第28話

 その日のうちに風雅はやってきた。

 昨日のことなどすっかり遠い昔のようにして、穏やかな顔で庭先に立っている。

 東吾もまた、風雅によって夢からうつつに引き戻された気分だった。


「兄上――」


 呼びかけると、風雅は微笑した。傷はまだ痛むだろうに、血がついた着物を取り替えてしまえば、その佇まいから負傷しているとは覚られない。

 東吾は縁側に座り、風雅に隣へ座るよう促した。


「浪士たちを定町廻りに託したものの、事情を訊かれて長引いてしまってな。それでもこちらのことは気になっていたがのだが」


 昨日の、剣を握っている時の厳しさはなんだったのかと思うほどの柔和な笑みである。


「傷の具合は如何で?」


 東吾が右腕に触れる仕草をすると、風雅は苦笑してみせた。


「大事ない」


 やせ我慢だ。平然と言ってのけるけれど、東吾にだけはわかる。他の誰が騙せても、半身ともいえる弟は騙せない。


「熊手屋庄兵衛は捕縛された。どのような刑が科されるのかはわからぬが、軽くはなかろう。ただ、あの天狗党の川島という男だけは隙を衝いて逃げたのだそうだ。手傷を負っているくせに逃げおおせたとは、こう言ってはなんだが、なかなかの気骨だな」


 這ってでも戻りたい気持ちがあり、志は折れていないということらしい。それを素直に褒める気にはなれないけれど。


「意趣返しに来ることはなかろう。あの男にはやるべきことが残っておるようだから、そんな暇はないはずだ」


 ――これからしばらくした後、天狗党は筑波山にて、横浜港の鎖港を求めて挙兵する。

 これを天狗党の乱、または元治げんじ甲子かっしの乱という。水戸町奉公、田丸たまる稲之いなの衛門ざえもんを首領とし、六十二人の同志が共に戦ったのだが――ここに藤田小四郎という若輩の男がおり、この男こそが天狗党の中心であった。田丸も藤田も、志半ばで果てたのではあるが。


 彼らと共に倒れた同胞の中に、川島という男もいたかもしれない。

 それをこの時、庭先の二人が知る由もない。


「これを取り返しにも来ないのだろうか?」


 東吾は風雅に文書を手渡した。風雅はそれを受け取るが、開こうとはしなかった。ひらひらと動かしながら言う。


「あの傷では取り返すどころではなかろう」

「――その文書はなんなのだ?」

「これは、大橋おおはし訥庵とつあんの手による書だ」


 その男は死んだ。

 坂下門外にて老中安藤信正暗殺を目論んだ張本人ではないか。この男が計画を立てたものの、密告されて投獄、赦免されたものの昨年死去した。四十七歳だったという。


 異国を批判する〈闢邪小言へきじゃしょうごん〉などでその名を世間に知らしめた宇都宮の儒学者だが、天皇に意見書を提出したりと、幕府のこともよくは思っていなかった。

 亡霊が何を書いたというのだろう。


「大橋は老中暗殺を企てたが、当人もそれだけでは弱いと気づいておったのだろう。先見の明があったといえばあった。まあ、人選を誤り破滅したがな」


 東吾は黙って風雅の言葉を聞いていた。風雅が言うように大橋訥庵の書であるのなら、そのようなものは災いの種にしかならぬだろう。


「安藤様が命を長らえておきながら失脚するとは、大橋も思わなかったのだろう。もし、襲撃を仕損じた場合、またなんらかの形で幕府に打撃を与えねばならぬ。そのための秘策がここにある」

「秘策――」

「そうだ。安藤様ばかりではない。近しい方々が失脚するよう、こじつけて責を問うような内容だ。偽りに満ちていると私は思うが、これを読んで中には信じる者もいるやもしれぬ」


