家族ってなんだろう?、第七話


 失恋の苦しさとこれで何もかも解決できたかのような解放感、宗一のもとへ帰れるだろう喜びで私は珍しく自分から宗一に甘えた。セックスがしたかった。何のぎこちなさもない、私たちの愛情の果てへ近づくための。一緒に遠いどこかへ行ってしまうための。

 けれど単純に私は馬鹿だった。

 私に縋り突き放し、執拗に愛し乱暴にいたぶる。宗一は終始苦しそうで開放感なんて私ひとりが勝手に感じていたことなのだ。私が私の問題を解決すればそれで帰れると思い込んでいた。元に戻れるなんて考えていたのだ。

 ただただ私は翻弄され一方的に抱かれて、ひどく疲れて、宗一のベッドでそのまま眠ってしまった。目が覚めたのは呼吸のしづらさからだ。気だるい圧迫感と息苦しさ。ゆると目を開けると、ぐっとそれが重たくなる。息ができなくて混乱する私の真上に宗一が座って身を乗り出していた。

 首を絞められていると気づくのと、冷たい液体がいくつもぽたぽたと顔を濡らすのはほぼ同時のこと。ぐいぐいと喉を両手で押さえつけられ、空気が吸えず喘ぐように呻きながら、まるで宗一自身が首を絞められているみたいに苦しげな顔をして、決壊した涙腺から嘘みたいに涙を落としているのを見た。本当に信じられないくらい、どんどんと涙は溢れて私の顔に落ち、こめかみや耳、首に向かって伝っていく。

 やっぱり宗一は私を許さなかった。当たり前だ。それでいい。許さずに殺していいのだ。

 けれども残された宗一のことを思うと、彼を裏切らなかったまっさらな私がもうひとりいればいいのにと願わずにはいられない。宗一をひとりぼっちにしてしまうのは、真実この私だった。目を閉じる。後悔とも言い難い苦々しい気持ちは、もうどうしようもない。静かな、懺悔の心。

 けれど、息苦しさが増すことはなかった。ヒューヒューと喉が鳴る。でも完全に酸素が絶たれることはなくて、酸欠で目が回るけれどそれ以上死を感じることはない。

 そっと目を開けると宗一は深く俯いていて、震えていた。たぶん泣きすぎなのだ。それは徐々に腕や手にも広がって私の首にも伝わった。

 宗一は私を殺せなかった。

 歪む視界の中、腕を伸ばして宗一の頭を抱きしめる。

「ごめんね」

 噛み殺した泣き声が宗一の肩を揺らす。

「宗一は何も悪くないのに」

 少しずつ嗚咽が漏れ出して、一度だけ、きっと本気で首にかかる両手にちからがこもった。気道を潰される不快感は凄まじく、血液の流れの止まるのが直に感じられ、激しくむせ返った。それを最後に宗一の両手は首を離れ、私を抱くでもなく、悔しげにシーツを握る。

 嗚咽を漏らししゃくりあげる宗一はひとりぼっちでママを待つ子供のそれなのに、かかっているのはママの呪いではなくまるで私の呪いのようだった。

 私の中にも宗一の中にも愛はあるのに、ふたりの間のどこに一体愛があるというのだろう。もうわからなかった。

 宗一の涙に濡れ震える声が、疲れきった声が懇願する。

「一佳。俺を捨てるくらいなら俺と死んでよ」

「……そうだね」

 一緒に死んだらひとつになれるだろうか。

 疲れているのはきっと私も同じ。ただ、私たちはずっとずっと一緒にいたいだけなのに。

 宗一の震える体。胸元を濡らし続ける熱い涙。苦しげな呼吸。傷ついたかわいそうな子供。

 ゆっくりとまぶたを下ろすと、熱のない静かな透明がこめかみを伝って流れ落ちていった。

 

