幽霊少女とハロウィーン
八影 霞
幽霊少女とハロウィーン
地響きのようなものを感じて、飛び起きた。
耳にはめていたヘッドホンを首にかけると、僕は窓を開けて外の様子を窺った。音の正体は分かっていた。今年もまた、この季節がやってきたのだ。
この街では、年に一度、町民たちが列をなして行進をする風習があった。それは丁度ハロウィーンと同じ日に始まって、翌日の朝に終わる。町民は皆、めいめい好きな格好をして街一帯を練り歩き続け、夜が明けたら、一斉に自分たちの家へ帰る。昔からずっと、欠かさず行われてきた行事だが、まるで町民全員がゾンビになって動いているみたいで、僕は好きではなかった。
だから、当然、僕はその行列に参加したことがないし、しようと思ったことすらない。毎年、その行列があるうちは部屋に引きこもって、それが早く終わることを待ち望んだ。
立ち上がったついでに台所へ行き、冷蔵庫の中を漁ったが、今すぐに食べられるようなものはなかった。母親も当然、あの行列に参加している。いつか聞いた話だが、行列にはきちんと意味があって、その年に亡くなった死者を弔うために歩き回るらしい。
僕の父親が死んだのは今年に入ってだったので、母親には参加するように促されたが、僕はどうしてもその気になれなかった。生きている人間が、死んでいる人間にできることなんて、何一つとしてあるはずがないのだ。
ブラックコーヒーだけを持って、食卓の椅子に腰を下ろした。ひどく空腹だったが、食料を買いに行くことはできない。スーパーの店員も飲食店の店主も、もれなくみんな行列に加わっている。今、行列の中にいないのはおそらく僕くらいだろう。
テーブルの上に置き去りになっていた雑誌に目を通しながら、真っ黒な死神を体に取り込んでいく。どのみち、明日の朝まで母親は帰らない。気乗りしないが、少し遠出して、隣町のスーパーにでも行くとしよう。僕は空になったコーヒーカップを流しに入れると、財布と上着を持って玄関へと向かった。
玄関の扉を開ける。
「あ、あの…」
驚きのあまり、反射的に扉を閉めた。
人がいた。いや、玄関の外なのだから人がいてもおかしくないのだが、僕が驚いたのはそこじゃない。
この時間にこの場所に人がいることに驚いたのだ。
さっきも言ったが、行列には町民全員が参加する。僕に至っては長いところ参加していないので暗黙の了解となりつつあるが、普通、参加しない人間は皆から非難の対象にされる。
だから、行列が進行を続ける今、通過後のこの場所に人が残っているというのは、不思議のほか何でもないのだ。
見間違いかもしれない。それか幻覚か。
もう一度、今度はそっと扉を開けてみる。
すると、そこには先ほど同様、白いドレスを着た少女が立っていた。
どうやら、見間違いでも幻覚でもなかったようだ。となると、この子はどうしてこんなところにいるのだろうか。行列はとっくに進んでいってしまっている。
「どうして、お前さんはこんな場所にいるんだ?」
「どうしてと言われましても、唯一、出てきてくれたのが、この家だけだったので」
僕は思わず首を傾げた。
「どういう…」
「でもよかったです。あなたが出てきてくれて。これでやっと安心できました」
出てきてくれた? 安心できる? いまいち状況が掴めなかった。それに会話もあまり噛み合っていないようだ。
埒が開かないので、僕は少女に尋ねた。
「行列には行かなくていいのか? 僕が言えたことじゃないが、参加しなかったらみんなに色々揶揄されるだろう?」
「ぎょうれつ、ですか?」
少女は不思議そうに聞いた。
「ああ、行列だ。毎年やってるだろう?」
僕が言うと、少女は少し考えてから何かがわかったように目を開いた。
「ぎょうれつ、というのは、もしかしてさっき通った人の群れのことですか?」
「そうさ。まさか知らないのか?」
少女はこくり、と頷くと「それより」と真剣な眼差しで僕の方を見た。
「ここには、頼み事があってきました」
「待ってくれ。不明な点が多すぎる。僕はまだ君がどこの誰なのかさえ知らない。そんな状態で頼み事をされても、受けれる自信がない」
「…そうですよね」
少女は自分の行動を恥じたのか視線を落としながら言った。
「では、家の中に上がってもいいですか? ゆっくり話しましょう」
「そうするしかないみたいだな」
頼み事以前に、見知らぬ人間を家にあげるのもなかなか狂っているが、そこは仕方がない。
見たところ、少なくとも少女は僕に害を及ぼそうとは考えていないように見える。単純に、手助けを求めて、消去法で僕が選ばれただけだろう。
コーヒーのパックが丁度一つだけ残っていたので、それを淹れて、少女に持っていった。
「ありがとう、ございます」
「お前さんには聞きたいことが山ほどあるが、まずはどこの誰なのか教えてくれ」
僕がそう言うと、心なしか少女の顔が暗くなった。
何か野暮なことを聞いてしまっただろうか。
「あの、その前に頼み事からしてはいけませんか?」
「さっきも言ったが、見知らぬ人間の頼みなんて聞けたもんじゃない。何か良からぬ企てに協力させられるかもしれないだろう? 申し訳ないが、そういうのは御免だ」
少女は「すみません…」と言って視線を落とした。
「分かりました。話しましょう。私が何者なのかを、そしてどこから来たのかを。ただし、驚かないでくださいね」
「もちろんさ」
すると少女は、信じてもらえるか分かりませんが、と前置いて言った。
「私、すでに死んでいるのですよ」
「なんだって?」
僕は少女の方を凝視した。その冗談は流石にないだろ、と。
「いえ、冗談など言ってませんよ」
少女はいたって澄ました表情で言った。
「信じられるはずがない」
幽霊だ、とでも言うのだろうか。
「頼むから真面目に質問に答えてくれ」
少女は「真面目に答えてますよ」と言いながら、目の前にあったコーヒーカップに手を伸ばした。
「見ていてください」
言われるがままコーヒーカップに目をやると、次の瞬間、少女の手がカップをすり抜けて僕の前までやってきた。
