失うものなら決まっている、第六話
私の懸念はそれだけではなくて、むしろ目の前の宗一そのものだった。なんだかいろいろあって自らのくちから加野さんとのけんかについて宗一に伝える機会をなくしたまま日々が過ぎている。
だけど宗一は知っているはずだ。出来事は噂に噂を重ねて二学年に広まったし、知らないわけがない。なのに宗一がそのことに触れてこないのは、彼がかえって腫れ物になってしまったも同然だ。どんな噂が広まっているのか、詳しいところは私は知らない。けど事実より大きくて歪んだものになっているだろうことは想像がつく。もしかしたら男、つまり藤間先輩を取り合ったなんて話になっていてもさもありなんという感じだ。いちばんありそうなところだと思う。なのに宗一は何も言わない。私も何も言えない。
ただその肌のぬくもりが恋しくて触れているとほっとして、でも怖くて全然満たされない、足りないという暴力性も帯びていく。このまま抱き潰して吸収してしまいたい、もしくはされてしまいたい。浸透するように溶け合って混じり合ってひとつになりたい。確かにかかったと思った愛情の果てへの指先が空をかく気がする。そんな場所はない、と声が聞こえる。私はそれを振り払い、嘘だと証明するために、宗一をきつく抱きしめて奥の奥まで受け入れる。許して、宗一。
乱暴な手つきが肌をすべる。言葉はなくて空気が苛立っていて、きつくつかまれる胸や太ももが痛い。宗一は全然気持ちよくもなんともなさそうに眉間にしわを寄せている。
「怒ってるの?」
わかっているくせに白々しく問う私のくち。気だるい体に緊張が響き始める。
宗一はゆっくりと、疲れ果てた旅人のように動きを止め体を起こした。
「一佳はひどいね」
呟かれるため息のような言葉。
「俺わかんない、どうしたらいいか……聞いていいの? 聞いたら俺たちもう一緒にいられない? 見ないふりしてたほうがいいの? そのほうがいいなら俺は何も聞かないし言わない……」
宗一は私の足元に座って顔を覆った。
「宗一は何も悪くないの!」
その姿にたまらなくなって、私は慌てて起き上がって宗一の肩に触れた。今までずっとくちをつぐんで堪えていたものが溢れ出してくるみたいだった。
「全部私が悪いんだよ、ごめんね、本当にごめんね。許されないひどいことしてるってわかってる。でもわざとじゃない、こんなこと一欠片も望んでなかった、それだけは信じて」
何も言わない宗一が怖くて、寒いような熱いような奇妙な感覚に追われ言い訳が、言葉が止まらなくなっていく。触れた手はそれ以上進めない。
「こ、こんなこと言われても信じられないよね、そうだよね……ほんと私って……。でも違うんだよ、私は宗一を捨ててなんかいないんだよ、捨てる気なんてあるわけないよ。私たちずっと一緒だよ。そうでしょ?」
自分の声が媚びを帯びていることに気づいていた。
私は寒気と恐怖を感じている。それでも宗一は顔を覆ったまま何も言わない。少しずつ、けれど急激に追い立てられるような焦りにパニックになっていく。
「ねえ宗一、ごめんね、本当にごめんね、私が悪いの。宗一をこんなに傷つけて……私だってこんなこと望んでないよ。ね、すぐに全部元通りにするから、こんなの、ちょっとしたバグみたいなもので……でも私のせいだから、私が全部なんとかするからお願い宗一、私と一緒にいてよ……」
いつの間にか私の両手は宗一の足に縋りついている。深い、震えるため息が降る。
私は、私の言葉なんか何一つ救いにならないのだと知った。息が止まるような瞬間だった。私のことも宗一のことも救わない無意味な言葉たち。言い訳。私の心はここにあるのに宗一に触れてもらうことができない。伝わってはくれない。
「ごめんね。許されなくても仕方ない……宗一の思うようにして……」
苦しい息を吐くととても熱くて、くちびるが震えた。目の奥が痛んで涙が溢れる。
私は神様の許しを乞う罪人みたいに、宗一の足元に蹲って泣いた。神様が私を許さなくても、宗一さえ許してくれればいい。それでいいのに。