 幕府に疑いを持ち、信念を揺るがせ、天狗党の味方に引き込むには役立つ書なのかもしれない。

 風雅はその書を広げると、端からちぎり始める。その手にためらいはなかった。東吾が唖然と見守る中、風雅は晴れ晴れとした笑みで言う。


「こんなものはただの反故紙かみくずだ。私は何も拾わなかった」


 その方がよいということだ。東吾もそう思う。

 死してなお、この世に残る責を負う必要はない。あとは生きている者が勝手に受け取り、動くしかないのだから。


 そこで清江が麦湯を運んできてくれた。

 丁寧に三つ指を突いて挨拶をする。東吾は――複雑な心境であった。

 風雅はそんな東吾の心を知ってか知らずか、にこやかに言った。


「昨日は災難だったな。しかし、無事で何よりだ」

「ありがたいお言葉で、勿体なく存じます。東吾様をお助け頂き、わたしもなんとお礼を申し上げてよいやら」

「弟を助けるのは、兄として当然のことだからな」


 などと二人は話している。他愛のないことなのだが、相手が風雅なだけに、東吾は気が気ではないのだ。

 何故かというと、これだけ東吾と似ている風雅が、清江を好ましく思わないはずがない。風雅には勝てる気がしないのだ。そうした気は起こさないでほしい。


 清江は、いつまでも出しゃばっていてはいけないとばかりに奥へ引いた。その背中を眺めつつ、風雅は言う。


「なあ、東吾」

「――何か」


 ぎくりとした東吾に、風雅は軽く笑った。


「清江殿の名は、お守りなのだと申しておった」

「お守り?」

「水気の多い名だ。火気を押さえ込んでほしいという意味だそうだ。己の生まれを語りながら、そんなことをな」


 それを清江が語ったのなら、風雅も清江の生まれを知ったのだろう。そんな娘をそばに置くなとは言われたくない。大体、清江は何故、風雅にそれを語ったのだろう。

 風雅は、笑っていた。


「そんな自分がおぬしのそばにいるから、おぬしが危ない目に遭ったのだとあまりに自分を責めるのでな、清江殿がおぬしのことを心底好いておるのだと誰でも気づくぞ」


 風雅にそんなことを言われると、どうしようもなく恥ずかしい。しかし、嫌な気分と言うのとも違うくすぐったさだった。

 東吾が照れているのを隠そうとしても、風雅は笑うだけだ。


「やはり、おぬしは私でなくてよかったな」

「それはどういう――?」

「私には許嫁いいなずけがおる」


 旗本の嫡男である風雅だ。家の存続を第一、婚姻をもって家をより強固にすることを思うと、いないはずがなかった。ほっとしたような、肩透かしを食ったような心持ちであった。

 つい、東吾は気の抜けた顔をしていたかもしれない。風雅は続けて言う。


「許嫁とはいってもまあ、よく知らん。取り分けて厄介な女子ではないと思うが。武家の夫婦などそんなものだ。家のために祝言を挙げる。好いた女子を娶りたいのなら、おぬしが養子に出されたことも今となっては幸いしたのかもしれぬな」


 それを言われると、東吾も何も言えなかった。

 以前は捨てられたと僻んでいた部分もある。けれど、残された風雅こそ、東吾には見えない苦労が多くあるようだ。


 東吾が答えられずにいると、風雅はそれでも親しみを込めて笑ってくれた。


「なあ、東吾。八つの時に頭を強くぶつけたことがあるだろう?」


 思わず、グッと唸った。


「――ある。庭で転んだのだ。耳の裏を切って、ひどく血が出たな。養母上が、あの時ばかりは大騒ぎされた」


 庭を歩いていたら、どこから入ったのか三毛猫がいた。それが東吾を見るなり、牙を剥きながら毛を逆立てて怒ったものだから、驚いて逃げようとして転んだのだ。

 転んだ先には運悪く尖った石があり、ぱっくりと切れた。傷は痛むし、しばらくは寝たきりで動かしてもらえず、東吾は布団の上で隠れて泣いた。


「兄上も十二の頃に肩に木刀でも当てられたことがあるのではないか? あの日は腕が上げられなくて困った」

「師範代の打ち込みを避けきれずにな。まあ、未熟であったのだ」


 二人、同じ顔を突き合わせて笑った。こんな日が来るとは思いもよらなかった。

 己と同じ顔など見たくもないと思っていたけれど、風雅は東吾とは違う。似ているようでいて、やはり違う。

 育ちが違えば、物の考えも違うということか。


腕の傷も痛んだ。兄上ほど使えても不覚を取ることがあるのだな」


 すると、風雅は照れ臭そうにつぶやく。


「慢心しておった。東吾も痛んだか、それはすまぬ」


 畜生腹の子には、こうした不可思議なことが起こる。だからこそ、薄気味悪いと言われてしまうのかもしれないけれど。

 しかし、これからこの痛みがあれば、そこに風雅を感じる。離れていても、安否を知ることができるのだ。

 きっと今、風雅も同じことを考えた。


「我らの父上は、厳しいのだ。私なりに研鑽に努めたが、お褒めに預かったことなど一度もない。へこたれそうになったこともあったが、それでも私は、弟も他所で大変な思いをしておるのだから、兄である私が耐えずに如何とする、と己を励まし続けていた。――それで、いつかは弟が誇れる立派な兄になっておぬしに会いたいと思うておった」