「これで信じてもらえますか?」
少女は僕を見た。
目の前で何が起こったのか、僕はまだ処理しきれていなかった。
「さらにこんなこともできますよ」
僕が呆然としていると、少女は椅子から立ち飛び跳ね、ふわふわ、と宙を舞い始めた。
少女は右に回ったり、左に回ったり、その場で回転したり、壁すれすれを浮遊したりした。「どうですか?」と声をかけられるも、僕はその光景を見つめるのに必死で、口を開けなかった。
僕が何も言わないことを怪訝に思ったのか、少女は今度は、さっきより早いスピードで部屋の中を飛び回り始めた。
ここまでくると、少女の言っていることを信じざるを得ない。
少女のいう通り、彼女はこの世の人間ではない。
「どうやら信じるしかないようだ」
「そうでしょう、そうでしょう」
僕がいうと、少女は納得したように頷きながら、笑った。
少女はこの部屋にあるもの、全てを通り抜けていた。壁もテーブルも本棚も、そして僕も。
しかし、少女がカウンターの上を通過した時、そこにあった花瓶が彼女の体にぶつかって、真っ逆さまに床へと落下した。
花瓶の割れる音が部屋中に響く。僕は驚きながらも急いで席を立って、少女の元へ歩いて行った。
「大丈夫か?」
「ええ、はい。私は大丈夫です…」
「そりゃよかった」
僕は台所からゴミ箱を持ってくると、踏まないように気をつけながら、その場にしゃがみ込んだ。破片を拾う。
「その…すみません。花瓶割ってしまって」
「気にするな」
僕は言った。
「それにしても、幽霊も全てをすり抜けられるわけではないんだな」
僕にとっては、むしろそちらの方が気になってしかなかった。
花瓶が割れたことなんて、実際どうだっていい。母親には何か言われるだろうが、何か言われるだけで、それ以上何にも発展することはない。
「はい。どうやら私が『愛情を向けたもの』には触れられるみたいなんです。私、花が好きなんです。ですから、多分それが原因で」
まるでおとぎ話のような設定だな、と思った。
片付け終えると、僕は食卓に戻り、状況を整理した。
「そういうわけで、お前さんが幽霊ってことは、信じたくなくても信じないといけないらしい。それを踏まえるなら、どこからきたかは聞くまでもないな」
幽霊がどこからやってくるか、そんなもの一つに決まっている。
「あの世から来ました…と言いたいところですが、違うんです」
少女は申し訳なさそうに、僕を見た。
「実は私、浮遊霊なんです」
「浮遊霊?」
「ええ。なんらかの理由で現世にとどまり続ける霊のことです。正確に言えば地縛霊ですけどね。いつもなら死んだ場所から動けないのですが、この日だけはなぜだか、自由に動けるんです」
それはハロウィーンと何かしらの関係があるのだろうか。
「なるほどな。それで頼み事をするために、僕のもとにやってきた、と」
少女は頷いた。
「それでその頼み事ってのは、なんなんだ?」
少女が何者なのか、どこから来たのかが大体把握できたところで、僕はそう尋ねた。
少女は少し躊躇ったものの、しばらくして、気恥ずかしそうに口を開いた。
「幽霊の私と『結婚』してくれませんか?」
瞬間、頭の中にいくつものはてなが浮かんだ。僕はその一つ一つを丁寧に潰していく。僕には目の前の幽霊が「結婚」と言ったような幻聴が聞こえた。ありえない。
「今、結婚って聞こえたが?」
「そう言ったんですよ」
「幽霊にしか通じない冗談みたいなものか?」
「違います。本気で言ってるんです」
僕は頭を抱えた。
この状況で喜ぶべきは自分の耳が正常だったことくらいだ。
「分かった。仮にお前さんが本気で言っているとしよう。だが、どうして生きている人間と? 幽霊なら幽霊同士でするもんじゃないのか?」
死者と生者の結婚なんて成立するわけがない。
「ええと、これには深い理由があるんです」
「ぜひ聞きたいな」
僕が呆れたように言うと、少女はゆっくりと話し始めた。
目を覚ますと、私はとても小さな丘の上にいました。
幼児が一人の足で登れるくらい小さい丘です。いつの間にこんなところに来たんだろう、と私は不思議に思いました。なぜなら記憶にないからです。自分がそれまで何をしていたのか、どうしてここにいるのか、思い出そうとしてはみましたが、全く持って分かりませんでした。
しばらくの間は、自分が一時的に気を失ってしまっていただけだと思ってその場で休んでいましたが、少ししてそうじゃないことに気が付きました。
私の近くを通る人たちは、私の存在に気づいていない様子でした。何度かその人たちに声をかけてみたのですが、ことごとく失敗しました。私はからかわれているのだと思い、追いかけようとしましたが、どうしてか、私はその場から動くことができませんでした。そこには透明の壁があるみたいでした。
私は何が起こっているのか分からず、少し怖く感じました。
そして何日か経って、丘にとある男女二人がやってきました。
二人とも酷く表情を暗くし、俯きながら私の座っている場所に、花束を置きました。私のことが見えているのかと思い、話しかけてみましたが、やはり私の声は届かないようでした。二人は長い間、その場にしゃがみ込み、何度も誰かの名前を呼んでから、夕方には去って行きました。
私はそれが誰の名前なのか、知りませんでした。それでも、何となくそれは自分のことを言っているんだろうな、というのは理解できました。私の他にその場には誰もいませんでしたから。
いよいよ、私は自分の置かれている状況を理解せざるを得なくなりました。
どうやら、私は死んで地縛霊になってしまっていたみたいなんです。
ですが、どうやっても自分が死んだことについて思い出すことができませんでした。
それだけではありません。自分が生前、どこの誰だったのか。あの時現れた人たちは自分にとってどんな存在なのか(両親だとは思うんですが)、現世に何の未練があるのか。どうすれば成仏することができるのか。何一つ、分かりませんでした。
