第2話
尚隠はあのあと、抱き締めた私を寝かしつけるように揺れながら話をした。
あの霊は多分、桃子らしい。良くない拝み屋と抱えた怨念で上がるに上がれず、さまよううちに私を見つけてしまったのだろうと見立てた。
――多分、長いこと好かれとった。
尚隠はそれ以上語らなかったが、十分な理由だった。
私達は私の血筋に巣食っていた呪いが原因で、一度離婚をしている。夫が結婚後二年で突然死する、高祖父を起因とする呪いだった。その後解呪を経て再婚したが、桃子はどんな思いでそれを眺めていたのだろう。
――……あ、んた……さえ……。
あの声は今も、鮮明なまま消えていかない。沈む一方の胸を切り替えることもできず、気もそぞろに庭木の水やりを続ける。
奥さん、と聞こえた声に、土を抉る水の流れから視線を移す。この土地は、朝六時でも社会が動き始めている場所だ。御老体しかいない。
「なあ、立見峠の怖い事件の話、聞いとる?」
朝っぱらから胸に堪える話題を口にした
「少しだけですが」
「あれな、また殺されたらしいわ。二丁目に住んどる人の孫だって。立見峠、立入禁止になっとるらしいで」
寄せられた暗いニュースに、また一段、胸が沈んでいく。寺には何も届いていないから、檀家ではない方のところだろう。あちらでもこちらでも、気の晴れないことばかりだ。
「あんな死に方、普通じゃないわ。あんた、なんか分かるんじゃないん」
呪われとったんだし、と言わなくても視線が伝える。
「分かることがあればいいんですが、何も」
苦笑で返すと、ほんか、と落胆した息を吐き、再び散歩へ戻って行った。
一週間ほどの間に、二人。矢畑の期待には応えられなかったが、普通の事件でないのは確かだ。でもおとん女郎の仕業にしてはあまりに酷いやり口だから、ほかの何かだと考えるのが妥当だろう。おとん女郎が住処を荒らされながらも黙っている理由も気になる。
とりあえず、旦那様に聞いてみるか。
一息ついて蛇口をひねり、曇天の下に
おとん女郎は化けるのが巧い女狐で、そのいたずらは割とどぎつい。そのため、昔は退治を考える者達が多かったらしい。
ある時若者二人がおとん女郎の退治に向かい、偶然おとん女郎が女の姿に化けるところを見た。おとん女郎は彼らに気づかず傍らの地蔵を赤ちゃんに変えて民家へ向かい、老夫婦に子と孫のようにもてなさせた。
彼らはおとん女郎に一泡吹かせてやりたいと思い立ち、老夫婦に狐に化かされているのだと教える。しかし取り合おうとしない老夫婦に、赤ちゃんを釜で煮れば分かると、赤ちゃんを釜の中へと入れさせてしまった。ところが赤ちゃんは地蔵に戻ることなく、そのまま煮え死んでしまう。
赤ちゃんを喪い怒る老夫婦と震える彼らに、通りがかった僧侶が理由を尋ねる。僧侶は経緯を聞き遂げたあと彼らを寺へ連れ帰り、頭を坊主にして供養のために念仏を唱えるよう命じた。
彼らは熱心に木魚を叩き念仏を唱えていたが、ふと彼らを呼ぶ声がして目を開く。そこは草原で、いたはずの寺も僧侶もあの家もない。彼らはただ、坊主頭で竹の先に馬糞を差したものを持っているだけだった。全てはおとん女郎の仕業だった、というわけだ。
そんなおとん女郎の旦那として知られる
「こんなとこまで上がったん、久しぶりね」
辿り着いた
「高校ん時に部活で走らされたんが最後だな」
尚隠は一息ついてぐるりと辺りを見回す。中坂稲荷は久松山の中腹、鳥取城址にある。豊臣秀吉の兵糧攻めでも有名な鳥取城は明治時代に全ての櫓群が解体撤去され、今は石垣が残るのみだ。
「じゃあとりあえず、お参りね」
頭を下げて鳥居をくぐり、上へ向かう石段を横目に社の前に立つ。お賽銭を入れ、法衣を整えた尚隠と並んで柏手を打った。
立見峠で殺人事件が起きていますが、奥様は何か関係があるのでしょうか。何か私達にできることは。
鳥取市
「手掛かりをいただいたな。行ってみよう」
覚えた住所を頭の中で反芻し、改めて頭を下げて踵を返す。
身を大事にな。
聞こえた厳かな声に思わず振り返り、社を見つめる。ふと浮かんだものを胸に収め、ありがとうございます、と小さく礼を言った。
与えられた手掛かりの住所へ向かうと、どこにでもありそうなファミリー向けのアパートが建っていた。ただ集合ポストの表札を見ると、桂蔵坊が教えてくれた部屋には『
なんとなく、いやな予感がする。
見上げた隣で、尚隠も思うところのありそうな表情を浮かべている。向けられた視線に頷くと、オートロックの部屋番号を押した。
