球技大会でいろいろある、第三話


 昇降口を出て、スニーカーのつま先を地面に軽く叩きつけながら空を見上げた。雲ひとつない晴天だ。こういうのを抜けるような空と言うのだろう。一面澄み切った色の青。何かの広告なのか、銀色に光る飛行船が遠い空に浮かんでいる。

「くち開いてるよ」

 アホ面、と笑われて振り返ると、宗一がクラスの友人と通り過ぎていくところだった。ゆっくりとくちを閉じながら、校庭へ向かうその背中を見送る。数拍遅れてから、生徒たちの群れに紛れて私も校庭へと足を向けた。一番上までぴっちりとチャックを上げたジャージ。そのポケットに両手をつっこめば、その中で空になったキャンディの包み紙が音を立てた。

 校庭にはすでに大半の生徒が集まっていた。秩序なくうごめく人々の群れ。一部の張り切った人などはTシャツ姿になっているけれど、みんな揃って学校指定のジャージを着ている。学年ごとにジャージに入るラインの色が違っていて、今年は一年生が白、二年生が青、三年生が赤だ。みんなこうして球技大会が始まるのを待っているのだった。

 学年もクラスも入り乱れた校庭を、私は所在なくうろついた。朝の涼やかな空気が人と人の間を流れているのがわかる。砂埃もたたないような弱い風だ。ジャージを着ているせいか、座りこんでいたり転がっていたりみんな校舎内にいるより騒がしくはしゃいでいる。動物園は朝から元気だ。

 うろついている内に、加野先輩と亮たんと藤間先輩を見つけた。三人で並んで何か話をしている。加野先輩と亮たんは明らかにだるそうで、亮たんに至ってはジャージの着方すらだるそうだった。一サイズ大きなものを着ているわけではないとは思うけれど、そんな風に見えるくらいにだらしない。一方、藤間先輩は朝でも球技大会でも動物園でもきちんと穏やかだ。立ち姿がきれいに見えるのは、姿勢が良いからなのかもしれない。

 私はなんとなく背筋を伸ばしながら三人に近づいた。

「おはよ」

 声をかけると、三人の視線が揃ってこちらを向く。

「お、ぼっちが来た」

 亮たんがくちの端を上げて見下ろしてくるのにむっとして、最大限に目元を歪めて睨んでやった。

「ぼっちじゃないし」

「否定すると余計に悲しい感じがする」

「明らかにひとりでうろついていた奴の言葉は切ない」

 脛を蹴り飛ばしてやろうかとも思ったけれど、藤間先輩がいるのでやめておいた。先輩の前では少しの暴力行為も見せるわけにはいかないという謎の使命感みたいなものがわく。

 不本意ながら加野先輩と亮たんにひとしきりからかわれた後、楽しそうに笑っていた藤間先輩が慰めの言葉をくれた。

「あんまりやると後輩いじめになっちゃうよなあ。沢木さんもアホふたりの相手はいつも大変だね」

「ほんとですよ! 先輩もっと言ってやって」

「誰がアホだって? あ?」

「亮たんでしょ」

「ぼっちが何か言ってるけど聞こえねーな」

 そうしてけらけら笑っていると、突然高く鼻にかかった声が飛んできた。

「先輩!」

 みんなで一斉にそちらを見ると、なんとなくそうじゃないかと思っていたけれど、やはりと言うべきかそこには加野さんがいた。加野先輩の妹で、藤間先輩の彼女で、私のクラスメイトの、加野唯だ。加野先輩が心底嫌そうに顔をしかめ、ため息をつく。

「来んなよ……」

「別にお兄ちゃんに会いに来たわけじゃないし!」

「唯ちゃん俺に会いに来たんだよねー」

「残念だけどそれも違いますー」

 亮たんの調子の良い言葉に笑顔で答えてから、加野さんはちらりと私を見た。値踏みするような、場違いな人間を見下すような、一言で言えば気分の悪くなる視線だ。なんであんたがここにいるのとでも言いたげな。

 私自身、彼女に嫌われたり恨まれたりするようなことをした覚えが一切ないので、本当に理不尽だと思うしはっきり言って腹が立つ。感じの悪い人なのは前々から知っていたから、ただ関わらなければいいと割り切っていたけれど、こうして接してしまうと非常に憎たらしかった。クラスの女子たちと今やっと気持ちを共有できるようになった気がする。

 短い時間のことだったけれど見かねたのか、加野先輩がなかば舌打ちをするように言った。

「お前、喧嘩売りに来たんだったらあっち行けよ」

「そんなつもりないもん。ほんと意地悪。ね、藤間先輩、少し話そうよ」

 腕を引かれ、藤間先輩は困ったように笑いながら「ごめん」と一言告げて、加野さんにつれられて行ってしまった。遠ざかる背中。私たちはそれを心中穏やかではない気持ちで見送った。

 ふたりの後姿が人波に飲み込まれてもまだそちらを見つめたまま、私は口を開いた。見なくても加野先輩が苦い顔をしているのがわかったから、もう堪える必要はないだろう。立ち去っていくふたりの後姿が網膜に焼き付いている。

