「コケにする」の由来

脳幹 まこと

「コケにする」の由来



「コケにする」という言葉があります。


 馬鹿にするとか、見くびるといった意味になるんですが、今回はその由来について説明させていただくものです。


 栃木県の日光にっこうに「華厳けごんの滝」という場所があります。日本有数の美しい滝でして、およそ100メートルの崖から一気に水が流れ落ちる様子はいつ見ても圧巻です。

 さて、この華厳けごんというのは、経典の一つに「華厳経けごんきょう」というのがあるように仏教用語です。仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位になるということです。


 仏教の修行として有名なのは滝に打たれて身を清める「滝行たきぎょう」ですね。激しい水流と冷たさ、轟音ごうおんで雑念などまったく考えられなくなります。

 滝には神仏や高等霊も顕現けんげんされると言い伝えられ、終わった後は苦しさが消え、自分が高尚な存在になったかのようにすら感じられます。


 さて、安土桃山あづちももやま時代の頃、現在の栃木県にあたる場所に光如こうにょという一人の僧侶がいました。

 光如は室町時代の頃から世渡りが非常に上手でした。僧侶というとおごそかで生真面目な印象がありますが、彼はある時は仏教を盾にし、ある時は同胞の仲間を売り、ある時は仏具をよそへ売り払いました。

 動乱の戦国時代を生き抜くには、狡猾さが必要だったわけです。

 光如は多くの弟子を持つ寺の住職となっていました。彼の本来の顔を知る者はすべて排除しましたから、高潔な人物として慕われていたのです。


 ある日、弟子に隠れて酒をたらふく飲んだ(仏教は戒律で飲酒を禁じています)彼は、いつになく上機嫌でした。月の光だけが木々を照らし、滝の流れる音が聞こえる夜半やはん

 ぼんやりと夜景を眺めていると、突如として一輪のはすの花がちゅうに咲いたのを見ました。

 驚きながらもそのまま観察を続けると、蓮の花は奥へ奥へと咲き続け、最後には見えなくなりました。

「仏様のお導きに違いない」と考えた光如は、立ち上がって、蓮の花を追いかけました。蓮の花は森の奥へと続いています。先に進むほど、滝の音は大きくなっていきました。


 滝に到着した光如は目を見開きました。黄金に光り輝く巨大な蓮が、滝壺に咲いているのです。

 とっさに彼は、これを独り占めしたいと思いました。これは仏様そのものだ、これは私のものだ、誰にも見せてやるものかと。

 滝というのは水神として名高い龍にも代表されるように神聖な場所ですから、立ち入る際は清めなくてはなりません。

 しかし、欲に囚われ、大いに酔っていた光如は考えが及びませんでした。

 彼は不浄の姿のまま、滝壺に足を踏み入れたのです。


 その瞬間、ずぶずぶと身体が沈み込んでいきました。違和感を覚えた彼が下を向くと、なんとそこは水ではなく、月の光すら通さない黒い泥でした。光如は力の限り叫びますが、滝の音でかき消されてしまいます。

 既に太腿ふとももまで沈み込んでしまった彼は、せめて仏様の近くで死にたいと思ったのか、思い切り黄金の蓮に向けて、身体を突っ伏したのです。


 夜が明け、弟子達が住職の不在に気付きました。

 多くの人手を使って捜索をしたにも関わらず、一行に見つかる気配がありませんでした。

 そのため光如は表向き行方不明――神仏となるべく肉体を捨てたとされています。


 いや、正確に言えば、彼とおぼしきからだはすぐに見つかっていました。

 ただ――水に浸かった顔の全体が苔でびっしり覆われていたようで、誰か判別できなかったのです。苔をいでも一向に顔が見えず、僧侶達は途方に暮れました。

 伝記によるところでは、彼は「人に化けた物怪もののけ」として、身分に釣り合わない粗末な形で燃やされて放置されたようです。

 光如の名前が教科書に載らないのはそういった経緯があったのですね。


 光如の話を受けて、戒めのためか、不届きな人物のこと、その惨めな末路のことを「苔にする」という表現としたのです。その後、明治時代となり「苔」の部分は「虚仮こけ」と変わりました。

 虚仮こけもまた仏教用語で、外面と内心が一致しないこと、実体がないことを指しています。

 今でも滝の轟音に混じってうめき声が聞こえる現象が全国で寄せられています。


 光如と同じ「コケにされた」僧侶が少なからずいるのでしょう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「コケにする」の由来 脳幹 まこと @ReviveSoul

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