全ては上手く言葉にならなくて、なんだか何もしゃべりたくなくなっていく。ママがいてくれたらこんなことにはきっとならなかったとも思うのに、諸悪の根源はやはりママのように思えて、私の望むものは現実には存在していなかったのかもしれないという事実に打ちのめされる。
パパがいてママがいて、私と宗一がいる。それさえずっと続けば、こんなに誰も苦しまなかったんじゃないか。どうしてもそう思ってしまう。
でもきっとそうはならなかった。どうひっくり返しても、ママはきっと他に男を作ったし、たぶんそういう人だったのだし、パパは仕事の忙しいことが好きで、ママがいたら今ほど私と宗一を気にかけたりしなかったはずだ。それはずっとパパと暮らしてきたからなんとなくわかる。私の求める愛情の行き来はきっとうちには生まれなくて、現実はそういうふうにできているのに、それでも私は最近になってしょっちゅう考えてしまう、ママがここにいてくれたら。いたって物事はたぶん良くならないのに。
じゃあ私と宗一は一体どうするべきだったんだろう。どうやって空白を埋めればよかったのだろう。ママの呪いを解いてあげられたんだろう。何が間違っていたのかわからない。理不尽さが私の息を止めようとする。嫌がらせみたいに執拗に。私を馬鹿にして、なのに嘲笑ひとつ漏らさない。ぐるぐるぐるぐる、私を答えのない同じ道へ導いている。
その日は朝から静かな雨が降り続いていて、騒がしい校舎も閉じ込められたみたいに妙に落ち着いていた。何事もなかったみたいにいつもどおり宗一と登校して、けれど言葉少なで、私たちは互いに差す傘のぶん、心もどんどんと離れて見えなくなっていく。
昼休み、お昼を食べるため保健室へ行くと先客がいた。顔を合わせないよう避け続けてきた加野先輩と亮たんだった。ソファと丸椅子に腰掛けてパンやおにぎりを頬張っている。私は即座に踵を返した。
「おいこら一佳!」
逃げ出すよりも先に亮たんに捕まってしまう。私の腕をつかんだ手には絶対に逃さないという強い意思がこもっている。少しでも抵抗しようとこちらも絶対にふりむくものかとドア枠にしがみつき引っ張ってみるがとても勝てそうにない。
おまけに加野先輩の冷静にすぎる「バカどもやめろ」という声が飛んできて私は観念した。
いつまでも逃げ切れるものではないことは本当はわかっていた。彼らが私を諦めてしまわない限り。そのくせ本当に諦められてしまったら悲しくてしょうがなくなるのだ。わかっていた。
渋々亮たんに引っ立てられて室内へ入り、ソファに座らされる。隣には亮たん、ローテーブルの角を挟んで斜め前に加野先輩。ほぼまっすぐ前には事務用机の向こう側に座って傍観を決め込んでいる先生。逃げ場はなかった。他に生徒や先生方の姿もなく恨めしいことこの上ない。入り浸っている保健室登校児たちでさえ、今はいなかった。
なるべく存在を消そうと肩身を縮めているけれども視線は当然そらされない。
「だからおまえ未読無視とかやめろよ」
「既読無視したらさらに送ってくるじゃん」
「あたりめーだろが! こっちは楽しく雑談しようとか思ってるわけじゃねえんだぞ」
「雑談のほうがまし……」
「おまえがこの話をしたくないのはわかってんだよ。それなのにあえて、わざわざ、俺たちがおまえをつかまえてるのはなんだと思ってるんだ? あ?」
ちょっとでも怒りを含むと加野先輩の声は氷点下になる。はっきり言って怖い。
「一佳のことだから無防備に保健室来てるんだろうと思ったんだよなー」
脳天気なのは亮たん。逃げ場もなくとらわれてしまった私は途方に暮れていた。先生も目の前にいる状態で一体何を話せるというのだろう。誰にもどうにも出来ない。もう言葉が意味を成す段階なんてとうにどこかへ行ってしまったというのに。
食べる気を失って、お弁当を膝の上で抱えたまま、私はただ待っていた。何をどう切り出されるのかを。
「あんま心配かけさせるなよ。俺たちもだけど、藤間がやべえからな。そのうち心労で倒れるぞ」
「藤間先輩が?」
「当たり前だろ。前も言ったけどさ、あいつだっておまえのことかわいがってんだから、それが自分の彼女と殴り合いなんてしてみろよ。しかも原因は自分。俺は気の毒でしょうがねえよ」
