そのときは隣で(後編)
翌朝、十時になっても父は一階のロビーに降りてこなかった。
フロントにいたスタッフに事情を説明してスペアキーを借り、父の部屋の鍵を開けた。
部屋の中に入ると父はまだベッドの上で横になっていた。
「真くん、もう十時過ぎてるよ」
そう声をかけても、父はぐっすりと眠っていた。
「起きて、もう十時だよ」
僕は布団の上から父の肩を叩いたが、それでも父は目を覚まさなかった。
何度呼び掛けても全く目を覚ます気配の無い父を見て、僕は慌てて浴室へ向かった。
すると浴室には、溶けきらなかった白い粉の跡がついた透明のガラスのコップと、エヴァンからもらった小さな紙袋が置いてあった。
僕は急いでベッドに戻り、「真くん!真くん!」と名前を叫びながら父の身体を揺らした。
それでも父は目を覚まさなかった。
状況を理解した僕は、それでも嗚咽交じりの声で父の名前を何度も叫んだ。
「ごめんね、ごめんね真くん。約束守ってあげられなくてごめん」
握りしめた父の手は、ほんの少しだけ温かかった。
父の身体に癌が見つかったのは二年前だった。
父の癌は既にステージⅣまで進行しており、手術が出来ないため放射線化学療法か薬物療法しかないと言われた。
「俺、癌だってさ。まさか俺まで癌とはね。ごめんな」
診察室から出てきた父は、待合室で待っていた僕に笑いながら言った。
癌と診断されたのにどうしてヘラヘラしているんだと思ったけれど、きっとそれが父にできる癌への精一杯の反抗だったのだろう。
僕の母も、僕が高校生の時に癌で亡くなっていた。
医師から治療法をいくつか説明されたが、父は治療をしないという選択を取った。
治療に時間を費やすなら、その時間を自分のやりたいことに費やして死にたいと言った。
毎日外食をして美味しいものを食べたり、テレビで紹介された美味しいお店に行ったり、全国のご当地グルメを食べるんだと目を輝かせた。
「食べることばっかじゃん」
僕は笑いながら父にそう言ったのを覚えている。
だけど、父には食べること以外にもやりたいことがいっぱいあった。
その一つが安楽死だった。
ベッドの横にある小さな机の上には、父のスマホが置いてあった。
僕は父のスマホを手に取り、写真のアプリをタップした。
アルバムにあったのは昨日食べたジビエ料理や初日に食べたラクレットなど、ほとんどが料理の写真だった。
料理の写真の下の方には太い黒字のフォントで、その料理を食べた日付と店の名前が記載されていた。もちろん昨晩食べたジビエ料理の写真の下にも、昨日の日付と店の名前が入力されていた。
本当に料理の写真ばかりで、たまに観光地で撮った風景や建物の写真が交ざっているくらいだった。僕も父も写真に写るのがあまり好きではないので、父の撮った写真の中に僕は一人もいなかった。だけどそれは僕も同じことで、僕の撮った写真の中に父は一人もいないのだから、こういう所も親子なんだなと実感して一人で笑った。
父のスマホにはアプリがほとんど入っていなかった。
写真以外の目立ったアプリといえば、よくバナー広告とかで出てくるパズルのゲームアプリとメモアプリくらいだった。
ゲームのアプリを開くと、左上にはレベルMAXの文字が表示されていた。当然ステージも全てクリア済みだった。
暇さえあればパズルゲームをやっている父を見て、こんなゲームのどこが面白いのかとずっと疑問に思っていた。けれども実際にやってみると意外と面白くて、僕は自分のスマホをポケットから取り出すと、パズルゲームのアプリをダウンロードした。
メモアプリには、一件だけメモが残っていた。
最終更新日は今日で、メモのタイトルには『やってよかったリスト』と記載されていた。
「やりたいことリストでも作ってみたら?」
父の身体に癌があることを知り、僕は父にそう提案したことがあった。
「嫌だよ。お涙ちょうだいの映画の主人公みたいだし、そういうのって大概は一番やりたかったことが出来ずに死んじゃうパターンが王道でしょ。その出来なかったことを他の誰かが成し遂げて、更にお涙ちょうだい的なパターンでしょ」
そういう映画を観てボロボロと涙を流しているのはどこのどいつだよと思ったけれど、父が乗り気じゃないことを無理矢理やらせるようなことはしたくなかった。
「でも、やりたいことは沢山あるんでしょ?何かにメモしておかないと忘れちゃわない?」
そう尋ねると、「たしかにそれも一理ある」と父が言った。
それから数日が経ち、「ねぇ悟、『やってよかったリスト』を作ることにしたよ」と父が僕に報告してきた。
「やってよかったリスト?」