 そんな兄を、東吾は逆恨みしてひどい言葉を投げつけた。その幼さが恥ずかしく、項垂れるしかない。


「俺は、要らぬ子供であった。兄上さえいればよいのだから、俺の値打ちなどないに等しいと、いい年をした今まで拗ねていた。――すまぬ」


 すると、風雅はかぶりを振った。


「兄と呼んでくれているではないか。それは嬉しかった」


 そんな晴れやかな笑顔を、東吾は浮かべられるだろうかと思うほどには嬉しそうに見えた。風雅の言葉に偽りはない。


「これからはいつでも来てくれたらいい。兄上とて忙しい身ではあるだろうが」


 それを言った途端、風雅は頬を掻きつつ、どことなく言いにくそうに零した。


「実はだな、父上に怪我を覚られて、仕方なく事情を軽く話したところ、国元で謹慎しておれとお叱りを受けてしまってな。もう少し怪我が落ち着いたら江戸を発つつもりをしておる」


 国元へ帰ると、そうそう会えぬ。厳しいという実父は、兄弟たちの交流をよくは思わないかもしれない。それでも、東吾には風雅の障りになるつもりはないのだ。それだけはわかってほしいと思う。


「また、江戸には来られるのだろう?」

「ああ、そのうちにな」


 それならいい。また会える。

 朝顔の花が咲くのを待つように、その日を楽しみに待ちたい。


 風雅はふと目を細めた。そうして、庭の朝顔たちに目を向ける。

 ただし、その目が捉えていたのは朝顔ではなく、遠い先のことであったかもしれない。


「天狗たちが騒ぎ立てておったように、今後、この国は大きく動く。それは間違いのないことだ。幕府がどうなってゆくのかもしかとはわからぬ。それでも、私は己に恥ずかしい行いはせず、大局を見据えていたい。目先の些事に囚われず、借り物の思想を振りかざさず、何がお国にとって一番かを考えねば」


 この小さな庭で朝顔を育てることで手一杯の東吾とは、見ている景色そのものが違う。同じ胎から生まれたというのに、近くて遠い。

 けれど今は、その立派な兄を誇らしく思うのだ。


「太平の世が壊れることなく、争いがないのが何より望ましい。刀を振るうのは嫌いだ」


 できることなら、二度と振るいたくもない。

 戦のない世だからこそ、朝顔などにかかずらうことができるのだ。のんびりと、朝顔をいじりながら清江と一緒に年を取っていけたら、それが東吾にとって何よりの仕合せである。


 風雅は立ち上がり、陽光を背に受けながら白い歯を見せた。


「では、またな。達者で暮らせ」


 東吾も立ち上がった。鏡写しの二人が互いを見据えて笑う。


「兄上もどうか息災で」

「清江殿を大事にな」


 東吾は言葉に詰まる。それがただの照れ隠しであることなど、兄はわかっている。


「――無論だ」

「うむ。ではな」


 軽く手を上げ、風雅は去った。また、そのうちに会える。

 今度風雅が来た時は、克磨や正治郎も招いて皆でゆっくり話したいと、そんなことを思った。

 夏の日差しが強く、風雅の道行きは楽ではない。暑気にやられないようにと願う。



 東吾は庭の朝顔たちを眺めた。今日もまたひとつの鉢が咲いている。

 今朝、手元に戻ってきたもののひとつだ。この鉢が咲くのを、東吾は一番楽しみにしていたかもしれない。


「咲いたか」


 顔が綻ぶのを自分でも感じた。屈み込み、その鉢に見入る。そうしていると、清江が縁側にいた。


「東吾様、朝餉の支度が整いました」

「ああ、ありがたい」


 答えてからじっと清江を見た。すると、清江は昨日のことでも思い出したのだろうか。カッと顔を赤くした。それが年相応に可愛らしい。東吾まで照れてしまいそうで、自分を落ち着けながら清江に向けて言った。


