後編

 長い廊下を歩いていた。床には赤く毛足の長いじゅうたんが敷かれ、スニーカーの底に柔らかな感触を覚えた。


 廊下には等間隔に扉があって、天井からは暖かい色の光が降り注いでいた。壁の隅には花瓶にグラジオラスの花が生けてあった。ここが例の廃ホテルのなかであると気がつくにはそう時間はかからなかった。


 いくつかの部屋を通り過ぎ、ある部屋の前で立ち止まった。部屋番号が書かれていたけど忘れた。片手がドアノブに伸びた。


 ドアの向こうに、男女の姿を見つけた。


 髪の長い女が窓枠に立っていた。女は裸足だった。女の前には背の高い角刈りの男がいた。男は上半身裸で、背中に和彫りの刺青があった。


 部屋に足を踏み入れた瞬間、男は女の背を押した。喉を切り裂かんばかりの鋭い悲鳴が響き渡った。


 僕は窓辺に駆け寄った。二階テラスに女が倒れていた。血液、肉片、骨片、破れた衣類、そういったものが放射線を描くように板張りの床に広がっていた。


「おい」


 背後から野太い声がした。振り返ると、刺青の男だった。うすら笑いがその顔に浮かんでいた。


「じっと見てんじゃねえよ」


 苦笑半分といった口調で男は言った。


 夢はそこで終わった。


 気がつくと、体中汗で濡れていた。冷房をかなりきかせていたはずなのに、とても暑かった。


 夢の断片がいつまでも脳裏に張りついていた。起き上がってトイレで用を足し、ペットボトルの水を飲み、再びベッドに入った後も、なんどもまぶたの裏によみがえってきた。


 結局一睡もできなかった。



 翌日、僕は図書館に行き、データベースから古い新聞を調べた。


 “X市 ホテル 他殺”


 上記の文言で調べると数件がヒットしたが、件のホテルではなかった。


 それでも、僕は確信を持っていた。


 このホテルで殺人事件があったに違いない。そしてそれは隠ぺいされている。何かの事情によって。


 新聞にも出ず、内々で処理された事件があるとすれば、関係者に話を聞けばよい。


 僕は恰好の人物に心当たりがあった。



「どうした。久しぶりだな。あがれよ」


 十年ぶりに再会した大叔父は、一人暮らししているアパートの部屋に僕を招き入れてくれた。


「お前から連絡が来るなんて想像もしなかったぞ」


「聞きたいのは、Xホテルのことなんだ」


「俺の働いていた場所じゃないか。そこがどうしたというんだ」


「殺人事件があっただろう。そのころあなたは働いていたから知っているはずだ」


「なんの話だ?」


 大叔父は目をそらした。声のトーンが下がった。明らかに何かを知っている、僕は確信を強くした。


「話してくれ、頼む。浮かばれない女の人がいるんだよ。見てしまったんだよ」


「――聞いた話に過ぎないが」


 とても長い沈黙のあとで、大叔父は口を開いた。


「四十年も前のことだ。確かに殺人があった。だが、それは伏せられた。市長――もちろん昔の市長だが――からがあった。警察もホテルもいうことを聞かないわけにはいかない。そういうものだろう。


「やったのは、市長の弟だった。現役の刑事でもあった――驚くなよ、刑事だ。あいつは愛人に一方的に腹を立てて、密会に使っていたホテルから突き落としたんだ。即死だったよ。


「深夜の犯行で、目撃者はいないようだった。この町じゃ当時としても夜出歩く人は多くなかったからな。パトカーが来て、男はつかまったが、明日には釈放された。警察は不問にしたし、ホテル側だって事件を隠ぺいした。問題の起きたホテルと思われたくないからな」


 大叔父は湯のみに注いだ番茶を飲み干した。


「今からでも告発するべきだ」


 僕は言った。


「どうしろというんだ。根拠はない。証拠もない。加害者だって高齢で死んでしまった。そのホテルだって今はない。もはや事件を立証することは不可能なんだよ。闇に消えてしまったんだ」


 アパートの部屋に沈黙が横たわった。


「話は終わりだ」


 大叔父は帰るように促した。


「花を活けてきてくれ。線香をたいて、拝んできてくれ。せめてもの供養だ」


「あなたがやればいいでしょう」


「もうやっている」


 大叔父は苦笑いした。



 その後、幼なじみの四人で廃ホテルの前に集合した。前とは違って明るい時間だったけれど、猛暑のせいか人通りはほとんどなかった。


 線香の束に火をつけ、白檀びゃくだんの燃えるにおいをかぎながら、僕たちは手を合わせた。願わくは、成仏しますようにと。


「恐ろしい事件があったんだね」


 専学生は目をくもらせた。


「こんな不正ゆるせない」と憤ったのは郵便局員だった。「できる限り調べて、証拠を集めて、犯罪を告発してみせるよ。そうしないと浮かばれないもの」


「あっ」


 男友達が声を上げた。男友達はホテルの上階に向かって指をさしていた。僕たちは見た。


 窓が開いて、そこに髪の長い女が立っていた。遠目にも赤く腫れあがった顔をしているのが分かった。


 次の瞬間、女は落下した。悲鳴が響き渡った。もっともその悲鳴が聞こえたのは僕たちだけだったかもしれない。コンビニ袋を提げたママチャリがこともなげに僕らの前を通り過ぎて行ったから。


 窓から男の顔がのぞいた。半笑いを浮かべた中年の顔があった。男は何事かいった。僕だけは彼が何を言っているのか分かった。


「じっと見てんじゃねえよ」


 窓が閉まった。


 重苦しい沈黙が訪れた。僕たちはしばらくそこに突っ立っていた。暑熱が肌を焼く。汗が滴る。なのに心は冷え切っていた。


 僕らにできることはなにもないのだろうか?


 きっとこの女の人はここで何度も何度も同じ死を繰り返しているのだ……。



 終わり

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廃ホテルの怪 馬村 ありん @arinning

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