第5話:サムシング・フォー
そうして発声訓練やスピネットの練習、ダンスの踊り方などをエリイから学んでいったマリーは、徐々に美しいレディへと成長していった。
まだ拙いところはあるものの、声は矯正されてきたし、身のこなしもスマートになってきた。
元々王女として教育を受けてきたマリーは飲み込みが早く、もう立派な淑女といって過言はなかった。
「マリー様、お伝えしたいことがございます」
夕食が終わり、祈祷が済むと、エリイはマリーにそう言ってきた。
「どうしたの? あらたまって」
マリーがそう言っても、エリイは居住まいを崩そうとはしない。固く結ばれたエリイの口元を見て、マリーはただ事ではないと感じた。
「……革命委員会の方から、昨日通達がありました。マリー様は、この塔をお離れして、王妃様の故国へと引き取られるのだと。そこで、マリー様は王太子様とご結婚なさるのだと」
「……!」
驚きのあまり、マリーは絶句する。
元々王妃であった母は、長い戦争終結のため同盟の証としてこの国に嫁いできたというのは聞いたことがある。
嫁いでからは一度も故国へ帰ることは出来なかったが、母は自分の故国のことを美しい国だと話してくれた。
しかし、話に聞いただけでマリーはその国の本当の姿など全く知らない。それなのにその国に引き取られ、顔も知らない王太子と結婚するだと!?
「嫌……」
「マリー様?」
「嫌! どこともしれない国に行って、知らない人と結婚させられるのだなんて、そんなの嫌!」
「……マリー様、それではこの塔にずっといなければいけませんよ。お辛いでしょうが、今の共和国にマリー様はいられません。幸いに王太子様はとても堅実で誠実な方だと伺って――」
「嫌! 嫌! あたしはこの国で生きて、この国の王女として死にます! お父様、お母様達が眠ってらっしゃる寺院であたしも一緒に骨を埋めます!」
「マリー様!!」
エリイが珍しく大声を出したので、マリーはびくっと肩を震わせた。
「……マリー様、サムシング・フォーをご存じでしょうか?」
「さ、さむ?」
「私の国の歌で、花嫁の祝福を祝う詩で、四つの贈り物を歌うのです」
すう、とエリイは息を吸うと、美しい声でその歌を歌い始める
――なにかひとつ古いもの
――なにかひとつ新しいもの
――なにかひとつ借りたもの
――なにかひとつ青いもの
――そして靴の中に、6ペンス銀貨を
「なにかひとつ古いもの、はサムシング・オールドと言って、家族の絆や伝統を象徴します。それはこの
す、とエリイはマリーの手にロザリオを乗せる。所々くすんで大分古いロザリオは、たしかに家族の絆の象徴に相応しい。
「なにかひとつ新しいもの、は、サムシング・ニューといい、未来への希望を表します。これは新しい白いものが良いとされ、仕立てた真っ白な手袋を差し上げます」
仕立屋の真新しい箱に入っていたのは、確かに作られたばかりの白い手袋だった。側面にマリーのイニシャル「M」が刺繍されている。
「なにかひとつ借りたもの、サムシング・ボローは、僭越ながら私のモスリンのスカーフを差し上げます」
エリイのラベンダー色の上質なモスリンのスカーフは、マリーが撫でると驚くほど滑らかだった。
「なにかひとつ青いもの、は、サムシング・ブルー、清らかで汚れのない聖なる青。これは、このブルーダイヤのブローチです」
エリイの手に乗ったブルーダイヤは、光を受けてかすかに光る。マリーはおずおずと受け取り、たしかにその宝石が淡く青く光るのを確かめたのだった。
マリーは知らないが、このブルーダイヤは、彼女の母である王妃の宝物で、最後の瞬間までつけていたものだ。
ブルーダイヤの宝石言葉は、「永遠の幸せ」である。
「……でも、最後の6ペンス銀貨は、どうして靴に入れるの?」
「それは、6ペンスは幸運を意味し、父親が娘の結婚の幸せを込められていると言われるんです。左靴の中に入れると結婚生活が上手くいくそうですよ」
エリイは懐から6ペンス銀貨を取り出した。この国では貴重な銀貨を、マリーの手にそっと乗せる。
エリイからの四つの贈り物と、6ペンス銀貨。マリーは確かに受け取って胸に強く抱く。
「エリイは、あたしが母の国に行っても幸せになれるって思う?」
「ええもちろん! 少なくともこんな狭い塔より確実にいい暮らしができますわ」
エリイの屈託ない笑顔に、マリーは表情筋を動かして笑って見せた。
この国を離れて新天地でやっていくことに不安がないわけじゃない。
でも、エリイがいたから。エリイがあたしの声を治してくれて、こうしてお祝いの品まで用意してくれた。
ならば、あたしはエリイの友人として、それに応えないと。
「ありがとう。エリイ。貴女は素晴らしい友人だわ」
「滅相もない。私はマリー様の侍女でただの家庭教師ですわ」
「なら、あたしが命じます。マダム・エリザベス。今日だけはあたしと友人としてワルツを踊りなさい」
ぴし、と、王女に相応しい声音で、マリーはエリイに命ずる。
そのときの言葉には、初めて会ったときのようなどもりも、きしむドアのような声もなく、ただ、高貴なものだけが発せられる強さがあった。
「ウイ、マドモワゼル」
エリイは優雅にお辞儀し、マリーの手を取って二人でワルツのステップを踏む。
くすくす、くすくすと鳥がさえずるように笑いながら、二人の女性は夜が明けるまで踊り明かしたのだった。
※
※
※
そしてそれから一ヶ月後、マリーは母親の故国へと送られようとしていた。
塔から出され、身なりを綺麗に整えられたマリーは、馬車に乗る前に、塔から一緒に来てくれたエリイとお別れの抱擁を交わしたのだった。
「ありがとう。エリイ。あなたがいてくれたおかげで、あたしは希望を見つけられた」
「こちらこそ、マリー様と一緒に過ごした時間はとても楽しかったです。もし悲しいことがあったら、夜空を見上げてください。そこに
マリーは笑いながら静かに泣いた。
きっとあたしはもうこの国には帰れない。エリイとも二度と会えない。
でもあたしはもう貰ったから。サムシング・フォー。そして左の靴には6ペンス銀貨。
「どんな試練が待ち構えていようとも、くじけそうになったらエリイという希望の星を思い出すわ」
「そうです。どんなときも希望を忘れてはいけませんよ。神は皆を愛してくれてます。決して一人ではないです」
そろそろ時間です。と侍従の男がマリーに言う。マリーは名残惜しそうにエリイから身体を離し、馬車へと乗る。
マリーと召使い達が乗ると、御者が馬を叩き馬車を発進させる。
「オールヴォワール! マドモワゼル!」
「オールヴォワール! マダム・エリザベス!」
エリイは馬車が見えなくなるまで手を振り、馬車の中のマリーもずっと窓から手を振っていた。
「
マリーは美しい並木道に向かっても手を振った。
そして母親の故国へと渡り、王太子に嫁ぎ王太子妃となったマリーことマリアは、エリイと文通を繰り返し、修道院を訪れ祈りを捧げ、慈善活動にも精力だったことから、民衆から「聖母マリア」として崇められ、慈愛の女王として生涯を閉じたのだった。
(了)
とある姫君の発声訓練 八十科ホズミ @hozunomiya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます