8年前、6月19日 君が贈った物語

 何かあったのではないかと本格的に心配になり、私はとうとう治子の家を訪ねた。

 時刻はまだ朝の9時で迷惑かもしれないとも思ったが、5日待った私はもう待てなかった。

 インターフォンを押すとドアが開き、治子の母親が出てくる。

 髪は乱れて目の下には濃い隈があり、酷く疲れた顔をしていた。


「……あら、奈緒美ちゃんこんにちは。どうしたの?」


 治子の母親は私の顔を見ると口角を上げたが、あまり笑っているようには見えなかった。


「こんにちは。治子、ずっと大学にも来てなくて、既読もつかないんですけど、何かあったんですか?」


 治子だけではなく母親も心配になるが、なるべく普通に聞く。

 治子の母親ははっとしたように目を見開いた後、今にも泣き出しそうなほど顔を歪めて――震えている唇を開いた。


「奈緒美ちゃん、あのね、治子は――――」


 その言葉を聞いた途端、頭が真っ白になった。

 家に入れてもらい何か話をしたはずだが、ほとんど覚えていない。

 無意識に涙が溢れてきて、止まらなくなって、声を上げて泣いていたことだけは覚えている。

 治子の母親も泣き出して、2人で一緒に涙が枯れるまで泣いていた。


 あの日、6月13日、私の1番大切な人はいなくなってしまった。

 そして今日、私の生きている世界から消えてしまった。


 確かに治子はふらっといなくなってしまいそうな不思議な子だった。

 けどいざそうなると現実味はなくて、治子からメッセージが来ているのではないかと何度もアプリを開いてしまう。

 


 家に帰っても他のことをする気になれなくて、自室でぼーっとしていた。

 すっかり日は傾きカーテン隙間からオレンジ色の光が入ってくるが、昼食も夕食も摂る気になれない。

 心に穴が空くってこういうことかな、などと思っているとコンコンとお母さんが扉をノックする。

 そのまま扉が開いて、郵便物を持ったお母さんが入ってきた。


「はいこれ、あなた宛よ。」


 私の事を心配してそっとしておいてくれているお母さんは、荷物を渡すとすぐに出て行く。

 片手て楽に持てる、少し厚みのあるそれは、手紙というより本のようだった。

 …………本?