「清江殿、この鉢を見てくれ」

「はい」


 清江は履物を履いて庭に出てきた。東吾のそばにあるのは、これもまた複雑な形状の朝顔である。


「白い牡丹のような花でございますね」

「これは桐性きりしょうだ。本葉が大きく桐の花に似ているだろう?」

「確かにそう見えます」

「花はくるまざき獅子しし牡丹ぼたんしん丸咲まるざき八重やえ四段よんだんざきといってな、珍しいものなのだ」


 長い名に、清江が目を瞬かせた。正式に言うともっと長い名になるのだが、やめておいた。これはかなり珍しい。

 黄色の桐に似た葉は縁が軽く巻き、茎は太い。そこに堂々と咲き誇る白い花は、朝顔とは思えぬほどに花弁が多く、華やかである。育つのが難しく、蕾をつけたところで咲かずに終わることもある。よく咲いたものだと、その姿に惚れ惚れした。


「清江殿のような花だな」

「え? わたしでございますか?」


 嬉しそうかというと、複雑な様子に見えた。

 朝顔らしからぬ牡丹のような花ではあるが、これに例えられるくらいならば、素直に牡丹に例えてくれた方が嬉しかっただろうか。


 しかし、この変化朝顔は珍しい。こうして育つこと自体が滅多にない。

 たくさんの芽吹いた中のひとつなのだ。それは、世の大勢の中にたった一人、清江がいてくれることにも似ている。花を咲かせたことが稀有であり、何にも代えがたい値打ちがある。


 東吾が一番美しいと思うもの。一番、好きなもの。

 だから、清江のような花なのだ。


「清江殿のことはやれぬので、代わりというのもなんだが、この鉢は笹乃屋殿にな」


 フフ、と笑うと、清江はやはり顔を赤くした。


「なあ、清江殿。明日にでも宮口の家に挨拶に行かぬか? 久遠家にもだ」


 どういう顔をして言えばいいのか悩ましかったので、つい背中を向けながら言った。


「それは、その――」


 なんの挨拶かと、今さらそんなことを問われるまでもない。克磨も宮口の父が待っていると言っていた。

 その時、東吾は振り返ると、頬を押えて顔を赤くしていた清江に告げる。


「ああ、そうだ。その前に、舟のところに参ろうか。舟はきっと、この顛末を読んでいたぞ。思惑通りになってしまったのが癪ではあるが、まあ、礼のひとつも述べねばなるまいな」


 舟は、本当はまだ東吾のもとで働いてくれるつもりをしていたのではないだろうか。それを、清江のために場所を空けたのだ。もしかすると、夫のぎっくり腰でさえ作り話であったのかもしれない。


 丙午の生まれなど、東吾ならば気にせずに清江自身を見てくれるだろうと見込んでくれた。そのことに東吾は礼を言いたい。


「はい。舟さんには感謝してもしきれません」


 それから、と清江は言った。


「東吾様と出会えたことに感謝致します」


 胸の鼓動を確かめるように、そっと手を添えた清江は、まぶたを伏せて微笑んだ。その姿は、少なくとも仕合せそうに見えた。清江がそう感じていてくれるのならば、東吾も同じように仕合せであると気づいているだろうか。


「は、はい」


 東吾の呼びかけに、清江はハッと目を開けた。瞬きし、驚いて東吾を見つめる。その顔に、東吾は笑顔を向けた。


「妻でもない娘御を親しげに呼び捨てにするのは好まん。――これからはそう呼ぶが、よいな?」


 子など要らない、一人で朽ちていけばいいと思っていた東吾が、清江と共にいることを選んだ。清江とならば、寄り添って生きていけると思えたから。


 清江が望むことは叶えてやりたい。仕合せにしたいと心から願う。

 そんな相手とならばいつか子ができたとしても、きっと同じように愛しいと感じられる。少なくとも今はそう思っている。疑うこと、恐れることはもうやめたのだ。今が仕合せならば、それにしがみついてもいいだろう。


「――はい」


 目を潤ませた清江の返答に満足し、東吾はうなずき返した。

 青く鮮やかな空に白い雲が流れてゆく。夏の光が降り注ぐ庭で、そんな二人を無数の朝顔たちが見守っていた。それは穏やかな日であった。



     〈了〉


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朝顔師 五十鈴りく @isuzu6

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