はやがて腐り、ゆきを弱らせてゆくだろう。なればほどなく心の臓が止まってしまう。その前に、まだ健康な胎を取り出さねばならなかった。

 雪ひらは、泥のように重い手足を引きずって立ち上がった。

 そうして刑場へ連れられてゆく罪人のように、歩き出した当主の背へ従った。


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