大事なものを大事にする方法、許されたい、第五話


 宗一が低い壁を越えてはこないまま、そして私が裏切りの証拠を抱えたまま、日々は過ぎた。

 お互い違和感には気付いているのに、まるでそんなもの存在していないかのように振る舞っている。表向きはいつもと同じ。いつも通り一緒に登校して、帰りは本屋やコンビニに寄って買うものを相談する。ベッドに並んで漫画や雑誌をめくったり、お菓子を食べながらテレビを見て、飼い猫を撫で、ときどきは抱き合った。

 抱き合うその時だけ、私たちは普段より素直になって苦痛を吐き出した。言葉でではなく、動きとか仕草、表情などでだ。宗一はとても苦しそうな顔をして私を乱暴に扱ったし、私は私で宗一の顔をあまり見なくなって、すぐに泣いた。

 そんなふうに宗一は私に疑問をぶつけて問いただし、私はただひたすらに後ろめたく申し訳ない気持ちをこの時ばかりは隠しきれなかった。

 どう考えても不自然なこの状態が長く続くはずもない。

 私たちの間には、全く関わりのない時期か密接な関係の時期しか存在していなかった。この極端な間柄の中に、近くにいながらも近づけないという距離感は再会してからのわずかな時間だけにあったもので、それもあの時とは心持ちが全く正反対だ。

 あの時は、やっとまた出会えたというこれからに対する希望が含まれていた。けれど今は、離れてしまうのでは、失ってしまうのではという絶望ばかりが占めている。

 人は簡単に失われる。それは私にとっての宗一であり、宗一にとっての私であり、そして家族みんなにとってのママでもある。たぶん私と宗一は幸運だったのだ、再会できたという部分において。

 

 保健室に行く回数が増えた。

 しばらく学校を休んだことにより単位の計算が狂ってしまい、それを計算し直す気力もなく、私はただ静かなところで静かにしていたいと感じるたび何も考えず保健室に向かった。去年の二の舞いで済むならいいけどさ、と戸崎先生は諦め顔だ。

 以前のように先生と雑談を楽しむこともあまりしない。私はとても疲れていた。宗一を騙しごまかし続け、加野先輩と藤間先輩を避け続け、加野さんと繰り広げた騒動のせいで周りに敵視されたり持て囃されたりすることにも。

 加野さんを引っ叩いたあの日から三、四日学校を休み、その後嫌々ながらも登校したら、あの騒動のことはクラスはもちろん学年全体にほぼ広まっていた。私は加野さんを徹底的に嫌う一部の女子たちにいっそヒーローのように扱われたし、加野さんの取り巻きやファンの男子たちには敵視され、ちょっとした嫌がらせを受けた。ただ私が三年生男子と懇意にしていることが広まると、嫌がらせも些細なものに変わって、やがてすぐに収まっていったけれど。

 あれは私と加野さんの喧嘩であり問題だったのに、まさかここまで周りが反応するとは思っていなかった。せいぜい噂が広まって好奇の目で見られたり、あとは例の女子たちがはしゃぐのがしばらく続く程度だと考えていたのだ。程度と言っても、それを軽く見ていたわけではない。実際と比較するからたいしたことのないように感じるだけだで、それだって私には重大な重荷だった。

 保健室はその馬鹿馬鹿しい騒ぎや嫌がらせからの避難所だった。そうして戸崎先生と静かにFMラジオを聞き流しているだけで、私は周りの敵意のある視線やそれに対抗するような女子たちの意味ありげな目配せ、すれ違いざまの嘲笑や好奇の目から逃れることができた。ついでに放課後より騒がしい昼休みもここで過ごすようにしたら、加野先輩と藤間先輩と顔を合わせることもないから心が乱れるのも抑えることができる。今や保健室が私にとって何よりの安息地だった。

 今回のことで加野さんの影響力というものをこの身でまざまざと感じ、本当に感心したし、改めて彼女を憎く思った。加野さんさえいなければと、それは考えるとか思うというより、そう感じているというほうが近い気がする。わずかでもコントロール出来るような場所にそれはない。