それから私は毎日をその場所で過ごしました。燃えるように暑い夏の日も、凍ってしまいそうなほど寒い冬の日も、台風の日も、大雪の日も。初めの頃は、時折あの二人が姿を見せていましたが、二度目の秋を待たずに、すっかり来なくなってしまいました。
少し寂しくは思いましたが、そこまで心は苦しくありませんでした。
いつしか、私は自分の前に現れる『何か』を待ち続けるようになりました。
『君がここにいるのは手違いだ。だって君はこの世に何の未練もないだろう?』と言って天からの迎えが来るのを待ち望んでいました。ですが、迎えが来ることはありませんでした。何年経っても、私は誰にも気付かれることなくずっとその場所にいました。自分で動くことができない私は、待つことしかできなかったのです。
しかし、とあるハロウィーンの日、いつものように丘から街を眺めていると、私は足を滑らせて丘から落ちてしまったんです。そこまで高くない丘ですが、急に落ちてしまったので、手首を痛めてしまいました。
私はその場に座り込み、手首以外に怪我をしていないか確認を始めました。幸い、他に怪我はしていないようでした。私はほっとして、立ち上がり、丘の上へ戻ろうとしました。
そう丘の上へ。
その瞬間、私は何とも言えない違和感を覚えました。はじめはその正体に気づくことができず、その場に立ち尽くしていました。アスファルトに立つ自分の足をじっと見つめ、今度は落ちてきた丘を見つめ、何度か行ったり来たりしてから、私はやっとのことで違和感の正体に気づきました。
動けるようになっていたんです。
正直驚きました。私は状況を理解はしたものの、その真理については理解できていませんでした。どうして急に丘を出られるようになったのか、分かりませんでした。いや、そんなもの考える必要はなかったのかもしれません。自由になった私は、街中を散策しました。動けるようになったということは、もしかするとみんなに見えるようになっているかもしれない、と。ですが、どの家を尋ねても誰一人、姿を現す人はいませんでした。仕方がないので、私は教会へいくことにしました。
すると、教会には大勢の人たちが集まっていて、何かしているのが見えました。どうやら、死者を弔う儀式を行なっているようでした。私はそっと近づき、人の群れの後ろからその光景を見守っていました。少し経つと儀式は終わり、壊れたように涙を流す人と退屈そうに空を仰ぐ人たちに別れました。それぞれ、彼らなりに弔いを行なっているみたいでした。その中にはあの時の二人もいました。懐かしさを感じながら、私が近づこうとしていると、背後から何やら興味深い話が聞こえてきました。
「知ってるか? もしうまく成仏できなかった場合、生者と結婚するまであの世にはいけないらしいぜ」「何だそれ、妻子持ちとかだったらどうするんだよ?」「そんなもん知るかよ。幽霊になったら関係なくなるんじゃないか?」
若い高校生くらいの男子二人でした。私はその話にとても興味がありました。
「えと、すみません」
声をかけました。
もっと詳しく聞きたかった。もしかしたら、成仏するための手助けになるかもしれない。だから、もう少し詳しい話を聞こうとしました。
彼らは私の方を振り返りました。
「突然、すみません、先ほどの話…」
ですが、彼らは私の体をすり抜けて行ってしまいました。
「ていうか、本当に死者なんていると思ってんのか?」
「おいおい、それをここで言うなよ」
「人は死んだら終わり、それ以上何もないんだよ」
私はあっけに取られながら、遠くなる彼らの背中を見つめました。
どうやら私は少し期待をし過ぎてしまっていたみたいでした。もとより、『幽霊が人の目に見えない』と言う事実は翻ることはなかったんです。それなのに動けるようになったからと言って、期待をしてしまった。
私はひどく惨めな気持ちになり、そのまま丘へ戻ることにしました。
この世はよく期待を裏切ります。
ですから、私が丘を出られるようになったのも、おそらく今日限りのことで、明日になったらまた孤独な毎日を送らなければいけないのだろうとため息をつき、そのまま眠りました。
結論から言うと、私の予想は当たっていました。翌朝、丘の外に出ようとすると、いつものように透明な壁が私を阻みました。
話が終わると、僕は反応に困って少女に向かって謝罪した。
「まずは謝らなきゃいけない。訳も聞かずによくないことを言ってしまった」
「いえ、気にしてませんよ。私も初めから肯定してもらえるとは思っていませんでしたから」
僕は咳払いをした。
「事情は分かったが、急に結婚と言われても、どうすればいいのかさっぱりだ」
生きている者同士のそれについてさえ不明瞭なのだから、死者が相手となるとなおさらだ。
「そういうことでしたら心配ないですよ。何をどうすればいいのか、おおそよ検討はついています」
「そりゃ頼もしいな」
「ええ、といってもあくまで私の憶測ですけどね」
少女は説明した。
「そもそも私がどうして地縛霊になってしまったのか、それは現世に何らかの未練があるからです。ですから、この世界でその未練をも上回るような、『これ以上にない幸せ』を感じることができれば、きっと、遺恨を残さず、あの世に行くことができると思うんです」
「なるほどな。その『これ以上にない幸せ』ってのを突き詰めて行った結果、結婚にいきついたわけだな?」
「ええ。もっと言うとしたら、それは多分結婚式なんだと思います。つまり、生きてる人間なら誰もが憧れる『幸せ』を具現化すればいいんですよ」
結婚式。
確かに最も分かりやすい『幸せ』の例だ。大抵の人間はそれを夢に見て、それが人生における幸福の一つだとされている。だが、式に対する思いというのは人によってまったくと言っていいほど違ってくる。みながそれを幸せと考えているかというと、そうは言い切れないだろう。
「念のため聞くが、お前さんはそれで幸せなのか? 形式だけを考えているんなら、うまくいくとは思えない」
