鯛おとこ

烏川 ハル

鯛おとこ

   

 愛媛といえばミカンが有名だろうけど、瀬戸内海に面しているだけあって海産物も豊富でね。

 例えば真鯛の漁獲量は、都道府県別ランキングで全国3位を誇るほど。

 ……何、それは知っているって? なるほど、それであんた、鯛の刺身を注文したわけかい。

 じゃあ、これはどうかな。

 本日8月15日は「刺身の日」。室町時代の日記に鯛の刺身に関する記述があって、それにちなんで記念日になったそうだ。

 ……ほう、それも知っているだと? 文献に書かれていたのは「例えば鯛なら鯛とわかるように、それぞれの魚のヒレを刺しておく。だから『刺身』と呼ぶ」だって?

 おいおい、あんた俺より詳しいじゃないか。ちょっと悔しくなるくらいだ。

 でも、さすがにこれは初耳だろうよ。

 地元の古い噂話で「鯛おとこ」というのがあってね。いや噂話というより、一種の都市伝説かな。俺もこっちに越してきたばかりの頃に聞いたんだが……。


――――――――――――


 既に今ではくなったが、この近くにも昔は漁港があった。当時からよく鯛が水揚げされていたらしく、その男も鯛の刺身が大好物だったという。

 その夜も男は突然、鯛の刺身を食べたくなって、港に隣接した魚市場へ向かった。

 しかしほら、魚市場といえば普通、賑わっているのは早朝だろう? 男が着いた時には、当然のように閑散としていた。

 魚の入ったケースや台やらが所狭しと並べられている……というのが見慣れた風景なのに、剥き出しのコンクリートの地面が広がっている。車のいない駐車場みたいな有様ありさまだった。

 それでも諦めきれずに、はしからはしまで見回してみると……。

 市場の片隅に一軒だけ、開いている店があった。

 喜び勇んで駆け寄れば、裸電球ひとつのぼんやりした照明の下、横長の発泡スチールに入っているのは、60センチ程度の真鯛ばかり。どれも鮮やかな赤色で、見るからに美味しそうだ。

「おい、おやじさん。この鯛を一匹……」

 早速購入するつもりで話しかけると、店の主人が男の声に反応して、一歩前へ。それまで影になっていた姿が、ちょうど電球の光に照らされて、見えるようになり……。

 魚屋の顔を目にした途端、男は驚いてしまう。それは人間のものではなく、魚そのもの。店先に売られているのと同じ、赤い真鯛だったのだから!


「ぎゃっ!」

 一声叫ぶと、目当ての鯛を買うのも諦めて、男は夢中で逃げ出したという。いくら鯛好きな男とはいえ、化け物がやっている店で買うのは、気持ち悪かったようだ。

 魚市場を出て、海沿いの通りを数分走ると、おでん屋の屋台が視界に入る。

 ちょいと一杯……なんて気分には程遠ほどとおいけれど、とりあえず一息つこう。それに漁港のおでん屋ならば、練り物に使われている魚も上質のはず。

 そんなことを考えて、男は屋台に飛び込んだ。

「おい、おやじさん。練り物を二つか三つ、それと水を一杯くれ」

「へいへい。どうしました、そんなに慌てて」

「いや、さっき魚市場で魚の化け物に遭遇して……」

「魚の化け物? それって……」

 おでんの仕込みやら何やらで下を向いていた店主が、ここで顔を上げる。

「……こんな顔ですかい?」

「いや、微妙に違う!」

 びっくり仰天しながらも、反射的に男の口から飛び出したのは、否定の言葉だった。

 おでん屋の主人の顔は、確かに人間というよりも魚だったが……。真鯛と比べれば少し褐色がかった赤色に、ぎょろりと大きな目や、角ばった頭。それは真鯛ではなく、甘鯛の特徴だったのだ。


 ただし真鯛にしろ甘鯛にしろ、気持ち悪いことに違いはない。

 注文したおでんを店主が用意するより早く、男は屋台を飛び出した。

 こうなったらもう、今夜はおとなしく家で寝よう。

 そう思って帰路についたのだが……。


 途中、ジョギング中の青年とすれ違う。フード付きのパーカーで頭まですっぽり覆いながら走っているのは、減量中のボクサーか何かだろうか。

 ボクサーならば腕っぷしには自信もあるだろうし、いっそのこと化け物退治を頼んでみようか?

 ちらっとそんなことも考えて、すれ違いざま「すいません、ちょっと……」と声をかけてみる。その際、相手の顔を覗き込む格好になったのだが……。

 またまた男は驚いた。

 なんとボクサー青年も魚顔だったのだ。

 真鯛よりも少し前に突き出た顔立ちで、色は真鯛や甘鯛の赤系統とは大きく異なり、黒光りしている。

 今度は黒鯛だ!


――――――――――――


 何だい、変な顔をして。おおかた「『のっぺらぼう』の怪談みたいだ」とでも思っているんだろう?

 そんなこと言わずに、まあ最後まで聞きなさい。

 この男の場合、怪談の主人公とは違うのだから。



 ほら「二度あることは三度ある」という諺もあるけれど「三度目の正直」とか「仏の顔も三度まで」とかもあるだろう?

 魚の顔も三度続くと、なんだか馬鹿にされている気分になり、男は無性に腹が立ったらしい。ボクサー青年に殴りかかり、相手をボコボコにしてしまったという。

 どうやらボクサーっぽいのは格好だけで、見掛け倒しだったようだ。これで自信をつけた男は、来た道を戻って、おでん屋の甘鯛男も魚市場の真鯛男もやっつけてしまった。

 しかも獲物は全て持ち帰り、真鯛も甘鯛も黒鯛も刺身にして堪能。結構な量にもなったから、その後しばらくの間、刺身には困らなかったという。

 めでたし、めでたし。



 ……おっ、グッドタイミングじゃないか。注文した盛り合わせが、ちょうど来たぞ。

 この店の刺身は、本当に美味でね。真鯛も甘鯛も黒鯛も、他では味わえない絶品ばかり。

 おや、どうした? あんた、急に食欲なくなったのかい? だったら全部、俺が食べちまうぜ。




(「鯛おとこ」完)

   

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鯛おとこ 烏川 ハル @haru_karasugawa

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