応えたのは少し高めで柔らかい、女性らしい声だ。尚隠は応えて、まずは私達の身元を明かす。
「先日から立見峠で起きている殺人事件についてお尋ねしたいことがあり、お伺いいたしました。少し込み入った内容になるかと思いますので、直接お話できませんでしょうか」
「ええと……すみませんが、私も忙しいので」
モニターで私達の姿は見えているのだろうが、不審に思われているのだろう。致し方ない。
「では、端的に申し上げます。あなたは一月から二月ほど前に、なんらかの術を使ってある女性に呪い返しをなさったはずです」
「えっやだ、ちょっと、変なこと言わないでよ!」
読経で鍛えた喉で朗々と伝えた尚隠に、上田は慌てる。ちょうど背後では、郵便局員が手紙を差し込んでいるところだ。近所の手前、さすがに「呪い返し」はまずいのだろう。
「……分かりました。開けますから、どうぞ」
諦めた声とともに、電子音が鳴りドアが開く。尚隠は合掌したあと、すぐにドアを開けた。
上田は三十半ばくらいか、小綺麗な格好をして両腕には十本くらいパワーストーンのブレスレットをしていた。経緯を語った尚隠に最初は「私はしていない」「私の術は白魔術だから」と言い逃れをしていたが、私達が桂蔵坊に住所を与えられて来たと告げると、観念した様子で溜め息をついた。
「どなたに依頼されたんですか? 立見峠で亡くなった方では」
「違います。夫、なんです」
色とりどりの美しい石を並べた棚を背後に、上田は白いソファで背を丸める。少し間を置いたあと、憔悴した表情で重い口を開いた。
「少し前に、夫が謎の体調不良に悩まされてたんです。頭痛とか耳鳴りとか、胸の痛みとか。病院で調べてもらってもどこも悪くなくて、ストレスだと言われました。でも私が冗談で『呪われててもこういうこと起きるよ?』って言ったら、青ざめたんです。問い詰めたら、独身だと嘘をついてマッチングアプリをしてて、出会った浮気相手が妊娠して別れたって。それで私、どうにかしなきゃって……でも呪い返しなんて知らないから、同じことだろうって黒魔術で」
呪ったのか。
桃子が食らったのはその黒魔術だけか、呪い返しも兼ねてしまったのか。どちらにしても命は奪われ、魂は今なお行き場を見つけられずさまよっている。
「事の発端は、あなたのご主人でしょう。身分を偽り結婚を焦る女性の心を弄んで挙げ句には」
「分かってます、でも子供がいるんです! 子供達から父親を奪うわけにはいかないことくらい、あなた達にだって分かるでしょ。私は家庭を守らなきゃいけなかったの!」
尚隠の冷静な指摘を遮るように、上田は身を乗り出してヒステリックに主張する。絶えず腕をさする手の下で、石達がじゃりじゃりと苦しげに音を立てた。そのブレスレットを減らす強さがあれば、道を違えなかったかもしれない。
「母親なのは、彼女も同じでした。あなたは家庭を守ったのではありません。子供達が決して誇れぬ親に成り下がっただけです」
尚隠にしてはきつい言葉を選び、俯く上田を残して腰を上げる。そのまま、一足早く部屋を出て行った。
「いつか同じ母親として彼女と赤ちゃんを弔うお気持ちになったら、手を合わせて詫びてください。術も儀式も石も必要ありません。ただ率直に、心から彼女達に詫びてください」
本当は「そんな夫が必要なのか」とも尋ねたかったが、辞めて腰を上げる。手を合わせられるほどになれば、きっと気づくはずだ。俯いたままの上田に頭を下げ、尚隠のあとを追った。
尚隠は、アパートを出たところでぼんやりと川向こうにある公園を眺めていた。遊具の音とともに、時々幼い子供達の声がする。
「まだまだだわ、俺は」
気落ちした声に、傍にある手を握る。
「ほんでも、好きよ」
見上げて伝えると、尚隠は安堵した様子で笑んだ。
上田からの情報を仕入れたあと向かった立見峠周辺は、確かに立ち入り禁止になっていた。警察車両の並ぶ一帯から少し離れたところに車を止め、揃って降りる。尚隠は数珠を手に、近づけない現場をじっと見つめた。
「森の奥で丑の刻参りしとったんは間違いないだろうな。ほんでも、ここに桃子の気配はない。やっぱり、家の周辺だわ」
「じゃあ、殺しとるんは全く別の?」
桃子でないのなら、誰なのだろう。まさか、おとん女郎が変わって恨みを晴らしているのか。尋ねた私に尚隠は、いや、と答えて私の耳元で小さく数珠を擦る。途端、赤ちゃんが苦しげに泣く声が耳の奥で反響する。……まさか。