「ねえ……あれ、藤間先輩騙されてるよね」

「俺もそう思うんだけどさ……」

「先輩の妹でしょ? 何とかしてあげなよ」

「何とかっつったって……どうすりゃいいんだよ」

「知らないし、ほんとマジ何なのあれ、ねえ」

「一佳おこなの?」

「激おこだよ!」

 笑いを含んだ亮たんに勢いだけでバカな返事をしたせいか、なんとなく冷静になり、私たちはのっそりと顔を合わせた。まだ開会式も始まってないのに、ひどく疲れた気がする。

「あのさ先輩、私、加野さんに何もしてないからね。いじめたから嫌われてるとかじゃないからね」

「いや、わかってるよ。あいつ女嫌いだから。悪いな」

「先輩が謝ることないけど……」

 ため息をつく先輩が少し気の毒になる。例えどんなに厭わしく思おうとも、兄妹の繋がりは切ることが出来ない。だからといって妹の罪に兄が責任を感じることはないのに。

 でもあれでは、藤間先輩には私が加野さんに対して何かしたように見えるのではないだろうか。だって先輩は、兄とは違って彼女の猫かぶろりを知らない。きっと私が何を説明したって言い訳としか受け取ってもらえないだろう。彼女とただの後輩なら、彼女の言うことを大事にする。先輩はそういう人だ。真面目で優しいから。

 でも優しさは、対象以外を切り捨てることでもある。そして切り捨てられるのは間違いなく私のほうなのだ。それを思うと胸の中に何かがじわりと広がる。

「にしても唯ちゃん相変わらずだなー。いつからあんななの?」

「たしか中学じゃなかったか。よく知らねーけど、中学のときクラスの女子と何かあったらしいんだよな。それからずっと女子に対してはああだよ」

「兄がいるところで言うのもなんだけど、今のクラスでも女子に嫌われてるよ……」

「だろうな……」

 なんであんなんになっちゃったんだか、と先輩は嘆いた。

 連れ去られた藤間先輩の姿はもう見つけられず、喉が締め付けられるような苛立ちに砂を蹴る。加野唯が嫌いだ。私は今はっきりとそう思った。

 人を嫌うというのは強烈な感情だった。今まで好きじゃない人や苦手な人はいたけれど、嫌いとまで言い切れる人はいなかったと思う。

 思えば私は今まで他人に、家族以外に強烈な感情を抱いたことはなかったんじゃないだろうか。だって何よりも宗一が一番だった。宗一に再会することが私の生きている理由で、人生の形だったのだから、それ以外の人は全て同じだった気がする。おおざっぱに友達かそれ以外、という分け方しかしていなかったんじゃないか。

 新たな、そして衝撃的な可能性に気が付いてしまって、私はしばらく呆然とした。そうだ、こんな風に誰かを嫌いだとはっきり感じた記憶がない。もやもやと嫌だなとか関わりたくないなと感じたことはあっても、こんなにも強く他人を嫌うことはきっとなかった。自分でも戸惑い嫌悪を感じるほど胸の中が重く黒い。

 嫌だな、と思った。嫌な気分だ。こんな気分にさせる加野さんがますます憎たらしい。あんな人いなければよかったのに。せめて今ここに来ないでくれればよかった。あんな風に藤間先輩を連れ去らないでほしかった。

 乾いた校庭の土を睨み付ける。白っぽいそれが、じわじわと私の足元を中心に黒く染まっていくような気がする。嫌うことは怒りとひどく密接に結びついていた。腹の底を煮えたぎる何かがおぞましく這いずり回っている。

 私の感情に呼応するように、風が強まった。背中に流れるおろしたままの髪を巻き上げ、少し遅れて砂埃を立てる。辺りの話し声はもう全て遠い耳障りなざわめきにしか聞こえなかった。先生が整列するよう呼びかけるまで、私は怒りを堪えるように地面を睨み続けていた。

 

 そうやって嫌いだと意識してしまうと、彼女のありとあらゆる事が気に触るようになってきて面倒くさかった。いちいち気にしたくなどないのに、視界に入ると胃の奥底にいる凶暴な怪物みたいなものが顔を覗かせる。苛々したくないのにどうしても勝手にしてしまうのだ。他人を嫌うことは精神衛生によろしくないことなのだと私は知った。そしてこの怒りに近いものを発散させたくなる気持ちも。

 球技大会で私の出場する種目はバレーボールだった。チームにバレー部の子はいなかったし、ろくに練習もしていないからうまく出来るはずもないのだけれど、怒りに任せてボールを叩いているうちに、相手が一年生チームだったこともあって一回戦をストレート試合で勝ってしまった。試合が始まるまで、まあ負けてもいいよね、というやる気のないのほほんとしたチームだったので、勝ったことにチームメイトはみんな驚いていた。

「沢木さんって結構負けず嫌い?」

「そんなことないんだけど、ついちから入っちゃって……ごめん」

「いやいや、なんで謝るの! どうせだし、この際だから行けるところまで行こう!」

 トーナメント表を見上げながら、チームメイトの子たちは笑った。こうしてみんなと一緒に笑っていると、すっと気分が良くなっていく。私を支配していた怪物が奥底へ帰っていくのがわかる。こうやって気分良く過ごしたい。加野さんのことなんか気にしたくない、考えたくない。彼女の存在なんかきれいさっぱり忘れて、早く家に帰りたかった。宗一が一緒にいてくれればいいのに。私は息苦しい気持ちでつま先を見つめた。

 

 宗一がサッカーの試合に出る時間だったので、みんなと別れて校庭へ出ることにした。

 宗一のチームにはイケメンなことで有名なサッカー部の梶くんという人がいて、サッカーコートの周辺はすでに女子の集まりに囲まれてしまって、入り込む隙がいまいち見つからなかった。けれど肝心の本人たちはまだ来ていない。何をしているのか、そろそろ開始時間なのにチームの人間は誰も見当たらなかった。

 私は女子の囲いから数歩引いたところで、立ち位置も見るべきものも見つけられず途方に暮れていた。梶くんがいるから混むだろうと予想はしていたけれど、ここまでとは思っていなかったなあ、などとぼんやり考えていると、背後、校舎のほうから騒がしい足音がいくつも聞こえてくる。ついでに笑い混じりの息切れも。

 振り返れば、それは宗一たちのチームだった。どこから走ってきたのか、わあわあ言い合いながら笑っている。女子たちがにわかに色めき立った。

 みんなに混じってコートに入っていく宗一を見て、うまく馴染んでいるんだなと思う。それは安堵でもあり、嫉妬でもあり、不安でもある。宗一は楽しく幸せでなきゃいけない。けれど今度はそうやって私を置いていくのかと心が濁っていくし、彼と私の違いはなんだろうと思わせられてしまう。不思議な感覚だ。

 私のいないところで笑う宗一が一体誰なのか、よくわからなくなることがある。宗一はああいう笑い方をしただろうか、あんなふうに乱暴に誰かを呼んだりしただろうか、大体宗一はあんな顔だったっけ。いつの間にか知らない人になってしまったような気さえした。

 試合はすぐに始まった。女子の黄色い歓声を浴びて、二チームの人々が行き交っているけれど、如何せんここではよく見えない。これなら教室からのほうがかえってよく見えるだろう。少し迷ったけれど、ここにぼんやり突っ立っているより、教室に戻ってそこから観戦することにした。目を離している隙に宗一が活躍でもしたら、後でなんで見ていなかったのかと責められそうだけど、どうせここにいたって同じことだ。

 私は甲高い悲鳴にも似た歓声を背に、校舎へと戻った。

 校舎内はどこもざわめきに満ちている。普段とは違って、制服姿の人間はどこにもいない。こんな些細なことでも日常は形を失うのだ。

 小走りに階段をあがり、教室を目指した。早いところ試合の様子を見始めないとどんな展開になっているかわからない。

 そもそも宗一はサッカーがうまいのだろうか。チームメイトにはサッカー部の人もいるし、宗一が活躍する機会があるかどうか怪しいと思ったけれど、とりあえず見るだけは見ておかないと。

 教室に向かって廊下を小走りで進んでいると、ふと見知った横顔を視線の先に見つけた。

 藤間先輩だ。黒いさっぱりした髪からのぞく耳。賢そうな鼻筋と、聞き分けの良さそうな口元。それが私の教室を覗いているのだった。ということは、当然加野さんもいるのだろうと思ったけれど、その姿は見当たらない。

「あ、沢木さん」

 教室から顔を出した先輩がこちらに気づく。加野さんのことが頭にあり反射的に身構えてしまった私に、先輩は苦笑した。

「唯ちゃんならいないよ」

 私はその顔に胸をつかれた。これじゃあまるで藤間先輩を警戒したみたいだ。悪いことをしてしまったと申し訳なくなる。

「ごめんなさい」

 すると先輩はどう解釈したのか、気遣わしげな表情で「入ろうか」と今しがた去ろうとしたのだろう教室へ入って行く。脈絡がよくわからず一瞬呆気に取られたけれど、私はおとなしくその後に従った。

 教室にはクラスメイトが数人が残っていたけれど、みんな机に突っ伏して眠っていたりゲームで対戦だか協力プレイだかをしていたりとそれぞれ自分の世界に入り込んでいる。顔ぶれを見ても、たしかに学校行事にはあまり関心のなさそうなタイプの人ばかりだ。

 窓際まで歩いていった先輩は、校庭の様子を「ずいぶん女子が集まってる」と不思議そうに見下ろした。

「サッカー部のイケメンが今試合してるんですよ。ほら、あれ」

 窓を開けて梶くんを指差すと、先輩は目をこらすように身を乗り出す。

「うーん、わからない」

 たしかにこの距離では顔の判別は難しかった。知り合いならわかるという程度だ。

 サッカーは女子の歓声とおそらくは宗一のチームの笑い声や掛け声で賑やかだった。穏やかな陽射しとそよ風の中、宗一は楽しそうに校庭を走り回っている。まるで私から遠い人のように。