ぐうの音も出ない。自分たちのことで精いっぱいで全然そこまで頭が回っていなかった。すぐにでも謝らなきゃと思うけれど、やっぱり会うのは少し恐い。
「……藤間先輩、私のこと怒ってるかな」
「はあ? なんでそうなるんだよ。むしろ藤間のほうが、一佳が怒ってるだろうって胃薬飲む勢いだぞ。だからさっさと藤間に会えって言ったんだよ」
「そんなこと言ってなくない?」
「どっちでもいいよ。とにかくおまえは逃げ回ってねえで藤間と話して、俺たちに話して気持ちに整理つけろ。まずはそこからだ」
「そんな勝手に……」
「いいか、一佳。藤間がうじうじうじうじしてるから鬱陶しくて俺たちも迷惑してるんだ。これはおまえだけの問題じゃない。おまえと藤間と俺たちの話だ。わかるか?」
食べ終えたパンの袋をガサガサたたみながら、加野先輩はごく落ち着いた態度で言い含めるように私を見た。
わかる。宗一のことは今は関係ない。関係ない部分から片付けていけと加野先輩は言っている。
正直うんざりとしたのは否めない。謝りたいし申し訳ないとも思うのに、それを片付けて何になるのだろうという気だるさが全身から離れない。
どこまで事情を知っているのか知らないのか、傍観したままの先生が頬杖をついて眠そうに私たちを見下ろしていた。
「お友達って大事だよー」
藤間先輩を久しぶりに目の前にすると想像した以上の強烈な感情が私を支配した。
それは名のつくような感情ではなくて、湧き出しては支配する、とてつもない衝動だ。ベクトルは正反対だけれど、嫉妬に燃えた加野さんを前にしたあのときと、あの感覚ととてもよく似ていた。コントロールなんか、できるわけない。
「沢木さん! なんかもうほんとにごめん」
そんな私をよそに、さわやかな晴天の下、屋上の扉を開いて崩折れるように駆け寄ってくる藤間先輩。実際、すでに座っていた私のそばに膝をついて両手を合わせている。情けなく揺れる声と、子犬のように下がる眉。こちらが泣き出してしまいそうなものが肺に満ちて、くちから溢れ出しそうだ。
「藤間先輩が謝るようなことは何も……」
ようやく言葉を絞り出せば先輩は身を乗り出してくる。
「いや、俺がうかつだった! 無神経で沢木さんも唯ちゃんも傷つける結果になってほんと申し訳ない」
「悪い男だなあ」
「人畜無害そうな顔して女の敵だなあ」
亮たんと加野先輩が横槍を入れる。否定するでもなく、うわあごめんと頭を抱えて沈み込む藤間先輩。
私は少しの間だけそっと目を閉じた。いつも私を動かすのは名前のない衝動だ。どんな名のつく感情なのかわからない。感情と呼ぶのかさえわからない。それでもそれは圧倒的なちからで一瞬にして私を隅々まで支配する。私が私の制御下から離れてしまう。
宗一と再会したときもそうだった。それから初めて宗一とセックスした日。加野さんを憎み罵り手を出したとき。宗一に泣いて縋りついたとき。全部全部、名前なんかない湧き上がるようなとてつもない感情が衝動となって理性を吹き飛ばし、私を動かした。
同じだ。今、私はそれらと同じ。感情の奔流に飲み込まれてしまう。藤間先輩。その黒い髪、穏やかな声、自然に伸びた背筋、きっちりとした制服、汚れも伸びもないカーディガン。日向に笑う藤間先輩。優しいお人好しの藤間先輩。私はあなたが逃げようもなく好きだ。好きで好きで、死んでしまいたい。
亮たんと加野先輩の茶々で場は少しなごやかになり、藤間先輩は固いコンクリートの床に改めて正座した。少ししょんぼりとした様子ではあるものの落ち着いてはいるようだ。
私はそんな藤間先輩と自分の気持ちを静かに見つめていた。どうしようもないんだな、と思った。なかったことにできるような事じゃないんだ。私はこんなにも明確にはっきりと宗一を裏切ってしまったのだ。
静かに静かに、マリンスノーのように暗闇が目の前に積もっていく。この人を好きになることが、この上ない罪であることが今、心の真ん中に実体化した。私の足には囚人の鎖が、両手には手錠がかかっている。
「沢木さんほんとごめんね。俺、あのとき唯ちゃんを怒らせたって言ったろ? 無神経だったなって思ってるんだ。そのせいでか沢木さんまで巻き込むようなことになっちゃってほんと……怒ってるよね、申し訳ない!」
