第3話

 桃子を連れていけなくなった以上、私達だけでどうにかしなければならない。もっとも現場立ち入りに関しては、三十分と限られたものの無事許された。尚隠が捜査責任者に事情を説明して、実際に数珠をさすってあの泣き声を聞かせたためだ。彼らも、現実的な捜査の限界を感じていたのかもしれない。

 念のため警察車両の後ろまで引いて待機してもらっているが、全員の視線が背中に突き刺さる。疑いと蔑みと、苛立ちだろうか。お前達に何ができる、と思っているのかもしれない。

「なら、始めるぞ」

 尚隠は森の中ほどまで足を進めると、数珠の手を合わせて読経を始めた。昨晩はあれからずっと本堂に籠もっていたから、一睡もしていないはずだ。そのおかげで私達だけでどうにかできるところまで来たのだろうが、妻の不安がないわけではない。

 ぱきぱきと木の枝が折れる音が立ち始め、そこに少しずつ泣き声が滲み始める。尚隠は読経担当で、私は対話担当だ。少しでも安堵を引き出して気持ちを落ち着かせ、この惨劇を終わらせなければならない。

 やがて音はばきばきと重く激しいものに変わり始め木々の欠片が舞い、泣き声も耳を劈くようなものになる。一陣の風が背後へ吹き抜けたあと、目の前に黒い塊が浮いていた。昨晩本堂で見た桃子とよく似た、空間に穴が空いたかのような闇だ。日中に見るとその異様さがよく分かる。

 幼稚園教諭として数年間子供達と接してきたが、保育士ではないから新生児や乳児の世話には詳しくない。それでも、やってみるしかない。

「こんにちは。今日は、お話をしに来たの」

 明るい、はっきりとした声で話し掛けながら、向かい風に逆らって笑顔で近づく。浮いてはいるものの、それでも私より低い位置に中腰になって進んだ。

「どんなお話が好きかな。お友達を連れてきたんだけど、会ってくれる?」

 一歩踏み出した私を突っぱねるように、木の枝が吹っ飛んでくる。防いだ腕に鈍い音と痛みを残したあと、傍らに落ちた。荒れ狂っているように見えて、私達をきちんと認識しているらしい。私の声も届いているのだろう。

「じゃあ、お友達に出てきてもらおうかな」

 膝を突き、バッグからしろやぎとくろやぎのパペットと小道具の封筒を取り出す。演じるのは『やぎさんゆうびん』だ。パペットをそれぞれ手にはめ、久しぶりの歌を少しゆっくりめに歌いながらパペットで演じる。始めるや否や激しく木の折れる音は勢いを失くし、凄まじい勢いで飛び交っていた木の枝が落ちていく。泣き声が完全に止んだのは、しろやぎの元へくろやぎからのお手紙が届いたところだった。

 人形劇が終わる頃には、森の中に響くのは私の歌と読経だけになっていた。

「楽しかった? やぎさん達も、見てくれてありがとうって」

 やぎの人形を揃えてお辞儀させ、少し色を薄くした塊に笑い掛ける。

「ねえ、私と一緒に来ない? うちには、君と仲良くしてくれるお兄さん達もいるよ」

 彼らなら、この子が成仏できるまで喜んで面倒を見てくれるだろう。もちろん、尚隠と私もいる。寂しい思いを抱えたままでは終わらせない。

 パペットをバッグへ戻して手を差し伸べた私に、薄くなった塊が揺らいだ。落ち着けば素直な手が、ゆっくりと伸びてくる。

 でも手が重なりそうになった瞬間、背後で耳障りな音がした。

「一般人は立入禁止だ、今すぐ立ち去りなさい。もう一度言う!」

 驚いて振り向くのと同時に、拡声器が偉そうな指示を繰り返す。まだ三十分経っていないのに、約束が違う。邪魔しかしない上司でも来たのかもしれない。でもその二度目は、さっきよりも激しく折れ始めた木々の音に遮られて届かなかった。

「大丈夫、大丈夫だよ! 私と一緒に」

 一層猛る泣き声は、最早怨念の唸りのようにも聞こえる。でも恨みたくて、誰かを傷つけたくて殺したくて生まれ出るわけではないのだ。これ以上、業を背負わせてはいけない。

 向かい風に逆らい抱き締めようと手を伸ばした時、大きな破裂音とともに裂けた大木が私目掛けて飛んでくるのが見えた。ああ。

 文乃、と尚隠の悲痛な声が響いた時、目の前で大木が砕け散る。尚隠は私を勢いよく引き寄せ、きつく抱き締めた。

 ……収まった?

