ドッペル新聞

つくも せんぺい

草むしり

 転がったのは、白いカメムシの死骸だった。


 齢九十過ぎの祖母の家に帰省した。

 帰って早々、お盆前に来る予定だった庭の剪定せんてい業者が来ないと愚痴をこぼされ、来客から見える玄関先と、家の裏にある倉庫への導線くらい確保しようと、翌朝のまだ陽が昇る前から始めた草むしり。

 もう三、四時間は経つだろうか。


 夜中に始めた時は、鈴虫かコオロギか何かの合唱で賑わっていたのに、明るくなってからは蝉のけたたましさ一色だ。

 涼しく感じられた風も、むわっとまとわりつく熱風に変わってしまった。


 滴る汗をぬぐいながら、私は成果を確認する。 

 大きなゴミ袋に八袋。鬱蒼うっそうと繁った庭の見た目に大した変化はないが、足の踏み場くらいはできただろう。


 もう亡くなった祖父が大事にしていた実家の庭は、無駄に広い。

 現在のように剪定などの管理がされず、夜に家に明かりが点かなければ、高齢化が進んだこの田舎町では珍しくない廃屋の一つにしか見えないなと私は思う。

 実際に天井が下がってふすまが閉まらないところもあり、祖母と共にこの家も終わりを迎えるのだろうと、ずいぶんと前に心の準備はできていた。


 敷石が見えるくらいの一応の成果に満足し、あとは花壇から飛び出したを刈り取ったら終わろうと、痛む腰を叩いた。


 用意してきた水筒の中身を麦茶にすれば良かった。

 そう、口内をアイスコーヒーの苦味で満たしながら考える。


「よし、あとはここだけだ」


 花壇が最後だと自分を励ますように、かけ声とともに息を一つ吐いた。

 手前に生えているカヤを根から抜けるか引っ張ると、老朽化した花壇のブロックが盛り上がった土の動きでズレ、乾いた土と共にぽろぽろと隙間から何か転がり落ちる。

 大きさは自分の人差し指の第一関節くらいまでだろうか。真っ白な乾いたそれは、しゃがんでよく見ると足が生えている。


 虫の死骸だった。

 カメムシ。私が知っている黄緑色のものとはずいぶん様相が違う。

 脱皮するかどうかの知識なんかない。ただ、乾いてはいたが抜け殻などではなさそうだった。

 アルビノ種とかいうものなのだろうか。


 しかし、転がった死骸は一つではない。五、六匹が行儀良く足をたたみ、意思でもあったかのように、一様に同じ姿勢で死んでいる。

 その全てが真っ白だった。手袋越しだから、感触はよく分からない。状態は色以外はさっき死んだようにすら見えた。

 死骸だからか、触れても臭いはしない。


 ――ふと、気配を感じた。

 しゃがんだまま、視線を引っ張られるように花壇を見ると、大きめの葉の雑草の裏に、びっしりと若葉色の羽虫がじっと息をひそめていた。


 あまりの量に息を呑むが、深夜から長時間にわたる草むしりで、羽虫の類は慣れていた。顔に飛ばれるのはさすがに抵抗があるので、立ち上がり手持ちの鎌で上から葉を叩き追い払う。四方八方に羽虫たちは逃げ去った。


 その雑草を抜くと、茎に別の植物のツタが巻き付き、そのツタにはこぶのような実がいくつもなっていた。とかいったか、灰色の小さな芋のような実だ。

 様々な色や命が混在する花壇の中で、カメムシだけが真っ白だった。


 抜き取られたのか、吸い尽されたのか。

 薄ら寒いものを感じながら、私は黙々と作業する。


 祖母の住む地域は高齢者が多く住み、数軒越しに空き家が点々と存在している。

 人が住まなくなった家は、すぐに朽ちてしまう。近所にも天井が落ちた家、門がなくなった家、なれの果てを見ることができた。

 この花壇のカメムシのように、人は命を支払って家に住んでいるのかも知れない。


 すっかり明るくなって、蝉の声が満たす庭であってもそんなことを考えてしまうのは、やはりお盆だからなのか。

 すっかり小さくなった祖母の姿が、目に浮かんだ。

 汗が首を伝う感覚が不快だった。


「痛っ」


 突然、左手の小指の先に鋭い痛みが走った。

 手袋をつけて作業しているにもかかわらずだ。カヤではない。

 見ると、花はないがバラと思わしき棘だった。枯れて茶色く変色していたが、棘は固く鋭い。


 舌打ちをしつつ、もう刺さらないよう丁寧に根元から切断し、処分する。

 生えている植物に一貫性がなく、すっかり花壇は野生化してしまっていた。

 きっともう、祖母の命では庭の分まで支払えないのだ。


 花壇の草むしりも終え、片付けをして最後に手袋を外すと、小指には小さく深く穴が空いていた。血は作業している内に止まったようだ。

 痛みだけが残っている。

 少し私を庭に取られてしまったが、この家に私自身が何かを支払う気はない。


 父が祖母を遺して先日亡くなり、もう足を運ぶ親族もほとんど居ない。

 祖母が去る時、空き家のままこの家を朽ちさせるわけにはいかないとは思っているが、庭以上に難儀しそうだ。

 と、先祖を迎えるお盆のはずが、草むしり一つで生者を見送る算段ばかりしている自分に気づく。

 私はそのことを誤魔化すため、祖母に作業が終わったことを報告し、仏壇の線香に火を点けることにした。





 読んでいたのは、帰省した故郷長崎県の名前を冠した新聞。その読者投稿やコラムがまとめられた紙面だった。


 訪れていたのは小学校時代の同級生が営む喫茶店。店が暇な時なら話しも弾む、帰省時のちょっとした楽しみだった。

 しかし、あいにく今日はちらほらと他に客がおり、軽食を待つ間にと地元の新聞を手に取ったのだ。


 記事を読み終えた私は、エアコンで涼しいはずなのにベッタリと汗をかいていた。

 吐く息が震え、今度は悪寒が背筋を這い上がる。


 どうして。

 口の中が渇き、呟きが音にならずに消える。


「お待たせ」


 久しぶりに聞く声とともに、目の前にホットサンドとアイスコーヒーが置かれた。すぐに喉を潤すと、芳醇なはずの香りがあの庭の土の臭いのように感じられる。


 同級生の声を聞いたからか、私の頭の中を、小学生の頃に流行ったある言葉が埋め尽くしていた。


「なぁ、ドッペル新聞って覚えてるか?」

「また懐かしいことを言い出したな。あったなそんな噂」


 尋ねた私の言葉に、カウンター越しに同級生は笑う。噂の内容を話してくれていたが、耳に入ってこない。

 グラスを持つ手が震えた。


 ──あれを読んだやつは、どうなるのだったか?


 問いかけが、喉の奥でつっかえた。

 小指の先の小さな傷がズキズキとうずく。

 何かが中をうぞうぞとうごめき、這い上がってきているようだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドッペル新聞 つくも せんぺい @tukumo-senpei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