すると、少女は不思議そうに首を傾げた。
「私、幽霊ですけど、一応女の子なんですよ? そういうのに憧れを持ったりはします」
「意外だな」
「そうですか?」
少女は再び首を傾げた。
不思議なことや困ったことがあると、そうするのが彼女の癖のようだった。
「大きな式場で、大勢の人に見守られながら、永遠の愛を誓うんです。結婚指輪なんて、すごく素敵だと思いませんか?」
「多少は」
正直なところ、僕にはその魅力というものがうまく理解できなかった。だが、少女にとって結婚式はそれほど魅力的なものなのだろう。
「お前さんの式に対する気持ちがよく分かったところで、早速、その理想を叶える準備をしようじゃないか」
少女は呆気に取られた様子で、僕を見た。まさか手伝ってくれるんですか、とでも言いたげに。
「どうした? 幽霊でも見たような顔して」
「何でもありません。ただ、あなたがすごく乗り気だったので」
なんとなく少女の言いたいことは分かる気がした。突然目の前に現れた幽霊からこんな提案をされたら、普通、受け入れさえしないだろう。進んで行動に移そうなんて考える奴は、相当頭がいかれている。
「協力的なのに越したことはないだろう? 幽霊と結婚。死ぬ時の走馬灯には、おそらく、今日のことが出てくるだろうな」
少女は「それはそうですが…」と言い、席を立った。
それに続いて、僕も席を立つ。
「まずはどうする?」
僕は尋ねる。
「何よりもまず、やらなくてはいけなことがあります」
少女が言った。
「結婚指輪を手に入れましょう」
そういう類いのものを売っている店を、僕は一箇所だけ知っていた。住宅街から少し歩いた商店街の中にそれは店を構えていた。
「閉まっていますね」
少女が定休日の張り紙を眺めながら呟いた。
「ここだけじゃない。行列の行われている間は、すべての店がもぬけの殻だ」
どこまでも続くシャッターの行列を見つめる。
「ではどうやって中に入るんですか?」
少女が尋ねる。
「何を言ってるんだ?」
僕は首を傾げた。この子は本当に何を言っているんだろう。
「お前さん、自分が幽霊だってこと忘れたのか?」
冗談めかして尋ねると、少女は「そうでした…」と決まりが悪そうに視線を落とした。
「つまり、私が店内に侵入して指輪を取ってくればいい、ということですよね?」
「そういうことだ。頼めるか?」
少女は任せてください、と言うと、シャッターをすり抜けて店の中へと入っていった。
しばらくして、少女が戻ってきた。
「気に入ったのは見つかったか?」
「ええ、あるにはあったんですが…」
少女はどこか困惑した表情で僕を見た。
「どうかしたのか?」
「それがですね…触れられなかったんです。指輪に」
触れられなかった?
「どういうことだ? 好きなものには触れられるんじゃなかったのか?」
「そのはずなんですが…」
少女は申し訳なさそうに言った。
「すみません。ですが、素敵だと思ったのは間違ないんです。この店のものが気に入らなかったとか、決してそういうわけではなく…」
「お前さんが、そんな酷い考えをしないことくらい分かってるさ。何か他にそうなる理由があったんだろう」
僕は店の裏に周ると、窓の枠に手をかけた。
「何をしてるんですか?」
「ここから侵入するんだ。お前さんは先に中で待っててくれ」
少女は「はい」と呟き、自分の片脚を壁の向こうに入れると、ふと思い出したように
「どうして、そこまで手伝ってくれるんですか?」
と僕に訊いてきた。
「自分から頼んでおいてなんですが、幽霊の言うことに、ここまで親身に手伝ってくれる人なんて、普通、いませんよ?」
幸い、窓の鍵はかかっていなかった。
窓を開けると、僕は両腕で窓枠を掴み、自分の体を引き上げた。
「詳しくはわからないが、変な怨霊にでもなってもらっちゃ困るからな」
「確かに、地縛霊も怨霊みたいなものですからね」
「そういう意味で言ったんじゃないさ」
なんとか上半身が店内に入ると、そのままの勢いで、僕は頭から入店に成功した。
「えぇと、大丈夫ですか?」
「ああ、危うく幽霊になっちまうところだった」
それにしても窓の鍵をかけ忘れているなんて、無用心にも程がある。僕は体を起こすと、丁寧に陳列されている宝飾品を眺めながら、少女に言った。
「それで、お前さんのお気に入りってのはどれだ?」
少女は僕の横を通り過ぎ、一番奥のショーケースに向かって歩いて行った。
「こちらです」
後をついて行く。
そこには明らかにさっきまでのとは別格な雰囲気が漂っていた。僕はショーケースの裏手に周り、少女が指示した指輪を取り出した。
「随分と趣味がいいんだな」
「あの二人が付けていたものに似ているんです」
二人とは話にあった少女の両親のことだろうか。少女が生前、この街に住んでいたのなら、少女の両親もここで選んだのかもしれない。ここは俗にいう老舗だが、街の人間には重宝されている。
「許してくれ。少し借りるだけだ」
僕はそう言って指輪をポケットに入れると、少女に「戻ろう」と促した。
来た時と同じように、少女は壁をすり抜け、僕は窓から退店した。
「さて、次は何をすればいい?」
店の表に出て、少女に尋ねる。
「立て続けになってしまって申し訳ないんですが…」
少女は決まりが悪そうに僕を見る。
「洋服屋に忍び込みたいと思います」
目の前の幽霊は僕に向かってそう言った。
少女は、案外、身なりに厳しかった。
僕が適当にスーツを選ぼうとすると、少女は幻滅したような顔で僕のことを諭してきた。
「いいですか? スーツを黒色にするのなら、中に着るベストは軽い色にするべきです。そうでないと、全体的に重い印象になってしまいます」
別に他に誰かが式に来るわけじゃないからいいだろう、と思ったが、言えなかった。少女には少女なりの理想というものがあるのだろう。目的が少女の成仏なのだから、ここは彼女の言いなりになっておくのが筋なのかもしれない。
