ビジネスホテル
西しまこ
ビジネスホテル
そのホテルには仕事で泊まった。
地方の駅前の、何の変哲もない、古びたビジネスホテル。水曜日に泊まって商談を済ませ、木曜日の夜には帰るつもりでいた。でも、商談が長引き、思いの外疲弊した。次の日の金曜日は有休にしてあった。妻に相談したら、「もう一泊したら? そんなに疲れているのなら。金曜日、お休みなんでしょう? こちらは大丈夫だから」と言われたので、もう一泊することにした。
同じホテルに行き、本日も宿泊したい旨を述べると、水曜日に宿泊した部屋と同じ部屋を案内された。不思議だ。609号室。何となく愛着を感じてしまう。
シャワーを浴びて、ぼんやりテレビを見てから、眠る。明日早起きする必要もない。チェックアウトまでに起きればいいだけだ。そうして、新幹線に乗って家に帰る。それだけ。妻と娘の顔を思い浮かべる。
こんなに狭い部屋なのに、私はこの部屋がとても気に入ってしまった。理由は分からない。なんてことはないビジネスホテルの一室。しかも、古くてお世辞にも洗練されているとは言えない。壁紙にはうっすらと消えない染みがあり、細かな汚れもある。風呂の水は、なかなか排出しなかった。配管が詰まっていそうな感じだった。
だけど、何故だろう。ずっとここにいたくなってしまった。
延泊するようフロントに連絡をして、掃除不要の札をして、ベッドに潜り込む。ベッドから出ることが出来ない。白いシーツの中に入り、微睡む。何だろう。この離れがたさは。
夢を見た。
夢の中で私は女を待っていた。美しい女。心から愛した女。
しかし、女は来ない。約束の時間を約束の日を越えても、女は来ない。必ず行くと約束したのに。私は部屋で女を待っていた。ただただ待っていた。女が来ない。
すると、電話がかかってきた。女からだ。私は飛びつくように電話に出る。今、どこにいるんだ? 迷っているのかい? 迎えに行くよ。女は冷えた声で、行けなくなったという。どうして? 必ず行くわと言ったじゃないか。女には夫がいた。でも夫とは別れて私を選ぶと言ったはずだ。私と一緒に生きていくと、そう言っていたじゃないか。夫を捨てられないのと言う。どうしてどうしてどうして。じゃあ私を捨てると言うのか! 私は女の名前を呼んだ。「――‼」
気づいたら、携帯電話が振動していた。電話だ。妻からだ。あれ? 女から? どちらが夢でどちらが現実なんだ? 「どうして帰ってこないの? 心配しているのよ」「来ないのはお前だ」「何を言っているの? 仕事は終わったんでしょう?」「私は捨てられたんだ」私はなおも何かを言っている女の電話を切り、浴槽に向かった。そうだ、ここで。
赤くあかく染まっていったお湯。遠のく意識。あれ? これは誰の記憶だ? 私?
バスタブにお湯をはる。水がなかなか排出しないバスタブ。赤い血が排水管にこびりついているのだろうか。女はもう来ない。夫を捨てられないのだと言った。私は捨てられたのだ。夫が夫が夫が――いなければいいのに。そうしたら、私は――。視界が赤くなった。凶暴なあか。ぜんぶながれてしまえばいいんだ、ぜんぶぜんぶ……そうれば――
*
「はい、夫です」わたしは変わり果てた夫の姿を見て意識が遠のきそうだった。どうしてこんなことになったのだろう? 夫が自殺した理由など分からない。ただ、でも。
このホテルのことを、わたしはよく知っているような気がした。
了
一話完結です。
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ビジネスホテル 西しまこ @nishi-shima
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