ぱちん、と両手をあわせる乾いた音。拝むように頭を下げている。あれは、そんなに先輩が謝らなければいけないことだっただろうか。先輩に何か責任があっただろうか。
「私と話したことが間違いだったってことですか」
胸が苦しいな、と思いながら私の声はそのわりにとても静かだった。
「いや、違う違う、そういうことじゃないよ! そういうことじゃないんだけど、なんていうか、唯ちゃんのご機嫌に油を注がないような対応がもっと出来たんじゃないかなっていう」
「先輩」
「ん?」
「何でもかんでも責任を背負い込まないほうがいいですよ。今回のことはどう考えても私と加野さんの問題だし、先輩と加野さんがケンカしたっていうのとは全然関係ないですから。私が加野さんを憎んで殴ったんです。先輩は無意味に私に謝ってる暇があったらもう少しあの女の手綱を握れるようになってください」
言われてやんの、と亮たんが藤間先輩を指差してにやにや笑った。
藤間先輩は悲しげな視線を下げ、そっと深い息を吐いた。
「……そうだよね、ごめん。あんまり何でも自分のせいって思うのはかえって失礼っていうか、自意識過剰なのかも。でも最初に唯ちゃんが加野さんに絡んでいったのは間違いないし、そこにはやっぱり俺のうかつさがあったと思うから。結構な騒ぎになっちゃったし、それは沢木さんの望んでないことだと思うし、やっぱりごめんね」
静かに苦笑する藤間先輩。穏やかな声。私を気遣いながら、加野さんの手を離さない言葉。胸が苦しい。握りしめた手が痛い。
私はなぜこの人を好きになったのだろう。別に好きになりたいとも欲しいとも望んでいなかった。今だって宗一を取り戻すためならいらないと思う。でも、この穏やかで優しくて愚かな人が、加野さんと別れてほしいとも感じている。こんな気持ち、全部なくなればいいのに。
ねえ、藤間先輩。この手錠を解けるのは先輩だけなんじゃないのかな。
私を断罪するのは宗一かもしれない。でも、これをはずしてくれるのはただひとり、私に手錠をかけた人だけなんじゃないかな。
藤間先輩と別れてからも私の胸はぼんやりとあたたかかった。気持ちが良くて、そのことがひどく、ひどく悲しかった。
「どうだった」
薄暗い階段上で亮たんがつぶやく。
「藤間先輩が好き」
私はもうこの場にはいない人の背中や人の良さそうな苦笑、合わせた手の指を思った。亮たんのほっとしたような呼吸が耳に届いた。何も安心できることなんて、私にはないのに。
あるものはある。私が思い知ったのはそのことだった。シンプルな答えだ。どれだけ嫌がろうが否定しようが、あるものはあるのだ。消えたりしない。ゆっくりと呼吸をした。宗一の姿が頭をよぎる。
再会したばかりの静かな声。さびしげな笑み。苦しくてたまらないという手。熱を持った瞳。安心しきった笑顔と軽口。愛情の果てへ行きたくて重ねた体。
乱れそうになる息を整える。宗一のもとへ帰りたい。なのに藤間先輩が私の心を引く。沢木さん、と呼ぶ。
頭を抱えた。私はどちらかを失わなければならない。だとしたら答えは最初から決まっている。藤間先輩。あなたを私の中から追い出さなければならない。頭の中にひとつの道筋が見え始めていた。
失恋しよう。告白でもなんでもして、先輩に振られれば私も諦めがつくはずだ。私の中から先輩はいなくならざるを得ないはすだ。捨て身の作戦のように思えたけれどこの身を捨てる程度でもとに戻ることができるなら、喜んで捨てよう。これが地獄への道行きだろうとも宗一がいれば。きっと、どこかへたどり着けるはずなのだから。
ところが藤間先輩とふたりになるのは案外難しかった。加野さんには蛇蝎のごとく嫌がられ警戒されているようで、加野先輩や亮たんなしには近づくことすらかなわない。そのたび藤間先輩は私に苦笑してみせて、結局加野さんを選ぶ。当たり前だ。私を選ばれたって困る。けれど決意を引き伸ばされれば伸ばされるほど私は焦れて混乱していった。
あの日以来、私が泣いて縋ったあの日以来、宗一とは体を重ねていない。話もあまりしなくなったし、宗一はまた低い壁の向こうをうろうろするように距離を取る。一体どうしたらいいかわからず、私は閉じた宗一の部屋のドアに触れた。夜の帳の中、廊下には誰もいないリビングからの明かりが漏れてきている。宗一の部屋からは明かりの気配もなく、何の物音もしなかった。触れている手がひんやりと冷たかった。
眠っているのだろうか。そっとドアを押し開ける。やはり部屋は電気がついていなくて、開けっ放しのカーテンが外からのわずかな光を受け入れていた。ベッドに横たわる穏やかに上下する体。小さな呼吸。やっぱり眠っているようだった。
ドアは開けたまま、そっと部屋へ入った。起こさないようゆっくりとベッドに腰を下ろす。薄暗い室内。私と宗一。車の行き交う波のような音。小さな楽園。
ここに帰ってきたいな。私は心から思った。宗一。私、帰りたい。やわやわと宗一の髪を撫でる。子猫や子犬のように眠る宗一を、私が守りたい。
「ごめんね」
許されるかはわからない。けれど、許されるならまたふたりで手を繋いで目指そうよ。もう悲しまずに済む場所を。もう一度ゆっくり宗一の髪を撫でると、私は静かに部屋をあとにした。
「気持ちの整理はついたのか」
久しぶりに加野先輩と亮たんの三人で昼食を共にした日のことだった。夏の気配がわずかに滲んだ太陽の下、加野先輩はパンを片手に、もう片方に持ったスマホから目を離しもせず言った。
「つけようとしてるけどうまくいかない」
「具体的には」
「藤間先輩に振られたい。まっすぐに目を見てどんな隙もなく振られきりたい。でも全然ふたりになれない」
加野先輩は一瞬押し黙った。先輩ふたりの間にかわされた意図があったように感じた。
「まあ、その、おまえの思う通りになるかはわかんねえけどとりあえずスマホで呼び出しとけ」
「えー、加野さんて相手のスマホとかチェックしてそうでやだ」
「……さすがにそこまではやらないんじゃないか、自信はないけど」
実の兄にも自信はないと言わしめるのだから彼女はきっとやる。
冗談は抜きにしても、そうするしかないだろう。藤間先輩に直接約束を取り付けて時間を作ってもらうしか。それも加野さん警戒網があるから難しいかもしれないけど、そこは先輩にがんばってもらうとしよう。
本当は文字のやり取りも残して置きたくなかった。全て消す決心がをつけられるかそれこそ自信がなかったし、不要なやり取りの中で何が私を揺さぶるかわからないからだ。ちょっとした言葉が文字として目の前に浮かんだまま消えず流れず、私が飲み込み続けてしまったなら。それを再び追い求めてしまったら。何もかもが私を惹き寄せるような気がして怖かった。一刻も早く藤間先輩への特別な感情を切り離し、消し去ってしまいたかった。なるようになるではない、やるのだ。やり遂げるのだ、私自身と宗一のために。
少し憂鬱な気分で藤間先輩にメッセージを送ってみた。連絡先は知っていたけれど、その時に挨拶を交わしたきりの画面。ログを遡るまでもない。
そこへ突然沈黙を破って私の言葉が現れる。
「ここではお久しぶりです。ちょっと話があるので時間作ってもらえますか?」
こんな簡単な文章も長いこと考えて書いたり消したりを繰り返した苦心の作だ。
「ひさしぶり」
古いマンガのキャラクターが手を挙げているスタンプがぽんと現れてメッセージは続く。
「もちろんいいけどここではだめな話?」
「直接話したいので」
「そっかー時間なんかいつでもあるけど唯ちゃんのいない時間ってことだよね……?」
「そこ重要です」
「わかった、昼休みならどうかな?」
「大丈夫です。お願いします」
今度はサムズアップした変な顔のうさぎのスタンプ。オッケーとかまかせてとか、そういうことだろう。ついでに私もよろしくの一言に踊るくまのスタンプを返すと、そこから謎のスタンプ合戦になった。
亮たんとはよくやるけれど、藤間先輩もこういうことをするんだ。うれしくなった私は調子に乗って授業中ずっとスタンプを送り続けていた。
昼休み、昼食のため屋上に集まる前に、約束した約束した空き教室に藤間先輩は来なかった。
スマホには「ごめんね、今日はやっぱり無理そう」と通知が着ていた。
加野さんの顔が浮かぶ。その整った顔が腫れ上がるまで殴ってやればよかった、と思う。