「まったく、私のお婿さんになるんですから、きちんとしてください」
「気をつけるよ」
僕は肩を落としながら、呟いた。
ふと、少女の方に目をやる。
そういえば、この幽霊は出会った時から、すでに白いドレスを着付けていた。まるで結婚式場から抜け出してきたみたいに。
「そういうお前さんの格好は、すでに準備ができてるみたいだな?」
僕が訊くと、少女は少し恥ずかしそうに、自分の格好を鏡に写した。
「目を覚ました時には、この格好でした。はじめはよくある幽霊の服装だと思ったんですけど、どう見てもウエディングドレスなんですよ、これ」
「そうみたいだな」
と僕は笑った。
「生前、結婚する予定でもあったんじゃないか?」
「この私が、ですか…?」
少女が目を丸くした。
「ああそうだ。何もそんなに驚くことないだろう? 立派なお嫁さんになれると思うぞ」
少女が「お世辞ですよね?」と訊いたので、僕は首を横に振った。
「そうでしょうか? 私、頭も良くありませんし、運動神経も悪いですし、いつも自分勝手ですし、相手には迷惑ばかりかけると思います。ですから、そんな…」
「だから、いいんじゃないか?」
僕は言った。
「そういうお前さんを思ってくれる『誰か』ってのは、どこかにきっといると思う」
言った後で、顔が熱くなっていくのを感じた。僕はいったい、何を言っているんだろう。とにかく、この凍てついた空気を早く処理しなければならなかった。
「会話の流れで訊くが、お前さん、いったいいくつなんだ? そもそも結婚できる年齢なのか?」
振り返ると、少女は黒いスーツに合うベストを吟味していた。
どうやら、さっきの顔色は見られていないようだった。内心安堵する。
「さあ、どうなんでしょう? 以前も話した通り、自分が誰なのかさえわかりませんから」
逆にいくつくらいに見えます? と少女は質問した。
「三十歳」
少女は「えぇ」と落胆した。
「冗談だ。少なくとも高校生には見える」
「揶揄わないでくださいよ。でも、よかったです。それなら一応、法律違反にはなりませんね」
「幽霊なんだから、気にする必要ないだろう」
少女はそうなんですけどね、と笑った。
「ところで、あなたは何歳なんですか?」
「僕か? まあ、世間に言わせれば十七歳ってところだ。だから、お前さんと結婚したら、犯罪者になっちまうな」
「大変ですね」
「それはそうと、この色なんてどうだ?」
目の前にあったベストを手に取り、少女に訊いた。
「ですから、それは暗い色なので黒のスーツと合いません。説明聞いてなかったんですか?」
少女は不服そうな顔でこちらを見た。
「そうだったな、すまないすまない」
結局、僕の提案したものはすべて断られ、最終的に少女の選択したものを借用することになった。
商店街を後にし、僕が少女に次にすべきことを尋ねようとしていると、少女が言った。
「少し、寄り道していいですか?」
「わざわざ言ってくれなくても、どこへでもついていくつもりさ」
僕が言うと、少女は「そうではなくてですね…」と気まずそうに言った。
「あなたには、ここで待っていて欲しいんです」
「どうしてなのか、聞いていいか?」
「だめです」
少女は即答した。
どうやら、何か言えない事情があるみたいだった。仕方がないので僕は「待ってるよ」と言い、近くにあった木陰に入った。
「では、くれぐれも後をつけたりしないでくださね」
「しないさ。幽霊じゃないんだから」
僕はそう言って少女に手を振った。
正直に言うと、少女がどこで何をしているのか気になってしょうがなかった。いや、もっと正確に言うなら、『幽霊』がわざわざ人目を避けて何をしているのか、この目で見てみたかった。
だが、約束をしてしまった以上、それを破ることはできない。僕は少女が戻るまで、流れる雲を目で追いながら、時間を浪費した。
背後から足音が聞こえた。幽霊に足音はしないはずだが、と恐る恐る振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。
「なんだ、その格好?」
「悪いか?」
僕が聞き返すと男は「いいや」と笑った。
近所に住む同い年の男だ。僕は彼とは馬が合わない。彼はいつも、どこか他人を見下したように話す。それが腹立たしくて仕方ないのだ。
「相変わらず、行列には出ないんだな」
彼は面白そうに笑った。何がそんなに面白いのか分からない。
「そういうお前は、どうしてここにいる?」
よくぞ聞いてくれたな、と彼は言った。
「俺もお前を見習おうと思ってな」
「どういうことだ?」
「分からないのか? 俺も行列に参加するのをやめたってことさ」
僕は思わず、彼の顔を凝視した。
「俺もやっと分かったんだ。生者が死者に何かしてやるなんて、この上なく馬鹿馬鹿しいことなんだってさ。だってそうだろう? 生きてるやつと死んでるやつじゃ、世界が違いすぎる」
僕は何も言わなかった。
「最近、飼ってた犬が死んだんだ。俺、凄い、悲しかったんだぜ。でも、ふとよ、そいつを埋めてやってて思ったんだよ。『死んだらそれでおしまいだ』って。俺の腕の上で眠っているこいつは、俺らとは違う世界の生き物なんだ、って。あんなに愛してた家族だったのに、死んで死体になった瞬間、気味の悪い存在になっちまったんだ。なあ、お前もそう思うだろう?」
彼が僕に同意を求める。
「いくらなんでも、それは酷いんじゃないか?」
考えが少し行き過ぎている。
「おいおい、冗談きついぜ。お前もそう思ったから、参加してねえんだろ?」
「そんなわけない」
僕が否定すると、彼は高圧的な態度になった。
「じゃあなんだ。俺だけがそう思ってるってことか? 今の話、親の前でしたら親父に殴られたぜ。『ふざけるな』ってさ。親父は俺の気持ちを分かってくれなかった。でも、お前なら、分かってくれると思ったんだ」
行列が嫌いなお前なら、と彼は言った。
彼が僕の肩に手を乗せる。