「あ、あれ沢木さんの弟だ」

 でしょ、と藤間先輩が人差し指で動き回る一点を追う。

「そうです」

「試合、見に行かなくてよかったの?」

「行ったんだけど、あの通りなんでよく見えなくて」

「ああ、たしかにこっちのほうが見やすいかもなあ。特等席だ」

 先輩は他人の教室であるにも関わらず、そばにあった椅子を適当にひいて座りこんだ。よその教室、しかも知り合いのいない下級生のクラスへためらわず入っていった時点でちょっと意外性を感じてはいたけれど、なかなかどうして大胆だ。物怖じしないというか、私が感じていたよりずっと遠慮のない人なのかもしれない。そう思うと、ようやく藤間先輩が加野先輩と亮たんの友人であることに納得がいく気がした。

「沢木さんも座りなよ」

 先輩はほがらかに言う。やっぱりちょっと意外だ。よその教室で我が物顔でいる藤間先輩は私の中の先輩像と全然違っていて想像もつかなかった姿だけれど、嫌な感じはしなかった。いつもと違ってジャージを着ているからだろうか、改めて見直すとすごく新鮮だ。ちょっと頼りなさそうと思っていたのを、私はこっそり訂正した。

 先輩の座った席のすぐ前の席に腰を下ろす。校庭ではちょうど前半が終わったところらしく、ゴールキーパーが移動をしている。私はこうして宗一を見下ろしているけれど、宗一は私の姿を探しているのだろうか。探したとして、いないことに気が付くだろうか。私がここでこうして藤間先輩とふたりで眺めていることを。

 ぼんやりと校庭を見つめていると、先輩がくちを開いた。躊躇いがあるのか、わずかに言いよどむような気配がある。

「あのさ、唯ちゃんのことなんだけど」

 きたな、と思った。あの出会い方とこの流れでその人の話を避けられるわけがない。でも私は加野さんの話などしたくもなかった。何が楽しくて藤間先輩とふたりで彼女の話をしなければならないのだ。けれどそんなこと言えるわけもなく、私は「ああ」と「はあ」の中間くらいの曖昧な返事をした。

 どうせ先輩は私が加野さんを一方的に嫌っているくらいに思っているのだろう。でも何をどう言っても伝わる気がしなくて、せめてもの抵抗のつもりで私は校庭から目を離さなかった。

「えーと、ごめん」

 予想していなかった台詞が飛び出してきて、藤間先輩を振り返る。抵抗などという言葉は一瞬で霧散してしまった。うまく反応できない。

「……な、なにが……」

「いや、その、唯ちゃんがさ。朝、感じ悪かったし。沢木さんには特に」

「ああ、まあ……そうですけど……先輩が謝ることないのに」

「でも俺も唯ちゃんと一緒に行っちゃったからね。結局けんかになったんだけど」

「え、けんかしたんですか?」

 うん。先輩は弱々しく微笑んで、窓の外に顔を向けた。

「あの態度は良くないんじゃないって言ったら怒らせちゃって。それでいなくなっちゃったから探してたんだ」

「加野さんも怒るんですね」

 男に対して、という言葉はかろうじて飲み込んだ。

「最初は笑ってはぐらかすようなこと言ってたんだけど、俺がちょっとしつこく言いすぎたのかも」

「……あの、こんなこと言うのもなんですけど、あの人のあれ、言っても直らないと思います」

 あの人のあれ。ずいぶんぼかした言い方をしたものだ。けれど私にとっては結構な賭けだった。藤間先輩を不快にしてしまうかもしれない。先輩は加野さんの猫かぶりを知らないから伝わらないかもしれない。そうなれば私はある種の地雷を踏んだことになる。

 壁の一点を見つめる。落書きがしてあるけれど、それが意味あるものとして頭に入ってこない。

 緊張して先輩の言葉を待った。ずいぶん長い時間だと感じたけれどそんなことはなく、声が聞こえて初めて、思わず息が止まっていることに気がついた。

 弱り切った苦笑がする。はっとして顔をあげ、先輩が何を言うのか私は神経を研ぎ澄ませていた。そうして届いた言葉は、とても予想外のものだった。

「直らない、そうだね、直らないんだろうね。わかってはいるんだけど、少しずつでも俺が何とか出来たらいいなとつい思っちゃうんだよ。あんな振る舞いしてたらうまくいくものもいかなくなるし、良いことひとつもないからさ」

 苦笑する先輩の横顔を、私は呆然と見つめた。

 先輩はもしかして、彼女のことを全て知っているのか。あの猫かぶりも、ひょっとしたら悪い噂の数々すら。その上で付き合っているのだろうか。

 私が何も言えずにいると、藤間先輩は窓の外に視線をやり「後半始まったね」とぽつりと呟いた。

 ほんとですね、と呟き返して校庭を見る。ボールや人が行き来をし、歓声があがる。

 宗一を探す視線がうまく動かなかった。自分でも驚くほどの衝撃だった。先輩は何も知らないと思っていた。男子の前でだけ見せる愛嬌と親切さを彼女自身だと信じているのだと思っていた。だから加野さんを好きなのだと思っていたのに。

