彼女の名はジョセフィーヌ

西順

彼女の名はジョセフィーヌ

「あ! ぺ太郎.chじゃん!」


 僕が休み時間にイヌの動画を観ていたら、いきなり後ろから声を掛けられ、振り返れば学校一の美少女、いや、女神と呼んでも差し支えない球磨さんが立っていた。


「猿島くん、イヌ好きなの?」


「え? あ、うん。まあ、好きかな」


 グイグイ来る球磨さんに、思わず視線を逸らしながら答える。


「良いよね、ぺ太郎.ch」


 眩しい笑顔とはこの事か。僕は目を細めて満面の笑みの彼女の意見に賛同するしかなかった。


 イヌは良い。あのもふもふは見ているだけで癒される。ぺ太郎.chは最近イヌ好きの間で人気急上昇中の動画チャンネルで、イヌ好きの僕は当然チェックしている。動画に出てくるぺ太郎は黒柴のオスで、ふわふわもふもふな体躯と、ちょっと間抜けなその性格が人気を博している。良いよね、自らの尻尾を追い掛けるイヌとか。


 そんな訳で僕は図らずもクラスのアイドル球磨さんとイヌの話題で盛り上がった訳だが、


「猿島くんはイヌ飼っているの?」


「いやあ、僕の家は無理かなあ」


 目を逸らす僕。


「ああ。あれ、ご家族にアレルギー持ちがいるとか? それ系?」


「う、うん。まあ、そう……かなあ」


 目だけでなく話も逸らす僕。僕の家でイヌを飼わない理由は、家族ではなく、僕に理由があるからだ。


 僕は『絶対にイヌに噛まれる体質』だ。絶対である。99%ではない。絶対、100%だ。僕はイヌが大好きなのだが、ペットショップだろうと、譲渡会だろうと、散歩中のイヌだろうと、イヌは僕を見るなり一目散に僕を目指して突撃してきて、噛み付くのだ。僕は前世でイヌ殺しの大罪でも犯したのだろうか。なので僕はイヌを飼わないし、現実のイヌに出会ったら、180度反転して速攻で逃げる。


「そっかあ、イヌ好きなのに、それは辛いねえ」


 球磨さんに誤解させたままなのも辛いが、このまま誤解していて貰おう。


「そうだ! 今度、私の家のイヌと遊ぶ?」


「……………………え?」


 球磨さんは目をキラキラさせている。


「…………いやあ、悪いよ」


 自然と声が小さくなってしまった。


「そんなあ、同じイヌ好き仲間じゃない。水臭い事言わないでよ」


「いや、でも、ほら、ねえ? 年頃の男女が、二人だけで会うとか、色々、不味いじゃないですか」


「大丈夫だよ。外でイヌの散歩するだけだもん」


 こう言っては何だけど、球磨さんの声が大きくて、クラス中の視線がこちらに向いている。特に男子たちの視線が痛い。これは、断っても断らなくても後々男子たちから裏で色々言われるやつや。


「じゃあ、今度の日曜日ね!」


「え?」


 僕が周囲の視線を気にしていた間に、球磨さんとイヌの散歩をする事が決まってしまっていた。


 ◯ ◯ ◯ ◯ ◯


 日曜日━━。


 朝も早くから公園にはイヌがたむろしている。そのもふもふを双眼鏡で覗く僕。完全に変質者だな。


「いないな」


 たむろする10匹程のイヌの集団の中に球磨さんの姿は無かった。帰るなら今のうちだ。都合が悪くなったとでも連絡して、逃げたい。


「何しているの?」


「うっわあ!?」


 後ろから声を掛けられ、ビックリして振り返れば、小さなイヌを抱えた球磨さんが立っていた。この人、後ろからしか声を掛けられないのだろうか?


「公園の中で待っていれば良かったのに」


「いやあ、公園の中はちょっと……」


 だってイヌの集団がたむろしているし。


「その子が球磨さんのイヌ?」


 羨ましくも球磨さんに抱きかかえられている白いロングコートチワワ。球磨さんはそのイヌに頬ずりしながら答える。


「そうよ。ジョセフィーヌって言うの」


「へ、へえ。良い名前だね」


 ぶっちゃけ名前はどうでも良い。今すぐ逃げ出したい。だってこのイヌ、歯を剥き出しにしてこちらを威嚇しているもの。


「触ってみて」


「ええ!!? 嫌だよ!」


 思わず本音が口を出てしまった。球磨さんもビックリしている。


「ごめん。僕、『絶対イヌに噛まれる体質』なんだ」


「ふふ。何それ? うちのジョセちゃんは噛まないよ」


 いや、思いっ切り歯を剥き出しにしていますが。


「ほら? 念願のイヌだよ。触ってみなよ」


 目をキラキラさせている球磨さんは、僕の方にジョセフィーヌちゃんを押し付けてくる。うう。ええいままよ! ここで逃げたら男じゃないだろ! 僕はジョセフィーヌちゃんの頭を撫でようと右手を伸ばした。


 ガブッ!