「頼むから、言ってくれ。そして俺に同情してくれ。お前は幽霊が嫌いなんだろ? 俺と一緒で、幽霊が気持ち悪くて仕方ないんだろ? なあ、だから行列には出ないんだろ? そうだよな?」
「まったくもって違うな」
「ふざ、けんなよ…」
彼の声色が一気に暗闇を帯びた。
「変わったな、お前」
彼の目が怖かった。
「昔はそんなやつじゃなかった。昔のお前はこんなつまらない人間じゃなかった。なあ、お前はよく言ってただろ。『幽霊はいない』って。『そんなもの信じるな』って。『幽霊なんて気味の悪い存在なんだ』って」
「だから、それは…」
その時、背後から物音がした。
咄嗟に振り向く。
すると、そこにはひどく暗い顔で僕を見つめる少女の姿があった。小さな赤い花を一輪手に持ち、心配しているような、怒っているような、蔑んでいるような、悲しんでいるような表情で立っていた。僕は少女のそんな顔を見るのは初めてだった。
「おい、どこ見てんだ」
彼が怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。「ただの風だろ」
彼にしてみると、今の僕は何もない空間を見つめ続けるおかしなやつなのだろう。だが、僕にははっきりと見える。少女の姿が。そして、彼女の空虚に満ちた真っ黒な瞳が。
もし少女が今の話を聞いていたなら、きちんと話をしないといけない。ちゃんと説明して誤解を解かなければならない。ひとまず、少女を連れて他の場所へ行こう。
僕はそう思って、少女に向かって一歩踏み出した。
その瞬間、少女が走り出した。真っ赤な花が少女の手からすり落ちる。まるで僕から逃げるようだった。いや、そうだったのかもしれない。
「待ってくれ」
僕が後を追いかけようとすると、背後から彼の腕が回ってきた。襟足を掴まれる。
「待つのはお前だ。さっきから、何を一人でほざいてるんだ」
離してくれ。
「すまない。そろそろ行かないといけない」
「どこに?」
知るか。
「この先を」
「まさかお前、行列に行くんじゃないだろうな?」
だったらなんなんだ。
「場合によってはそうなるかもしれない」
「行かさねえ」
頼む。急いでるんだ。
「ふざけんな」
「お前はここにいるべき人間だ。俺はお前に街の連中と同じようになって欲しくない」
大丈夫だから。
「お前に何がわかる」
徐々に本音と建前が入れ替わっていった。
それを聞いた彼は、睨むような目つきで僕を見た。そろそろ、表面的な自分で接するのが億劫になってきた。僕は彼に告げる。
「お前はそう言って自分を騙してるだけなんじゃないか?」
「何言って…」
「お前は大切なものがこの世から失われたのが悲しいから、耐えられないから、そうやって、死んだ奴らのことを非難して、それで『死』から距離を取ろうとしてるんだろう?」
「違う…」
「じゃあどうして悲しそうな顔をする? 飼い犬について語った時、お前はひどく心痛そうだった」
彼は黙ったままだった。
「本当は心のどこかで分かってるんじゃないか? 自分が大切なものの喪失に哀しんでいることに。それを見ないように蓋をしていることに」
「黙れ。お前に何がわかるんだよ」
彼が目を血走らせて、僕の胸ぐらを掴んだ。
「俺の辛さが、痛みが、苦しみが、怖さが。何にも知らない、嫌なものから逃げ続けてきただけのお前に、わかるわけないだろ」
徐々に彼の力が強まっていく。
「分かるさ」
僕は彼の腕を掴む。
「その気持ち、痛いほど分かるさ」
「なに適当なこと…」
振り上げられた拳に手を添える。
「分かるんだよ。今のお前の気持ち。誰よりも分かってあげられるんだよ」
おそらく僕の顔が今までになく恐ろしかったんだろう。その時、初めて彼の力が少し緩んだ。
「僕にはわかる。お前がどれくらい辛くて悲しい思いをしているか、分かりすぎるくらい分かるんだ。僕は…」
僕は呼吸を整えた。
「お前と同じ経験をしたことがある」
その言葉が引き金だった。
彼の両手からいっさいの力がなくなった。
「嘘だろ?」
「本当さ」
僕は彼の手を振り払った。
「だから、行かせてくれ」
僕は振り返らなかった。
幸運なことに、少女が走って行った方向は一本道だった。
静かな住宅地を抜け、酒屋の角を曲がる。ひたすら走っているうちに、足元がアスファルトから土に変わっていることに気づいた。よく見ると、林へと足跡が続いている。
どうやら、少女はこの先に向かったらしい。
木の枝をかき分けながら進む。時折、小枝に引っ掛かり綺麗なタキシードに傷をつけた。せっかくの正装が大無しだが、この際そんなことはどうでもよかった。主役である少女がいないことには、式自体が始められない。
林の終わりが見えかけたところで、木陰から白い何かがはみ出しているのが見えた。
おそらく少女のドレスだろう。よかった。
僕は声をかける。
「まったく、急に逃げ出すなんて勘弁して…」
少女が驚いた顔でこちらを見た。
「どう、して」
その瞬間、少女の姿が視界から消えた。
反射的に視線を落とす。
目線の先は崖だった。一瞬の行動だった。僕も自分がどうしてそんなことができたのか、分からなかった。だが、気づいた時には、僕は少女の腕を掴んでいた。
状況を掴めていない少女が、僕を見つめる。
僕も状況をうまく理解できていなかったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「早く、何かに掴まれ」
少女の体を引き寄せる。少女は近くにあった木の根に手を伸ばしたが、彼女の手は木の根を擦り抜けてしまった。
おいおい、冗談だろ。こうなると、僕だけの力で少女を引き上げるしかない。僕は歯を食いしばる。安心しろ、大丈夫だ。いける。少女の上半身が上がってきた。あと半分だ。
そんな僕を見て、少女は弱々しい笑顔で言った。
「離していいですよ。私、幽霊なので落ちても大丈夫です」
この時、僕が冷静でなかったら、少女の言葉に納得し手を離していたかもしれない。しかし、その時の僕は少女がこれから何をやろうとしているのかがはっきり分かった。