 自分の前でさえ自分にとって愛すべき人間であれば、それだけで愛するに値するのだろうか。

 さっき校庭で見かけた宗一は、まるで知らない人のようだった。私といるときとは違う振る舞いをして、違う笑い方をして、違う言葉を使うのかもしれない。視線の動かし方、指先、声の出し方。まるで違っていて、それが例え私の好ましくない態度だったとしても、私は宗一を愛するだろうか。

 きっと愛するだろう。そうに決まっている。だって私は、私の前にいる宗一が嘘偽りなく宗一自身であることを、疑念の欠片もなく信じているからだ。私を絶対的に必要としていることを、信じているからだ。それはほとんど生命維持活動のひとつであるかのように。

 例え他人の前でどうであろうと、そこに私の知らない宗一がいたとしても関係はない。どちらかが偽りであるとするならば、他人とのほうが偽者であることを私は確信している。

 けれど、藤間先輩は――

 校庭の宗一を見つけられないまま、私はただ口を開いた。先輩への気遣いとか、保身とか、そういうものはもうどうでもよくなっていた。

「加野さんの何が良いんですか」

 先輩からまた苦笑の気配がする。

「素直だし愛嬌あって気も利くし、って言ってももう信じないよね?」

「信じません」

「だよね……。なんて言ったらいいのかなあ、あの子、男を許すのがうまいんだと思う。うまいって言ったらちょっと語弊があるかな。許しているんだよ、たぶん何もかも」

「許す……?」

「そう、こんなこと言うのも恥ずかしいんだけど、男にはすごーくかっこつけたいときがあるわけ。それが例えどんなにわがままで馬鹿馬鹿しい意地っ張りだとしても、きっと女子から見たらくだらなくて幼稚に思えることかもしれなくてもさ」

 窓の外、どこか遠くを見る先輩の横顔は少し困っているように柔らかい。

「でもそういうのって、大体うまくいかないんだよね。親はあしらうし兄弟は笑うし、女子には伝わらない。けど唯ちゃんはそういうの全部わかって許して、見ていてくれるっていうのかな。俺が、というか男がどんなに滑稽だったって、あの子は笑いもしないし馬鹿にもしない、しらけもしないで付き合ってくれるんだよ。すごいと思うよ」

 そう話す先輩は、私の知っている藤間先輩ではなかった。こんな人だったのか、という驚きや戸惑い、高揚と同時に、私のどこかが傷つけられる感覚。

 先輩がこちらを向こうとするのがわかって、私は思わず顔を逸らした。

 先輩は何も知らない人ではなかった。加野さんに騙されているわけでもなく、振り回されているわけでもなく、地に足をつけて彼女の手を取っているのだ。それは藤間先輩が悪女に騙されて裏切られる結末を迎えるよりずっと私を苦しめるだろうと直感的に思った。警報のようなものが私を追い立てる。

 腹の底で何かが渦巻く。あの怪物だろうか。私の支配権を得ようともがいているのだろうか。出てこないで、と念じる。出てこないで。また黒いものが足元から私を飲み込んでいってしまう。そうして思いもしない言葉で、態度で先輩を傷つけるかもしれない。私という人間に失望させようとするかもしれない。何もかも、何もかもを投げ捨ててしまうかもしれない。

 私が黙りこんでしまったのを気にしたのか、先輩は取り繕うように慌てた声を上げた。

「あ、ごめん、こんな話。ぶっちゃけすぎたよね? 恥ずかしいなあ」

 照れて笑う先輩によく馴染んだ感覚を覚えて、私の意識が怪物から離れる。この隙に怪物を腹の底へ蹴り落とし、絡み付こうとする黒いものを振り払う。

「……びっくり、しました。先輩、加野さんに騙されてるんだって思ってたから。心配してたんです」

「あはは、そっか。心配かけちゃってごめんね」

「いえ。ちょっと頼りない人だと思ってたけど考え直します」

「えっ、頼りなかった!? ショック!」

 少し大げさに反応してみせる先輩は、もう既に私の知っている人だった。

 こういうことなのだ、と思った。私の知らない先輩。私の知らない宗一。私の前でさえ私の愛すべき彼らでいてくれたら、何の問題もない。これからも藤間先輩は私の前では私の愛すべき先輩でいてくれるだろう。

 けれどあのわずかな間の見知らぬ横顔は、まだ胸の中に残り火みたいにちりちりと焼き付いている。知ってしまったことは、もうなかったことになど出来ない。私の思う善良で穏やかで、少し頼りないけれど真面目で優しい、それが故に人間の悪意など知りもしない無知で無垢な子供のようなところのある人。きっと私の穢れなど信じもしないはずだった人。けれど私はもう知ってしまった。この人の別の顔、そしてそれが加野さんに向けられていることを。

 怪物が目を覚ます。腹の底からよじ登ってくる。けれどそれはさっきのような混沌を伴ってはいない。渦巻くような熱とゆっくり煮え立つような暗闇、そういうものはなくて、ただ静かに、まるで知能を得たかのように冷たい熱とはっきりした暗闇を湛えた怪物が這い上がり、立ち上がる。支配ではなかった。これはもう、得体の知れない怪物ではない。私自身だ。怪物となった私自身、底なしに昏い目をした私だ。

