14年前、6月13日 人間失格
治子の言うとおり、本当に治子は受験を余裕で終えた。
あれから一度も笑顔を失うことなく、当日でさえも緊張した様子一つ見せずに無事合格。
私達は晴れて同じ高校に進学し、変わらず毎日一緒に過ごしていた。
「ナオ、去年の約束覚えてる?」
私より速く帰る用意をしたらしい治子が、机に本を置きながら聞いてくる。
治子の愛読書の一つだ。
「約束……?もしかして、お呪いを教えてくれるってやつ?」
しばし考えた末に私が答えると、治子は嬉しそうに大きく頷く。
確か決まった日にしかできないお呪いだとか言っていたよなーと思いつつ黒板に書かれた日付を見る。
6月13日。治子が言っている年に1回の日が今日なのだろうか。
覚えてはいたが約束だとは認識していなかった。
治子の様子を見るに、教えたくて仕方がないといった様子である。
「覚えててくれて嬉しいよ。」
上機嫌な治子は私の隣の席に座り、鞄を漁り出す。
中学の頃から使い続けている見慣れたスクールバックの中には、文庫本がぎゅうぎゅうに詰まっている。
本以外のものはどこに入っているのだろうか。
そんなことを考えている間に、治子は鞄の奥からベンポーチとティッシュ箱を取り出した。
治子は押しのけた本を整頓し直すと満足そうに息をついた。
「なんでティッシュ箱?それ持ち運び用じゃないでしょ。」
「んー、ポケットティッシュじゃ小さいかなと思って。」
帰る準備を終えた私が隣に座ると、治子は一度立って机をくっつける。
いつの間にかクラスの全員が既に帰ってしまっていて、教室の中には私達2人だけだ。
「じゃあやろっか!私考案の最強のお呪いを!」
大きく手を挙げて誇らしげに言った治子はペンケースから油性ペンを2本と輪ゴムを取り出す。
そのうちの1本とティッシュ1枚を私の机の上に置いた。
「そのティッシュに自分の嫌いな所を書いて。“○○な私”って感じで。」
治子は嬉々とした様子で自分の前に置いたティッシュにペンを走らせる。
何を書いているのか見ようと顔を近づけると、「駄目!」と言って隠してしまった。
「私なんて気にしないで、ナオも書けば?」
「治子は、治子が嫌いなの?」
迷いなく書き始める治子が少し不思議に思えて聞いてみる。
私が問いかけると、治子は少し考えた後「ナオは?」と逆に聞いてきた。
「勿論、嫌いじゃないよ。」
「ナオはそうでなくちゃね。私もナオのこと大好きだよ!」
私の解を聞いた治子はうんうんと数回頷いて笑った。
いつもと変わらない見慣れた笑顔なのに、薄く開いた瞼の隙間から見える目は少し寂しそうに見える。
治子はたまにこんな風に笑う。
こんな風に笑う時は、決まって私に「大好きだよ」と言う。
毎回私にはその表情の意味もその言葉の意味も分からずに、かといって言及することはできずにいる。
「……ありがと。私も治子が大好きだよ。」
どうすればいいか分からずにただ、毎回そう返している。
「嫌いなところが思いつかなくても、直したいところとかあるでしょ?それでいいんだよ。」
私がそう返すと治子はいつも無理やり話を戻す。
何事もなかったようにいつも通りの笑顔を浮かべていて、黒目の曇りなんて微塵も見えない。
そうなるとどうしようもなく、私も忘れたふりをして話を戻す。
自分の直したいところ、と考えると先刻とは打って変わって沢山思いつく。
菌が入るかもしれないとわかっていても、ついつい目を擦ってしまうところ。
歴史の授業で眠くなってしまうところ。
だらだらと何時間もスマホを見てしまうところ。
こんな細々とした不満は誰でも持っているのではないだろうか。
私もこの程度の不満ならいくらでも出てくるが、今治子が求めているのはこんなものではない気がする。
もっと壮大で抽象的な、人間性そのものに関することを言っている。
長年の付き合いが呼ぶ勘と、自分の分を書き終えてこちらを見ている治子の瞳の輝きがそう告げてきた。