「ふざけるなよ。お前さん、落ちたら死ぬんじゃないのか。確かに幽霊はものをすり抜ける、この目できちんと確認済みだ。だが、お前さんはいつも地面を歩いているじゃないか。なあ、地面には触れられるんだろう? そうだろう? 僕を騙そうたってそうはいかない」
少女は悲しそうな顔をした。
「やはり分かりますか。流石ですね。でも、それでもいいんですよ。離してください。死んでもおそらく、あの世に行くだけですから。私は成仏できて、あなたは面倒な幽霊から解放されて、何もかもハッピーエンドです」
「ハッピーエンドなわけあるかよ」
僕は声を荒あげた。
「お前さんが未練を残して、そのままあの世に行っってしまうのに、そうだなって同意できるかよ。お前さんが言ったんだからな。結婚してくれって。僕らは婚約者なんだ。ちゃんと式を挙げてから、あの世に行くんだ。このまま一人でに逝くなんて、許さないからな」
「どうしてそこまで、覚えてないのに…」
次の瞬間、足を掛けていた倒木が滑り始めた。
まずい。足場がなくなる。僕は代わりの足場を探そうとしたが、その前に両足が崖下へ吸い込まれていった。
目の前の少女が徐々に地面に接近していく。
僕は咄嗟に、この先少女の身に起こるであろう最悪の状況と、自分の身に起こるだろう最悪の未来を想像した。どちらに転んでもいい未来は待ち受けてはなさそうだった。だが、今の僕にとって喜ぶべきことは、まだそのどちらの未来に進むのか、選択することができたことだ。
無意識のうちに答えは決まっていた。
僕は少女の体を引き寄せると、自分が少女の下敷きになった。
遅れて衝撃が体を巡った。
その時僕は夢を見た。
それは忘れていた記憶のようだった。初めて見る景色というよりは、いつか見たことのある馴染みのある思い出だった。
街を歩いていた。一人で。周りには誰もいない。
静かな住宅街を抜けて、緑の広がる丘に出た。そこには魔女の帽子を被ったカボチャや、支柱で立てられた骸骨、背の高い死神、他にも様々なオブジェが設置してあった。
なるほど。今日はハロウィーンなのか。と、僕は納得した。どうりで人けがないわけだ。早くみんなのところに行かなければ。行列に参加しないと、街の人に怒られてしまう。
そう思って、僕が住宅街に引き返そうとしたその時、丘の上から、人の呻き声のようなものが聞こえてきた。僕は気になって近づく。すると、そこには同い年くらいの中学生の女の子が苦しそうに横たわっていた。
「大丈夫か?」
声をかける。
少女は僕に気がつくと、僕の方に手を伸ばしてきて言った。
「お父さんかお母さんを呼んできて。私が、薬が切れたみたいって」
「分かった」
「私の名前、レイカ。お母さんたちにそう言って」
僕は頷いた。
レイカはとても苦しそうだった。
「レイカ。僕が戻ってくるまで、頑張れ。すぐ戻ってくるから」
「ありが、とう。君の名前は?」
「マサトだけど」
「名字は?」
「モロノ。モロノマサト」
「そっか。それじゃあモロノレイカかぁ」
僕にはレイカが何を言っているのか分からなかった
レイカが僕の薬指に触れながら言った。
「マサト、私と結婚してよ」
「何言ってんだ。今はそれどころじゃ」
すると、レイカはふわっと笑った。
「私、死ぬまでにしてみたかったの。結婚」
「待って。死ぬまでにって、もう死ぬみたいなこと言うなよ。僕が今から両親を呼んでくるから、それまで耐えろよ。助かって、そのあと結婚なり勝手にしろ。今はとにかく耐えてくれ」
僕がレイカの手を強く握ると、少女はまた微笑んだ。
「約束だよ」
僕が彼女の両親を連れて戻った頃には、レイカは動かなくなっていた。
僕は悔しくてたまらなかった。どうして、彼女の両親は彼女がこんなに苦しんでいるのに、それに気づかなかったんだろう。
近くに頼れる大人がいたら、状況は変わっていたかもしれない。すぐにレイカが薬を飲んでいれば、助かっていたかもしれない。
そう考えるうちに、僕は行列という行事が嫌いになった。行列さえなければ、レイカは死ななくて済んだかもしれないのに。みんなおかしい。狂ってる。この街の奴らみんな、頭がおかしい。
それから、僕は行列には出なくなった。
母からはあの子の霊にもさよならを言うのよ、と言われたが、僕は絶対に部屋を出なかった。母親も、みんなも、考え自体が狂ってる。レイカは行列のせいで死んだ。それなのに行列で弔うなんて、意味がわからない。レイカもきっとそう思っているはずだ。
そんな彼女への気持ちを、僕は大切にしたかった。
意識が戻ると、教会の床に寝ていた。
僕が上半身を起こすと、横から腕が優しく僕を包み込んだ。
「よかったです」
少女だった。ぼろぼろ、と涙を溢しながら僕を見つめた。
「あなたが私の下敷きになってくれたおかげで、私は助かったんです。でも、あなたは目を醒さなかった。ほんとに、ほんとに、ほんとに、心配しました。もう、二度と目を覚まさないんじゃないかと思いました、まだ謝ってすらいませんのに」
僕は微笑むと、少女の頭に手を置いた。
「謝るのは僕の方さ」
少女が不思議そうに「え?」と首を傾げた。
「僕は君に何もしてやれなかった。僕にもっと力があれば、行動力があれば、君を助けられた」
「何言ってるんですか? あなたは今、私を助けてくれたじゃないですか」
僕は首を横に振った。
「そうじゃない。僕が言っているのは『あの時』のことだ」
僕がそう言った途端、レイカは驚いたように目を開いて、僕の両手を持ち上げた。
「あの時のこと、覚えているんですか?」
「ああ」
「私、てっきり忘れているとばかり…」
「正確には思い出したんだ。さっき眠っていた間にな」
レイカはさっきよりひどく、その場に泣き崩れた。
「自分で思い出さないようにしてきたんだ。思い出すと、悔しくなるから。自分が許せなくなるから。ずっとそうしてきた」