 きっと私の中に生まれ一体化した怪物は、このコントロール出来ない部分そのものなのだ。

 そう気が付いたら、なんだか私は怪物のことが哀れになってしまった。あんなにおぞましく恐ろしくて、いなくなってほしいと心底願った相手なのに、おかしな話だ。けれど怪物だって苦しいに違いない。制御できない感情が荒れ狂うのはとても苦しい。その感情そのものがつらくないわけがない。かわいそうに。

 保健室はしんとしている。授業中だから廊下からの物音も一切なくて、窓の外に見える駐車場にも車の出入りはなく、その向こうにある道路を走る車の音は環境音としてこの小さな部屋の空気に馴染んでいる。窓際の小さな木からスズメののん気そうな鳴き声と、あとはいつものようにラジオから洋楽がごく小さく流れているだけだった。

 梅雨の時期を前に晴れ渡る空からは白く鋭い光が落ちていて、窓枠に反射したそれがさらに戸崎先生の白衣の一部を照らしていた。何の加減なのか、それが時折ちらちらと揺れる。

 今は他に訪れている生徒も先生もおらず、私と戸崎先生だけだ。電気の消してある保健室は日陰に沈んで、窓の向こうの煌々と明るい場所とは隔絶した別世界のようだ。すんと冷えた空気と消毒薬のにおい。

 私はソファに座ってそれらをぼんやりと眺めていた。仕事をしている先生は忙しいのか顔を上げないままだ。本日二度目の来訪者には構っていられないということかもしれない。

 日常と非日常の境界はどこにあるのだろう。ここは既に日常の限界なのではないかと私は考えていた。

 宗一を失うかもしれない危機と、余所者として浮きも沈みもしない学校内での立ち位置の喪失、そして楽しさを共有していた先輩が私を追い詰める。挙句私の中の怪物が荒れ狂い、よりによって藤間先輩に愛を見出し、それゆえに加野さんに牙を剥いた。

 境界線はどこにあるのだろう。それとももうとっくに飛び越えてしまったのだろうか。

 藤間先輩に会うのが怖い。会ったら何かが決定的になってしまう気がする。今なら引き返せるかもしれないのに、それすら無理だと理屈ではなくわかってしまうような。はっきりと言えば、私は先輩に会うことによって先輩への気持ちを再認識してしまうのが嫌なのだった。

 今なら、このまま会わなければ、こんな気持ちは気の迷いとしてすぐに消えてしまうかもしれないのに。そうしたら、もう余計なものは何もないのだから私はまた宗一を手放しで抱きしめられるのに。

 悔しさにも似た未練が私をとらえて離さない。終わってしまった私のための世界を惜しんで、廃墟の中にいつまでも佇んでいる。眠って目を覚ましたときには元通りになっているのではないか、全ては夢だったのではないか。そんなことは何度眠っても起こらないのに、わかりきったことなのに、それでも以前の満たされた私の世界を忘れられずその場から動けない。

 スカートの上に力なく置かれた手のひらを見る。未練なんだな、と思った。この悲しみは未練なのだ。もう何もかも変わってしまって、終わってしまって、なくなってしまったことをきちんとわかっているのだ。その上で、離れられないでいる。

 馬鹿だな。立ち尽くしてるその場所すら、もう別のものなのに。

 決着をつけよう。何にかはわからない。でもこのごちゃごちゃとした廃墟に居続けたところで、私は宗一を憂いなく抱きしめることも、藤間先輩を切り捨てることも出来ないままだ。たどり着きたいところへたどり着ける保証もない。けれど、ここにいたってもう何も戻らないのだ、悲しいことに。

 自分の胸の切り裂かれた傷に手を突っ込んで、その血まみれの手で宗一を殴りつけるような気分だった。何が悲しくてこんな思いをしなければならないのか、怒りすらわくけれど仕方がない。仕方がないことだ。もう二度と捨てられてはいけない宗一を、私は見捨てた。それを認めて、結果宗一に殺されるとしても本望だ。彼は私を罰していい。罰するべきなのだ。

