第4話

 目を覚ますと、わたしはベッドに横たわっていた。糊の効いた清潔な綿の布団カバーが顔に触れる。深呼吸すると、薄く消毒の匂いがした。それでここは老人ホームの医務室だと分かった。前にも貧血で具合が悪くなり、休ませてもらったことがあったのだ。


 「あっ、あっ」


 唐突にすぐ側で声がした。最初に目に入った白い天井から、首を横に回す。トレーナーにジーンズ姿の加賀美さんが、涙を溜めた目を見開いて、わたしを見つめていた。私服ということは、勤務時間外なのだろう。どうやらここは医務室のベッドらしい。


「森山さん! よかったあ」


 次の瞬間、加賀美さんは半泣きの顔でわたしに抱きついてきた。わたしは加賀美さんの反応に驚いて、ただされるがままにしていた。加賀美さんはわたしから身体を離して言った。


「貧血だそうです。目覚めたら簡単に検査して問題なかったらもう心配ないって。わたし、びっくりして、死んじゃったらどうしようって」


 死んじゃったら、なんて老人ホーム暮らしの人間に気軽に言っていい言葉ではない気がするが、加賀美さんの口から出るなら、そこには悪意は無いことは分かる。加賀美さんは続ける。


「先輩には、森山さんはひとまず安心だから、帰ってていいよって言われてたんですけど、森山さん倒れたの、きっと私のせいだし。森山さん起きるまで待ってようと思って」


「そうだったの……」


 わたしは加賀美さんに謝ろうとしたけれど、加賀美さんの話は止まらない。


「私、昔っから空気読めないっていつも言われて。言わなくて良いこと言っちゃって嫌われたり。趣味は団地とか廃墟見ることだったんですけど、好きな話し出すと私、止まらなくなっちゃっね、で、嫌な顔されたり。で、頑張って直そうと思って、高校デビューで無理やり性格変えたんです。廃墟好きなこととか趣味とかは何も、自分からは話さないようにして、聞き役に徹して。で、友達は前よりできたんですけど、なんかやっぱり、ほんとの私じゃないと言うか。友達いっぱいいても心が悲しくて。違う気がしてて。でも友達たくさんいればやっぱり、それがいいって、思ってたんですけど」


 加賀美さんの言葉は一息を限界まで使って早口でどんどん流れ出てくる。空気が読めないというより、本当は、心の中に思いが溢れ始めると言葉が止まらないようだった。


「でも、森山さん、いつも一人でも雑誌読んですごい楽しそうだったから。私、それ見て、すごく衝撃で。一人でたのしそうにしてても、良いんだ!って。森山さんすごい素敵って思ったんですよ。無理やり友達作らなくても、一人でも自分が楽しいこと、してたら、いいんだって、私、森山さん見て、思ったんです。だから、いろいろ、話してみたく、て」


 加賀美さんの言葉は、段々とゆっくりになり、途切れ始めた。わたしはひとつも聞き逃さないように注意深く耳を澄ませる。


「で、沢山、話しかけちゃいました。でも、本当は、嫌、でしたよね。ごめん、なさい」


 そこまで言って加賀美さんはずずずと鼻をすすり、目を伏せた。両目から涙の雫がぽろぽろと加賀美さんの膝に落ちて、ジーンズに暗い水玉模様を作った。わたしまで泣きそうになってしまう。


 わたしは、加賀美さんの上辺だけしか見ていなかった。なんて、愚かだったんだろう。加賀美さんはわたしを、本当に理解してくれていただけだったのに。


「ごめんなさい」


 わたしは声を絞り出して、絶対に言わなければいけなかったことを言った。随分遅くなってしまった。確かにもしあの時死んでいて、これを加賀美さんに言えなかったなら、化けて出ることになっていたかもしれない。