 宗一は私のスマホを見たのだと言う。

「パスワードなんて簡単だったよ。母さんの葬式の日だ」

「ふたりの再会の日だよ……」

「どっちにしたって同じだよ。俺にはこれ以上ないくらい簡単だ。パスの意味ないよ。噂通り一佳は藤間先輩が好きみたいだし」

「違うよ! 違わ……ないけど、もう振られたし、私にチャンスも何もないって言われたし、もうあの人は私の中にいないの。ごめんね、一時的とはいえ別の人を大切な椅子に座らせちゃった……その後始末は私がひとりでしなきゃならないと思った。だってこんなの何かの間違いですぐにもとに戻りたかったから」

 宗一は何も応えなかった。

 部屋は恐ろしく静かで夕闇が窓から忍び寄る。

 私たちは布一枚もない裸のまま、乱れてよごれたベッドに沈み込むように座っていた。この世の終わりのようだった。

 

 浅はかな私の目論見はうまくはいかず、なんとなく宗一と死んだほうがいいのではないかと思うようになった。セックスをするといつも死を思った。宗一は私を熱っぽく丁寧に抱き、恐いくらいの執着を感じさせるようになった。

 私のせいだ。私のせいで宗一を不安にして怖がらせて。

 けれどその行為は気持ちよかったし常に宗一を覆っていた不穏な雰囲気、苦しげな表情はないといっていいくらい薄らいでいた。それにほっとしていながらも、そこかで本当は何も解決などしていないのではという不気味な空気が漂っているような気もしていた。それが私に死を想わせるのかもしれない。

 私は藤間先輩に見事振られたし、もう見られて困ることなどないからスマホのパスワードも変えずにいるし、宗一は丁寧に私を抱いて、もう首を締めたり泣きじゃくったりしない。まるで元通りみたいなのに何かが違う。

 一体私は何を解決したつもりでいたんだろう? 宗一は何を考えているんだろう? こんなふうに気持ちのいい行為をするために私たちは苦しんできたんだろうか? 違うはずだ。ああ、けれども。宗一は肌と肌を溶かそうとでもするように強くきつく私を抱きしめるのだ。ひとつになってもう二度とどこにも行かせないという声が聞こえる気がした。私もいっそひとつになってしまいたいと思ったし、ずっと宗一といたいし、もうさびしい思いをしなくていい愛情の果てへたどり着きたい。けれど。けれども。

 なんとも言い難い違和感が私を襲っていた。宗一の腕が背中や腰にきつく回って、私の両腕もそれに応えることはこの上ない満たされた時だと言うのに、その幸福と甘さと恍惚を違和感はふとした瞬間に浮かんできて邪魔をする。

 これは、なんだろう。

 何だろう。邪魔をしないで。うっとうしくて振り払ってしまいたいのに、それを捕まえて正体を確かめてみないと気が済まない、確かめてみたいと思って止まらなかった。

 ねえ、宗一。宗一は私のこと、何だと思っているの。

「……宗一」

「ん?」

「……幸せ?」

「今はね」

 柔らかい声が返る。宗一が幸せならいいか、と思う。素肌をぎゅうと抱きしめる。私の中には確かに愛がある。藤間先輩は去った。元へと戻った。幸せだ。けれども、何かが私の中でもぞもぞと動いて愛に浸るのを邪魔する。なんだろう。ねえ、宗一。私、どうしてしまったのだろう。宗一の肩越しの暗い天井は当然何も示してはくれない。

 

 ある天気のいい休日、久しぶりに家族三人で外食に行った。パパの出す車に乗って、少し離れたカレー屋さんへ。パパは納豆と福神漬けを山ほどトッピングして、私たちを笑わせた。宗一は卵、私はチーズコロッケをトッピングしてそれぞれおいしく食べた。何気ない会話に笑顔の多い、久しぶりに家族というものを感じる満たされた時間だった。

 家族って何だろう、とふと思う。血の繋がり。でも例えば養子だとかで血が繋がっていない家族も存在する。彼らを家族でないと言うことはできない。DNAの受け渡しを根拠にしないのなら、じゃあ一体家族って何?

 食後はまたそこから少し離れた森林公園へ腹ごなしも兼ねてやってきた。パパは自販機で早速コーヒーを買ってベンチで飲んでいる。おつかれなのにこうして私たちを連れ出してくれるのは、愛のなせる業なのだろうか。家族という縛りのためだろうか。

 私と宗一には家族、というより血の繋がりが縛りとなっている。でも血が繋がっていなかったら、家族でなかったら、こんなにも彼を求めたろうか。わからなかった。

 だって私の道は映画を同じ何度戻っても同じことを繰り返すからだ。呪い、という言葉が頭をよぎってぞっとした。

 

「家族って何かな」

 ある昼休み、日焼け止めを塗り直しながら私は呟いた。呟きではあったけれど同時にその場にいた加野先輩と亮たんへの問いでもあった。ふたりは顔を見合わせたあと、

「なんだよ急に」

 食べようとしていたおにぎりを下ろした。私は変わらず日焼け止めを塗りながら思いつくままにくちを開いた。

「こないだパパと宗一と久しぶりに出かけたの。外食して、大きい公園まで行って遊んだりアイス買ってもらったりした。そういうことするのが家族? 家族だからそうするの?」

 ふたりがどんどん困惑していくのがわかったけれど、ほとんどひとりごとに近いそれを止めることはできなかった。

「でもうちにはママがいないんだよね。今どき片親なんて珍しくもないんだろうけど、うちには本当はいたんだよ。この間も公園で遊びながらママが今ここにいればなって思った。パパはどうして忙しいのに私たちを連れ出してくれたんだろう。家族だから? 私たちを愛してるから? ママは私たちを愛してたのかな。血の繋がりが愛なの? だから私はこんなにも宗一を手放したくないのかな、これは単なる愛なのかな、私たちは愛に呪われているのかな」

 顔もあげず一心に日焼け止めを塗りたくりながら愛を連呼する友人に、引きに引いた様子のふたりは言葉を失い、食事を完全に中断した。

「おまえ……大丈夫か? 熱でもあんのか?」

 恐る恐るの亮たんの声。

「いつもどおりだと思う」

「じゃあ何の話なんだよ、怖えーな」

「宗一となんかあったのか?」

 手を止めた。発された加野先輩の声は普段の雑談みたいな調子で、だから私は身構えず、気負わず話すことができた。

「あったと言えばあったし、ないといえばない」

「どっちだよ」

「首絞められた」

「はあ!?」

「でも今宗一は幸せって言ってるし、宗一が一緒に死んでとも言ったからそうしてもいいのかなとも思ってる」

「はあ!? 極端かよ! 話が極端! ついていけねえ!」

 話の新幹線や! とやけになったみたいに叫ぶ亮たんは置いておいて、加野先輩は不快そうに眉をひそめた。

「なんかおまえ、愛、愛言ってるから俺も言うけど、おまえらのそれ、愛じゃねえと思うぞ」

「じゃあ何? 愛って何?」

「知らねえ。けどおまえらのそれが違うのはわかる。間違いなく違う」

「これは愛じゃないの? でも確かにあったんだよ、ママがいたときみたいな愛情の予感みたいなものが私たちの間に、確かにあったんだよ」

 暖かくてやわらかくて良いにおいのするとびっきりの愛情が。でも、ならどうして私と宗一はセックスするのだろう、ママとは必要なかった行為なのに。親子ではないから? 男と女だから? ぼんやり考えているとすっと加野先輩が息を吸う気配がした。

 日焼け止めを塗り終え、蓋をしめ、顔を上げる。晴天の中で、覚悟を決めたような加野先輩が私を見ていた。

「一佳、おまえのママはもういないんだよ、死んだんだ」

「うん」

「もういない人との絆や関係を他のやつで再現することは不可能だと俺は思う」

「……どういうこと?」

「つまり、母ちゃんから受けるはずだった愛情は宗一では埋められないし、宗一も一佳じゃ埋められない」

「なにそれ……」

 砂の詰まった袋で殴られたような鈍く重い衝撃。心臓が熱い。ふつふつと体の中が煮立ってくる。怒り? 怒っている。でもそれだけではない感覚。痛み、そう、痛みだ。私は傷ついたのかもしれない。

 ふつふつとする体。ぐるぐるとする頭。私は自身のコントロールを失った。

「なんでそんなこと言うの? ママのいない穴はママでしか埋められないのなんてわかってる。私たちは十年ぶりに再会したんだよ。宗一のいなかった十年を、私がいなかった十年を私たちは今埋めているんだよ。ママは関係ないよ」

「さっきおまえが自分で『ママがいたときみたい』っつったんだろ」

「ひ、比喩だよ! 長く長く離れてた私たちにも家族みたいな愛情がっていう意味!」

「家族はセックスしねえんだよ!」

 怒気をいっぱいに孕んだ加野先輩の声がその場を切り裂いた。私は息のできない金魚みたいに空気を求めてくちを開けたり閉じたりする。空気は薄いし、言い返す言葉も真っ白な頭には何も浮かんでこない。めったに声を荒げない加野先輩の怒声は彼の怒りを伝えるのに充分すぎるほど充分な効き目をもっていて、私は痛くて震える心臓を押さえた。手負いの獣になった気分だった。

 私と加野先輩は睨み合いをやめなかった。本気を出した肉食獣と追い詰められた手負いのよくわからない猿のような動物。耳の奥で自分の呼吸音がゆっくり響いている。

「待った! ちょっと待った! な! とりあえず落ち着け、な」

 ぐい、と肩を抑えられ我に返る。焦った様子の亮たんまで妙に大きな声をときおり裏返したりしている。

「夫婦はするけどな! そのほかの家族は普通やらねーな! な、加野!」

 加野先輩は苦くて深い溜息を吐く。

「普通はな」

「普通かそうじゃないかなんてどうでもいいことでしょ」

「あのな、一佳」

 さっきまでとはうって変わって加野先輩の態度はとても沈痛に落ち着いている。

「これは倫理の話だよ。人として、おまえらの良心とか生き方とか在り方の問題だ」

「前にも言ったかもしんねえけどセックスなんかしなくてもおまえらはちゃんと家族なんだよ。姉弟で双子なんだよ」

「やめてよ……」

 聞きたくなかった。聞いて受け入れてしまえば今までの全てが無意味な行為だったように思えてしまう。ママの呪いを解いたのも愛情を生んだのも愛情の果てに指先を引っかけたのも、全部全部。こんなにも意味のあることばかりなのに、ふたりの話はそれらを全て蹴散らしてしまう気がする。

 家族の話なんてするんじゃなかった。私はただちょっと不思議に思っただけなのだ。家族とは何なのか、その間にある愛情はどんな形をしているのか、なぜ「家族」と名つくだけで愛情があると決められるのか。パパは私たちを愛しているのか。いるのならそれはなぜなのか。

 パパとママは家族になったのに愛を失った。どうしてなのか。ただもうあんなに悲しい思いはしたくないし、宗一と二度と別々になりたくないから私たちは体でつながった。それが愛する者同士のひとつの終着点だったからだ。私の心臓が宗一を呼んだからだ。宗一の心臓が私を求めたからだ。

 どうすればよかったというの。どうすれば。ずっとずっと宗一をママから取り戻せないまま不安に過ごしていればいればよかったというの。

 けれどママの呪いが解けたらもうセックスは必要なかったんじゃ? ううん、私たちはもうさみしくない、傷つかずに済む愛情の果てへ行きたかったのだから愛を生み続ける必要があった。ママがいた頃のあの暖かい、やわらかい、洗剤のにおいのする愛を私たちの間に生み出さなきゃならなかった。

 なのに加野先輩はママのいない穴は私たち互いでは埋められないと言う。ひどい意地悪だ。

 けれどもしそれが本当だとしたら? 私たちは寒くてさみしい空洞を埋められないままこの先も生きていかなきゃならないの? 埋める手段は他に何があるっていうの? 私と宗一の失った十年は一体どうなるの?

