裏切りの予感を抱える、第四話


 せっかくしていた保健室行きと単位数の計算が狂ってしまうなと、他人事のように思いながら寝返りをうつ。梳かしていない髪の毛が顔をくすぐる。辺りから人のいる気配や物音がする中、私の部屋だけがとても静かだった。

 その静寂をノックの音が破る。次いで父の声が届いた。

「一佳、開けるぞ」

「うん」

 控えめな音で開いたドアから父の顔が覗く。

「具合どうだ、大丈夫か」

「うん」

「本当に病院行かなくてもいいのか?」

「うん」

「じゃあパパもう仕事行くけど、何かあったら電話な」

「うん。いってらっしゃい」

 いってきます、とまた控えめな音でドアは閉まった。そのドアの向こうでまたいってきますと少し間延びした声がして、いってらっしゃいとこちらも間延びした宗一の声が返る。

 玄関の開く音、閉まる音。鍵のかかる音。それから家の中は静まり返る。

 私は目をつむり、聞こえる音に集中した。外から届く車の音、リビングかキッチンでは食器のぶつかるような音、時折クラクションや上の階からの物音もする。

 そうして頭を空っぽにしようとする。思い出したくない数日前の出来事たちを、私の中から追いだそうとする。

 

 屋上に上がった後、私たちは言葉少なに座っていた。宗一にどうしたのかと聞かれても、何をどう答えていいかわからなかった。加野さんを引っ叩いたことはもちろん、腹の底に居着いていた怪物に私自身がなってしまったのだとは、とても言えなかった。

「誰かにひどいことされたの?」

 何を想像したのか、怒りの色すら見える瞳でそう訊ねられたとき、切ないような安心するような心地になってようやく気分の落ち着いていく気がした。宗一は私のために怒ってくれる。誰も知らない顔を私にはきっと見せている。知らない人にならないでくれる。

 治まっていた涙が、安堵のあまりまた溢れそうになる。それで宗一がますます何かを誤解しそうになったので、慌てて否定をした。朝の加野さんの仕打ちは泣くほどのひどいことだったわけじゃないし、ついさっきだって少なくとも先に手を出したのは私なのだ。

 宗一の手を握る左手に力を込めると、宥めるように握り返された。

「宗一、ちょっとだけ」

 抱きしめさせてほしい、と空いている右腕を伸ばし体を寄せる。

「やっぱり何かあったんでしょ」

 もどかしそうに言いながらも宗一は素直に体を預けてくれた。つないでいた手をほどく。宗一の背に腕を回す。遠慮なく思うがままに抱きしめたら、苦しいという文句がこぼれて仕方なく腕を緩める。宗一の手はゆっくりと私の背中を撫でていた。

 顔を押し付けた宗一のジャージからは、砂埃と洗剤とかすかな汗のにおいがする。深呼吸するみたいに吸い込んだら、清浄で柔らかく温かい、涙にも似たものが私の中を満たすような気がした。喉元まで満ち満ちていく。遠い昔のママの腕の中を思い出す。私と宗一の愛のことを。

 ずっとこうしていたい。こうしていれば、怪物は私から分離し、そのまま消えるのではないだろうか。私はまた人間に戻れる気がするのに。

「何があったの。一佳が学校でこんなことするなんて」

 宗一の声はささやかで、穏やかで、少し不安そうだ。まるで再会したばかりの頃のようだった。独り言にも近い、私にさえ届けばいいという彼の心の表れ。

 私は少し逡巡したあと、こうしていることの心地よさに流されて口を開いた。

「どこにも行かないで」

「……行かないよ、大丈夫」

「ずっとここにいて」

「いるよ。ずっと一佳のそばにいる」

「私の知らない人にならないで」

「ならない。大丈夫、怖いことは何もないよ」

 宗一の声も、返事も、背を撫でる手もみんな優しくて、私はまた少し泣いた。このまま何もかも世界さえ終わってしまえばいいのにとすら思った。

 宗一は私からこれ以上聞き出すことを諦めたようだ。私ももう何も考えたくなかった。藤間先輩のことも加野さんのことも今は思い浮かべたくない。宗一がいるからそれでいい。私の人生はそれだけで完結する。このために生きてきたのだから。

 背を撫でる手が、まるで赤ちゃんをあやすようにとんとんと柔らかく叩くリズムに変わる。それから私ごとゆっくりと揺れながら、場違いな童謡を歌い始める宗一。なにそれ、と思わず頬を緩めれば、眩しそうな笑顔が返った。