 宗一を傷つけたくはなかったけれどもうそれを避けられそうにはない。こんなふうに、あってはいけないことが、起こってはならないことが突然目の前に現れる。そのことに純粋な怒りがこみ上げるのに、誰にぶつければいいのかわからない。神様だろうか。神様はどんな顔をして私たちが傷だらけで踊る様を見ているのだろう。

 保健室を後にして、三年生の教室に向かった。

 三年生の教室が並ぶ廊下は騒がしくはあったけれど、私に対する視線はほとんどなかった。二年生に比べると加野さんの知名度が低いことと、私の存在が認知されていないことが理由だろう。

 そのまま藤間先輩のクラスを目指す。先輩と話をすれば、少なくとも自分の気持ちに整理がつく気がした。


 人が多くてすぐには探し出せずにいると、ドアの近くに座っていた人が声をかけてくれた。

「誰かに用?」

「藤間先輩は……」

 いますか、と続くはずの言葉は「あっ!」教室中の注目を集める大きな声でかき消された。

「おい、一佳おまえ! 散々連絡したのに全部無視しやがって!」

 どかどかと荒い足音をたて、机の間を割って迫ってくるのは亮たんだ。たしかに電話もメッセージも全て返信していない。それは亮たんだけに限った話ではないのだけど、亮たんにはそういうことも私の状況もきっとどうでもよくて、その良くも悪くもいままで通りの乱雑な対応に私はわずかにほっとしたのだった。

 机の間を割り人の集まりを割り、亮たんは迫ってきて、わかりやすく素直に怒った顔で私を見下ろす。

「散々シカトしといて今さらどのツラ下げて来てんだよ! 生きてるの一言くらい返してくれたっていいだろ!」

 おまえはもうなあ、あんまりなあ、と曖昧な言葉を並べ立ててる亮たん。自分のことでいっぱいいっぱいで、誰かが心配してくれているというところまで全く頭が回らなかったのは申し訳なく思った。けれどこんなに人目のあるところで、こんな大声で、まるで痴話喧嘩みたいなセリフを吐くのは勘弁してほしかった。

「ごめん」

 一言謝ると、亮たんはふと口をつぐみ、軽くため息を落とした。

「まあ、いいか。なんか唯ちゃんともめたんだって?」

 困ったように後頭部を撫でながら亮たんは廊下に出てくる。トーンの抑えられた声は、もう誰の注目も集めなかった。

「加野先輩から聞いてないの?」

「いや、まあ、おおまかには」

拗ねたように不機嫌な表情。

「俺はおまえのくちから聞きてえんだよ。なのにおまえはひとっことも返さない!」

「ご、ごめんってば。本当に」

 再燃してきた怒りを抑えようと、あわてて謝罪する。本当に、と丁寧にくちにすれば、亮たんはやっぱりため息をつくのだった。

「おまえ今鍵持ってるか」

 亮たんは唐突に人差し指を立てる。視線で上を示されて、それが屋上を示していることがわかった。

「持ってない」

「ちょっと待ってろ」

 言い放って亮たんは教室へ戻っていく。その背中と動向を見ていると、かばんをごそごそ探って鍵束を手に何気なくまた廊下へ出てきた。

「おら、行くぞ」

 乱暴なその口調とはうらはらに、励ますような手が私の背を押す。

「ちょ、ちょっと待って、もう次の授業始まるよ」

「は? サボれよ。いつも保健室でサボってんだろ」

「ついさっきまで保健室にいたんだってば」

「知るか! 俺は! 今すぐ! おまえに説明させてえんだよ! そのためにわざわざ三年の教室まで来たんじゃないのかよ?」

「私は藤間先輩にちょっと話があっただけで……」

 賑やかな廊下を進みながら喚いていた亮たんが黙り込んだ。不快そうに歪んだ表情は、私の藤間先輩への感情も知っているということだろう。こちらまでどうしようもない吐き気のような苦味で息が苦しくなった。私たちだけが流れをせき止める川の中の岩みたいだ。沈黙が時を止める。

