No.66【短編】そのときは隣で
鉄生 裕
そのときは隣で(前編)
「フライトまで時間あるから煙草吸ってくるね。すぐ戻るからここで待ってて」
「あ、俺も一緒に行くわ。煙草一本ちょうだい」
「え?吸うの?」
「うん、吸う」
「でもずっと禁煙してたじゃん」
「少しでも気分落ち着かせたいから」
「まだスイスに着いてもないのに、もう緊張してるの?もしかして飛行機?」
「久しぶりの飛行機だから。しかもスイスまで十三時間もかかるでしょ」
その日、僕は生まれて初めて父と一緒に煙草を吸った。
僕が生まれてからずっと禁煙していた父にとって、実に二十七年ぶりの煙草だ。
「悟(さとる)は何吸ってるんだっけ?」
「アメスピだよ。真(しん)くんは昔何吸ってたの?」
「なんだったっけな。色んな種類吸ってたよ」
悟というのは僕の名前で、真くんというのは父の名前だ。
父の名前は真一郎といい、僕は物心ついた時から父のことをお父さんや親父ではなく『真くん』と呼んでいた。
何故そう呼ぶようになったのかは覚えていないが、親子というより友達同士の感覚に近い僕ら親子にとっては、その呼び方が一番しっくりきた。
「久しぶりの海外旅行の感想は?」
「とりあえず飛行機が墜ちないことを祈ってるよ」
父とはかなり仲の良い方だと思う。
よく一緒に映画を観に行ったり、国内なら二人で旅をしたことは何度もあった。
それでも父と二人で海外に行くのは初めてだった。
僕も父も海外旅行自体は初めてではないが、父が最後に海外に行ったのは僕が生まれる前の事で、僕は学生の時に一度だけ友人とアメリカに行っただけだった。
久しぶりの煙草は至高の味らしく、「ごめん、もう一本ちょうだい」と結局フライトまでに父は五本も煙草を吸った。
そもそもなぜ僕たちがスイスに行こうと思ったかについてだが、目的は三つあった。
スイスを観光すること。
スイスの料理を食べること。
スイスにいる友人に会うこと。
僕たちの乗る飛行機は定刻通りに出発し、何事も無くスイスに到着した。
「スイスって何語だっけ?」
父が尋ねた。
「さっき調べたんだけど、ドイツ語とフランス語とイタリア語と、あとロマンシュ語だって」
「ロマ?ロマン?それ何語?」
「ロマンシュ語。俺も全然分かんない」
「英語なら伝わるかな?」
「多少は伝わると思うけど、そもそも真くん日本語以外しゃべれないでしょ。まぁ俺もだけど」
僕たちは最初の難関である入国審査をなんとかクリアし、まず始めに友人に会いに行くことにした。
友人とはチューリッヒ国際空港から車で四十五分程の場所で落ち合う約束をしており、僕たちが泊まる宿もその近くにあった。
「こうして直接顔を合わせるのは初めてだね。スイスへようこそ」
友人のエヴァンとはテレビ電話では何度も話をしたことがあったが、こうして直接会うのはこの日が初めてだった。
エヴァンは父と同じ五十六歳で、子供もいなければ結婚もしていない仕事一筋の人だ。
それに二年ほど日本に住んでいたこともあり、日本語がとても上手だった。
僕と父はエヴァンにスイスについてのあれこれを尋ねた。有名な観光地への行き方だったり、スイスでは今何が流行っているかとか、エヴァンは僕たちの質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。そして気が付けば彼と会ってから既に一時間以上が経っていた。
「この後の予定は決めてるの?」
「ラクレットを食べに行こうと思ってます。父がずっと気になっていたみたいで」
僕がそう答えるとエヴァンは、「それならここの近くにいいお店があるよ」と言ってお店の場所を教えてくれた。
ラクレットとは茹でた小さめのジャガイモの上に溶かしたチーズをかけて食べるスイスの郷土料理だ。
「出来ることなら僕も一緒に行きたいんだけど、今晩は先客が入っててね。もし何かあったらすぐに僕に連絡してね、君達のスイス旅行は僕が全力でサポートするから。それじゃあ、最後にこれを渡しておくよ」