「桃子の腹におった子だ。多分、母親を殺した男を探しとる。でも誰かまでは分からんから、とりあえず近くを通り掛かっただけの似た男を殺しとるんだ」
「早う、やめさせんと」
とんでもない状況に血の気が引く。そんなこと、これ以上はさせてはならない。一層苦しげに聞こえ始めた泣き声に、胸が押し潰されそうになる。早く助けなければ。
「今は無理だ。周りにある良うないもんを吸い込んで、負の塊になってしもうとる。おとん女郎は多分、抑え込まれて出てこられんのだろう」
「どうするん」
「桃子の霊を連れてくる」
尚隠が再び数珠を擦ると泣き声は消え、日常の音が戻る。でも「聞こえなくなっただけ」だ。苦しみが癒えたわけではない。
「なら、私が話をするわ」
その子を抱き上げてやれるのは、桃子だけだろう。尚隠は少し間を置いたあと、頷いた。
夜になり、暗い観音堂で一人数珠を握り締める。
この観音堂には古びた長持ちがあり、中には小泉八雲の怪談『鳥取の蒲団のはなし』の布団を収めている。話に出てくる幼い兄弟の霊もいて、たまに私達の手伝いもしてくれるが、今回は絶対出てこないように言っておいた。
「桃子さん、私一人よ。出てきて」
昨日は何もしなくても来たのだ。呼べば余計に来るだろう。でも、尚隠の前には一度も現れたことがないらしい。見られたくない姿だと自覚しているのだろうか。
鴇前の家は檀家総代だから、桃子がここに嫁いでいた可能性はある。尚隠が呪いを理由に私を拒否していたら、ここに座っていたのは桃子だったかもしれない。ふと思い浮かべてみたありえない図に胸がざわめいて、溜め息をつく。妄想に嫉妬してどうするのだ。
私も、まだまだですね。
蝋燭の灯りに浮かぶ観音様に零した時、背後で気配がする。深呼吸をして、震え始めた手で数珠を握り直す。ゆっくり振り向くと、黒い塊が蠢くのが見えた。
瞬く間に全身を覆う恐怖に、息を詰める。分かっていても、恐ろしいことには変わりない。唾を飲んだ時、本堂から木魚の音が響き始める。大丈夫だ、私は一人ではない。
ずず、と泥を引きずるようにして塊が近づいてくる。線香を立てているのに、なんとも言えない異臭が漂う。夏場のゴミ捨て場のような腐敗臭だ。昨日はなかった臭いに、少し眉を顰める。
「桃子さん、あなたの赤ちゃんが立見峠にいるの」
切り出した私に、塊は動きを止め、ぶるる、と体を震わせた。私の目にはもう、人間の片鱗を見つけられない。
「あなたがいないから、ずっと苦しそうに泣いてる。あなたのために」
「あんたの、せい……よ」
恨みを込めた地を這うような声で桃子は返し、また近づき始める。
「あんたさえ……いなけれ、ば……あんな、男、とも……子供、なんか……欲しくも、なか……った、のに」
「何言ってるの、あの子はあなたの」
「……いら、ない……あの人……以外の、子供……なんて」
重ねられた拒否に、じっと見据えた。
……そうか。だから今、離れても平気なのか。離れ離れになった我が子を探すより、私を殺す方がよっぽど重要なのだ。
――お母さんは、あんたがおってくれたらそれでええんよ。
母が私を遺して逝ったのは、八歳の冬だった。一緒に過ごせた時間は短くても、私は幸せな子供だったのだろう。
苦しげに泣く声を思うほど、迫り来る桃子への対処に惑う。観音様に願うべきは、本当に慈悲なのか。こんな母親が救われてもいいのか。私が決めるべきことではないのに、揺らいで答えが出せない。私には。
気づくと目の前に、今にも私を飲み込まんと広がる闇があった。一筋の光もない、ぞっとするほど昏い黒だ。
ああ、しまった。
悟った死の気配に目を閉じた瞬間、尚隠の声がする。ぎああ、と野太い呻きのあと目を開くと、床に市松人形が転がっていた。
「逃げられたら供養できんけえ、家から借りてきたんだ。あとは観音さんに預けて、恨みが消えるまで経を上げるしかない」
手にした市松人形は、見るからに格調高い立派なものだ。ただ純粋に、娘の幸せを願っていたこともあったのだろう。親の欲、か。
「私、観音様に預けられんかった。慈悲で救われるんが……許せんかったんよ」
市松人形を観音様の足元に置き、手を合わせる。本当に、まだまだだ。
「それでええ。文乃が菩薩になったら俺が困るわ。することがなあなる」
不出来な私を許す声に、小さく頷く。凪いだ胸に身を寄せて、ぼんやりと照る観音像を見上げた。
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