本編 

 小雨が降る真夜中の大学病院前、その女性は傘もささずに一人でタクシーを待っていた。

 長い髪で半分ほど隠れているが、女性の顔は青白く窶れていて、今にも倒れそうなぐらいに精気がない。

 ほどなくオレンジ色の行灯をともした一台の黒いタクシーがやってくると、女性は小さく手を上げた。

 眼鏡をかけた運転手は、にこやかな笑顔を浮かべながら女性の近くに車を停めると、女性を快く後部座席に乗車させる。


「どちらまでですか?」

「深泥池までお願いします」


 明るく対応する運転手とは対象的に、女性は終始俯向いたまま小さな声で答えた。

 運転手は目的地に向かって走り出すが、何やら考え事をするかのように、バックミラー越しの女性を見ながら首を傾げた。

 そして女性を気遣うように、優しく尋ねる。


「あのー……すいません。間違ってたらごめんなさい。お客さん、一週間前の夜も、わたくしの車に乗車されませんでした?」

「一週間前? いいえ……」

「あれ? そうでしたか。いや、実は一週間前に貴女にそっくりな方を乗せましてね。その方も大学病院前から深泥池まで行ったんですよ」

「そうなんですか。偶然ですね」

「それがですね。不思議な事にその女性、深泥池に着いたら後部座席から消えてたんです」

「えっ?」

「いやー、びっくりしましたよ。お急ぎの幽霊の方だったんですかね?」

「……その女性、どんな服装でした?」

「青いワンピースでした。黒いベルトをしてましたね」

「それ、もしかしたら姉かも知れません」

「ええっ?!」

「実は姉、一週間前に亡くなったんです。ずっと大学病院に入院してました」


 女性は運転手に自分が大学病院に務める看護師だと明かし、女性の姉がその病院で長らく入院していたが、一週間前に亡くなった事を告げた。


「双子の姉でした。仲が良く、ずっと一緒に遊んでいました。これからも、ずっと一緒だと思ってたのに、まさか……」

「いや、そうでしたか。それで元気が無かったのですね。心中お察しします」


 女性は少しだけ顔を横に上げ、雨の雫が垂れるウインドウ越しに真夜中の北山の街を見つめた。

 そして子供の頃、死んだ姉と深泥池近くの公園で一緒に遊んでいた時の事を思い返す。


「このトンボはね、神様トンボと言って、天国に住んでるトンボなんだって。深泥池には天国への入口があるから、この辺りには神様トンボがいっぱい飛んでるんだって、おばあちゃんが言ってた」


 姉が公園でハグロトンボを見つけた時に言っていた台詞だ。

 数年後、祖母が亡くなった時、池の周りにハグロトンボが沢山飛んでいたので「きっとおばあちゃんは深泥池から天国に行ったんだね」と、二人で泣きながら話していた事を、女性は淋しげな面持ちで懐かしむ。

 雨はまるで、そんな女性の顔を映したくないかのように、さっきより激しく成ってウインドウに降り注いだ。


 女性は「そういえば最近ハグロトンボを見ていない。運転手さんの話が本当なら、姉はまだこの世に未練があり、天国に行けずに彷徨っているのかも……」と、心の中で嘆き、小さく溜息を吐いた。


 程なく暗闇の中に深泥池が見えて来た。

 その表面は、蓴菜などの水草で覆われている。

 真夜中の池は、見る者によっては何処か薄気味悪さを感じるだろう。


「運転手さん……」

「はい。なんでしょう?」

「運転手さんは、深泥池が怖いですか?」

「ああ、色んな噂が有りますからね。でも、わたくしは怖いと思った事は、一度もないですよ」

「本当ですか?」

「はい。お客さんは怖いんですか?」

「いいえ。私と姉は、この辺りの自然が昔から大好きだったんです。休みの日はいつも一緒に深泥池や宝ヶ池の近くで時間を潰してました。池を眺めていると、とても心が和むんです。深泥池の事を『底なし沼』とか言って怖がる人も居ますが、本当は自然豊かで素敵な池なんです」

「いや、そうなんですよね。深泥池は氷河期から沢山の生き物の命を育んできた、生き物に元気を与える素晴らしい池なんです。きっとお姉さんも最後に、思い出の詰まった深泥池に挨拶をしたかったのではないでしょうか?」

「……そうかも知れません」

「お辛いかも知れませんが、貴女も深泥池に元気を貰って笑顔を見せないと、お姉さんも安心して天国に行けないですよ」

「はい……」


 やがてタクシーは目的地の女性宅付近に着いた。

 女性は財布から通常料金の倍額を取り出し、運転手に渡そうとする。

 運転手は困惑した。


「一週間前の姉の分もお支払いします。姉が無賃乗車して本当にすいませんでした」

「ハハッ。いや、いいんですよ。お金は受け取れません。そのお金で、お姉さんに花でも買ってあげて下さい」

「でも……」

「わたくし、どうせのお金を持っていても使い道がないんですよ」

「えっ?」

「お姉さんの事は任せて下さい。責任持って今度こそ天国にお連れいたします。たぶん、まだこの辺りでウロウロされているのでしょう。貴女はお姉さんの分も元気に長く生きてくださいね。今日の事は伝えておきますから」


 そう笑って言いながら、運転手はタクシーごとその場からスッと消えた。

 女性はいつの間にか月明かりに照らされた自宅前に立っている。

 まるで最初から雨など降ってなかったかのように、地面もすっかり乾いていた。

 女性は辺りを見回したが、タクシーの姿は何処にも無い。

 まるで夢か幻のようだが、時計を見たら病院を出てから十五分しか経っていない。

 歩けば一時間はかかる距離だから夢では無さそうだ。

 今の出来事は何だったのだろうか……。


「あっ! あれは……」


 一匹の黒い翅のハグロトンボが、真夜中の池の上をヒラヒラと優雅に舞っていた。

 まるで誰かを迎えに行くかのように……。

 そのトンボの目は、今まで見たこともない淡いオレンジ色に輝いていた。

 その光景を見て、全てを悟った女性は、深泥池の方角を向きながら頭を下げた。


「ありがとうございます。姉を宜しくお願いします」


 女性の顔は涙でびっしょり濡れていた。

 だが、口元には元気な笑みを浮かべている。

 そんな女性に深泥池は、優しい水の香りを贈りながら、闇夜の中を静かに佇んでいた。


〈完〉

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深泥池 押見五六三 @563

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