『濡れそぼった私に傘を』
小田舵木
『濡れそぼった私に傘を』
雨が私を打つ。
ああ。帰り道に雨が降ってくるなんて。天気予報は当てにならない。
予定外の残業をしたのが運のつきだ。上司に面倒な仕事を押し付けられた上に雨だもの。
ハンプスのヒールが水たまりを打つ。水しぶきが足にかかり。ハンプスの中がびしゃびしゃになる。
ああ。この感じ。まるで私の人生みたいだ。なんと言うか気持ちがよろしくない感じ。
最近彼氏と別れた。理由は向こうに新しい恋人ができたから。年上の女はお呼びじゃないらしい。
そうして一人になり。こうやって雨の
そこには惨めさがある。
◆
家になんとか帰り着き。着ている服を脱いでお風呂場に。
湯船に水を張りながら洗面台の前でメイクを落とす。すっぴんになりゆく私はなんだか締まりのない顔をしている。最近、ストレスが多いのだ。
湯船に浸かって足を伸ばす。ああ。ハンプスっていつまで経っても慣れない。足の先がキュッとなるあの感じ。慣れないを通り越して足が痛い。
髪を洗って、身体を洗って。風呂から上がる。
部屋に入って見れば雑然としていて。
そこら辺にゴミが散らかっている。こんなのじゃ人を呼べやしない。
適当にゴミをゴミ袋に押し込んで、私は冷蔵庫から酎ハイを出す。そしてあおる。
「うぃ〜」なんて声が出る。まるでおっさんだ。
テレビを点けてチャンネルを一周。詰まらない番組ばかり。うんざりしてスマホを持つ。そして適当な動物モノのチャンネルに合わせて。柴犬を眺める。
いいなあ、柴犬は自由気ままに生きていて。それに比べての私よ。
今日もおっさん連中に
なんで男はああ、と言うか上から目線なんだろうか?
この男女同権の世の中で、上からはないだろう?大体、私は今年で30になるんだぜ?いい加減、まともな女性扱いをしてほしい。
酒を
とは言え。このストレスフルな社会では呑んでないとやっていけないのだ。
ああ。明日が休みで良かった。これで明日も仕事だったら私は破裂してしまう。
酔いが回ると私はキッチンに立つ…が。さてどうしたものか?
というのも。冷蔵庫に何も入っていないのだ。一応コメはあるけどさ。
帰り道に寄ったスーパーには惣菜がなかった。残業帰りだったから半額祭りの後だったのだ。
さてさて。どうしたものか?私はキッチンの戸棚を漁る。確か緊急用の非常食があったはず…
かくして。私の今日の晩ごはんはカップ蕎麦だ。うん、虚しい。
カップ蕎麦を
私は料理が苦手だ。どうにも段取りをつけて色々作業していくのが苦手なのだ。
彼氏がいた頃は、彼に料理をしてもらっていた。彼の方が美味しく作れるから。
ああ。彼の煮物とか美味しかったよなあ。醤油と出汁の塩梅が実に私好みだった。
「スッポコペンペンポン…ポンポポ」スマホが鳴る。この時間に誰だろう?まさか仕事先ではないだろうな?残業は物流絡みの件だったので、今でも仕事は動いているのだ。
ディスプレイを見れば母の名前。ああ、なんだ。
「はいはい」
「あ。
「元気じゃないわよお」と私は母に嘆息する。
「彼氏と別れたばかりだもんねえ」
「言わんで良い。それは」
「いやあ。これで結婚がまた遠のいた」
「仕事に生きるよ。しばらくは。んで?何かあった?」
「いやねえ…」母は言い
「早く言ってよ。すっきりしないなあ」
「
「そりゃ、おめでとう。式には行けそうにないわよ」彼と私は離れて暮らしている。私が大阪で、彼は福岡だ。
「祝電とご祝儀だけはしっかりね」
「はいはい。あの彼女な訳?」
「うん。彼女、いい娘だからねえ」
「私とは真反対のタイプ」私はどっちかと言うと男勝り。弟の彼女は典型的な女の娘タイプだ。
「小さい頃からアンタ見て育った子だからね。可愛い娘に飛びついていったねえ」
「はっはっは」乾いた笑いしか出せない。元彼も可愛い娘に鞍替えしたんだよなあ。
「…ま。こっちでうまくやっておくから。アンタはアンタで頑張んなさい」
「言われなくても」そう言って電話を切った。
◆
電話を切ると虚しさが私の身を襲う。
私は仕事に生きる、なんて宣言をしたばかりだが、私だって女性としての喜びは追い求めたいものだ。
街中で子どもを見るとついつい目で追ってしまう。そして
そこには生物としての完成形がある。
今の世の中は女性の社会進出を推進しているが、それでも少子高齢化を訴えている。
そう。社会での女性の役目には男同様働く他に、子どもを産むという役目が付け加わっている。
そこに不平等を感じない訳ではない。なんで働きつつも産まねばならないのか?