「母さんの真似」

 ママは私たちをあやすとき、そんな歌は歌わなかったんじゃないかと思うけれど、でも確かに今、遠い昔に失われたあの愛の影を見つけた気がした。私と宗一の抱き合うこのわずかな空間に。

 愛情の果ての気配を感じて、私はたまらなくなり宗一の胸に額をこすりつける。温かな太陽の光を感じる。世界の終点を思う。宗一と私、もうずっと寂しくないところ。

 そうしていると、そばに置いてあったかばんの中から、スマホの震える音が響いた。

 こんな球技大会のさなかにメッセージか電話を寄越す相手なんて、いるとすれば宗一以外思いつかなかった。亮たんか加野先輩だろうか。けれどふたりは球技大会を楽しむタイプだし、考えにくい。迷惑メールならあまりのタイミングに怒りすらわく。

 無視しようと思ったけれど、しつこく鳴り続けているのでそうもいかなくなった。誰かがこの時間に電話をかけてきているのだから、間違いでなければ何か大事な用があるのだ。

「出る?」

 そう言って宗一がかばんを引っ張る。

「出る……」

 渋々受け取り、文句を垂れながらスマホを取り出せば、着信の一言と共に見知らぬ番号が並んでいる。

「誰から?」

「知らない人……」

 画面を覗きこもうとする宗一にスマホを傾けて見せてやる。それなりに長い時間待たせているはずなのに、着信は切れる様子もない。

「やだ、誰なんだろ」

「出てみれば?」

 軽い調子で言われて、少しためらったけれど思い切って通話ボタンをスワイプした。パパに何かあったのならどうしようという不安が暗くよぎる。

 はい、と恐る恐る声を出すと、向こうから予想外の明るい声と空気が伝わってきた。

『あ、沢木のお姉サンすか?』

「え、はい、そうですけど」

 聞き馴染みのない男の声に戸惑いながら返事をすると、向こうでわあと盛り上がるのがわかった。何事だ。眉をひそめる私を宗一が不思議そうに見ている。

『あの、俺、梶っていうんすけど、お姉サン沢木のやつそこにいますかね』

「宗一ならここにいるけど……」

『あーマジっすか! ちょっと替わってもらえませんか! そろそろ次の試合始まるのに戻ってこなくて困ってんですよ』

 そこまで言われて、ようやくサッカー部のイケメン梶くんに思い至った。宗一の今日のチームメイトなのだ。

 すっかり忘れていたけれどまだ午前中なのだから試合は続く。当然私もだった。

 絶望的な気分になった。今宗一がいなくなることは、裸で密林に放り出されることに似ている。私は生き延びられるだろうか。怪物である自分を制御できないのはという不安が襲う。

 無言で宗一にスマホを差し出すと「俺?」と首を傾げながらそれを受け取った。

「試合だって」

「あ! やばい、忘れてた!」

 宗一はスマホに向かってごめんを何度も繰り返して、最後にすぐ行くと告げて通話を切った。スマホを返してくる宗一は、少し弱り顔だ。

「試合あるから行かなきゃ……一佳どうする? 大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

 言ったって仕方のないわがままが口から零れた。心臓が熱い。とても感情的な何かが胸の中にあって、それを怪物がかき混ぜている。ぐちゃぐちゃにして、私自身にも予想がつかない言動を取ろうとする。それらを体の片隅で、人間の名残の私がぼんやりと眺めている。何を言っているんだろう。困らせたいわけでもないし、嫌いになってほしいわけでもないのに。こんなふうに制御のできない生き物になっていってしまうのが私はとても恐ろしいのに。加野さんにしたように、次は宗一を傷つけようとしたらどうしよう。

「うーん……一緒に来る? コートの外で待っててもらうことになっちゃうけど」

 私は俯いたまま首を振る。

 違うよ、と思っている。違うよ、困らせたくはないんだよ、でもコントロール出来ない。私は恐ろしいものに変わってしまった。助けてほしい、宗一、宗一。

 自分が限界まで膨らんだ風船みたいに思えた。何かひとつの刺激で今にも叫びだしそうな気がする。泣き喚きそうな気がして、自分が心底恐ろしい。呼吸がうまく出来ないことを意識したとき、初めて自分がまた泣きだしていることに気がついた。もうわけがわからなかった。私は本当に、怪物になってしまったんだよ。

