送り火

朝吹

送り火

 

 暑い。さすが京都だ。鍋底で煎られているようだと云われるだけのことはある。生きながら釜茹でにされた石川五右衛門の気分。いや、茹でられたんじゃなくて油で揚げられたんだっけ。

つむぎちゃん、アイス食べよ」

 わたしと彩奈あやなは四条通りに面したコンビニに入って、それぞれアイスを選んだ。

 どちらからともなく云い出して、今から嵐山に行こうということになった。午後の四時。嵐山を流れる桂川で夕涼みをしようというのだ。

 向かいに大丸百貨店がある四条通のバス停で、私たちは嵐山行のバスを待っていた。なかなか来ない。近くで同じようにバスを待っている外国人観光客もこの暑さには参るのか、疲れ切った顔をして犬のようにはあはあと息をしながら黙って立っている。日陰にいてもじりじりと暑く、舗装された道路からは熱気がぐわりと立ち上がる京都の夏。年々暑くなっている気がする。

「京橋で八百人は死んだんや」

「誰もうちらがどうなったか知らん。遺体の損傷がひどくて犠牲者の数も、よう数えんし」

 なにごと。

 わたしと彩奈が振り返ると、バス停の並びに二人の少女が立っていた。くすんだ色に染めたセーラー襟のブラウスにぶかぶかしたズボンを履いている。

「演劇部の子かな」

「劇の練習で暗唱でもしてるんとちがう?」

 三つ編みにした髪、今どき見たこともないような布靴。わたしと彩奈と同じ年ごろのその二人は、みすぼらしい恰好をしている。

「彩奈ちゃん、来た。バスが来たよ」

 嵐山が終点のバスがようやく回って来た。午後も遅い時間なので今からあちらに行こうとする観光客の数は少ない。多分乗り込んだ者たちも二条城で降りるのだ。

 私たちはバスの後部座席に陣取った。冷房が効いていて涼しいが思いっきり西日だ。窓が黄金色に輝いている。

「紬ちゃん、アイスの棒あずかるわ。ビニール袋を持ってるから、わたしが後でまとめて棄てとく」

「ありがとう」

 べたつくアイスの棒を従姉妹の彩奈に渡す。わたしは東京の子だ。お盆休みは、わたしと同じ中学二年生の彩奈のいる京都の家で毎年過ごす。

 ふとバス停を振り返ると、先刻までいた女学生の姿は消えていた。



 ──引っ越し先が大空襲のあった土地で、昔たくさんの死者が出たんです。犠牲者の幽霊が出ないかと毎晩、怖いんです。


 ──うちの家かて死人がぎょうさん出た上に建ってるけど平気や。応仁の乱ていうんやけど。



 京都の歴史の長さを語る時によく使われる冗談。空襲に遭わなかった京都でこの前の戦争といえば、室町時代にまで遡るのだと。

 京橋。先刻の女学生たちはそう云っていた。大阪の京橋駅のことだろう。終戦の前日に、米軍機が爆弾を落として多数の死者を出している。

 すぐにそう想ったのは、今回、わたしは大阪の京橋駅からほど近い、大阪城公園駅に立ち寄ってから京都に来たからだ。目的はもちろん太閤秀吉が築城した大阪城を見学することだ。昨日の日付は京橋空襲のあった日で、同じ日に路線を移動していたわたしは、ネットの記事で読んでそれを知っていた。

「京橋。なんで京橋ていうんやろうね。大阪にある駅やのに」

「東京にもあるよ、京橋」

「うそ」

「東京の方は今は地名だけになっていて橋はないけどね。京都に向かう道筋にある橋の名が京橋なんだよ。大阪なら京街道。東京なら東海道にあった橋。大阪の京橋駅については、橋から離れた処に駅があるけれど」

 それは昔、京都がたしかに全てのものが集まる都であったことの証なのだ。首都の座は東京に渡ってしまったが、明治維新までは天皇のいた京都がこの国の中心だった名残りなのだ。