「……とにかく行くぞ」

 珍しく思うほど落ち着いた声音で亮たんは再び歩みを進めた。ため息は、つかなかった。

 誰もいない静かな屋上にはのどかな光が降りそそいでいる。ぽかぽかと私の心情に影を落とす。つい先日ここで見たはずの愛情の果てのかけらが首をしめる。

 風はゆるやかに髪や制服をなぶった。先を行く亮たんのボタンをとめていないブレザーがはためき、それを私の髪が流されては視界を遮っていく。じゃまな髪を耳にかけ、俯いて足元を見た。白っぽいコンクリート。薄汚れた上履き。いつもと何も変わりないのに。失われたものへの未練が蘇る。死んで、早く死んでと未練に呼びかける。

 めったに見ない深刻そうな様子の亮たんはどこか沈んだ表情のまま、いつもお昼を食べる辺りに腰を下ろした。あたたかい風が耳元で鳴いた。

「おまえはさ」

 いつもより少し距離をあけて座った私に亮たんは視線を自分の手元に落としたまま口を開く。まるであの日の保健室の加野先輩みたいで私の心臓は嫌な音をたてる。

「おまえは……藤間が好きなのか」

 こんな話をしにきたわけではないのに。気持ちに整理をつけて、廃墟を後にして、出来ることならまた宗一のところへ戻りたい。そこで受け入れられるか、許されず死が待つとしても。

 何も整わないぐちゃぐちゃなまま、一体何を説明できるのか、私にはさっぱりわからなくて途方に暮れてしまう。好きだと簡単に、シンプルに答えてしまうことができなくて黙っていると、それをイエスと受け取ったのか亮たんは言葉を続けた。

「俺は、おまえが藤間を好きだって言うなら、それでいいと思う」

 思わぬ言葉に顔をあげる。

「好きなら好きでいいじゃねえか。藤間だっておまえのことかわいがってんだから、好かれて悪く思うわけねえし」

「そういう……そういうことじゃないんだよ」

「そういうことなんだよ」

「違うよ、そうじゃない、藤間先輩がどう思うかじゃなくて宗一がどう思うかなんだよ」

「だから一佳! それをやめろよ!」

 亮たんは声を荒げて手を振った。まるで叩きつける先を見つけられなかったみたいに。私は何を怒鳴られたのかわからず、肩が跳ねた。

「宗一宗一って、いつまでつづけるつもりなんだよ。藤間がどう思うかでもなければ宗一がどう思うかでもない、おまえがどう思ってるのかが一番大事なんじゃねえのかよ!」

 私が、どう思っているか。胸の中がざわざわする。腹の底で逃げ場のない感情がわきたつ。

「……私がどう思うかが大事なの?」

「そうだろ」

「亮たんもそれを大事にしてくれるの?」

「そりゃ……一佳が心の底から大事だと思ってるならな」

「じゃあ教えてあげる。私は宗一が大事なの。私自身よりよっぽど。問題なのは私が宗一をこれ以上ないほどに傷つけて苦しませてめちゃくちゃに踏み潰してしまうことができるってことだよ。私が今それをしてしまおうとしていること。これ以上大事なことなんて私にはないよ。藤間先輩も加野さんもなんにも関係ないんだよ!」

 ひとつひとつ言葉が口から出るたび、感情は高ぶって止められなくなった。宗一を大事にすることを否定されたみたいで耐えられない。いや、実際否定されたのかもしれなかった。私だってこんなの普通の姉弟の関係ではないことなんて言われなくともわかっている。でもどんなに普通じゃなかろうと、どんなに正しくなかろうと私の中にあるものはどうしたってある。私の心臓と一体化してたしかにここにあるのだ。消せやしない。それは心臓と消すのと同じこと。どんなに否定されたって、私と宗一はそれを知っている。

 これは生きるか死ぬか、命がけの戦いをしているのだ。私は生きるため、生き延びるためのナイフをかまえていた。

「関係ないってなんだよ」

 けれどそのナイフに怯えない人がいる。

「藤間も唯ちゃんも関係ない? じゃあ俺や加野はどうなんだよ。え? おまえが、おまえたちが心配で、でも余計なこともできなくて悔しく思ってる俺も無関係だっていうのかよ? 俺も加野もおまえと唯ちゃんに何があったのか知ってるし、おまえと宗一の事情も知ってるよ。知ってて何も出来なくて、こんなに歯がゆいのに、おまえがこんなに苦しんでて少しでも助けになりてえと思ってて、だからこうして話をしようとしてんのに、それでも俺らは無関係か? 余計なお世話で、おまえは宗一だけが大事だから、俺はどうでもいい、何とも思ってないってか?」