 だよねえ!


「いってええええええええええ!!!!」


 僕は思わず大声で叫んでしまった。それが何をもたらすか分かっていたのに。声に反応して、公園でたむろしていたイヌの集団が僕を視認した。ヤバい!


 僕は球磨さんをその場に置き去りにして逃げ出した。右手をジョセフィーヌちゃんに噛まれたまま。


 走る。走る。走る。全速力だ。イヌは小型でも時速20キロ、大型ともなれば時速40キロも出る。最速のグレイハウンドともなると70キロを超える。それに対してヒトは時速16キロ程、マラソン選手で20キロ。オリンピックの100メートル走の選手で40キロ超えだ。頑張れ僕!


 走る。走る。走る。振り返れば、イヌは増えていた。10が20に、20が40に、40が80に。指数関数的にどんどんと増えていく僕を追い掛けるイヌの集団。


「何で? 何で何で!?」


 訳も分からずそれでも走り続け、前方に見えるは今日行われているマラソン大会。係員の制止を無視してその中に混じるも、イヌの追跡は収まらず、更にイヌは増加していく。


 僕はそれでも逃げ続け、マラソン大会を置き去りにして走り抜けると、その先でやっていたのはロードバイクの大会。そんなロードバイクたちを置き去りにして、走り続けるも、振り返ればイヌたちは必死の形相で僕を追っている。そしてまだ増えている。


 僕は更に走り続け、前方を走るバイクを超え、車を超え、飛行機を超え、それでも追い掛けてくるイヌたちから逃げ続け、海を超え、山を超え、走って走って走り続けて、ついには成層圏を超えて宇宙にまで逃げてきたと言うのに、イヌたちはそれでも僕を追ってくる。振り返れば地球上にいる全てのイヌが僕の後を追っていた。


 何でだ? 何でだ? 月を超えれば月のイヌまでも追い掛けてきて、火星のイヌに木星のイヌ、土星のイヌ、天王星のイヌに海王星のイヌ、最早太陽系に僕の居場所は無く、そこから逃げ出しても太陽系のイヌは追ってくるし、天の川銀河中を逃げ回ったせいで、更に各太陽系のイヌに追いかけ回される始末。


 天の川銀河を抜け出せば、天の川銀河のイヌが追い掛けてきて、更にアンドロメダ銀河のイヌや他の銀河のイヌ、そこから逃げ出せば銀河群のイヌや銀河団のイヌ、更には超銀河団のイヌまでが僕を追ってくる。


 逃げて逃げて宇宙の果てを飛び越えれば、今度は宇宙のイヌに、別次元の宇宙のイヌまでが追ってくる。


 ああ、僕の安息の地はどこにあるんだ?


「やめなさい! ジョセフィーヌ!」


 そこに天上から声が響いた。するとどうだろう。あれ程狂暴に僕を追い掛けてきていたイヌたちが、一斉に僕を追い掛けるのをやめたではないか。そして僕の右手から離れるジョセフィーヌちゃん。振り返ればそこには球磨さんが立っていた。そしてジョセフィーヌちゃんを叱っている。


「ヒトを噛んだら駄目でしょう」


 目と目でアイコンタクトを取りながら、優しくジョセフィーヌちゃんを諭す球磨さん。これによって、ジョセフィーヌちゃんも他のイヌたちも静まり返る。


「さあ、みんなも飼い主さんの所に戻りなさい」


 球磨さんがそう命令すれば、全てのイヌたちはこれに従い、スゴスゴと元いた場所へと帰っていったのだった。


「ごめんなさい、猿島くん。まさかこんな事になるなんて」


 ジョセフィーヌちゃんを抱きかかえながら、僕に頭を下げる球磨さん。いやいや、そんな事よりも、


「球磨さんって何者?」


「え? 女神だけど?」


 そんな当然のように言われても。


「猿島くんこそ、ヒトなのに良くここまでこれたよね」


 ここ? 球磨さんに言われて周囲を見渡せば、心奪われるようなとても美しい花畑にいた。


「どこ? ここ?」


「神界よ」


 どうやら僕はイヌから逃げ続けているうちに、神様の世界まで来てしまったようだ。それでもここにもイヌがいる以上、僕の安息の地ではないけれど。


「とんだ散歩になっちゃったね。帰ろうか、猿島くん」


 と球磨さんに手を握られ、僕は一瞬のうちに元の公園に戻ってきたのだった。はあ、現実のイヌはもうこりごりだ。

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