「見ないでっていった癖に治子は見るんだ?」
ペンの蓋を開ける。
油性マジック特有の匂いと治子の視線を感じながら、ティッシュが破れないように優しく文字を書く。
直したいところを書いた後、治子の指示通りにすべきかと思い、最後に『私』と付け足す。
「ふーん。『人見知りな私』かぁ。ナオのこと人見知りだなんて思ったことないけどな。」
「治子には人見知りなんてしないもん。」
私の書いた文字を治子が意外そうに読み上げる。
人見知りなところ、それが私にとっての最大のコンプレックスだった。
治子と出会った時のようなまだ幼かった頃はなんともなかった。
けれど歳を重ねるにつれて自分を表現することの難しさや初対面の人への警戒心、それから緊張感に支配され、今のようになったのだと思う。
全く話せないわけではないのだが、まだ親しくないクラスメイトに話しかけられると焦ってしまい、当たり障りのない短い言葉を言うだけになってしまうのだ。
改善する方法なんて検討もつかないのだから、お呪いに縋りたくもなる。
「今更だもんね、それもそっか。書けたら次は――」
話しながら治子は自分のティッシュをくしゃっと丸める。
もう一枚ティッシュを取って、丸くなったティッシュを包んだ。
ふんわりと広がったティッシュの口を輪ゴムで留めると、得意そうに私に見せてきた。
「……てるてる坊主?」
「ご名答!」
出来上がったそれは小さい頃作った思い出のあるてるてる坊主だった。
治子は油性ペンのキャップを開け、慣れた手つきでてるてる坊主に顔を描いていく。
ぐるぐると塗りつぶした円らな瞳、口角の上がった口。
小さな眉毛とぱっつんに切った前髪、それからストレートの後ろ髪も描いている。
可愛らしくデフォルメされた風貌だが、治子の特徴をよく捉えている。
「上手いね、治子そっくり。」
真似をしててるてる坊主を作りながら言うと、治子は得意げに笑った。
「でしょ。ナオも自分の顔描くんだよ。」
「えー難しいよ。自分の顔じゃないと駄目なの?」
作り終えたてるてる坊主を机に置き、ペンを手に取りながら聞く。
治子はニヤリと笑って「駄目。」と答えた。
私に絵心がないことは知っているだろうに。
治子が考えたお呪いだから、何かこだわりがあるのだろう。
「下手でも似てなくてもいいから頑張って描いて。大事なのは頑張りなのだよ!」
すっかり高みの見物を決め込んでいる治子を無視して顔を描くことに集中する。
私のてるてる坊主なら、治子のより目は少し小さく、眉は細長くする。
口はどう描けばいいのかわからなくて、治子とほとんど同じになってしまった。
不自然じゃないように散らした前髪をギザギザと描き、後ろで結んだポニーテールを描いたら完成だ。
「おっナオに似てる〜!上手いね。」
ひょいと私からてるてる坊主を取り上げた治子は、描いたばかりの顔をまじまじと見つめている。
決して上手い絵ではないしちゃんと似ているかも分からないが、治子が満足したなら大丈夫だろう。
治子は2つのてるてる坊主を持ったまま机の上に散乱した道具を片付けると、「じゃ、行こっか。」と席を立つ。
「どこ行くの?お呪いは?」
慌てて席を立ちながら私が聞くと、治子は一際目を細めて笑った。
「お呪いする場所!教室でやるのは下準備だけだよ。」
治子はブレザーのポケットから取り出した自転車の鍵を指先で回しながら踊るように歩き出す。
鍵についている白い兎のキーホルダーが少し可哀想だった。
教室を出て自転車置き場に行くと、治子は乱暴に鞄を籠に入れてすぐに自転車を出した。
「待ってね。」と一言断ってから鞄の中を探る。
スマートフォンを取り出して電源を入れる。
そのまま鞄に戻して代わりに自転車の鍵を取り出した。
鍵からぶら下がっている薄茶色の兎のキーホルダーは、色違いで治子がくれた物だ。
「お待たせ。」
鞄を籠に入れ、自転車を出しながら声をかける。
そう時間がかからないとわかっているはずなのに、治子は本を読みながら待っていた。
「よし、じゃあついて来て!」
鞄を放り込む時よりは幾らか丁寧に本を籠の中に入れると、治子は重そうにペダルを漕ぎ出した。
私もぐっと右足に力を入れて漕ぎ出し、治子の後について行く。
治子は横に並んで欲しいようでいつも振り返って手招きしてくるが、私は首を横に振って一列走行を厳守する。
「ナオって本当に真面目だよねー。」
治子は不満そうに大きな声で言ってくる。
隣に並んだ方があまり大きな声を出さなくても聞こえて話しやすいと私も思うが、道路交通法違反をするわけにはいかない。
車の音にかき消されないような大声で会話をしながらいつもの下校ルートを走ること約10分。
小さいときよく遊んでいた川にかかった橋の真ん中で治子の自転車が停車した。
大きな道路からはかなり離れていて、ほとんど車も人も通らない小さな橋。
通行人は通らないだろうが、一応ギリギリまで端に寄せて自転車を駐める。
「夏休み毎年ここで遊んだよねー。懐かしい。」
「お呪い、ここでするの?」
欄干に腕を乗せて水面を眺めている治子に聞く。
治子はブレザーのポケットから2つのてるてる坊主を取り出すと私の手を掴んで、私が作った方をを握らせてきた。
そのまま私の腕を引っ張って、手を離すとてるてる坊主が水に落ちてしまうところまで持ってきた。
「このてるてる坊主を川に落として欠点を捨てちゃう!それがお呪い。」
「ポイ捨てじゃない?」
「当てるてる坊主は環境に優しい素材を使用しております。」
治子は言いながら手を伸ばし、私のにくっつきそうなほどてるてる坊主を近づける。
川に半分沈んだ夕日をバックに2つ並んでいるてるてる坊主はどちらも感情の読めない顔で笑っていて、なんとも言えない可愛さがあった。
空いている手でスマホを取り出して、その姿を写真に収める。
「なんで撮ったの?」
「なんかエモいなって思って。ストーリーあげていい?」
「いいけど……。」
SNSの類を殆どやっていない治子は不思議そうにしながらも了承してくれた。
メッセージアプリはやっているが、以前連絡先を見せてもらうと両親と私の名前しか登録されていなかった。
アップするのは後にしてスマホをしまう。
てるてる坊主を眺めていると、治子がこつんと自分のてるてる坊主の頭を私のにぶつけてくる。
「去年までは1人でやってたんだけどねー、2人だと心中みたいで素敵。」
「心中?」
「色んな意味があるけど……私が言いたいのは愛してる人と一緒に自殺すること。」
夕日が反射した目をきゅっと細め、治子は愛おしいものを見るように2つのてるてる坊主を見つめている。
聞き慣れない言葉に私が首を傾げると、治子は慣れたようにスラスラと答えた。
「自殺!?物騒なこと言わないでよ。お呪いでしょー、誰も死なないじゃん。」
「…………そうだね。」
しばしの沈黙の後、治子は私を見てにこりと笑った。
口角はぐっと上がっていて、目は完全に閉じている最大の笑顔だけれど、あまり嬉しそうには見えなかった。
「じゃあ、せーので手を離そう。」
私が頷くと治子は弾んだ声で「せーのっ!」と叫ぶ。
治子と同時に手を離すとてるてる坊主はゆっくりと落ちていく。
風でティッシュがふわりと広がって、綺麗な2つの円を作った。
殆ど同時に着水すると、溶けるように沈んでいって見えなくなった。
3分くらい、そのまま揺れる水面を眺めていた。
欄干に置いていた私の手に治子が無言で手を重ねてくる。
ちらっと治子の横顔を盗み見ると、てるてる坊主を見ている時と同じ目で重なった手を見つめていた。
あの日はそのまま寄り道せずに、帰宅した。
治子は別れるまでずっと無言で嬉しそうに笑っていて、私も話かけられずに無言で帰宅した。
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