 どうしてこんなに苦しいの。普通とか普通じゃないとか、倫理とか在り方とか、私にはわからない。どうでもいいことに思える。ただ苦しい。息が止まりそうに苦しい。

 宗一はどこにいるの。今すぐ私の手を握ってよ。大丈夫だよって言ってよ。怖いことはなにもないよって言って。

 気づけば私はうずくまって泣いていた。怖かった。後悔してしまうかもしれないことが、本当は私は何よりも何よりも恐ろしかったのだ。なのに今だってあの頃に戻ったら同じことを繰り返す自信がある。この道へ踏み込んでしまう確信が。

 どうしてこんなことになるの。何がいけなかったの。踏みとどまれなかった私たちが悪いの? ママが死んだことが? パパとママが離婚したことが? 私たちが生まれたことが?

 何もわからないまま、ただ苦しくて私は大声を上げて泣いた。それが宗一の前でなかったことに安心を覚えながら。この世の不条理に憤りながら。


 私たちには空洞を埋める方法がなかった。絡みついた呪いを解く方法がわからなかった。十年の空白が真空になってしまっていることを誰も知らなかった。私たちのやることなすことおかしいのに、そうしないと生きられなかった。

 誰がこんな地獄に私たちを導いたのだろう。目指していたのは愛情の果てなのにそこには地獄が待ち受けているなんて初めは思いもしなかった。やっぱり楽園なんてなくて蛇のおおぐちに飲み込まれ、その中には地獄があったのだ。

 そこまで思って、ばかばかしくなってやめた。地獄、地獄と繰り返しても私たちは日常を生きている。今日も明日も学校で授業を受けて、ごはんを食べて、おしゃべりをして、歩いて座って走って眠る。何がどう変わろうと日常は、生活は続く。

 私は初めて生理以外で宗一の誘いを断った。

「ごめんね、具合良くなくて」

「そっか、大丈夫? 風邪の前触れかもしれないし早く寝たほうがいいよ」

 気遣いは本物に思えてとても悲しくなった。

 宗一と何もしないことで何か変わるだろうか。愛はもう枯れていくだろうか。それとも先輩たちが言うように何もなくとも私たちは家族として姉弟として双子して愛を育んでいけるのだろうか。それとも一緒に死んでしまったほうがいいのだろうか。

 この日常という生き地獄。ベッドの中からひとりで見つめる部屋の天井はそっけなく、人生なんてどうでもいいと言わんばかりの色をしている。天井になりたいな、なんて、思ってみたりしながら眠りについた。


 授業中もずっとふたりの先輩の言葉が頭から離れなかった。

 一佳、おまえのママはもういないんだよ、死んだんだ。家族はセックスしない。しなくてもおまえらはちゃんと家族なんだよ。

 私と宗一はもう一度家族になりたくて体を重ねているのだろうか。ほんの数年、ママとパパと宗一と私で作り出した家族の愛情を、ママもパパもなしに生みだそうとしているのだろうか。ママのとびきりの花みたいな笑顔。優しいにおい。ちょっといたずらっこで温かい腕。あの愛をまた取り戻そうとしているのだろうか。

 それならばママの呪縛にかかっているのは私なのではないか? いつまでもいつまでもママに囚われているのは私も同じなんじゃないか。惰性で板書していた手が止まる。

 宗一を救ったような気になってその実囚われていたのは私のほうなんじゃないか。そう思うと手が震えてきた。

 ママ。なぜいないの。なぜ宗一を放置したの。なぜ私を置いていったの。なぜ家族ばらばらにならなければいけなかったの。なぜ死んだの。本当に死んでしまったの? ならどうして私の中にこんなにもママの愛の形をしたものがぽっかり浮いているの? それをきちんと収めたくて私は――

 教室にはみんながノートをとる音とどこかでヒソヒソ話をする声、そして開けた窓から穏やかに鳴く野鳥の歌声が聴こえていた。私は顔を覆った。

 ママに囚われていたのは私も同じだ。幼い少女が母親に抱きしめられたまま時が止まってしまっている。宗一が小さな部屋で泣きながらママを待ち続けていたように、私もママに呪われていたのだ。きっと。

「馬鹿だ……」

 小声が漏れた。隣の席の女子がちらりとこちらを見て、すぐに視線を外した。

 馬鹿だ。私は宗一を救えるなら何一つ惜しくなかった。全てあげてもよかった。そう思って体を許して、それで救えたと思い込んで私たちは大事な話を何もしてこなかった。愛情の果てとかもう二度とさみしくない場所とか空想的なことばかり話して。

 体を重ねさえすればいいと思っていた。だって愛の行き着く先はセックスだから。大抵の人はそうだから。だからそうすれば私たちの間にも失われた何かが生まれて、十年の長い長いさみしい歳月も埋まるのだと思っていた。思い込んでいた。

 けれど宗一は今幸せだと私を抱きしめる。私もいつも宗一にそばにいてほしい。何も、何も間違っていないはずなのに気づけば道をこんなにも逸れている。何が悪かったのだろう。何がいけなかったのだろう。

 宗一と話をしないといけないんだろうな、とぼんやり思う。窓から流れる風がまだ少し冷たく手を撫でていく。はっきりと、嫌だなと思う。出来ることならいつまでも夢みたいな話だけしていたいのに。

 教室は何も変わらずノートをとる音や先生の教科書を読み上げる声、野鳥の声が響く静かで穏やかな空間だというのに、私の身の内だけが悲鳴を上げていた。


「宗一、話があるんだ」

 放課後、鞄に必要な教科書などをつめる宗一の手元を見ながら声をかけた。放課後の教室は掃除の始まるところで、前からどんどん机が下げられてくる。宗一はそちらのほうに意識を向けているようで返事はどこか上の空だった。

 机が教室の後方にすべて下げられ、席を離れた宗一が私に微笑みかけたところで私は質問を重ねる。

「掃除当番ある? 何か約束とか」

「ないよ。話があるんだっけ? 帰ってからしよっか。もう帰れる?」

「ううん、学校でしたい。屋上行こうよ」

 私が首を振ると宗一は不思議そうな顔をした。

「家のほうがゆっくり話せない? 一佳が屋上がいいって言うなら別にそれでいいけど」

「じゃあやっぱり屋上」

 どこか腑に落ちない様子でありながら宗一は頷いた。

 屋上を選んだのは誰にも話を聞かれないのはもちろん、家と違って絆されることがないと思ったからだった。私はここに及べど宗一に泣きつかれれば抱かれるし、きっと一緒に死ぬ。でもたぶんそれではだめなのだ。どうしてかはよくわからない。

 どうして私たちが離ればなれになったのかも、どうして私たちが抱き合ってはいけないのかも、どうしてそれがこんなに苦しくなってしまうのかも、なのにどうしてやめようとしているのかもわからない。わからないことだらけだ。私たちはいつもわからないことに振りまわされて生きている。

 私は動物園の猿から人間にならなくてはいけない時期が来たのだ、と心の中で呟いた。つらかった。それらもまたどうしてかわからない。とにかく宗一と抱き合う前に今は話をしなければならない、それだけが芯のように私を立たせていた。

 校内の掃除が終わり、部活が始まってひと気の少なくなった頃、私と宗一はこっそりと屋上へ出た。初夏のわずかに熱を含んだ風と太陽の光が迎える。青い空には長く伸びた雲が多く浮いていた。グラウンドから届くサッカー部や野球部の準備運動のかけ声。窓から漏れる秩序のない吹奏楽部の楽器の音。そしてとても静かな屋上。

「よいしょー」

 フェンスにもたれかかって宗一が腰を下ろす。声の機嫌は悪くない。私が何を話すつもりなのか想像もしていないのか、薄々わかっていてあえてわからないふりをしているのか。なんとなく後者じゃないかなと思ったけれど、私にはやっぱりわからなかった。自分のことさえわからないのだから当然のことだった。

「一佳も座りなよ」

「うん」

 宗一が自分の隣を示すのに素直に従った。くっついてはいないけれど少しだけ離れた絶妙な距離だったと思う。これからするつもりの話によく似合った。

「で、家じゃだめな話って何?」

 気軽な声にわずかに硬さが乗っているように感じた。私の方は明らかに緊張して、何から話せばいいかわからないくらいだ。

「ええと」

 どうしよう、何を言おう。落ち着いて、まず最初から――

「あのさ、私たちってなんでエッチしてるのかなって思ったの」

「……は?」

「と、とりあえず聞いて。それでね、エッチしなくても私と宗一はちゃんと家族だって先輩たちに言われて。それはわかってるんだけど、けど私たちって家族になるためにしてるのかなって思ったらよくわかんなくなっちゃって。宗一はさ、なんで私とするの?」

「なんでって……」

「私は、私はね、埋めたかった。宗一と離ればなれだった十年間を、それから宗一をママから救いたかった。ひとり取り残されて泣いてる小さな宗一を救いたかったよ。ママの呪いだと思ったから。苦しそうな宗一が私を求めて、それで呪いが解けるなら何だって差し出せると思った。今はもう絶対離ればなれになりたくないから、ママがいたときの愛を生み出したいから、愛情の果てに行きたいからしてる。宗一は? 宗一はどうなの?」

「ちょ、ちょっと待って一佳、一体何の話? いったん落ち着いて」

 事前にシミュレートしていたのと全く違って、思いきりまくしたててしまった私に宗一は困惑しきりだった。ついこの間先輩たちを困惑させたばかりなのに、少し自分が恥ずかしくなってしまう。

「ご、ごめん……」

「いいよ、まず落ち着いて。はい、深呼吸」

 宗一の大きな呼吸に合わせて初夏の風を取り込んだり吐き出したりしていると少し頭が冷静になってきた。自分で思っていた以上に緊張していたらしい。体の中が涼しくなった。

「どう? 少しは落ち着いた?」

「うん、ごめん」

「いいってば」

 その苦笑を見ていると何もかもどうでもよくなってしまいそうだ。宗一がいる。宗一が優しい。宗一が笑っている。宗一が私を想っている。それだけが人生の全てだったはずだ。他に何がいる? 何が問題? 何が悪い?

 理屈は感覚を超えられない。それ以上の強い強い意志がなければ。それを言うなら宗一はこれ以上ない強敵だった。感覚で愛していた。欲していた。

 さわやかな環境の中、嘘みたいに澱んだ私たちがぽつりと染みを落とすように座り込んでいた。

「一佳の言ったこと全部はわかんなかったけど、つまり俺がなんで一佳とやるのかってことでしょ?」

 ひとつ頷く。

「なんでって……そうだなあ、やりたいからってのが正直なとこなんだけど、一佳が知りたいのはもうひと掘り下げした話なんだよな」

「うん。宗一はどういう気持ちで私を抱いたの? 今も抱くの? それを知らなきゃだめな気がしてどうしようもないの。私たちあまりにも話をしてこなかったと思うから」

「なんで急にそんな気になったの」

「わからない」

 宗一はだらしなくほとんど寝そべるようにしながら胸の上で両手の指先をつまらなそうにいじっていた。

「どうしてかな……俺ずっと一佳も俺を待ってると思ってたんだ。あのとき、ひとりぼっちで小さい部屋にいるとき、俺が想うように一佳も俺を想ってると思ってた。人はさみしさで死ぬと思った。でも俺は死ぬ直前に一佳に会えたんだ。救われたんだ。その上、一佳は思い出の中とは全然違う成長した女の子になってて、その子が俺を想っていつも優しかった。もっと救われたかった。あの日、一佳の帰りが遅かった日、俺はまた死んでしまうと思ったよ。強烈な恐怖だった。だからどうやったら一佳が俺を置いていかないか考えたんだ。そうしたらもう俺のものにするしかなかった。一佳は優しいよ。あんなやり方で俺のものになってくれた。絶対どこにも行かないと言ってくれた。俺はまた救われた。一佳はあったかくて優しくて少し甘いにおいがして、母さんがいた頃みたいだったんだ」

