しろかねもくがねもたまも
魚崎 依知子
第1話
ほんでな、と上がり框に腰掛けた
「その死体、ぐっちゃぐちゃになって飛び散っとったけえ、警察が総出で欠片を拾い集めたって話よ」
「そうなんですか」
「そうよお。ほんに、物騒な話だわ」
怖がった私に満足した様子で、よいしょ、と腰を上げた。
「ほんなら奥さん、それ頼むわ」
「はい、承知しました」
手を振りながら去る姿を、最後まできちんと見送る。閉じられた玄関戸に安堵の息を吐いた時、その向こうで「あらあ、住職さん」と高らかに
捕まったな。
苦笑して、預かった書類を手に腰を上げる。私でガス抜きは済んでいるから、十分くらいだろう。少し暑くなってきたから、冷たい抹茶にしようか。疲れを癒やす一服のために、台所へ向かった。
予想より十分遅れはしたものの、水がしっかり冷えたからよしとしよう。
尚隠は手を合わせて法衣の袖を払い、慣れた手つきで抹茶碗を口に運ぶ。張り詰めていた眉間の辺りがふっと和らいで、安堵した。
「居村さんの話、
「いや、東京に出た長男が全然帰って来んし四十になるのに結婚せんのを祈祷でなんとかしてくれんかって。子離れして自分の人生を歩んでいる姿を喜びましょうて言っといたけど、まあ、なかなかな」
尚隠は空いた抹茶碗と茶道具を引き取って、私のための一服を点てに入る。雪見障子の向こうに青々とした葉を揺らす楓を眺めながら、軽やかな音を聞く。
東京でバリバリ働く四十歳が全てをなげうって鳥取にUターンするとしたら、激務に疲れ果てたか大きな失敗をしたか、ではないだろうか。跡を継いでもらえなければ檀家が減ってうちのような貧乏寺は大打撃だが、これも時代の流れだ。
手前を終えて置かれた抹茶碗を引き寄せ、冷えた一服をいただく。
「立見峠でなんかあったんか」
折角すっきりしたところだったが、致し方ない。異質な死に様は、尚隠も気になるだろう。
「うん。五日くらい前に、立見峠で若い男性が殺されたみたい。で、そのご遺体が飛び散ってて、警察が総出で欠片を集めてたって。どこまでほんとかは分からんけど」
立見峠は同じ鳥取市内の
「ニュースでは聞かんから、報道できんのだろうな」
「ここまで噂が流れてくるような死に方みたいだしね。あんまり、ええ感じはせんわ」
飲み終えた器の縁を拭うと、そうだな、と向かいで大人しい声が答えた。
「人間の仕業じゃないかもしれんな」
冷静な感想は、予想どおりのものだ。
尚隠と私は赤ちゃんの頃からの幼馴染みで、そろそろ三十年の付き合いになる。尚隠は元から少し見える性質で、私は尚隠と過ごしているうちになんとなく見えたり感じ取れたりするようになってしまった。だから私が「何かある」と感じるものには、尚隠も同じ反応をする。
「ほんで、そっちはどうだった?」
「仏さんのためにせめて四十九日まではした方がええと伝えたけど、坊主が来たり寺に行ったりしたらまた周りが思い出して騒ぐけえ、て」
少しも胸を明るくしない話題に溜め息をつき、布巾を手に取った。
尚隠が先程まで出掛けていたのは、檀家総代である
――詳しゅうは分からんけど、あれは呪い返しだわ。多分、あんま良うない拝み屋の仕業だろうな。あと。
日付が変わる頃に葬儀の相談から戻ってきた尚隠は、職を忘れた沈痛な面持ちをしていた。
――腹の子も、死んどった。
力なく呟く尚隠を抱き締めて、二人でじっと夜を耐えた。
鴇前は桃子の妊娠を隠し続けているが、ここは狭くて密な場所だ。どこからともなく、長い尾ひれをつけた噂が広がっていく。寺まで届いた時には、「桃子は男漁りの挙げ句妊娠して自殺した」ことになっていた。
桃子は私達の一つ下の、真面目で大人しい子供だった。私達とは挨拶をする程度の仲だったし高校からは道が分かれたから、遺影で久しぶりの再会を果たすことになってしまった。それでも、その印象は覆るものではなかった。
「息子が結婚せなならん年だけえ、早う消しときたいらしい」
桃子の兄は五つか六つ上、鴇前家の跡取り息子だが都会に出たきりだ。居村と同じくやきもきしているのは親だけで、本人はのびのびしているのではないだろうか。
「ほんでも、あんまりよ。どうにかできんの?」
清め終えた抹茶碗を置き、胸に落ちる鈍い痛みに俯く。畳に落ちた影は薄く、淡く伸びていた。
「できるだけええように弔えるようにする。生前に何かしとったとしても、それはもう御仏に任せればええことだけえな」
「良かった。少しでも救われたらええね」
頷いてまた、雪見障子の先に揺れる枝を眺める。胸に留まるなんとも言えない重怠さを持て余して、長い息を吐いた。
なんだか、あれからずっと調子が悪い。
胸に居座る違和感を撫で、眠る前の歯磨きを終える。年代物の鏡に映し出された顔は、少し痩せたかもしれない。
――先代さんが亡くなられて、住職さん一人じゃ大変だわ。好き勝手もほどほどにして、しっかり支えてくれんと。ねえ?
私が仕事を辞めたのは、今年の三月だ。尚隠は辞めなくていいと言ったが、続ければ今度は尚隠が檀家会から苦言を呈されるのが目に見えていた。幼稚園教諭は天職と思えるほどの仕事だったが、「どちらか」なんて比べるまでもなかった。後悔はしていない。
なんとなく澱む胸を押さえ、くすんだ洗面ボウルに落ちた薄い影を見る。不意にその影が横へ膨らみ、背中に冷たいものが走った。
何か、いる。
一瞬で全身が総毛立ち、汗が噴き出す。助けを呼びたいのに指一本動かせず、見開いた目を閉じることすらできない。
「……あ、んた……さえ……」
耳元で低く、恨みの籠もった女の声がした。さざなみだつように震える肌をさすることもできず、ただ声にならない恐怖に耐える。ふと殴られたような鈍痛が頭の奥に響いて、ようやく小さく呻く。頭に食い込む爪の感触は、頭を鷲掴みにされているようだった。気づくと、目前の洗面ボウルはなみなみと水で満たされている。
死の危険を察知するのと同じくして、女は私の頭を水へ押し込むように力を込め始める。必死に抗いながら胸の内で観音経を上げるが、少しずつ水面は近づいていく。背後で荒い足音が聞こえ始めたのは、息で水面が紋を打つほどの距離になってからだった。
「
声が私を呼んだ途端、ふっと全ての感触が消える。勢い余って背後へ崩れた私を、馴染んだ腕が抱き止めた。……助かった。
「文乃、大丈夫か、文乃!」
「……大丈夫、ちょっと、怖かっただけ」
悲痛な声を出す尚隠に答え、手を伸ばす。気配に気づいて本堂から走ってきたのだろう。息は上がって頬は汗ばみ、必死の形相を浮かべていた。痛々しい表情は嬉しいものではないが、私も尚隠を喪いそうになったらするだろう。
「すまんかった、怖い思いさせて」
腕は私を掻き抱き、繰り返し力を込める。落ち着く熱に目を閉じて甘え、ようやく安堵の息を吐いた。
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