 困り果てて唸る宗一が顔を覗きこんでこようとするけれど、私はそれをさせなかった。どうしたらいいのかわからない。どうにも出来ない猛り狂う何かが私の中を出口を求めて暴れている。それを抑えこむことで精一杯だ。息を吐くという動作すら、その何かを解き放ってしまうようで怖い。私は怖い。宗一が言ったのに。怖いことは何もないと、そう言ったのに。

「あ、そうだ」

 ぱっと明るい宗一の声。

「保健室行こう、一佳。ね。そこで待ってて。試合が終わったらすぐ行くから」

 それはここで宗一を困らせているより、一人で校内に放り出されるよりずっとずっと良いと思えた。戸崎先生はこんな日にまでと呆れるかもしれないけれど、私には余裕が無い。

 無言で頷くと、宗一がほっとした気配がした。胸が重くなる。違う、と繰り返し思う。こんなふうに困らせてお荷物になりたかったわけじゃない。

 でも何が違うのだろう。何も違わない。片隅のぼんやりとした私が思っている。何が違うの、と。わけのわからない衝動のような怪物になって、泣いて、わがままを言って宗一を困らせているのは誰なの。ほっとされて、傷つく資格があなたにあるの。

 差し伸べられた宗一の手を取って立ち上がる。顔を上げられないまま、宗一の顔を見れないまま、また介護されてるみたいに寄り添われて屋上を出た。ドアが閉まる。一日中陽の当たらないそこは、空気がひんやりと湿っているような気がした。何もない、と思った。原型もわからないぐちゃぐちゃとしたものが、私の中にあるだけだった。

 

 無言のまま階段を降り、保健室に着く。先ほどの私と加野さんの騒動がどのように知れ渡っているのか、はたまた知れ渡っていないのか、何もわからなくて怖い。顔を上げられず、宗一からは終始私を心配する様子が伝わってきたけれど、ではどうすればいいのかはわからなかった。

「失礼しまーす」

 宗一が保健室のドアを開き、私の背を軽く押す。

「先生、ちょっと一佳置いていくからよろしくお願いします」

「お、今日は付き添いありか」

 先生の声はどこか面白がっているような響きがある。

 私を抱えるようにして保健室に入り、ソファに座らせた宗一は、ひたすら俯くばかりの私の前にしゃがみ込み顔を覗き込む。今度は私もそれを許した。

「試合終わったらすぐ戻るから、ここにいて」

「……うん」

 ここまでしてくれる宗一に報いたくて絞り出した返事はかすれていた。

 一安心したような顔を見て、私も少し落ち着いた。困らせ続けるばかりではないという自信みたいなものが私を救うのかもしれない。

 ソファに私のかばんを置いて、失礼しましたと宗一は保健室を出て行く。

 私は黙って俯いたままだった。泣いてばかりだったせいで、頭が熱くぼうっとする。先生は何も言わない。仕事をしているのか、ペンを走らせる音がかすかにする。今日はどうしてかラジオはついていなかった。

 しばらくすると、疲労からか体の力が抜けて、頑なに俯いているというよりは、脱力して首が下がっている状態になった。私の中の形のないぐちゃぐちゃしたものも疲れてきたのか収まりつつある。不安だけはしつこく胸に巣食っているけれど、私という名の怪物は人間のふりを取り戻す。

 宗一といるときとは違う穏やかさがあった。宗一といたときは、もう他に何もなくなれと思った。満たされていく感覚が私を宥めて安らがせ、その安らぎの中に切なさや苦しみにも似た胸を締め付ける感情が生まれる。そういう感じだったけれど、今はただひたすらに力が抜けて平坦になっていき、荒れ狂う海も膨らみきった風船もしおしおと沈んでいくような感覚だ。そこには私を大きく左右する感情は生まれない。

 私の様子を見ていたのかどうなのか、先生がようやく口を開いた。

「熱計るか? 一時間以上休んでいくなら記入しなきゃならんけど」

 そう言って先生は来室記録用紙をぺらぺらと振る。私は軽く首を振って返した。

「いいのか? おまえ次の試合いつだ?」

「……いつだろ……」

 自分の試合のことをすっかり忘れていた。さっきチームメイトたちとトーナメント表を見たときのことを思い返す。けれど勝てるところまで勝とうよという話はしたけれど、次の試合の時間などについては何も言わなかった気がする。既にすっぽかしていたり、今まさにみんなが私を探していたりしたらどうしよう。焦りが出てくる。