まったく。無理な事を言ってくれるものよ。
それでも女性は男性より恵まれている…という意見を聞かないではないが、私からしてみれば何言ってんだか、と思う。
これからの女性は自立してなくてはならないのだ。まるでフェミニズムの物言いだが、これは事実だ。今や男性は女性を背負って生きていける
ああ。なんだ?こんな事考えちゃって。アホみたいだ。これも彼氏と別れた弊害なのかね、と思う。
私は元彼という何かを失った。それは大きな痛手になった。
私は彼の世話を焼くことでバランスを取っていたらしい。
だが、それがアダになった。元彼は別れる時にこう
「清美さんはなんだか僕のオカンみたいになってる」いやあ。あれは効いたね。
女性は普通、別れた男の事を引きずらないという。
しかしそれは誤った俗説である。私はしっかり引きずっている。
元彼と結婚していたら。そう思わないでもない。
チャンスがなかった訳ではない。セックスの時にコンドームを着けさせなかったらよかったのだ。でも、妊娠するにも覚悟は要る訳で。私は及び腰になってしまっていた。
母にはなりたいくせに。
そう言えば。セックス。年々性欲が高まっているのを感じて恐ろしくなることがある。
20代の頃はそんな事はなかった。むしろせがむ男にさせてやっているという立場だったのに。
いまや私も積極的に求めてしまっている。それは生物としての呪縛だ。
母になれ。
私の身体は告げている。だが。私はオカンのようになる女で。男なんぞ寄ってきやしない。
ああ。なんでここまで心を掻き
まったく嫌になるぜ。こういう時はさっさと寝るに限る。
◆
休日の朝。目覚めは最悪である。枕元のスマホは6時半。ああ、社畜根性が植え付けられている。20代の頃はいくらでも寝られたのにな。
仕方がないから起きて、朝飯を…と思ったが食料ないんだっけ。
私はドレッサーに向かってメイクを軽くする。この軽いメイクというのは曲者だ。老けを隠すのが難しくなる。おかげで仕事メイクより時間がかかってしまう。
メイクを済ませると私はコンビニに向かい、パンを買って。
それを食べながら歩く。少しはしたないが、せっかくメイクをしたのだ。ついでにジムにも行ってしまいたいのだ。服装もその為にジャージを着ている訳で。
ジムで軽くトレーニング。いやあ、20代の時は身体を動かさなくても痩せていたが、最近は身体を動かしておかないと太ってしまう。
土曜の朝のジムは混んでいる。そこにはいろんな年齢層の人が居て。私と同年代の女性や男性もいる。
ランニングマシーンで軽く走り込み。息が続かなくなっている事に気づいて
隣の爺さんは優雅に走っている。その隣の私はハアハア言いながら走っている。
そこには
しばらく走りこむと私は休憩。隣の爺さんはそれを優雅な目で見送っていた。なんだかムカつく。
ランニングマシーンで走った後はラットマシンで鍛える。腕と大胸筋を虐めておきたいのだ。そうしないと二の腕はダルダルになるし、胸は垂れてしまう。
ラットマシンのバーを全身で引く。筋肉が悲鳴を上げている。ああ。私自身も悲鳴を上げてしまいたいな、という欲求を抑えながらなんとかこなす。
ある程度鍛えてしまうと私はジムのシャワーを浴びる。
そこで自分を見る。20代と比べて、腹が出るようになった。くびれが無くなってきた。
ああ。私は老けていっている。まだ30代と思う方も居るだろうが、されど30代である。生物的に言えばもう中年なのだ。
ジムを出る。
さて。これから何をしようか?予定は何もない。
とりあえず家に帰って、着替えるか?
◆
家に帰ってくるとスマホが鳴って。
「はいはい。どうした?こんな朝早くから?」相手は友人である。
「あ、清美おはよう。何してた?」
「朝からジムに行ってアンチエイジング」
「ご苦労さま。ところでさ。突然だけど今日、空いてる?」彼女は誘っているらしい。
「一応。んで?何?お茶でもしたい?」
「そそ。お茶がしたい訳」
「了解。んじゃ13時に梅田で」
「はーい」
よし。予定は埋まったぞ。
これで無為な休日を過ごさずに済む。
私は家でメイクし直す。ジム行きのとはトーンを変えたいのだ。
ディファインすべきところに手を入れる。こういう事をしてると詐欺だ何だと言われるが。このルッキズムの世の中では見てくれに工夫をしてないと、相手にされないのだ。誰にも。
メイクを済ませるとさっさと外に出てしまう。約束は13時だが、梅田で時間を潰せば良い。ちょうど服、見たかったしね。
◆
「お久しぶり」久々に会う友人は妙に機嫌が良い…というかメイクのノリ良くないか?何か良いことがあったのだろうか?