 私に本を送ってくる人物なんて、1人しか思いつかない。

 はやる気持ちを抑えて送り主を確認すると、整った文字で“中谷治子”と書いてあった。


 その文字を見るだけで溢れかける涙を堪えて封をあける。

 中には少し分厚い2冊の本と、手紙と思われる3つ折りの紙が入っていた。

 1冊目はいつか治子が読んでいた谷崎潤一郎の『痴人の愛』。

 2冊目は治子の愛読書のひとつである太宰治の『人間失格』。


 震える手で紙を開くと、可愛らしい便箋ではなく400字詰の原稿用紙だった。

 きっと中学生の時に憧れだけで買っていた高い万年筆で書いたのであろうブルーブラックのインク文字を指でなぞる。



 拝啓 親愛なるナオへ


 この荷物は日時指定でこっそり送りました。

 私のお母さんには秘密にしてね。

 次のクリスマスとナオの誕生日の分の本、もう渡しておくね。


 私、死んじゃった。

 びっくりしたでしょ。ごめんね。


 何で死んだのかって聞かれても決定的な理由はないけど、大人になることが怖かったんだ。

 それに読みたい本も無くなっちゃったから。


 ナオ、私と出会ってくれてありがとう。

 ナオが一緒にいてくれたからここまで生きてこられたんだと思う。

 私にとって読書以外のことは全部苦痛に近くて、正直生きづらかった。

 でもナオのためなら色々なことを頑張れたんだ。

 ナオが一緒なら、何でも楽しかったんだ。


 だけど、ずっとナオと一緒にいることはできないだろうなって思った。

 私にとっての1番はずっとナオだけど、きっとナオには他に大切なものができる。

 同じ学校に通ったように、同じ会社の同じ部署に就職することはできないと思う。

 そうなったら私は生きていけないな。

 だから大人になるのが怖かった。


 だからナオみたいに、ナオ以外の大切な人を、2番目の人を作ろうと思ったの。

 でも、誰と遊んでも全然楽しくなかった。

 ナオじゃないとダメみたいだっだ。

 私が、ナオの1番になりたかった。

 私が何よりもナオを大切に思っているように、ナオに何よりも大切だと思ってもらいたかった。


 重い女でごめんね。

 死んじゃった私のことは忘れて、ナオは自分が生きたいように生きてね。

 だけど、たまにはお墓参りに来てくれたら嬉しいな。

 仕事決まったら教えてね。面白い話があったら聞かせてね。

 彼氏とか連れてきてよ、私がナオに相応しい人か見てあげるから(笑)。

 ナオがたまに使っている(笑)はこの使い方で合っているかな。


 私は最後のお呪いをするね。

 何にもできない私は川に捨てちゃうことにする。


 ナオは絶対素敵な大人になって、長生きしてね。

 100歳まで生きて。応援してるから。

 今まで本当にありがとう。

 世界一大好きだよ。


 敬具 中谷治子



 溢れ続ける涙で原稿用紙を濡らしながら最後まで読み終えた。

 微かに紙とインクと、いつも治子からしていたシャンプーの香る手紙を抱きしめる。


 死なないでほしかった。私も治子が1番だよ。忘れられるわけないじゃん。

 治子に言いたいことがありすぎて、涙と同じく溢れでる。


 遠慮なんてせずに1番大切な親友だと、大好きだと伝えていれば、治子は死ななかった?

 ずっと一緒にいようって言えばよかった?

 私がもっと沢山本をプレゼントして、治子が読みたいと思える本を見つけてあげればよかった?

 どうすればよかったんだろう。

 どうしたら、大切なものを失わずに済むんだろう。


 顔をあげると、止まらない涙でぼやけた視界に本棚が映った。


 上中下の3段に分かれていて、高さは1メートルほどしかない小さな本棚。

 1番下の棚には参考書や教科書が、真ん中の棚には小さい頃に買ってもらった絵本や、読書感想文用に買った児童書が。

 そして1番上の棚には、治子から送られてきた小説達がしまってある。


 初めて本を一冊貰った時は興味も読む気もなくて、ほぼ新品のまま棚の隅に置かれていた。

 それが歳を重ねるごとに増えていき、少しずつ読むようになっていって、今では本棚の一段を占領している。

 1番端にあるのは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。

 その隣にあるのは太宰治の『走れメロス』。

 さらにその隣は宮沢賢治みやざわけんじの『注文の多い料理店』で、反対側の端は中原中也の『在りし日の歌』。

 作者順でも発売順でもなく、治子から貰った順で並んでいる。

 バラバラな並びで目当ての本を探すのに苦労するが、治子との思い出を辿れて気に入っている。


 最初にくれた『蜘蛛の糸』は治子が気に入っていた本。

 それが読みづらいと伝えると、そこからしばらくは『走れメロス』や『注文の多い料理店』のような子供向けの本の現代語訳版を沢山くれた。

 私が読めるようになってくると『高野聖』や『たけくらべ』、『高瀬舟』、『金色夜叉』、『羅生門』、『三四郎』、『舞姫』等。

 こうして見るとただ好きな本をくれていたわけではなく、ちゃんと私が楽しめるように工夫してくれていたのがわかる。


『在りし日の歌』の隣にあいた小さな隙間に、少し無理をして2冊を入れ込む。

 迷ったけど、濡れてしまった原稿用紙も本棚に押し込んだ。


 代わりに『在りし日の歌』を取り出して、パラパラとめくる。

『春日狂想』のページでめくるのを止めた。

 治子に見守られながら読んだあの時のように、ゆっくりと、一文字一文字をなぞるように読む。


 きっとこの詩は、治子からのメッセージだったんだ。


「解釈は人それぞれだし、本当かどうかは作者にしか分からない。でも私は、ナオの考え好きだなー。。」


 あの時治子は、何に安心したの?

 ほんの少しだけ引っかかっていた言葉の意味が、今ならよく分かった。


 パタンと本を閉じた。

 はあっと、大きく息を吐く。


 ――――本当に君は、ふらっといなくなってしまっただけなんだね。

 それでも、私のことを考えてくれていたんだね。


 詩集を本棚に戻して部屋のドアを開ける。

 何か食べよう。そして今日はもう寝よう。

 だって私は生きなければならない。

 誰よりも健康に、誰よりも長く。

 治子が心配しないように。

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