 宗一はひとりごとみたいに静かに語って体を起こした。そして私の頬に触れる。優しい指先。

「一佳、好きだよ」

 ああ。逃れられない。

「私も好きだよ」

 満足げに愛しげにゆるむ瞳が私だけを写す。この子を突き放すなんて私にはできない。やっぱり屋上を選んでよかったと心底思った。ここにはベッドも何もない。

 私も瞳を見つめ返しながら気力を振り絞ってくちを開いた。誠実に話しをしたいと思った。だって宗一が好きだから。私のここまでの人生は宗一のためにあったから。

「あのね、私も宗一を救いたかったから姉弟ってわかってながら体を許したの。そのためなら何も惜しくなんてなかったし、何でもあげられた。それで宗一が救えるならどんなことも怖くなかったし、肌が近ければ近いほど十年が埋まっていく気がしたの。宗一だけはもう二度と見捨てられちゃいけないと思ったし、傷つけられちゃいけないと思った。私は、私だけは宗一を手放さないと思ったよ。なのにその私がいちばんに宗一を傷つけた。私はもうどこにもいけないんじゃないかって怖いんだよ」

 宗一の瞳にどこか深い地の底のような色が混ざっている。絶望の色。私はそこに手を突っ込もうとしている。手だけでなくもしかしたら全身でダイブしようとしているのかもしれない。それでも。私の芯は折れなかった。私も宗一も痛くて苦しいはずなのに。

 宗一は黙ってしばらく私を見つめたあと、地の底から話しているような声音で言った。

「そうだね。一佳も永遠には俺の元にいないんだってわかったよ。でもその罪悪感で俺に縛られてくれるならもうそれでもいいと思った。なんでもよかった。俺をあんなふうに捨てないのならもうなんでもいいやと思ったんだよ。あんな誰もいない雑然とした部屋に俺ひとり置いていなくなってしまわないなら、なんだって許そうと思ったよ」

 ママのことを言っているのだとわかった。

 やっぱりあのとき宗一を救ったのは間違いではなかったのだ。他に方法なんて今になってもわからないのだから、あのときの私たちはきっと何も間違いではなかったはずなんだ。

「私がいて救われた?」

「一佳に再会しなかった人生なんて考えたくもない」

「私もだよ」

 私たちは互いを、そして互いの人生を慈しむようにハグをした。性的なにおいのないハグはなんだかよほどママに近いような気がして、私はこっそり一粒涙をこぼした。

 

「ねえ、ママのお墓参りに行かない?」

 スマホを触っていた宗一が顔をあげる。

 吹奏楽部の奏でるクラシックが響いている。

「いいけど、急だね。なんで?」

 ぱちくりと開く瞳に私は答えた。

「ママが本当に死んでいるのか確かめに」

「は、はあ? 死んでるよ、葬式だってやったじゃん」

 声が大きくなる宗一の反応は当然のものだろう。でも。

「あのお葬式はね、私にとってママのお葬式というより宗一と再会したっていうほうが大きいの。イベントしてはお葬式よりそっちがメインだったんだと思う。だからいつまでも私の中にママがいて逃れられないんじゃないかな……でも今お墓を見たらさすがに私ももういないんだ、死んでしまったんだってわかるんじゃないかって……」

 それはついさっき、ふと思ったことだった。ふと思って悲しいほど腑に落ちた結論だった。

 私は心のどこかでまだママの死を受け入れていない。だからきっといつまでも宗一を手放せないのではないか。手放した瞬間またママに囚われてしまうと思っているから。宗一は私が守らないと死んでしまう生き物だと思っているから。きっと宗一もそう思ってる。私がいないと死んでしまうと。

 でもきっと、死なない。苦しくてもつらくても、死んだりしない。それに、例え手放したとしても私と宗一にある繋がりは消えない。もう二度と十年を失ったりしない。

「……そうだね、もうずっと行ってないし行こうか」

 次の瞬間かき消えてしまうかと思うほど儚い笑みを浮かべて宗一は頷いた。消えないとわかっていても焦燥にかられて息苦しくなるような。大事な小鳥が手から飛び立っていってしまうような表情。

 どうしようもない胸苦しさを覚えながら、これはとても恋に似ている、と私は感じてしまった。藤間先輩のそばにいるときのように、自分の手では届かないところで動き続ける感情。

 私たちはきっと別れの準備を始めている。

 あとは何事もなかったみたいにパパに車を出してもらうかどうか、まるでただの友人みたいに相談をして、優しく暮れていく屋上を後にした。



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