「そう。やりたいことはいっぱいあるけど、それをやる時に必ず何かしらの後悔はついてくると思うんだ。どんなに待ち望んでいた、ずっとやりたかったことでも、ちょっとした後悔は必ず付き纏うものだから。でも、そんなほんの些細な『後悔』ですらも『やってよかった』で上書きできたらいいなって」
「それが、やってよかったリスト?」
「そう。どうかな?」
『やりたいことリスト』はやりたいことを忘れないためにするのが目的であり、『やってよかったリスト』はあくまで『やったこと』を書くリストだから、いわゆる日記のようなものだろう。
それだと僕が提案した『やりたいことリスト』とはちょっと意図が異なってしまうが、まぁ父がやりたいと言っているのだから僕にはそれを肯定する以外の選択肢は無い。
「良いと思うよ」
僕がそう答えると、父は早速メモアプリを開いた。
「もう何か書くことあるの?」
そう言って父のスマホを覗くと、父はタイトルの『やってよかったリスト』の下に【やってよかったリストを作る】と文字を打ち込んだ。
僕は『やってよかったリスト』を上から順に見ていった。
予想はしていたけれど、そのほとんどが【〇〇の〇〇を食べた】という内容だった。
どんだけ食べることが好きなんだよと思いつつ、リストの中に【無課金でレベルMAXになる】という文字を見つけてまた笑ってしまった。
『やってよかったリスト』には、本当に多くの『やってよかったこと』が記載してあった。
そして下の方までいくと、【スイスに旅行する】というメモを見つけた。
きっとこれはスイスに到着した初日に書いたものだろう。
その下には、【エヴァンに会う】や【ラクレットを食べる】というメモが続いていた。
更にリストは続いており、最後の方には昨日書いたのであろう、
【日本以外の国で運転する】
【ジビエ料理を食べる】
【スイスの地ビールを飲む】
【安楽死をする】
と続いていた。
そしてリストの一番最後に記載されていたのは、
【息子と親友になる】
だった。
「お涙ちょうだいの主人公かよ」
涙を堪えることなんて出来なかったけれど、それでも父の手を握りしめながら、かすれた声を絞り出して精一杯の笑顔を作った。
「スイスはどうだった?」
スイス旅行最終日、エヴァンは空港まで見送りに来てくれた。
「とても良い所でした。食べ物は美味しいし、景色も綺麗だし、出来ることならもっと滞在したいくらいです」
「そうか、気に入ってもらえてよかったよ。本当なら君とお父さんを色んな所に連れて行ってあげたかったんだけど、医師の不足が深刻でね」
「とんでもないです、エヴァンさんには本当にお世話になりっぱなしで。レンタカーの手配も突然お願いしてしまってすいませんでした」
「そんなことは気にしなくていいよ」
それから少し間を開けて、「大丈夫かい?」とエヴァンが尋ねた。
「はい。最高の家族旅行でした」
「それなら良かった。何かあればいつでも連絡してくれ」
「ありがとうございます。エヴァンさんも、もし日本に来ることがあればその時は連絡ください。父と二人でよく行った美味しい居酒屋があるんで、一緒に行きましょう」
「それは楽しみだ。それじゃあ、気をつけて」
「本当に色々とありがとうございました」
今回のスイス旅行は父にとっても僕にとっても、本当に良い旅だったと思う。
ただ、一つだけ心残りがあるとすれば、「最期は一緒にいて欲しい」という父の願いを叶えてあげることが出来なかったくらいだろう。
飛行機に乗り込み席に着くと、改めて父の『やってよかったリスト』を読み返した。
そして【安楽死をする】という文字を見て、前に父が僕に言ったことを思い出した。
「息子より早く死のうとするなんてダメな父親だよな。ごめんな」
それでも父が最終的に安楽死を選んだのは、癌に対する父の最期の反抗だったのだろう。
最後まで負けず嫌いだった父が書いた【安楽死をする】という文字を見て、やっぱり真くんは真くんだなと思った。
『やってよかったリスト』を何度も読み返しているうちに、僕もリストを作ってみたくなった。
僕は自分のスマホに入っているメモアプリをタップし、タイトルに『やってよかったリスト』と記載した。
一番最初に書くリストはもう決めてある。
僕はタイトルの下に記念すべき一つ目のリストを打ち込んだ。
『やってよかったリスト』
【父の親友になる】
No.66【短編】そのときは隣で 鉄生 裕 @yu_tetuki
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