私はお疲れさまですの一言といやみったらしい表情をしたうさぎが雑に頭を下げているスタンプを送ってやった。その返事は昼休みが終わるまで返っては来なかった。
かわいかったりかわいくなかったりするスタンプの応酬。暇つぶしみたいな雑談。この人に振られるために私はこんなうれしい気持ちになっているのだ。メッセージ画面を見るだけでうっとうしいほど心が浮き立ってしまう。そして、苦しくなる。これは失うための儀式であり、懺悔への道であり、罪そのものである。
自分の立ち位置がわからなくなる。けれど先輩からの通知が来るたび心はふわっと浮き上がった。
私はもう、いっそ何もかも私の中から消えてくれと願った。
いくら加野さんと言えども四六時中、二十四時間藤間先輩に張り付いていることはできない。ある日、そのチャンスが来た。加野さんの体調が悪く四時間目から昼休みまでまるまる保健室にこもっている日があったのだ。
そのことを一応クラスメイトである私はすぐに知って藤間先輩に連絡をした。先輩は心配を口にしながら、私とふたりきりで会うことを承諾してくれた。いつものようにふざけたオッケーのスタンプ。私はそのスタンプを親指で撫でた。とうとう、このときが来たのだ。来てしまったのだ。
四時間目が終わり、昼食を取るより先に屋上へ駆け上がった。先輩より先に行かなければ、鍵を持っていない彼を待たせることになってしまう。小走りで階段を上がりながら息がうまく出来ないことを自覚していた。痛みに対する恐怖で指先が震えて止まらないことも。恐怖とか安堵とか不安とか後悔とか喚き散らしたくなるような感情がごちゃまぜになって名前もつかない何かになって私を襲った。泣きたくて泣きたくてたまらかった。
先輩より先につくことのできた屋上は風が強くてごはんを食べるために来たのなら引き返すような様だった。濃い青空に大きく薄い雲がどんどん流れていく。私の髪が、スカートが、ブレザーの裾が一気に流れはためいて、立つ足に強く力を込める。どうしてかその強い風に味方をしてもらっているような気がした。揺れてめちゃくちゃになっていた気持ちがすっきり片付いていく。余計なものが風に飛ばされていく。宗一のことが、宗一のことだけが私の中に残る。大丈夫、何も怖くなんてない。
耳元のごうごう鳴る風の音を聴きながら、張り付くような髪とスカートもそのままに私はまるで仁王立ちのように少し両足を開いて立ち尽くしていた。心はわずかに震えながら、それでも覚悟を決めて静かにそのときを待っていた。どのくらい待っただろう。実際たいした時間ではなかったとは思う。せいぜい数分というところだろうけれど、とてつもなく長く感じた。私はこの瞬間のために何度も何度も藤間先輩にメッセージを送り、受け取り、スタンプの応酬で遊んだ。ログはずいぶん遡ることができるようになった。
背後でガチャリと重い扉の開く音がした。手錠をはずす鍵の音だ。振り返らないでいると「沢木さん、待たせた? ごめんね」と風の音に紛れて藤間先輩の穏やかな声がした。ゆっくりと振り返る。
ああ、と思った。吐息となって外へでかけたそれは飲み込まれる。ああ、藤間先輩だ。背筋の伸びたきれいな姿勢。ゆるみのないネクタイ。すっきりとしたワイシャツ。優しげでどこか気弱そうな笑顔。見上げる身長。風で張り付いたワイシャツに肩の骨が浮いている。泣きたかった。けれど泣かなかった。
どうしてか私はあなたがこんなに好きで、その笑顔に好きだと大声で言って、その笑みがさらに深まったらどんなにいいだろう。
私は冷静に自分の罪を思っていた。実際は笑みが深まるどころか、困った苦笑や見開いた目が気まずそうに泳ぐばかりだろう。そうでなくては私も困る。付け入る隙もなく、完膚なきまでにばっさりと振ってほしい。私の罪を罰して手錠をはずしてほしい。
ああ、強い風に胸が苦しい。かきむしりたい心臓が不穏に揺れる。目の前が眩む。藤間先輩。宗一。本当はどちらも失いたくなかった。何も失いたくない。けれども人生はそんなこと許しやしないのだ。