 亮たんの怒りに満ちたもどかしい声がむなしく青空に響く。悔しそうに歪んだ顔は、ただまっすぐに私を睨みつけて、決断を迫る。断罪する。

 私は全く、砂粒ほども意識したことのなかった新たな視点を見せつけられた大きな衝撃の中にいた。宗一が大事だった。宗一と私の関係が、ふたりの間にある愛が大事だった。それ以外のものに今まで意識を向けたことがほとんどなかった。

 宗一だけが大事なのか。

 人間はそんなにたくさんのものを一度に大切にできるのだろうか。亮たんは出来ているのか。目の前のもどかしく、怒り、つらそうな人は。例えば私が大事で、加野先輩も大事できっと藤間先輩も大事で、その他友人たちも大事で、家族も大事で。そんなにたくさんのものを一度にどうやって愛しているの? こんなに重大な愛をたくさん抱えて、平気でいるのだろうか。だとしたらそれこそがまさに私たちが欠けた人間である証明だ。私たちは埋め合わなくてはどこにもいけない。

 けれども、だからといって亮たんたちがどうでもいいというわけでは決してない。ふたりは友人で、藤間先輩も友人で好きになってしまった人で、たしかに私の中に居場所のある人たちだ。言ってしまえば加野さんだって私の中に巣食っているという意味ではどうでもいい人間ではなかった。私はちゃんとあなたの居場所だってあるのに、と思いながら目の前の人を見返した。わきあがった熱はすでに鳴りを潜めていた。

「一佳はいつもそうだよ。ここからは絶対に入ってくんなってラインをいつも周りに意識させようと警戒してる。おまえの気持ちはわかるよ、無闇に立ち入られたくないってのはさ。でも俺と加野は? おまえらの事情も知ってて、おまえらのこと心配してて、傷つけたいわけなんかなくて、俺たちに出来ることならなんでも手伝ってやろうって思ってんのに、おまえはそんな俺たちさえ警戒してんだよ。おまえ、俺を加野がいなくなったら他に誰がいんの? 宗一だけだろ? 宗一はおまえの弟で、友達でも親友でも親でも彼氏でもねえんだぞ。本当にそれでいいのか? 本当に宗一さえいれば俺も加野も藤間もいらねえのかよ?」

 言葉が積み重なっていくのにつれて頭が空っぽになっていくようだった。どんどん亮たんの訴えかける言葉で満ちていって、それがわんわんと頭の中で鳴り響いて、全部が震えてまとまれず散っていく。

「いらないわけない……」

 口から出たのは私の意思ではなかった。何を言いたいとも思っていなかったのに、何かがぼろぼろとこぼれ落ちてきた。

「いるよ……亮たんも加野先輩も藤間先輩もいるし、宗一もいるし、パパもいるし、ママもいるよ、当たり前じゃん……いらないのはこの気持ちだよ。藤間先輩を好きな気持ちがいらないの。これが全部全部壊して、私のための世界を壊して、奪って、宗一を傷つけて私を苦しめるの。これのせいだよ、これだけがいらないの、私はこんなものが生まれる前の世界に戻りたい、ただそれだけなんだよ」

 そうなんだ、私はこんな気持ち捨ててしまいたい。これさえなければ、こんなことにはならなかった。今からでも遅くない。捨て方を知らなければ。

「どうやったら捨てられるの?」

 訊ねても亮たんは答えない。

「なんでこんなことになったのか本当にわからない……取り戻せるものなら取り戻したい。でもどうやって捨てられるかわからなくて、とにかく気持ちのどこかに決着がつくかもしれないと思って、それで藤間先輩に会いに行ったのに」

「……俺につかまったってわけか」

 頷いてみせると、穏やかな自嘲めいた笑みを亮たんは浮かべた。

「まあ、それもいいかもな……俺はさ、さっきも言ったけどおまえが藤間を好きなこと自体はいいことだと思うんだよ。そりゃおまえも宗一もしんどいだろうけど、このままふたりだけみたいに生きてくのもそれ以上にしんどいだろ、きっと」