 ふと校庭を見ると、試合はすでに終わり、どちらが勝ったのかもわからないまま観客もチームも解散していくところが目に入る。

 それからは、不思議と世界から分断されたような心地がしていた。加野さんを探しに行くという先輩と、普段と変わらない雑談を交わしてから教室前で別れ、宗一に会うために昇降口へ向かうことにした。

 先輩と交わす言葉もそれに伴う笑いも全てするするとなめらかに出てきた。それを私は体の中の片隅で、笑いも怒りもせずひんやりと見つめていた。きっと怪物が代わりにしゃべったり笑ったりしてくれているのだろう、と思った。

 相変わらずすっきりとした先輩の背中を見送って、先輩とは反対方向へ廊下を進む。ぼんやりと、どうしてか喪失感のようなものが胸の真ん中をあざ笑うみたいに吹き抜けていく。一体何を失った気でいるのだろう。

 廊下の途中、階段への角を曲がる。

「ちょっと」

 背後から不機嫌な声がして振り返る。何も考えていなかったから驚いた。その不機嫌な声の主は加野さんだったのだ。

 背中にかかる茶色い髪を、今は髪ゴムでゆるくまとめている。不機嫌そのものの顔は、どこかうんざりとした気配と飲み込みきれない怒りがにじみ出ていた。美人が怒ると怖いと言うけれど、確かに迫力があるなと場違いなことを片隅で思った。

 けれどその姿を見た瞬間、じわじわとお腹の真ん中から何かが体中に広がっていく感覚がした。ぼんやりとしていた私はまた体の隅のほうへ追いやられ、とてつもなく昏い目をした凶暴でおぞましい怪物の私が現れる。腹の底のほうで煮えたぎって渦巻いていた何かが私の形を取るのはぞっとしない。

 自分が何をしようとしているのかわからなかった。何かを言いたい気持ちはあるものの、何を言いたいのか具体的にはわからないし、突然自分が彼女に襲いかかってもおかしくはないような感じもした。

 加野さんはつんとした顔を歪めて、まるでぶちまけられた生ゴミでも見るかのように私を見ている。

「……何?」

 問うと、彼女は足元に視線を下ろしながらゆっくり一歩近づいてきた。

「あんた、どういうつもり?」

「は?」

「藤間先輩とふたりで、何やってたの?」

 言いながら上げられた瞳は、挑発的に燃えていた。馬鹿にするように唇は笑みの形に歪んでいる。

 教室でふたりで話していたところを加野さんは見ていたのだ。それで怒っている。嫉妬しているわけだ。馬鹿じゃないの、と思った。

「馬鹿じゃないの」

「………」

 加野さんの顔がはっきりと怒りに染まり、余裕を失ったのがわかった。凶暴な怪物の私が仄暗い喜びを得て笑い出す。加野さんの白い頬に、かっと血がのぼった。

「何がおかしいのよ」

「だって……見てたんじゃないの? 私と先輩が何してたか。手でもつないでた? キスでもしてたの? だから怒ってるの?」

「ふざけないで」

「ふざけてるのはあんたでしょ。自覚ないの」

 加野さんの剥き出しの怒りが心地よかった。私は昏い目をにんまりと歪めて喜んでいる。なぜこんなに喜んでいるのだろうと片隅の私は思っているのに、こんなふうに邪悪でおぞましい怪物に決してなってはいけなかったのに、私は目の前の彼女をきっと傷付けたがっている。

「何様のつもりか知らないけど、あんたみたいなビッチに目をつけられた先輩がほんとかわいそう」

 何を言っているんだろう、と私はぼんやり思う。けれどもっと大きな声で、もっと強烈な感覚で残酷な私がくすくす笑っている。私が引き裂かれていく。

「また散々ホテル代払わせて飽きたら捨てるの? もっとお金持ってるおじさん掴まえたら捨てるの?」

「何言ってんのよ……」

「藤間先輩は私の大事な先輩でお友達なんだから、あんたなんかに使い捨てられて傷ついてほしくないんだけどな」

「あんた……」

 これ以上やめてよ、と私は叫んでいる。でも届かない。だって笑っている。凶暴で残酷で、邪悪で、昏い昏い地の底のような目を歪ませた私が、怪物になってしまった私がとても気分良く笑っている。

 ギスギスとやりあっていたら、いつの間にか遠巻きに数人が私たちを見ていた。ここは二年生の階なので、加野さんのことを誰もが知っている。いるだけで色々と目立つ彼女が、少なくとも男子は見たことがないような憎悪に満ちた顔をして女子と向かい合っているのだから、人の目を集めるのも当然のことだった。

 加野さんは歯を食いしばり、耐えかねたように深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「ブスが調子に乗らないで」

 小さな声だったけれど、確かにそれは耳に届いた。加野さんの声は普段聞いたことのないくらい低く乱暴で、彼女がどれほど本気になったのかが推し量れる。ブスが調子に乗らないで。そう罵ったのだ。怪物は、笑うのをやめた。

「あんた気持ち悪いのよ。お兄ちゃんや亮太くんに付きまとって何のつもりなの。おまけに今度は藤間先輩? みんなブスに付きまとわれていい迷惑よ」

「それが男好きヤリマンクソビッチの本音? 馬鹿だから良いのはこの外面だけですってアピールしたの?」

「外面すら悪いストーカーブス女が何か言ってる、負け惜しみ?」

 発言内容のレベルが下がっていくに従って、私たちの理性は怒りと憎しみによって押しのけられていった。

 いまや見物人はずいぶんと増えて、大きな輪のようになっている。目には入っているけれど意識には入らない不思議な状態だ。ある意味で私たちは、ふたりきりの世界にいるのだった。

 怪物は心底加野さんを憎んでいた。どうしてここまで憎いのか、それすらわからないまま、燃えるように暗く凶暴な本性を遺憾なく発揮している。彼女のきれいな顔もまた怒りで歪み、視線で私を刺し殺してやろうと睨みつけていた。

 加野さんが口を開く。それが、この場の決定的な一言になった。

「双子の弟だかなんだか知らないけど、あんたたち空気が気持ち悪いからお兄ちゃんたちに近づかないで。姉弟のくせに」

 心臓が止まったかと思った。背筋がぞっとして、頭にのぼっていた血液が瞬間的にみんな足元へ落ちる。片隅のぼんやりした私も、凶暴な怪物の私も、どちらも激しく動揺した。

 加野さんは姉弟のくせにと言った。どういう意味だろう。私たちのことが知られているわけがない。知っているのは私と宗一、それから宗一が他に誰にも話していなければ加野先輩と亮たんだけだ。加野先輩から何か聞いたのだろうか? 加野先輩が秘密を漏らしたのだろうか? 私と宗一のことを? 辺りにこんなに人がいるのに。誰かに聞かれていたらどうしよう。何か勘付かれたら。それとももしかしてみんな知ってる? 知らないふりをしているだけでみんな知っているんだったら? 鼓動が不気味に跳ね上がり揺れる。

 あまりの恐怖と混乱にまともな思考は砕け散った。元々まともに何かを思考していたかと言えばそうでもないけれど、パニックを起こした私はほとんど反射で動いていた。

 大きな音が鳴る。高く妙に軽い、何かが弾けたような音。

 辺りがどよめく。それからわずかな間の後、私はようやく自分のしたことを認識した。加野さんは目を丸くして左頬を押さえている。

 彼女の頬を叩きつけた右手は、じんじんと熱い痛みにしびれていた。

 頭が真っ白になる。加野さんの口を塞いでもう何も言えなくしなければならない、そんな思いがよぎる。目の前がぐるぐると回るような感覚。手が痛い。加野さんが激高していくのがわかる。耳鳴りがした。加野さんにこれ以上何かを喋らせてはいけない。宗一の名を呼ばせてはならない。宗一は、宗一と私の居場所はとてもとても神聖なものなのだ、彼女なんかが軽々しく口にしてはならないのだ、こんな場所でぶちまけられていいものじゃないのに、私の大事な大事な宗一。

 知られるわけにいかない。誰にも触れさせない。私たちを脅かすものは、絶対に許さない。

 私は一体どんな顔で加野さんを見ていたのだろう。怒りが過ぎて泣き出しそうなほど頭に血が上った彼女は、殺意すら感じられる顔ですばやくちから強く私の頬を張り、そのまま走り去っていった。

 取り残された私は、頭の真っ白なまま呆然と立ち尽くしていた。手と頬のしびれるような痛みが、少しずつ私を覚醒させていく。周囲のざわめきと抑えた笑い声が意識に入ってきて、そうするごとに自分がしでかした事柄がとても冷静に頭に浸透していった。とんでもないことだと思った。恐ろしく邪悪な私がここに立ち尽くしている。どうしよう。私は何を言って、何をしてしまったのだ。加野さんは何を言ったのだ。

 姉弟のくせに。頭のなかにその言葉が蘇り、またぞっとした。辺りにたくさん人がいる。こそこそと、けれど上擦ったように何かを話して笑っている。それが聞こえる。姉弟のくせに。姉弟のくせに、気持ち悪い。

 私はこの場に立ったままであることがとてつもなく恐ろしくなって、逃げるように階段を駆け下りた。

 

 そうして一人になって駆け下りているうちに少しずつ恐怖は薄れ、腹の底の熱が治まっていった。感覚の主導権みたいなものが私自身に戻ってくる。喉の奥が苦しい。後悔とも自責とも少し違う、とても重たいものが体に伸し掛かり、階段の途中で足が止まった。

 校内は騒がしかった。試合中ではない人たちがそこここで話し、笑い、動き回っていた。私はもう、そこから動ける気がしなかった。

 どうしてだろう。宗一もいない、藤間先輩もあの加野さんのところへ行ってしまう。ふたりとも私の知らない顔をしている。愛せるだろうか、本当に? 私の前でさえ愛すべき彼らでいてくれれば? だって私はあんな醜い怪物になるのに?