やっと取り戻した宗一だけは絶対にもう手放さない。他の何を失おうとも宗一だけは。ままならない人生だとしても、現実ままなっていないけれど、私は宗一と再び出会うために生きてきたのだから。
「すごい風だね」
ばさばさと乱れる黒髪を押さえ藤間先輩が歩み寄ってくる。私は髪もスカートも風のさせるままにして、ただまっすぐ先輩を、先輩だけを見ていた。
「聞いてほしい話があるんです」
言うと藤間先輩はにこりと人好きのする表情で頷いた。
「うん、俺でよければ何でも話してよ」
「藤間先輩」
「うん?」
「好きです、すごく好きです」
耳元で鳴る風の轟音のように声を張った。心臓が早鐘を打ち痛いくらいだ。
でも言えた。そう、すごく好きなのだ。藤間先輩。どうしてあなたが私の特別になってしまったのかはわからない。特別の席はもう埋まっていたはずなのに。でももうそんなこと考えたって仕方ない。この人が好きだ。泣きたくなるくらい。だからこそ完膚なきまでに私を振って。私の気持ちを否定して。
藤間先輩は私の声が聞こえなかったはずもないのに、何を言われたかわからない、ぽかんとした顔をしていた。ゆっくり開いていく口を右手で押さえて視線を逸らす。わずかに頬が赤い気がする。いきなりのことで驚いたからなのだろうけど、そういう隙を私に見せてはいけない。私につけこまれてはいけないんだよ、先輩。
ううん、本当は私がつけこみたくないのにつけこんでしまうから。自制心が効かなくなってしまうから。お願い、先輩。早く私の心を切り刻んで。
しばらくの沈黙のあと、藤間先輩はようやく顔を上げた。相変わらず右手で口を抑えているけれど、頬がほんのり染まっているのははっきり見えてしまって胸が締め付けられて真っ二つになりそうだ。
「えっと……加野とか亮太とか、いないよね?」
屋上を見回す先輩に私は耳を疑った。
「え?」
「あ、いや、ドッキリかなって……でも違うみたいだね……?」
私は猛烈に腹が立って、つい足を踏み鳴らしてしまった。先輩には少しも暴力的なものを見せたくないなんて思っていたのに。
「違います! 何のために私が慎重に加野唯を排除しようとしたと思ってるんですか!? 先輩にこんなつまんないドッキリを仕掛けるためですか? そんなわけないでしょう、バカ!」
「ご、ごめん、あんまりビックリして信じられなかったから思わず……」
「先輩が好きだって言ってるんです! 告白をしてるんです! それなのに何ですかバカ!」
「ごめん、ほんとごめん、わかったよ、ごめんね沢木さん」
ヒートアップしてしまった私を見たせいか、反対に藤間先輩は落ち着きを取り戻していった。私は怒鳴り散らしたせいと、緊張で苦しかったせいもあって、息を整えるまで少し時間がかかってしまった。胸元を押さえる。心臓がドクドクと鳴っている。どうして鳴っているんだろう。わからなくなってしまった。なんでこの人をこんなに好きなのかも、今はよくわからない。なんてひどい人だろうと思った。
でもそれでよかったのかもしれない。私を怒らせて傷つけてくれればいい。ズタボロに刻んでくれればいい。
「えっと……」
すっかり落ち着きを取り戻し、却って困惑している様子の先輩は口を押さえていたはずの右手で後頭部を押さえた。めちゃくちゃに吹き荒らされていた髪は少し治まり、先輩の背後には屋上への出入り口と金網と青い空だけがあった。青い青い空。
「ええと、その……ごめん。沢木さんが俺みたいなやつ好きになるなんて思ってもなかったからすごくびっくりしたけど、気持ちは本当に嬉しいよ。俺も沢木さんのこと、友達として好きだから……あのさ、いろいろあるけど、これからも沢木さんに迷惑かけるかもしれないけど、俺はやっぱり唯ちゃんに恋してるんだ。だから本当にごめん」
そう言って藤間先輩は軽く頭を下げた。ああ、なんて優しくて誠実な人なのだろうか。もっともっと残酷な人であればよかった。こんな私を切り刻んでくれない人なんて。
「先輩、加野さんのこと好きですか」
「え、うん、好きだよ」
「どのくらいですか」
「どのくらい? うーん、そう言われてもなあ……」
「じゃあ、別れる可能性とかありますか」
「えっ、怖いこと言わないでよ。でもそれは唯ちゃん次第じゃない?」