「全てのものが集まる。魂もかな」

 バスの窓の外に過ぎる太秦うずまさの家並みを眺めながら彩奈ちゃんはこそっと、そう呟いた。



 嵐山は想っていたよりも涼しくなかった。やはり暑かった。それでも川べりの日陰に入っていくと、さすがに体感温度は下がる。渡月橋の上から眺める山と川が好きだ。冬になると雪が積もり、水墨画のような景観に変わる。五山の送り火のために整地された山々。嵯峨野からいちばん近いのは「鳥居形」。向かいの東側には「大文字」。

 彩奈が橋の欄干に手をかけた。

「祇園祭がそもそも、疫病や、戦や政争に敗けた人らの鎮魂のために生まれた祭りやもん、京都は辛気臭いわ」

「わたしは好きだよ京都。史跡だらけ」

「住人からすれば、なんでこんな何でもない処で観光客は記念写真撮るんやろうって感じやけど」

 それは東京でも同じだ。銀座のど真ん中で写真を撮っている観光客は奇妙に映る。

 彩奈がスマートフォンを取り出した。

「二人で写真撮ろうか」

「うん」

 渡月橋の上で並んで、写真を撮った。

「あっ。やばい」

 大慌てになって彩奈はいま撮った写真を消去してしまった。

「なに。眼を閉じてた?」

「違う違う」

 それから彩奈は黙り込んでしまった。寒そうに震えている。気分が悪いのだろうか。

「彩奈ちゃん」

「何でもない。もう帰ろう。昏くなる前に」

 夏だ。六時くらいまではまだ明るい。しかし彩奈はわたしをせかして、ちょうどやってきたバスに乗り込んでしまった。

 今度も二人用の座席がある後ろに座る。中途半端な時間なので車内にはほとんど人がいない。背後からひやっとする風が流れてきた。わたしはバスの一番後ろの座席を振り返った。そこには四条のバス停で見かけた二人の女学生が座っていた。私たちが乗ったバスの後から、彼女たちも嵐山に来たのだろう。

「彩奈ちゃん、あの二人が同じバスに乗ってるよ」

 隣りにいる彩奈に囁いたが、彩奈は「うん」と呻いたきり、窓の方に顔をそむけて決して振り返ろうとはしなかった。


 

 京都は怪談の宝庫だ。物の怪だの怨霊だの鬼だの。何といっても空襲で焼き払われなかったというのが大きくて、大昔の文献に出てくる地名や寺社の多くが今でもほぼそのままだ。

 京都の怪談。一番印象的だったのが、棺の中で死後に生まれた赤子のために三途川の渡し賃で水飴を買いに来る母親の幽霊の話だ。同じ幽霊話が日本各地にも点在していると知った時にはがっかりだったが、赤子のために幽霊が飴を買いに訪れたその飴屋『みなとや』は京都に現存しており、彩奈の家の近くでまだ営業している。

「彩奈ちゃん、お風呂だよ」

 わたしは彩奈の部屋をのぞいて風呂に誘った。彩奈は夏蒲団を頭からかぶって、返事もしなかった。

「おばさん、彩奈ちゃんはまだ気分が悪いみたい」

「どないしたんやろうね。熱もないし」

「嵐山の帰りからずっとこうだよ」

 彩奈の母とわたしの母は仲の良い姉妹だ。同じ歳の子を産んだ二人は、東京と京都で互いに子どもを預け合っている。中学校に上がってからは、わたし独りで東京から京都に新幹線で移動して母の付き添いはなくなった。京都駅には彩奈が迎えに来てくれている。たとえ彩奈がいなくとも、京都駅からバスに乗りさえすれば確実に彩奈の家に到着する。行程に迷うような処がどこにもない。


「大阪城に行ってみたい」


 時代劇のドラマの影響でそう云うと、彩奈も賛成した。それで、今年は東京駅から新幹線で京都駅を飛ばしてまず大阪駅に向かい、大阪駅で彩奈と待ち合わせて二人で大阪城見学に行った。帰りは一緒に大阪駅から京都に戻ればいいのだから、親もとくに心配しなかった。

 五山の送り火は明日十六日だ。私たちはいつものように地元の者だけが知る穴場に行って、送り火を見ることになっている。

「食べ物にでもあたったんやろうか。紬ちゃんは平気か?」

 夕食の席でおじさんが心配して訊いてくる。わたしは頷く。わたしはまったく平気だ。もし彩奈に何かあったとしたら、嵐山の渡月橋で撮った写真だ。彩奈は削除してしまったけれど、スマフォのゴミ箱から復元できるはず。