 わからなかった。突然わからなくなってしまった。なのに今、宗一も先輩もいない。ただ静かに、たったひとり、私は怪物になってしまったというのに。その怪物は、本能と衝動のまま、他者を傷つけることを歓んだというのに。宗一、宗一。祈りか呪いのようにその名前を呼ぶ。

 俯くと景色が歪んだ。褪せた薄い赤褐色のリノリウムの階段、薄汚れた白い上履き、ジャージの青いライン、そして両側に垂れ下がる髪。みんな水没していく。なぜ私が泣こうとしているのだろう。悲しいのだろうか、怖いのだろうか。ただ胸の内側が踏みつけられて潰されるように痛く、重たかった。

 そうして立ち尽くしていると、たまに人がこそこそと、あるいははっきりと何かを言いながら横を通り過ぎて行く。それが耳に届くたび恐ろしく感じたし、邪魔になっているのはわかるのに動けない。怪物は何しているのだ、なぜさっきのように代わりになって宗一を探しに行ってくれないのだ。理不尽だと思ったし、役にも立たないのに怪物になってしまったことが悲しく、ただただ胸の痛みを堪えていると、あれ、という大きな声が真っ直ぐに耳に飛び込んできた。

「一佳?」

 宗一の声。

 反射的に顔を上げると、やはりそこには宗一がいた。ちょうど踊り場を曲がって階段を上がってくるところだ。周りには宗一のクラスの男子たちもいる。たぶんサッカーのチームメイトだろう。

「えっ! 何? なんで? どうしたの?」

 だらだらと泣きっぱなしの私を見て、宗一はひどく驚いていた。畳み掛けるように言って階段を駆け上ってくる。

 宗一。宗一に会って、私の心はぐずぐずと崩れていくようだった。自分の立場と居場所によってごく最低限の形をとどめていたものが、波にさらわれる砂の城みたいに崩れて消えていく。

「宗一……」

「どうしたの、何かあったの?」

 不安げな顔をした宗一が私の手を取る。ここで出来ることはそれが限界であることを、私たちはふたりとも理解している。

 周りにいた男子たちも同様にひどく驚いていたようだったけれど、気を使ってみんな先に階段を登っていった。こんな階段のど真ん中でだばだば泣いている女子に、強い好奇心とわずかな恐怖を抱いていることがわかる視線や声を残して。

 涙は遠慮なく流れた。宗一を抱きしめて縋り付きたくて仕方なかったけれど、それは出来ない。私のそばにいてほしい。私の知らない顔をしないでほしい。いなくならないでほしい。私に許しを与えてほしい。

 でも何も言葉にならなくて、嗚咽を噛み殺す私を宗一は困ったように見ていた。掴まれた手が慰めるように揺らされる。

「とりあえず場所変えよう。そうだな、一佳、屋上の鍵今持ってる?」

「かばんの中……」

「そっか。じゃあ俺が急いで取ってくるから、先に上行ってて。すぐ追いつくから。ひとりで大丈夫?」

「うん……」

 行こう、と宗一は私の背を支え向きを変えさせる。泣きながら支えられるままに階段を上がる。

 甘えているのだとわかっていた。宗一が優しいから泣き続けているのだし、宗一がいるから身を任せて足を動かしている。泣き続けて息が苦しいし恐怖や不安のようなものはまだ私の胸を痛めつけるけれど、そこにわずかな安堵が加わっていることにも本当は気づいている。

 三階につくと、宗一は大丈夫? と何度か確認してから、廊下を走っていった。先ほどの見物人たちはほとんど解散していたけれど、落ち着きのない騒ぎと空気はまだ残っていた。たまたま先生がいたのか「走らない!」と怒られている声が聞こえる。ごめん、と思いながらそそくさと屋上へ向かってさらに階段をあがる。

 人の声がそこかしこからする。楽しそうに笑っていたり、叫んでいたりする。動物園のことを思い出す。私は何の動物になれるのだろう。なんでもいい、宗一がずっといてくれるならなんだって。知らない顔を私に突きつけないのならなんだって。

 一歩一歩、重たい足を上げる。下ろす。上げて、また下ろす。確かめるようにゆっくりとした動作で、すれ違う人たちから顔を隠すように俯いて。

 宗一早く来て。私をひとりにしないで。怪物になってしまった私を、問題ないんだと受け入れて。手を取って大丈夫だと言って。私の世界から宗一以外全てを消し去って。

 そうして四階を通り過ぎた頃、大きな足音を立てて宗一が追いついてきた。一段飛ばしをして上ってきたようだ。

「お待たせ」

 軽く息を切らした宗一は、私のかばんを丸ごと肩にかけている。

「勝手に探っても時間食うし、そのまま持ってきた」

「うん」

「大丈夫?」

「うん」

 心配そうな顔の宗一は私の腕を軽く取って寄り添うように進んだ。なんだか介護を受けているような気になる。

 人が来ていないことを確認してから、かばんの内ポケットに入れている鍵で屋上の扉を開けた。何も知らない無垢な青空と風、校庭の歓声が懐の隙に飛び込んできて、私を打ちのめそうとする。

 

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