「そんな……そんなことないよ。私は元に戻りたいって言ったじゃん。それだって全然ふたりきりなんかじゃなかった。私はただ……何より宗一が大事だし宗一はもう二度と捨てられることがあっちゃならないの」

「あのさ、だからさ、おまえのそういうのおかしくねえ? ずっと思ってたんだけどなんていうか、最初に宗一を捨てて苦しめたのはおまえじゃないだろ? なのになんでそんなに……そんなにこだわるのか、俺にはわかんねえっていうか……宗一には宗一の立ち直り方があるだろ、きっとさ」

 亮たんはひどくもどかしそうに言葉を探してせわしなく手足や視線を動かしている。でも私には彼の発した言葉が全てで脳みそをつなげてみでもしない限り言われた以上のことまで読み取ることはできない。

 とっくに授業の始まった校舎はとても静かで、私はもうこのまま宗一と一緒に消えてしまいたかった。亮たんが何を言っているのか、何を伝えたいのかわからないしわかりたくない。

「宗一の立ち直り方も私の立ち直り方もわかんないよ、でももう二度と悲しい思いをしなくていい、何も失ったりしなくていいところにたどり着くしかないし、たどり着きたい。その場所に指先はきっとかかってる。私さえこれ以上宗一から離れることさえなければ問題ない」

「そんな……そんな場所はねえよ……わかってんだろおまえも」

 その時の亮たんの絶望的な顔と言ったら。顔色を失った瞳がすーっと奈落へ落ちていくように私を見つめた。悲しくさびしく心臓を刺すような哀願の視線に耐えられず私は立ち上がった。

「ごめん、でも私たちのことは放っておいて」

 それだけの言葉を置いていくのが精いっぱいで、放り出すように私は屋上から出ていった。逃げたと言ったほうがきっと正しい。これ以上かき乱されたくなかった。片づけ方はシンプルなはずなのにどんどん複雑化していってしまう感じがした。これは私の問題で、宗一は関係ない。巻き込んではいけないのだから。この騒ぎから守られるべきは私でも加野さんでもなく、宗一ただひとり。

「一佳!」

 実際に背中を引くようにかけられた声は、重く強く、けれど私はそれを振り払って青空を閉ざした。


 もう藤間先輩に会う気力もなくなり、次の授業が始まるまでおとなしく図書室で過ごし、残りの授業もただ無気力にやりすごした。すっかり疲れてしまったのだ。何の憂いもなく宗一を抱きしめられたらどんなにいいだろう。心がすっと軽くなって何も心配することはなくなってきっと帰るべき場所に帰れるという安心感に体までが楽になる。失いたくない。もう二度と。

 加野さんはあなたはたちは気持ち悪いと言った。加野先輩は私が藤間先輩が好きでそれに宗一は関係ないと言った。亮たんは愛情の果てなどないと言った。私は顔を覆った。ぐるぐるぐるぐるとあまりにたくさんのことが頭の中を回って酔ってしまいそうだ。解答のない言葉ばかりが私に答えを迫る。違う。解答がないんじゃない、考えたくないのだ。結論を出したくない。本当は、心のどこかで本当はきっとわかってる。だから考えたくない。

 それは私と宗一を否定するだろう。最初からわかってた。これは間違ったことなんだと。でも、そんなの受け入れられなかった。認められない。これが全部全部間違っていて、望んだ愛情の果てなんてこの世のどこにもなくて、私たちはどこにもたどり着かないなんて。そんなの許せないじゃない。どうして宗一は捨てられて失ったものを二度と取り戻せないの? 私は失った十年を埋めることができないの? そんなの理不尽だ。私たちは愛情の果てへ行って二度と悲しくさみしい思いをしなくてよくなって、失った年月を埋めるように共にいたい。そうでないとおかしいじゃないか。誰が私たちを責められるの。誰が。気持ち悪かろうがそんなの関係ない。だからどうかお願い、私たちを見逃して。私を許して。



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