「あなたが悔やむことなんて、何一つとしてないんですよ。あの時、あなたは頑張って、私を助けようとしてくれました。悔やむとすれば、それは私の方です。あなたがせっかく頑張ってくれていたのに、私は途中で諦めてしまった。最後まであなたが戻ってくるまで、希望を持ち続けることができなかった」
レイカは涙を拭った。
「私があなたにした話。あれ、すべて嘘なんです」
「ああ、知ってるさ」
「私、あの時交わしたあなたとの約束を果たしてもらいたくて、嘘をついたんです」
「ああ」
僕は優しく頷いた。
「もしかすると、正直に伝えてもあなたは受け入れてくれたかもしれません。ですが、怖かったんです。幽霊の私を受け入れてもらえるかのかどうか」
レイカは立ち上がった。そんなレイカを僕は目で追う。
「そんな私にはあなたと結婚する資格はありません」
飛び立とうとするレイカ。
「さようなら」
考えるよりも先に体が動いていた。
「確かに、あの時言ってた通りだ」
僕はレイカの腕を強く掴んだ。
困惑が伝わってくる。
「少しは人の話を聞け。僕の嫁になるなら、その自分勝手なところ直してもらわないと困る」
「嫁になるって、私は…」
「知らないようだから教えてやろう。結婚式っていうのは、どちらか片方の判断で取りやめることはできないんだ。僕は君を愛している、心の底からだ。成仏とかそういう話じゃない。あの時約束したからでもない。単純に、僕は君が好きなんだ」
「そんなの、嘘です」
レイカが首を振った。
「嘘じゃないさ。君が触れることができるもの、どんなものだった?」
「急になんですか? 私が『愛情を向けたもの』ですけど」
「それは違うな。君が触れられるのは、『君が』愛情を向けたものじゃない。『君に』愛情を向けたものなんだよ」
そう言って僕はレイカに抱きついた。こんなふうに、と。
レイカの体は暖かかった。
僕はレイカに触れられていた。
レイカにはちゃんと体温があった。はっきりと、形があった。間違いなく、そこに、存在していた。
「レイカ、結婚式をしよう」
レイカは首を横に振った。
「できません」
「どうしてだ?」
「どうしてって、そうしたら私、消えてしまします。もうあなたに会えなくなってしまします。そんなのいくらなんでも…」
「心配するな。いなくなったりしないさ」
大丈夫、と僕は言った。
大丈夫。レイカは消えたりなんかしない。
姿が見えなくなっても、ずっと僕のそばで、僕を見守っていてくれるはずだ。
だってそうだろう? 僕の嫁なんだから。
死ぬまで僕を支えてくれ。
しばらくしてレイカは「わかりました」と頷いた。「こんなぼろぼろ、な衣装で式をあげるなんて私たちくらいしかいませんよ」
「ああ、だがハロウィーンの夜には相応しい格好だ」
指輪を取り出そうとして、ポケットに手を入れた。
「まずいな」
「指輪、どこかで落としました?」
「ああ、そうみたいだ。すまない」
「きっと、崖で私を守ってくれた時に落としたんですよ。素敵な指輪でしたけど、仕方ないです」
すると、足元で何かが床と触れる音がした。
金属の音だった。僕はすぐに指輪だと分かった。拾い上げる。
「よかったです。あったんですね」
レイカが安心したように言った。
「いや、違う。これは…」
そこにあったのは、僕らが選んだ指輪ではなかった。僕はその指輪を知っていた。だが、そんなことあるはずがない。
まさか。
急いで、周りを見渡してみたが、誰もいなかった。
「それは?」
「父親の…いいや、なんでもない。昔父親がつけていたのに、ひどく似ている」
そんなわけないか、と首を振る。
レイカは僕に向かって、左手を差し出した。
真っ白ですらっとした指が、月明かりに照らされて、淡く発光する。その姿は幽霊なんてありふれた言葉では言い表せないほど、繊細で美しく、そして愛しかった。
僕はレイカの左手をゆっくりと持ち上げ、薬指に指輪を通した。
「やめる時も健やかなる時も、冥土が僕らを分かつとも、レイカを想い続けるよ」
レイカは「お願いします」と微笑むと、僕の背中にそっと手を回し、自分の方に引き寄せた。
その感覚を説明しろと言われても、僕にはうまく表現できる自信がないな。
だが、この時の僕はこの世で一番、いや、この三千世界の中で最も幸せだった。それだけは確信をもって言える。
一生分の幸せを感じ合って離れると、レイカの体は徐々に消え始めた。
小さな光の粒が蝶になって飛んでゆくみたいだった。
全てが終わるのに、あまり時間はかからなかった。
最後にレイカは「ありがとう」と笑った。
一人で教壇の下に腰掛けていると、教会の扉が勢いよく開いた。
驚いて入り口の方を見る。すると行列の参加者たちが次々と教会の中に入ってきていた。
何人かが僕のことを見て、騒ぎ立て始めた。
「モロノさんのとこの息子さんじゃない?」「珍しいな」「来てたのかよ」「ずっと参加してなかったのに、どうして今更」
その中には母親の姿もあった。
母親は僕に気がつくと、顔面蒼白で僕に駆け寄ってきた。母は「どうして?」と訊いた。何度も、何度も。僕がここにいる理由を尋ねた。ふと、教壇の方を振り返り、僕は答えた。
「今までのこと、謝るよ」
立ち上がると、参加者たちの集まる入り口へ歩いていった。
一人が僕の肩を叩いて、「かなり凝ってるな。それなんの仮装だ?」と訊いてきた。
僕は苦笑しながら答えた。
「幽霊と結婚した、世界一幸せで頼りない新郎ですよ」と。
儀式が終わり、日が昇ってくると、町民はみなそれぞれの自宅へ帰っていった。僕は母親と父の名前を呼んでから、教会を後にした。
翌朝、目を覚まし食卓へ行くと、母親が不思議そうな様子で僕に尋ねた。
「この花、二輪あったかしら」
僕は花瓶の近くに行き、真っ赤な花びらに指で触れながら言った。
「ああ。入れておいたよ。僕らで」
来年は行列に並ぼうと思う。
幽霊少女とハロウィーン 八影 霞 @otherside000
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