 テレビでは終戦記念日の特番が流れていた。



 翌朝、起きてきた彩奈に写真のことを云ってみると、彩奈ははげしく拒否した。

「見たらあかん。スマフォにも触りたくない」

「何が映ってたの。心霊現象?」

 半笑いでわたしは訊いた。心霊写真の大半は、そう見えるだけの勘違いなのだ。夏の強い西日のせいで人影のようなものでも映っていたのかもしれない。

「せめて何が映っていたのかだけでも教えてよ」

「二人の姿」

 彩奈はわたしの顔から視線を逸らして云った。鏡がそこにあった。わたしと彩奈が映っている。他にも何か映っている気がする。影が二つ。その時、彩奈の家で飼っている雄猫のブルちゃんが尻尾を身体に巻き付けてウーッと唸った。わたしはブルちゃんの頭を撫でた。

「わたしと紬ちゃんの姿が映ってた。嵐山を背景に」

 なんだ。

 それのどこが怖いの。二人で撮影したのだから、当たり前のことじゃない。



 大文字の点火が始まった。近所の人たちが持ち寄った蚊遣りの煙がほそく立ち昇る。甚平を着せられた小さな子どもが騒いでいる。お姉ちゃんたちの幽霊がいる。ほらそこに。親がそれに答える。

「幽霊やなんて、そないなことあるかいな」

「千年以上歴史のある京都で幽霊なんて云うとったら、そこら中が幽霊だらけや。そのわりには幽霊話が少ないのはな、京都は供養するお坊さんもお寺も多いし、結界もあるからや」

 コンチキチン。

 甲高いかねの音。疫病の神をおびき出して山鉾町に連れて行く音。怨霊の鎮魂の意味も込められている七月の祇園祭。

 集まってきた霊魂が八月十六日の五山の送り火によって冥界に送り出されてゆく。

「きれいやね」

「うん。ビルがちょっと邪魔やけど、きれいな火やね。文字や舟が山に浮かんで幻燈みたい。あんな火なら空襲と違うて怖くないわ、うち」

「死んだんかな。うちら」

「そうと違う? 京橋で。米軍機が来たから鼻と耳と目を押さえて二人で駅の構内でしゃがんでたやん」

「なんで今までかかったんやろ」

「突然のことすぎて、死んでるのか生きてるのかも分からんかったもんなぁ。あんたがおったから寂しくはなかったし。でも、あの子らにくっついて京都に行ってみる気になったのは潮時やったんやろうね。来て良かったわ」

「ほんまに」

「見て、向こう。みんなおるわ懐かしい。きれいなこの火をくぐって、一緒に行こ」

「紬ちゃん、アイスの棒あずかるわ」 

「ありがとう。彩奈ちゃん、私たちもそろそろ?」

「うん。嵐山で撮った写真にばっちり映ったからびっくりした。向こう側が透けてた。でも、あれでわたしは紬ちゃんよりも先に気づいたよ」

「なんで今までかかったのかな」

「突然死ぬと、死んだことが分からんまま、しばらく前と同じようにこっちで暮らすからだって。大津波の後にタクシーに乗ってくる幽霊の話も同じことやろね。京都に幽霊が少ないのは年に一度、送り火でまとめて送り出してくれるからなんやて。だからお精霊さんが土地に溜まることがない」

「彩奈ちゃんがいてくれて良かった。独りきりだったら怖かった」

「うん」

 近所にいたお姉ちゃん。去年までここで、五山の送り火を観ていたお姉ちゃんたち。

「松原の『みなとや』近くで東京から来た女の子と一緒に交通事故で死んだお姉ちゃん。そこにいたけど、いま消えて、視えんようになった」

「そうか。そんなら良かったな。よう手を合わせて拝んどきや」

 わたしと彩奈は手を繋ぎ、橙色の炎を上げている送り火の上にふわりと飛んだ。下界では子どもが騒いでいる。その声がすうっと闇の底に遠くなっていった。



[了]

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送り火 朝吹 @asabuki

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