「加賀美さんはそのままでいいの。いつも頑張ってる。悪いのはわたしよ。いじけて意固地になってただけ」


 これは、わたしの心からの本心だった。そしてわたしは彼女の気持ちを聞いて、はっと気がついたことがあった。わたしはいつも、誰かに与えられるものをただそのまま受け取っているだけだった。それはあおであり、イラストの小鳥であった。


 わたしの人生に突如現れた、小さな青い小鳥の絵。その小鳥が持ってきてくれたささやかな幸せだ。わたしは自分から幸せを掴むために踏み出しはせず、こちらにきてくれた小鳥を眺めて幸せに浸っているだけだった。だから、こうして、小鳥がばつ印を残して去って行ったのかもしれない。


 加賀美さんはわたしをちゃんと見て、心から話しかけてくれていたのに、わたしは誰からも心を閉ざして、何も気がつかないふりをしていた。


 歳をとる度に何をやるのもどんどん怖くなる。

 おとなしい性格だから仕方ない、と気がつかないふりをしていた。それが積み重なって、今では友達もおらず、ただ一人で小鳥を探すだけが楽しみになっていたのだ。

 八十五年生きてきたわたしの人生は、もう少し続くだろう。あおは、最後にこの蟠りを解決する機会をくれたのかもしれない。それがあおが持ってきてくれた本当の、しあわせだったのだ。


「教えて欲しいのだけれど」


「は、はい」


 怒られるのかと思ったらしい加賀美さんはぎゅっと身体をこわばらせた。加賀美さんの本心が知れた今、その行動の一つ一つがかわいらしく感じてしまった。


「雑誌に書いてあるばつ印は、何?」


「ばっ……ば、ばつ印?」


 加賀美さんは一気に気が抜けたように大きな声でそう言って、きょとんとしている。


「前まで、雑誌とかいろんなところに、たまに、青い小鳥が描いてあったでしょう? それが最近全部、ばつ印になって。あれは何なのかしら」


 加賀美さんはわたしの説明にピンときたらしく、口を大きく開けるとまた一息に大きな声で話した!


「ああ! バツじゃなくてエックスです! 最近ツイッターが変わっちゃったんですよね! ツイッターの人たち、みんな鳥の方が良かったって言ってます!」


「ついったー? えっくす?」


「ツイッターっていうのはSNSです!」


「えすえぬえす?」


「あっ、SNSっていうのは……えーと、ぐぐりますね!」


森山さんはさっとスマホをポケットから取り出して指を滑らせる。


「ぐぐるって何かしら、わたし、質問ばかりね」


 わたしが心底申し訳なくなって目を伏せると、加賀美さんはスマホをベッドに放り出してわたしの両肩をがしっと掴んだ。


「いえ! いいんです! わたしは森山さんと話がしたいんです!」


 わたしは加賀美さんのあまりの声の大きさに笑ってしまった。わたしはそこで気がついたことがあった。


「わたしと加賀美さん、多分すごく似てるんだと思う。私も、人と話すのが苦手で、友達と好きなものの話ができることが殆どなく八十五年も生きてきちゃったわ。夫とは少しは出来たんだけど」


「なんか、それは、わかる気がします」


加賀美さんはこくこくと頷いて言った。


「だから、わたしに、ついったーのことを一つずつ教えてくれる?」


 わたしが言うと、加賀美さんの笑顔が輝いた。何だか今は、とても頼もしく感じる。


「はい! 任せてください!」


 加賀美さんは椅子から立ち上がって、拳を握りながら言った。

 大切な、私のあお。居なくなってしまった時の絶望は深かったけれど、あおは、わたしに大切なこと、わたしが一番必要なことを教えてに来てくれたのだ。

 一時は絶望しそうになった世界にわたしはいる。でも、この世界で、わたしはもう少し前に進めそうな気がした。そんなに後先は長くないだろうけど、もう少しだけ、楽しく生きるのだ。

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ばつ印と青い小鳥 萌木野めい @fussafusa

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