 突然静まった音と風に、腕の中でおずおずと目を開ける。はっとして見上げた尚隠は、恐れに反してどこからも血を流していなかった。

「文乃、あれ」

 促す視線に倣って向こうを見ると、優しげな女性が白い布に包まれた赤ちゃんをあやしていた。姿形は桃子に似ている気がしたが、桃子ではないだろう。桃子が来るわけは……そうか。

「四十九日までは、あたしが預かる。子育ては久しぶりだけど、たっぷり甘やかしてやるから心配いらないよ」

 おとん女郎はふふんと笑い、赤ちゃんをあやしながら腕を揺らす。

「助かった、ありがとう」

「結構。でも、あんた達を助けたのは私じゃないよ。私もあんた達と一緒に助けられたんだから」

 尚隠の礼に答えて私を見ると、意味ありげな笑みを浮かべた。やっぱり、そういうことか。

 おとん女郎は頷いた私を確かめて踵を返し、赤ちゃんとともに森の奥へと消えていく。もう大丈夫だろう。愛さない親より、よほど適した乳母役だ。

「どういうことだ」

「ちゃんと確かめてから話すわ。それより今は、あっちよ」

 気づいた様子のない腕から抜け出して、森の入口を眺める。吹っ飛んだ木々を受け止めた警察車両が、べこぼこになっていた。

「手伝えることがあるかもしれんし、行ってみよう」

 歩き出した私達の姿を見て、避難していた警察官達がおそるおそる姿を現す。この事態を引き起こしたアナウンスの主がどんな言い訳をするのか楽しみと思うのは、少し意地が悪いだろうか。

「無事で、良かった」

 不意に繋がった手が震えていて、隣を見上げた。精悍な顔立ちに時折覗く線の細さは、幼い頃を思い出させる。私達は決して強くないから、最期までずっと一緒にいた方がいい。

「守ってくれてありがとう」

 温かい手を握り締め、散らばる木の破片を踏みしめる。清々しい香りを吸い込んで、まだ平らな腹をそっとさすった。




 翌日用事を終えて帰宅すると、尚隠は部屋で帳簿をつけていた。

「ただいま。なんかあった?」

「ああ。警察から連絡があって、いろいろすいませんでした、お世話になりましたって。事件はお蔵入り扱いになるらしいわ。遺族にどう説明するんかは、教えてくれんかったけど」

 警察では、その対応が限界なのだろう。彼らは目に見えるものの捜査しかしないし、できない。

「遺族の方の気持ちを思うと、やりきれんね」

「ほんにな。だからって、俺らの知っとる事実を伝えるのが救いになるとも思えん。あとはもう、御仏に託すしかないわ」

 尚隠はペンを置き、眉間を揉む。

「ほんで、どうだったんだ」

 胸の重怠さが取れないから、と理由は伝えたが、尚隠は今のところ「病院」としか知らない。多分かかりつけ医へ行ったと思っているだろう。

 うん、と答えて座卓の向かいからすぐ傍へと移動する。尚隠は不穏なものを予想したのか、こちらを向いて居住まいを正した。

「ぬか喜びさせたらいけんと思って『病院』としか言わずに出たけど、産婦人科に行っとったんよ」

 切り出した私に尚隠は少し驚いたあと、ああ、と表情を柔らかく崩す。

「妊娠しとった。八週だって」

 報告を終える頃には、腕の中に収まっていた。

「俺達が、親になるんか」

 噛み締めるように零す尚隠に頷く。親になるのは多分、これまでの中で一番難しい課題だ。苦しんだり傷ついたり、親の欲に負けそうになったり先行きの見えない社会に怖くなったり……きっといろいろあるだろう。完璧な親にはなれないだろうが、それでも。

「『しろかねもくがねもたまも』だ。大事にせんとな」

 穏やかな声に、こくりと頷く。不完全でも不器用でも弱くても、大切にすることはできるはずだ。

――お母さんは、あんたがおってくれたらそれでええんよ。

 懐かしい母の声を思い出せば、目元が熱を持つ。小さく洟を啜って、馴染んだ胸に顔をこすりつけた。



                                  (終)

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しろかねもくがねもたまも 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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