エピローグ 6月19日の君へ

 詩を読み終えて本を閉じた。

 在りし日の思い出を巡っていた私の頭が、治子のいない今に帰ってくる。

 ぽろぽろと涙が溢れて視界がぼやける。

 もう何年も続けているのに、いまだに涙が出るのは何故だろう。


 ちょっと変わっていて、思考の読めない君のことを勝手にわかったつもりでいるけれど、やっぱり1つだけわからないことがあります。

 教えて。君はどうして、私に何も言ってくれなかったの?

 もし一言でも相談してくれたら、ずっと一緒にいるよって言った。

 大好きだよって言ったのに。

 君と一緒にいるためなら、何でもしたのに。


「――素敵な詩ですね。」


 突然話しかけられて顔をあげると、同い年くらいの女の人が立っていた。

 淡い水色のワンピースを着た、清楚な印象の長い黒髪の女性。

 黒目がちな目を優しく細めて笑っている。


「煩かったですよね?すみません。ありがとうございます。」


 慌てて涙を拭って笑顔を返す。


「とても素敵な詩で、気に入っちゃいました。私も是非購入させていただきたいので、題名をお聞きしてもよろしいですか?」


 女性は私が手にしている本をじっと見つめて聞いてきた。

「それなら……。」と鞄の中からもう一冊同じ本を取り出す。


「こちらを差し上げます。」


「よろしいのですか?それにどうして同じ本を3冊も……?」


 供えてある本と、私の手元にある2冊の本を見比べながら戸惑っている。

 そりゃあ普通は同じ本を何冊も持ち歩かないだろうから、この反応は当然かもしれない。


「この本を書いたの、私なんです。」


「ええ、すごいですね!あんな素敵な詩を書けるなんて!ええと……河合奈緒美先生?」


 私から本を受け取ってまじまじと見つける女性の頬は少し紅潮している。

 なんだか少し照れくさいけど、嬉しい。

 この本は今日出版されたばかりで、先程買ってきたものだ。

 自分の分だけでなく実家に送る分、親戚にあげる分、と毎回沢山買ってしまう。



「『6月19日の君へ』ですか。今日みたいに毎年読みたくなっちゃいますね!私、小説とか詩を読むのが大好きなんです!」


 こちらを見つめてくるキラキラと輝く瞳が記憶の中の治子と重なって、堪えていた涙がまた溢れそうになる。


「――今日、6月19日は、私の親友が死んでしまったことを知った日なんです。13日から連絡が取れなくて、それで……。」


 楽しそうな表情で本の中身を見ていた女性は顔をあげると、悲しそうに眉を下げた。

 治子からの荷物が届いたあの日、私は作家になることを決めた。

 治子の読みたい本が無くならないように、治子の読みたくなる本を書き続ける人になりたいと思った。


「その親友も本が好きだったんです。だから私が作家になって、一生生きたい、私の作品を全部読むまで死ねないなってその子が思うような話を書きたいって思って、作家になったんです。」


 さっきまで楽しそうだった顔がみるみる悲しそうになっていくのを見てハッとする。


「すみません、あなたが親友に似ていたのでつい……。そんなことしてももう意味ないのに、おかしいですよね。」


「おかしくなんかないですよ。」


 あははと私が苦笑いをこぼすと、女性は厳しく眉を寄せた。

「そんなこと言わないでください。」と、子供を叱りつけるように言う。


「私の大切な人も、作家で、5年前の今日に亡くなったんです。私も後追いしようと思ったこともあります。でも彼の残した作品を全部読み終わるまで死んじゃ駄目だとメモが残されていて、私は5年間、死ぬために彼の作品を読んでいました。」


 過去を懐かしむような穏やかな笑顔で語っている。

 私は少しでも治子の話をしようとすると泣き出してしまうのに、この人は強いな。


「先月、やっと全部読み終えたんです。だから今日は、最後に彼のお墓に挨拶をしてから死のうと思っていたんです。」


「そんな!考え直してください!」


 私が思わず大きな声を出すと、彼女は優しく宥めるように笑った。


「『私が2倍の景色を見て、いつか君に会った時に半分こしよう』って、とっても素敵ですね。」


 私の詩の一部を読み上げられ少し恥ずかしいが、「ありがとうございます。」と礼を言う。


「さっきあなたの詩を聞いて、考え直しました。私、色々なところに行こうと思いました。彼が行きたがっていたイギリスとかに行って、いろんなものを見て、いつか死んで彼の元へ行った時に、沢山土産話をしようと思います。私、もうあなたのファンになってしまいました。彼が見たがっていたものを全て見て、あなたが書いた本を全て読むまでは、死ねません。」


 目を閉じてにこやかに笑う目尻に涙が光った。

 今会ったばかりの人なのに、もう絶対に死んでほしくないと思っている。

 死ねないという言葉を聞いて、心底ホッとした。

 治子に似た人を助ける手伝いができたんじゃないかと、少し嬉しくなった。


「なら、私は一生かかっても読み終わらないくらい、沢山作品を書きますね。」


「ありがとうございます、奈緒美先生。私、読み切るのに必死になって読書の楽しさを忘れていたんだと思います。本は私にいろんな感情と言葉をくれる、とても素敵なものだと、先生のお陰で思い出せました。」


 女性は瞳を潤ませて温かい笑顔で本を見つける。


「帰ったらもう一度、彼の本を読み返そうと思います。今度は素敵な言葉を探しながら。」


 女性はにこりと笑うと「そろそろ失礼しますね。ありがとうございました。」と言って深々と頭を下げる。

 私も同じように頭を下げると、女性は彼の墓石があるのであろう方へ歩いて行った。

 私の本を大切そうに抱えながら。


 ――――拝啓 6月19日の君へ


 私が作家になったと知ったら、君は喜んでくれますか?

 私の本を沢山読んで、太宰治や谷崎潤一郎の本と同じくらい、気に入ってくれますか?

 もし君が生まれ変わったら、沢山私の本を読んで育って欲しいです。

 もし君が生まれ変わらずに、私が死ぬのを待っていてくれるのなら、天国で私の本を読んでくれていますか?詩を読む私の声を聞いてくれていますか?


 君がもう2度と不安にならないように、何度でも伝えます。

 君は何もできないんじゃないよ。

 君はなんでもできるよ。

 私は今でも、君が1番大好きです。

 ――――――愛してるよ、治子


 敬具 河合奈緒美

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