8年前、4月26日 春日狂想
「ナーオ!」
「……ごめん、ぼーっとしてた。」
治子にぽんと肩を叩かれてハッとする。
振り返るといつも通りの整った笑顔の治子が、文庫本を片手にこちらを見つめていた。
私服であることと少しメイクをするようになったこと以外は変わらない、いつも通りの治子だ。
「大丈夫?体調が悪いの?」
「ううん、ちょっと考え事してただけだよ。」
私が首を横に振ると治子は小さく息をついた。
「それならよかった。今日は一緒に帰ろう。」
治子はパタンと持っていた本を閉じた。
偶然か必然か、同じ大学に進学した私達は高校1年生の時に戻ったように仲良くしている。
といっても私には別の友達もいて、治子には彼氏がいるから、毎日の登下校を一緒にするわけにはいかないのだが。
私達なりの「ちょうどいい距離感」を見つけたみたいで、良好な関係を築けていると思う。
鞄を開けて本をしまうと、代わりにそれよりは薄い別の本を取り出した。
「はいっナオ、お誕生日おめでとう!」
にっこりと笑って差し出してきた本は、どうやら私への誕生日プレゼントらしい。
今日は4月26日。私の21回目の誕生日である。
「ありがとう。ええっと……『在りし日の歌』?」
ずいと差し出してきた本を礼を言いながら受け取る。
和柄の表紙には筆文字で
中原中也は一度教科書に出てきたが、確か小説家ではなく詩人だったはずだ。
「そう、中原中也の詩集。たまには詩もいいでしょう?」
パラパラとめくってみると本当に詩集。
治子が小説以外を渡してくるのは初めてだ。
「特に私のお気に入りはこれ。」
治子は私から本を取り上げると、目次も見ずにぱっと目的のページを開いた。
そのまま返された本をみると、開かれたページには『春日狂想』という詩が載っていた。
治子はこの場で読んで欲しいのだろうから、ページに目を落として読み始める。
治子は何も言わないが、視線を感じて少し読みにくい。
読み終えて顔を上げると、治子のキラキラと輝く目と目が合った。
「どうだった?」
治子がこてんと首を傾げるとサラサラの黒髪が肩に落ちる。
「うーん、よくはわからなかったけど……前向きな詩かなって思ったかな。」
私の答えを聞くと治子は「ふむふむ。」と大きく頷いて、最初の1行を指差した。
「『愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。』って本当だと思う?」
さっきよりも深く首を傾げた治子がじっと見つめてくる。
濁った真っ黒な瞳は何を考えているのか分からないが、何か正解を求めているような気がする。
多分治子には言って欲しい答えがあって、私がそう言うことを願っているのだ。
――治子が求めている答えはなんだろう。
なんと言えば正解なんだろうか。
もう一度文章をなぞっても、黒い瞳をじっと見ても、そんなこと分からない。
空気を読むのは得意なはずなのに、治子の考えだけはどうしても読めない。
だから治子にだけは、いつも自分の思ったままのことを話していた。
「私は……、本当じゃないと思う。」
「どうして?」
今回も正直に、私が思ったことを口に出す。
治子の反応からは正解だったのか分からなくて、言葉が詰まりそうだ。
「だってこの詩の人は死んでないよね?だから作者も、悲しくても死んじゃだめだよって言いたいんじゃないかなって……思って。」
治子が表情ひとつ変えずに続きを促してくる。
「それに死んだ人だってその人を愛してたはずだよね。それなら死んじゃった人は自分の後追いなんてしてほしくないって思ってると思うから。」
「……なるほどね。」
小さく呟いた治子は、ぱっと本から手を離した。
数回瞬いた黒目がちな瞳は少し潤んでいるように見える。
「解釈は人それぞれだし、本当かどうかは作者にしか分からない。でも私は、ナオの考え好きだなー。安心した。」
治子はくしゃっと顔を歪ませて笑った。
薄く目を細め、左右不均等に口角の上がった口から白い歯がのぞいている。
なんだか懐かしさと安心感を感じるその笑顔に釣られて、私の口角も自然に上がっていく。
――楽しいな。
単純にそう思った。
ありのままでいられて、2人で心から笑い合える瞬間がどうしようもなく楽しくて、愛おしい。
「帰ろう。」
もう一度治子にお礼を言ってから詩集を鞄にしまう。
私が鞄を持つと治子が隣に立ち、右手に指を絡めてくる。
2年離れて、また2年一緒に過ごしてようやく気づいた。
私は治子が1番好きだ。
他に何人友達がいても1番大切な親友は治子で、1番側にいたい友達は治子だった。
一緒にいて1番楽しいのも治子で、それはきっとずっと変わらない。
多分私に彼氏ができても、結婚しても、治子は私にとって1番大切な親友だと思う。
就職して忙しくなっても、時間を作って治子に会いにいくだろう。
治子にとっては彼氏の方が大事でも、私より大切な人が沢山いてもそれでいい。
親友じゃなくて、普通の友達でもいい。
今のような「ちょうどいい距離感」をずっと保つことができたら、それだけでいい。
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