エヴァンは父に小さな紙袋を渡した。
紙袋を受け取った父は、「ありがとうございます」と深く頭を下げると袋をリュックにしまった。
その後、僕と父はエヴァンが紹介してくれたラクレットの美味しい店に向かった。
「これがラクレットか、上手そうだな」
父は目を輝かせながら、テーブルの上に置かれたラクレットを携帯で何枚も撮った。
父は昔から食べることが大好きで、外食の際は必ず料理の写真を撮っていた。
子供のようにラクレットを頬張りながら「おいしいね」という父を見て、スイスに来て本当に良かったと思った。
それからラクレットを食べ終えると、僕たちは宿へと向かった。
この宿もエヴァンが手配してくれたもので、部屋は父の希望でシングルを二部屋予約した。明日の十時に一階のロビーに集合しようと約束し、その日は早めに休むことにした。
翌日、僕たちは朝からスイスの観光地を練り歩いた。
ルチェルンという世界中の人が訪れるカペル橋で有名な街へ行ったり、スイスの首都であるベルンにも行った。
そして夜になると父が、「せっかくならもっと遠くまで行ってみないか?せっかくスイスまで来たんだから、スイスの有名な観光地を全部周ってみよう」と言い出し、夜遅い時間にも関わらずエヴァンにお願いしてレンタカーを手配してもらうことにした。
元々は宿の周辺の観光地をいくつか周るくらいで、ゆっくり過ごそうというのが今回の旅のプランだった。
このプランは父から提案してきたものだったが、いざスイスに到着すると父は僕以上にテンションが高く、僕以上にスイスを満喫しようと張り切っていた。
父からの着信で目を覚ました。
「行こう!」
僕が電話に出ると、父は開口一番に言った。
「今日も十時にロビー集合って言わなかったっけ?まだ八時とかでしょ」
「目が覚めちゃったんだよ。もうレンタカー届いてるし行こうよ」
「俺まだ眠いんだけど」
「大丈夫、車の中で寝てればいいから」
仕方なく一階まで降りると、父は準備万端の状態で宿の前に立っていた。
「ごめんごめん、すっかり目が冴えちゃってさ。車の中で寝てればいいから」
僕は助手席に乗り込み、父に言われた通り睡眠の続きを取ろうとした。
しかし僕が目を閉じようとするたびに父は、「まず何処に行こうか?」とか「何か食べたいものある?」と話しかけてきて、僕を寝かせようとしなかった。
こうなることは最初から分かっていた。
「車の中で寝ていいって言ったじゃん」
「言ったけどさ、一人で運転するの寂しいから何か話そうよ」
父は時々、僕以上に子供っぽくて我儘になる。だけど、そんなところも含めて僕は父のことが大好きだった。
それからの三日間は二人で色々なところを周った。
滝や城を見に行ったり、スイスで有名な列車を見つけたので車で並走したり、夢中になって並走したら帰り方が分からなくなって仕方なく車中泊をしたりした。
そういえば父と車中泊なんてしたのも今回が初めてだった。
この三日間は本当にあっという間だった。
スイス滞在五日目の夜、無事に宿に着いた僕たちは部屋へ向かうためにエレベーターに乗った。するとエレベーターの扉が閉まるのと同時に、父が突然口を開いた。
「楽しいなぁ、海外旅行。もっと色んな所を旅してみたいな」
「行こうよ。色んなところに行って美味しいもの食べたりしようよ。何処か行ってみたい国とかないの?」
「行ってみたい国か・・・、台湾とかは行ってみたいかな」
「良いね、行こうよ台湾。いつ行く?」
するとちょうどエレベーターが僕たちの部屋のあるフロアに到着し、父は僕の質問に答えることなくエレベーターを降りた。
「明日も十時集合でいい?」
僕が尋ねると、「ああ、そうしよう」と父が答えた。
「それじゃあ、お休み」
そう言って部屋の鍵を開けると、「なぁ、悟」と父が僕の名前を呼んだ。
「何?どうかした?」
「いや、何でもない。また明日な」
そう言って父は自分の部屋へと入っていった。
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