「お久しぶり…
「うん。まあ、色々あってね〜」彼女は気がついた私に上機嫌になる。
「何?彼氏とうまくいってる訳?」彼女には年上の彼氏が居て。
「うまくいってるって言うか。今回の本題になるんだけど」ああ。今、私は嫌な予感がしたぞ。財布の中身も
「…結婚すんの?」聞きたかないが。
「結婚しますねえ。いや子ども出来ちゃってさ」
「わお。そりゃ一大事だ。とりあえずおめでとう」
「ありがとう。これから大変だよお…」
「そりゃ母親になりながら結婚式するんだもんね」
「そそ。もうてんやわんや」
そこからの彼女の話しは自慢話一辺倒だった。いやあ。もう聞いててうんざりしたね。彼女としては友人に幸せをシェアしに来たんだろうが、この状況…私が最近彼氏と別れたってのを考えれば完全な皮肉だ。
「
「いやね…言い
「あ…」絶句する友人。
「しゃあないやね。私、オカンみたいだって言われちゃってさ」
「ひどい」
「でも仕方がないよ。実際いろいろ世話焼いてたしね。料理以外は」
「そんだけ世話になっといて振るなんてセンスないよ、あの男」
「そこまで言ってあげないで。仕方ないんだって、私より年下の可愛い娘ゲットしちゃったんだから」
「ますます、ひどい」プリプリと怒りながら言う彼女。
「ま。言うても始まらなんだ…そういや話変えるけど。そろそろ
「あ〜言うよねえ」彼女は空気を読んで付きあってくれる。
そして。ひとしきり話した私達は別れた。
ああ。疲れた。彼女、自慢話ばっかするんだもん。
いや結婚と出産は喜ばしい。友人がそれをするのは祝いたい。でも…今の私を考えると素直になりきれなかった。
地下街を歩きながら私は嫌な気持ちになっていた。友人の幸せを素直に祝えないなんて。
◆
くさくさした私は地下街から駅ビルに入って行った。そこの地下には飲み屋が無数にある。
私はクラフトビールのバーをセレクトして。そこのカウンターでインディアン・ペールエールをゆっくりと呑む。
この時期なら呑み口が軽いセゾンという手もあるが、今の私はインディアン・ペールエールの重い味わいに沈んでいたかったのだ。
ホップの苦味が私の口の中を満たす。それは人生の味わいだ。
かくもほろ苦い人生。そいつを一人で過ごすのは気が滅入る。
休日の夕方のバーは混みだしていた。周りには浮かれた大学生や会社員。
大学生を見ていると自分は大人になっちまったな、と思う。あの輝き。私にはもう出せない。そもそも肌がくすんできているのだ私は。
ああ。なんて考えていると、一人呑みのサラリーマンが声をかけてきて。
「お一人ですか?」彼は見た目からして30代かな。
「ええ。友人と別れましてね」
「あれ?一緒に呑まれないんですか?」
「彼女、妊娠しましたから」
「そりゃめでたい」
そこからひとしきり話をして、彼と連絡先を交換して。
この後どうです?なんて彼は誘って来たが。私は今、そんなにセックスしたい気分ではないのだ。
「明日の朝から予定ありますから」と振っておいた。大体、会ってすぐセックスしたがる男なんて願い下げだ。性病でも持ってそうだ。
◆
終電間近の電車に乗り込む。
土曜の終電はガラガラだ。ま。普通に乗ったってのもあるけど。
私は席に腰を落ち着けながら真上の吊り下げ広告を見たのだが。そいつはマタニティ雑誌のもので。
「ここでも見せつけてくるかい」思わず呟いてしまう。それに近くのカップルが反応して。悪いことをしたよなあ、と思いながら私は車輌を移った。
◆
駅に着いて歩いていたら。また雨。またかよ、と思う。私は今日も傘を持ってきていない。毎度毎度、間が悪い。
駅のコンビニでビニール傘を買ってさして。とぼとぼと家路を急ぐ。
「みゃあ」その時だ。こんな声が聞こえきたのは。
「野良猫?」と思いながら私は近くの茂みを探す。私は猫が好きなのだ。
近くの茂みを見ると、そこには子猫が居た。ああ。可哀想に。私みたいに雨に打たれているんだな、君は。
「どうしたんだい?」私はしゃがんで。その猫に語りかける。
「みゃあ」その猫は白猫。白銀の身体は濡れそぼっていて。ブルブル震えてる。
「おうおう。母ちゃんに捨てられちゃったか?」私は聞いてみる。返事は期待していない。
「にゃん」とその猫は
「…どうしよっかな」私は思い悩む。私の家はペット禁止なのだ。
「ふなあ」と白猫は私の足元にすり寄ってくる。エサなんて持ってないのに。
「よしよしいい子だ…」私は撫でる。そして酔った頭を回転させる。とりあえず。コイツを病院に連れて行って里親を探そう。それくらいの期間なら管理人にばれまい。
「ウチに来る?」私はその子に聞いてみて。
「なあ」とその子は応えた。
◆
そうしてそれから。
結局その白銀の子猫は私の家に住み着いてしまった。おかげで引っ越す羽目になっちまった。
私は相変わらずの独身だが。家に帰ればかの子猫…今は雄猫が居て。
「ただいま…今日も雨に降られちった」と言えば。
「なーん」と足元にすり寄ってくる。
こうやって。私の雨に濡れ通しの人生は少し明るくなった。
だから。それを記念して猫にはこんな名前をつけている。
「アンブレラ…今日は何が食べたい?」
◆
『濡れそぼった私に傘を』 小田舵木 @odakajiki
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