「しょうがないな……」

 まったく、と戸崎先生は机の端から一枚のプリントを取った。なんだろうと見ていると、先生は何やら目を凝らしながらプリントの上で指を滑らせ始めた。

「えーと……おまえバレーか」

「うん」

「もう一試合やってるな。負けたか」

「勝った」

 勝ったのかよ、と先生は驚きながらさらに指を滑らせ、それが止まったと思ったら顔をあげた。

「次は十一時予定だってさ。あと一時間弱か」

 行きたくないな、と思った。保健室から出たくない。バレーボールなんかする気分ではないし、チームメイト相手にきちんと笑顔を作れるかどうかも怪しい。何のきっかけでまた怪物になってしまうかもわからないのに。そうなってしまったら、また困らせたくない人を困らせ、傷つけたくない人を傷つけるのではないだろうか。制御のできないものになってしまったせいで。

 みんな人間なのに、どうして私は突然怪物に飲み込まれてしまったのだろう。事故みたいなものなのだろうか。いつ誰の身に降りかかるかわからず、それが不幸にも私だったというだけの話なのか。わからない。腹の底に潜んでいたこの怪物は、私にだけ生まれつき住み着いていたのだろうか。

 私は先生とぽつぽつ話をしながら宗一が戻ってくるのを待った。サッカーの試合は三十分ほどで終わるはずだから、さほど長く待つことはない。このまま時間が経つのを静かに待てばいいだけだと、私はそう思っていた。

 静かだった保健室に、控えめなノックの音が響く。宗一が来るにはまだ早い。けれど今日は球技大会だから怪我人が出ることもあるだろう。そう思って私は入ってくる人物に特に注意を払わず、相変わらずドアに背を向けたまま(ソファの位置がそういうふうになっているのだ)ぼんやりと空中を見つめていた。

「こんちは」

 聞こえてきたその硬質で冷たい声音にはよくよく馴染みがある。意外な登場と感じて振り返ったけれど、場合によっては意外どころか当然のお出ましであり、それを恐れた私は口をつぐんでいた。入ってきた加野先輩は、私の存在に眉一つ動かさない。

 戸崎先生が顔を上げる。

「どうした」

「いえ、ちょっと」

「ちょっとって何だよ」

「こいつがいるって聞いたもんで」

 こいつ、と先輩は私を指し示しながら、やや間を開けて隣に腰を下ろした。少々雑な座り方でソファが揺れる。

 誰に聞いたのだろうか。先輩がすでに妹が引っ叩かれたと知っていれば、ここにこうしてやって来たことに納得がいく。大体それ以外に理由が思いつかなかった。暇を持て余しているわけでもないのにわざわざ私の居場所を聞いてやって来るような人ではない。私は警戒を怠らなかった。けれど。

「……何だよ、その顔」

 先輩は面倒くさそうに目を眇めている。

「宗一に頼まれたからわざわざ来てやったのに」

「宗一に……?」

 驚いてソファから身を起こす。先輩はふんぞり返っているようにも見えるふうに背もたれへ寄りかかり、天井を見上げた。

「入れ違いで試合だったみたいで、ちょうど俺のとこの試合終わったときにあいつが来てさ、保健室に一佳がいるから暇だったら行ってやってくれないかって言われて。俺が行くまででいいからって」

 過保護だなあ、と先生が頬杖をつく。

 私もそう思った。過保護だな。けれどそれがとても嬉しかった。こうしてどこかへ行ってしまっても、私の知らないところで知らない顔をしていても、私を忘れるわけではないのだ。それが私を安心させて、胸を暖かくする。

「で、来たわけだけど、どうすればいいの」

「どうすればって……」

 ふんぞり返り気味の先輩は、加えて腕組みまでして胡乱な目でこちらを見た。

「何かあったのか」

「………」

 先輩は知らないようだった。私と先輩の妹の間にあった出来事を。既に二年生の間には知れ渡っていそうな気がするけれど、他学年にまでは伝わっていないのかもしれない。それともただ先輩が知らないだけか、そもそもたいした話題性もないことだった可能性もなくはない。

 ともかく加野先輩は面倒くさいというポーズはとっているものの、何も知らないのに宗一と私のためにこうしてやって来てくれたのだろう。他者のくちからゴシップとして届くよりはいいかもしれない。私は話してみることにした。少なくとも私が彼女にしたことは全て。宗一には言えなかったことも、先輩には話しても大丈夫な気がした。