「私にどのくらいチャンスはありますか」
そこで先輩は息を呑んだ。私から何を感じ取ったのかは知らない。けれど私は先輩に出来る限り最大限に傷つけてほしかったのだ。私の中の先輩の姿が影も形もなくなってしまうまで。
藤間先輩は怒っているのかと思うほど真剣なまなざしで私とまっすぐに向き合った。けれどその気負わないまっすぐさはやっぱり藤間先輩の穏やかさとか姿勢とか誠実さとかが全部全部出ているようで、私はひそかにそれを心臓に焼き付けようとした。まるでこれが今生の別れみたいに。
「チャンスはないよ。沢木さんにチャンスも可能性もない。沢木さんが望むなら友人関係も切ったっていい」
ああ。私はゆっくりと目をつむった。ふたりの間には唸る風が吹き続けている。ごうごう。耳元を奪うようにかすめていく。
「……ありがとうございます」
今度は私が頭を下げる番だった。
傷つけてほしかった。思い切り振ってほしかった。私の中から藤間先輩を消したかった。切って切り刻んで、ボロボロになって、原型が何なのかわからなくなるまで。
その望みを汲み取ってくれたのかはわからないけれど、争いを避けたがる先輩が口にするには充分すぎるほど刃が鋭かった。まっすぐ、誠実に私を傷つけてくれた。想像していた以上の胸の詰まる痛みに私は泣きたくて、笑いたかった。先輩は優しい。隙などない。私に付け込まれたりなんてしない。私は藤間先輩をようやく失える。胸が痛い。切り刻まれて血を流してズタボロだから当然だ。
俯いていると涙がこぼれそうだったから、顔を上げた。困ったように顔をしかめる藤間先輩が罪悪感に苛まれているのは一目瞭然だった。
だから、そういうところが甘いんですよ。
とてもじゃないけれど先輩と目を合わせられそうもなかったから、なにもない斜め下のコンクリートに視線を向ける。
「急にすみませんでした。これでやっとすっきりできます。先輩には迷惑かけましたけど、これは加野さんに内緒でお願いします、できれば」
「う、うん、俺の方こそごめん」
「いいんです。助かりました。可能性も隙もないですね?」
「……ないよ」
「はい。わかりました。どうかあの女をうまくコントロールできるようになって、それで、大事にしてください」
先輩はどう答えたものか迷ったのか、もごもごと何かを呟いて後頭部に手を当て、少しだけ俯いた。ごめん、と聞こえた気がした。
私は息をするのも精いっぱいで、心臓とか肺とか胸とか心をぐっと一気に吐き出しそうになっていて、気遣いなんて余裕もなく今すぐに駆け出したかった。
強い風が流れていく雲を押すように私の背を押していた。風は夏のにおいをはらんで私達と校舎と校庭とをやや乱暴に季節を変えようと流れていく。
私の小さな世界。
もうお互い言うこともなく、私は走り出してこの場を去りたくて、むしろ学校を飛び出したいくらいの気持ちだったから、それ以外考えられなかったから話を切り上げることにした。
「じゃあ先輩、お手間かけさせてすみませんでした。いろいろありがとうございました」
「あ、うん、俺は全然」
「それじゃあまた」
言いながら私の足は競歩のように動いて扉へ向かう。この気持ちは何だろう。心臓も肺も何もかも吐き出しそうなほどぐちゃぐちゃになって、望み通り切り刻まれた胸は鋭い痛みで私を苛み、傷を押さえて崩折れて泣き出したいのに、どこかで、全然別のところですっきりと体の中身を洗い流したみたいに軽々としていた。達成感。そう、達成感に似ている。今すぐに宗一に報告しに行きたいくらいの高揚した気持ち。進む足がどんどん早くなってほとんど走るように屋上を出る。呼び出しておいて先輩は置き去りに。
階段を駆け下りながら私は血と涙を垂れ流しむせこみ、それなのに風に乗ったみたいに思っていた。
(軽い)
一度死んで、そのまま蘇ったみたいだ。痛くて痛くて吐きそうなくらい胸が痛くて、でもそれはそのまま私の希望だった。
宗一。今までごめんね。もうすぐ帰るから。宗一が許してくれるなら必ず帰るから。
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