氷に鏤め水に描く
十二月二十日。
表向きの締切日ギリギリに再提出された、
『将来の夢 赤西 鈴璃』
タイトルは前回、提出されたものと変わらない。内容もほとんど同じだ。しかし何も変わらないのかと言えばそれは違う。器用にも文章量を調整して作られた空きスペースに、筆文字で大きく『自由』と書かれているのだ。
おっかなびっくり、それでも勇気をもって振るったであろう筆の、その意図は推し量る以外にない。訊くことくらいは許されるだろうが、南風原にはそうするつもりもなかった。
結局、鈴璃は推薦希望を撤回した。目指すのは彼女の成績から見ても難度が高いが無茶無謀と断じるものでもない。あと数日で始まる冬休みでどこまで伸びるか、徹底して対策できるかにかかっている。
教室での彼女の振る舞いには笑顔が増え、千桜との関係も多少のぎこちなさは残るが回復したという。親子関係のほうは時間がかかるかもしれない。あるいは、もはや修復不可能なまでに傷が入った可能性もある。しかし、どうであれ鈴璃が自ら望んで勝ち取った結果だ。教員として助けを求められるまでは静観だろう。
「……南風原先生?」
斜向かいからの呼びかけに顔を上げると、真里が赤いサインペンを走らせていた。
「……なんでしょうか?」
「……つかぬことをお聞きしますが」
「クリスマスなら午前中は文学部の連中と映画ですね。報酬代わりにせがまれたので拒否しようがありません。その後は受験絡みの書類仕事です。
「……ですかあ……」
はぁぁぁ、とわざとらしいくらいに情けないため息があった。隣席の年輩教師がマグカップを片手に席を立ち、南風原は時計に目をやる。
「で、これから俺は部活です」
「……いってらっしゃいませ」
南風原は一番下の抽斗の鍵を開け、鈴璃の原稿を丁寧にしまった。名簿によれば未提出者が二名。今日のうちに催促の連絡を入れなければならない。抽斗の中のボイスレコーダーを確認し、また封印する。
「えっと、それじゃ」
南風原はジャケットに袖を通して言った。
「持ち帰りの仕事の後ならお付き合いしますよ」
「――えっ!? なにが!?」
真里が訊く間にも彼は職員室の出入り口に向かっていて、
「何がですかー!?」
問いかけは背中に投げられた。
部室棟につながる渡り廊下に差し掛かり、南風原は入り口の黒板を見る。
『文学部 | 理科室:本日二学期最終日! (乱入歓迎)』
なんだそりゃ、と南風原は内心に笑った。なぜ文学部が理科室なのかと期待を胸に理科室へ急いだ。三階から四階へと上がったところで声がした。
「ひぃやぁぁぁぁぁぁ!?」
という、あまり聞き慣れない悲鳴だった。南風原は思わず駆け出し扉を開く。
「どうした!? 大丈夫か!?」
しゅばっと振り向く文学部の三人娘。理科室は
「あー……なにやってんだ?」
「これはこれは、トモキンよ、推理実験室にようこそ」
「推理実験室?」
訊ねると、ホノミンがケホコホと咳をしながら言った。
「アマネル先輩が? ミステリに出てきたトリックが本当にできるかたしかめたいって?」
「ちょっ、違うだろ!? たしかめたいとは言ったけどやろうって言ったのはホノミンじゃん!」
「まあ良いではないか。こうして見事、実験は失敗したのだし」
と、二人を宥めるようにブチョーが言うと、
「よかないよ!」「よくないです!?」
アマネルとホノミンが声を揃えた。
そして。
「で、ブチョー」
当該のミステリを読み直すアマネルとホノミンを眺めつつ、南風原は訊ねた。
「……なんでございやしょう」
「なんだその喋り方」
「へへ、旦那、ショーなら来ていやせんぜ」
「だから何だその喋り方は」
「古い翻訳本ですな。御覧になられるか?」
言って、差し出されたのは一部で大層有名と聞くホラー小説だった。
「……やめとく。今ちょっと余裕ないんだ」
「残念。読んでいるだけでなにやらこう、世界の真実に気づけそうですのに」
フフフと笑って眼鏡を押し上げ、ブチョーは呟くように言った。
「……ショーなら大丈夫でショー」
「怒るぞ?」
「いえ本当に。映画には来ると言わせましたので。それと友だち作ろう計画のためのプレゼンを依頼しましたぞ。どうせなら真剣に悩んだほうが良いというものですよ」
「……助かる」
「いえいえ。日頃よりお世話になっておりますゆえ」
あのあと、ショーは厳重注意を与えられ、一週間の記録に残らない登校謹慎になった。言い換えれば、部活動への参加停止処分であり、それも解けてからは不定期に参加している。いつかは硬さも抜けるとは思うが、映画の観覧がその機会になればと願う他に、できることはなかった。
まったく、最後の最後で色々あったと、南風原はぼんやり思考する。文学部の顧問をしていなければこんなことにはなっていなかったと思う反面、顧問でなければもっと酷い結末を迎えた気もする。いずれにしても、
「……色々あって遅くなったけど、ありがとう」
一連の事件の礼を言わねばならないし、一つだけ不明な事柄があった。
「言ったでしょう。日頃お世話になっておりますゆえ、礼など――」
「それ」
「は?」
南風原は眉間に皺を寄せ、ブチョーの丸眼鏡の奥を覗いた。
「生田先生に聞いてから考えてたんだけど、大恩ってなんのことなんだ?」
「…………フハッ!」
長い沈黙の後に吹き出すように笑って、ブチョーは部員の新たな実験を見やる。
「まさに大恩は報せずですなあ」
「……ん?」
「大きな恩は施した本人も忘れてるものだから報いることもできぬという――」
「報ぜずじゃなかったか?」
「似たようなものでしょう。――当時たった一人の一年生だった少女にとって、忘れがたいほど嬉しかったということですよ」
言って、ブチョーは勢いをつけて立ち上がり、部員たちの元に戻った。
南風原はひとしきり考えたものの、やはり何もそれらしい事柄を思い出せず、新たな煙が昇る前に手隙の理科教員を呼んでくるよう提案した。
互いに六ツ見し日頃の怨 λμ @ramdomyu
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