「……ごめん、先輩」

「なんだ」

「私、加野さんのことヤリマンビッチって罵って、それからビンタした」

「は!?」

 先輩だけでなく、先生も目を丸くする。

「何がどうなってそんなことになるわけ?」

「ごめん……」

「いや、俺は別にいいけど……あいつのことだから言われっぱなしやられっぱなしってことはねえだろ?」

「ストーカーブス女気持ち悪いって言われて殴り返された」

 今度は、先輩は苦い顔で深くため息をつき、先生はやっちまったと言うように顔を覆った。

「私たち、校内で喧嘩騒ぎ起こしたってことになっちゃうの?」

「……先生、これマズイすかね」

「いやあ……程度にもよるけど、たぶん問題になるほどではないんじゃないか……」

「掴み合いとかキャットファイトとかしてねえだろうな」

「そんな派手なもんじゃ……」

 ふたりはとても渋い顔をして天井を仰いだり、目頭を揉んだりする。肩身が狭い。

 加野先輩はもうひとつ短いため息をついて、それで、と視線を寄越した。ぶっきらぼうではあるものの、気遣うような柔らかさもある。

「それで、なんだってそんなことになったんだよ」

「なんで、かな……」

 私は自分の中を探るように言葉を選んだ。怪物の話は恐ろしくてしたくなかった。

「正直、朝のあれから加野さんにすごく苛ついてたっていうのがあって……私この人嫌いだなって思ったの。こんなふうに他人を嫌うなんて初めてだって気づいて、だからなるべくあの人のこと考えないように、視界に入れないようにしたかったんだけど」

「朝に何かあったのか?」

 普通に話に加わっている戸崎先生が口を挟む。それには先輩が答えた。

「今朝、いきなり来たと思ったら一方的にこいつのこと睨み倒して喧嘩売って、挙句藤間連れてどっか行っちまったんですよ。あいつ、女子がすげー嫌いなんで」

「ああ、加野妹と藤間くんは付き合ってるんだったか」

「とりあえずその時点でこいつに落ち度は何もないすね」

 むしろあれでムカつかないほうがおかしい、と先輩は不愉快そうに腕組みをした。私は話を再開する。

「で、さっきたまたま教室のところで藤間先輩に会ったんだけど、先輩はその朝のことを気にしてたみたいで、教室の中でその話をしたんだ。でもそこをちょうど加野さんが見ていたらしくて、先輩と別れたあと呼び止められて……それであの人すごく感じ悪いから、私なんだか本当に腹が立って我慢出来なくなって、それで喧嘩売るようなこと言った」

「言い合ってるうちにエスカレートしたのか」

「……宗一のことまで悪く言われて、そうしたら何がなんだかわからなくなったの。気付いたら引っ叩いてた」

 今度は先生がため息をつく。

「おまえたちはなんというか、お互い思い入れがありすぎるなあ」

 これには私も、それから加野先輩も何も言えなかった。宗一のことは言わないほうがよかったかもしれない。私は戸崎先生が好きだし信頼もしているけれど、言っていいことと悪いことがあるのはわかっている。

「……まあ、あいつはいつか絶対女子に刺されるだろうと思ってたから、ビンタひとつで済んだなら何よりだよ。おまえが相手っていうのは相当びっくりだけど」

 フォローなのか、先輩は疲れた顔で髪をかき回して言った。

 確かに、考えてみればこれだけあちこちで女子を怒らせてきて、初めて手を上げられたのが今日私にというのは意外なのかもしれない。いや、それを意外に思えばいいのか、自分の沸点の低さを悩めばいいのか、微妙なところではある。

 先生が頬杖をはずし、背を反らした。椅子が軋む。

「それにしても、沢木も結構血の気多いんだなあ。そうは見えなかったけど」

「血の気?」

「だって、今日初めて嫌いになって、その日のうちに喧嘩売っちゃうんだろ。喧嘩っ早いにも程があるぞ」

「唯のやつに何言われたんだよ」

「何って……何のつもり、先輩とふたりで何やってたのって」

 私は加野さんの口調を真似て話した。似ていない自覚はある。

「で、なんて答えたの」

「……馬鹿じゃないのって言った」

「おお、強気」

「なんで張り合っちゃうかなあ。あいつなんて女と見たら手当たり次第に睨んで回るようなやつなんだから、無視しとけばいいんだよ」

 呆れた先輩の声。

 けれど無視は出来なかったのだ。私は彼女を傷つけたがっていた。彼女を不快にして楽しんだ。

 どうしてなのだろう。加野さんに呼び覚まされた怪物は、私の腹の奥底を蠢き、そしてあっという間に知能をつけて私となった。でもどうして加野さんがきっかけとなったのだろう。彼女のことが嫌いなのは確かだけれど、私にとってそれ以上の意味があるのかは疑問だ。

「宗一には話したのか」

「ううん、話してない。なんでか言えなくて……」

「心配してたぞ。どうせ二年の間にはもう広がってるだろ。おまえのくちから話してやったほうがいいよ」

「うん……」

 先輩は背もたれに肘を置き頬杖をついている。だるそうな、けれど決して不真面目ではない物言いたげな視線をこちらに向けて。組まれた足がゆっくりとしたリズムを刻むように揺れた。

 私が首を傾げると、先輩はそのまま少しの間を空けたあと、静かに口を開いた。

「――おまえさ」

「うん?」

「藤間のこと好きなのか」

 その意味が浸透するまで、一瞬の沈黙が降りる。

 息が止まっていた。ゆっくりと、それから急激に鼓動が走り始める。

「……は?」

 藤間先輩を、好き?

 嫌な寒気とも熱ともつかないものが腕を撫でた。何を言っているのだ、この人は。そう思いはしても、思考も関節も、口も全てがぎこちなく軋んでいる。心臓が震えている。

「は、じゃなくてさ。違うの?」

「ちが、違うよ……だって私は」

 宗一が好きなんだから。鼓動に急き立てられて考えの追いつかないまま口から零れた言葉を、それでも私は食い止めた。それはここで言っていい言葉ではなかった。

 けれど先輩にはきちんと伝わったようだった。顔色を変えもしない先輩は、淡々と問う。

「藤間が好きだから唯が気に障るんじゃないのか」

 とてつもない不安が、恐怖によく似た不安が沸き起こる。

 だめだ、と思った。混乱してめちゃくちゃになった頭の中からは他人に伝えられる形のものは何も出てこなくて、くちは「だって」とか「でも」ばかりを吐き出すのに、私の中のどこかがだめだと確かに思っている。それを私に思い知らせてはだめなのだ、と。

 だってそうなら本当に辻褄が合ってしまう。私がもし本当に藤間先輩のことを好きなのなら。加野さんを憎らしく感じることも、藤間先輩が私の知らない顔を加野さんに向けるのが寂しく感じることも。全てそのせいなら。

 私は心底混乱していた。そんなことは認められないし、あってはならないことだ。だって、だってそうなら、それは宗一への裏切りだ。宗一を見捨てることだ。こんなことは、あっちゃいけないのに。

 なのに加野先輩はとても真剣な目で、どこまでも落ち着いたまま、私の眼前にそれを突きつけてくる。

「宗一のことは今は関係ない。それは別問題だ。ちゃんと考えてみろ」

 喉の締め付けられる感覚と、目の奥の熱さで息も出来ない。やめてほしいのに、言葉が出ない。

 どうしてこんなことになるのだろう。私は宗一がいればそれでよかった。加野さんも藤間先輩もどうでもよかった。宗一に再会するために生きてきたし、宗一を守るために生きていた。私たちはもう二度と寂しくない愛情の果てまで行けるはずだった。その道のりが例え地獄を突き進むようなものだとしても、その中に私の裏切りや見捨ては存在しないのだ。ありえないはずなのだ。

 なのに、どうしてそれを暴いてぶちまけて、見せつけるようなことをするの。やめてほしい、そんなひどいことを私に、宗一に見せないで。宗一はもう二度と置いていかれてはいけないのに。二度と捨てられてはいけないのに。私がずっと守るのに。私に宗一を裏切らせないで。

「加野、やめてやれ」

 深い溜息混じりの戸崎先生の声がした。噛み締めた唇が痛む。頬を流れ落ちるものは生暖かくわずかに塩辛い味がしていた。

 

 その後の保健室の空気はとても重かった。

 加野先輩はまだ言い足りないとばかりに不満気だったし、戸崎先生は疲れたように黙りこくっている。

 先輩の言ったことは決して認められないことだったけれど、激しい痛みと苦しみと共に私の中にじんわりと染みこんでいった。喉の渇きで目が覚めて、一気に飲み込んだ水のようだった。乾きを潤した怪物が、心を落ち着けていく。

 そしてそのこともまた私を傷つける。加野先輩の言ったことが何故こんなにもしっくり来るのかといえば、もう、それが事実であるからだとしか思えなかった。そんなことはあってはならないのに、藤間先輩への思いゆえに生まれた怪物が満足するというのなら、きっとそれは正解なのだ。私は藤間先輩が好きなのだ。

 観念してそう思ったら、心のどこかがすっと楽になった。けれど同時に、それ以上の息の根の止まるような苦しさと痛みが私を襲う。怪物ではない、この私の胸の中がぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、引き裂かれていくようだ。ママが死んだと伝えられたあの時と少し似ている。地の底が大口を開け、私はそこに落ちていくのだ。それだけで死んでしまいそうな喪失感。そして罪悪感、自己嫌悪、自分を罰するあらゆる感情が入り混じって私を殺そうとした。

 宗一はもう二度と見捨てられてはいけないのに。私が宗一を守るのに。

 こんなこと望まなかった。もう何もいらなかった。宗一が私の手の中に戻ってきたのだから、それだけで満たされていた。なのにどうしてこんなことになってしまうのだろう。私は一体何がしたかったのだろう。何を間違ったのだろう。愛情の果てどころか、愛そのものを手放そうというのか。

 許して宗一、許して。けれど許されるわけがない。

 終わってしまったと思った。終わってほしくないものが、唐突に終わってしまった。何かはわからない。でも確実に何かが終わり、変わってしまう。私はそれを憎んだ。私に宗一を裏切らせるもの、宗一を見捨てさせるもの、何かを変えて終わらせるもの。そういったものを私は心底恨み、憎んだ。

 これまで通り、宗一を愛して守っていきたかった。それは変わりない。けれど、藤間先輩への自覚した気持ちを抱いたままで今までどおりなんて言えるのだろうか。裏切りを抱えたまま、宗一を抱きしめていいのだろうか。

 止まない雨の日。私は雨に打たれて丸まっている。それを遮ってくれるはずの宗一は私が見捨てた。

 純粋な悲しみの結晶が永遠のように響き渡り、自罰の感情が私を痛めつけ、殺そうとする。

 加野さんにつれられて消えた藤間先輩の背が頭をよぎる。私の手を揺らす宗一の手の感触が蘇る。失うものは自分で選べないと私は知って、慟哭する。

 終わってしまったのは私のための世界なのかもしれないと、そう思った。

 

 宗一が息を切らして保健室に戻ってきたときもまだ、私は混乱したままだった。

 混乱というとまるで落ち着いて何も考えられなかったみたいだけれど、そうではない。ずっと心の一部を失ったような痛みに翻弄され、ひたすらに思っていたのだ、ごめんなさいと。

 謝ることにどんな意味があるのだろう、たぶんそんなものないのに、とわかりながらも、既に宗一を裏切ってしまっている私にはその繰り返ししか出来ないのだ。謝られたところで宗一にとっては何の足しにもならない。けれど謝る以外には出来ることがない。

「お待たせ、大丈夫?」

 ノックもそこそこに入ってきた宗一の顔を、私は見られなかった。顔を上げられないまま、濡れたジャージの袖口で目元を覆う。

「あ、加野先輩、ありがとうございました」

「おう」

 黙りこくっていた先輩は、宗一の言葉になおざりな返事をして立ち上がった。そして私を頭を一度軽く押すように撫でて立ち去っていく。上靴を引きずるような足音と、ドアが開いて、また閉まる音。廊下から流れ込む賑やかな喧騒はすぐに閉めだされ遠くなった。私とは一切関係のない、別の次元の出来事のように生々しく華やかな騒ぎ。

 先輩と入れ替わるように隣に宗一が座った。そっとした動きでソファにほとんど揺れはない。

「一佳、まだ泣いてたの? 本当にどうしたの」

 心配そうな声に、私はどうしたらいいかわからなかった。なんでもないよ、もう大丈夫だよと顔を上げられたらいいのに、それが出来ない。宗一の手が柔らかく肩を撫でるけれど、そこから滲むような痛みを覚えた。

 ごめんなさいと言いたかった。今にも飛び出てしまいそうなほど、喉元にその言葉が詰まっている。でも言えない。言ったらきっと宗一は何かを察してしまう。それだけは絶対に避けなければ。宗一に、自分はまた捨てられたのだと思わせてはいけない。宗一はもう傷ついてはならないのだから。

「……何かあったんですか」

 それは私ではない誰かに話しかけるときの声だ。それにわずかに不安げな硬い響きが加わっている。

 たぶん宗一は既に何かを察している。具体的ではないにしろ、悪い予感みたいなものだ。まさか私の裏切りとまでは思っていないだろうけれど、良くないことがあったのだという予感はきっとあるはずだ。

 ううん、と困ったような先生の呻きが聞こえて私は首を振った。

「先生、言わないで」

 それは宗一の予感を確信に変える言葉だったと思う。それでも私は止めなければならなかった。

 予感を確信に変えることより、先生のくちから先ほどの顛末を語られることのほうがよほど致命的だ。打算が働いたというより、反射だった。それとも反射的にそういう計算をしたのかもしれない。

 宗一は黙りこんで、身を硬くした。私が今まで宗一に話したくない、知られたくないと意思表示をしたことはない。

 私たちは今、分水嶺にいるのかもしれない。何かを決定的に悪くしてしまう選択をしたのかもしれない。

 でも、それでも今ここで致命傷を負うよりはずっとましであるはずなのだ。今はまだ私だけの問題で済んでいるのだから、片付けてしまえばそれで話は終わる。意志を持って裏切ったわけではない。捨てたかったわけではない、望んだわけじゃない、だから。


 いつの間にかうとうとと入り込んでいた眠りは、再びのノックで破られた。

「起きてる?」

 どことなくぎこちないような気のする宗一の声に、私の内側がわずかに震え身構える。

「起きてるよ」

 いつものように、と殊更に意識した返事は彼の耳にどう届くのだろう。私の耳の届いた宗一の声のように、やっぱりぎこちないのだろうか。いつものように、とか、何気ないふうに、とか意識した時点でそれらはもう手元にないのだ。それを装い、偽るしかない。

 あまり身動きしないで待っていると、躊躇うような間の空いたあとドアが開いた。不安げな顔をした宗一が入ってきて、ドアを後ろ手で閉める。

「熱、下がらないね」

「うん……」

「お昼、うどん茹でてね。お揚げも冷蔵庫に入ってるから」

「うん」

「………」

 まだ何かを言おうとくちを開いた宗一は、けれどそのままくちをつぐんで、ゆっくりとベッドの端に腰掛けた。上の空の手で、もつれた髪を均すように撫でられる。目は合わないだろうことがなんとなくわかっていた。だから安心して宗一の顔を見上げ、ただ寂しさの漂う目元を確かめるだけ確かめてすぐに視線を落とした。

「ねえ、一佳」

「ん?」

「……今、何考えてる?」

 少し考えてから、何も、と答える。

 宗一は深く踏み込んでこない。低い壁の向こうで、どちらでもいいんだというように微笑んでいる。でも本当は良いわけなんかなくて、その顔がとても寂しげなのを私はもう知っている。

 けれど、じゃあ私はどうすればいいのだろう。宗一を守りたいのも突き放しているのも当の私だ。

 もう無理なのだろうか。私にはもう宗一を守れないのだろうか。私のための世界は、もう崩れ去ってしまったから。

「そっか」

 その小さなつぶやきは、私にさえ届けばいいといういつもの意志すらこもっていない。身勝手な悲しみが小さなあぶくみたいに胸の中に浮いた。

 宗一の不安が手に取るようにわかる。部屋の空気が宗一の気持ちで満ちていく。でもどうしたらいいのだろう、裏切りを抱えたままの私が大丈夫だよ、見捨てたりしないよ、大好きだよなんて伝えていいのか私にはわからないのだ。それは嘘ではない、私の気持ちに嘘はないのに、けれどやっぱり嘘だった。

 どうしたらいいかわからない。けれど宗一を安心させたくてベッドの縁に置かれた手に手を重ねた。指先のひんやりとした、控えめな形の手。

 はっとしたように一瞬跳ねた手は、それからゆっくりと力が抜けていった。

 それはきっと宗一が安心したからだ。そうは思うのに、どうしてか私の不安は消えなかった。それどころかじわじわと膨らんでいく。力を抜いて微笑んだ宗一からは、単なる安堵ではなく、諦めにとてつもなく近いものを感じるような気がしたからだった。

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